49.オホーツクの星空は

 まるで寝台特急にあるような、ベッドだけでいっぱいっぱいの小さな部屋。でも個室。そこで心優は悠々と非番の休暇を堪能する。


 だけれど、ちょっと退屈。しかも外で勤務している先輩達がなにをしているのか気になってしまう。


 時計は、夜の十一時。艦長と食事だけ一緒にして、艦長専用バスルームで入浴をさせてもらって、そろそろ心優も明日に備えて眠ろうかと思っていたのだが。その前に、少しだけ艦長の様子をうかがっておこうと外に出て見た。


 いつも艦長のデスクに座っている准将がいない。もしかして眠ったのかと、艦長のベッドルームを覗こうとしたが勝手に覗けずにしばし考えあぐね、指令室に出向いた。


 今日は寝ずの番をしているハワード大尉が、紙コップに珈琲を淹れているところだった。

「艦長はどちらに」

「甲板に散歩。橘大佐となにか話し込んでそこから動かれなくなったから、お二人に飲み物でもと思って」

「わたしが持っていきましょうか。眠る前のご挨拶をしておきます。大尉はそこでゆっくりしていてください」

「いいのか。では……、お言葉に甘えようかな」

 これから夜通し、艦長の様子をうかがって付き添わなくてはならないから、少しでもゆっくりして欲しいと心優から珈琲のカップを持って、管制ブリッジから甲板へと向かう階段を下りていく。


 出口の鉄ドアが開いていた。外に出たところの鉄壁に背をもたれている栗毛の女性の姿が半分だけ見える。

 階段を下りきった心優はドアが開いているまま外に出て、お二人に声をかけようとしたのだが。

「本気なの、私はまだまだ協力を惜しまないけれど」

 そんな御園准将の、妙に哀しそうな声をかんじた心優は、すぐそこで立ち止まった。


「ああ。もう充分だよ」

 姿は見えないけれど、きっと准将の隣に並んでいるだろう橘大佐の声も聞こえた。

「現役を引退する」

 そんな一言に驚き、心優はそこから出て行けなくなってしまった。


 指揮官になっても、現役のパイロットとしての資格を維持してきた橘大佐。ついにピリオドを打たれる決意をされたようだった。


 当然、心優は驚きを隠せない。パイロット達は、一般的にはもう引退している年齢を超えていても『戦闘機パイロット資格維持』をしてきた橘大佐を、とても尊敬している。出来ればいつまでも、空の現役でいたい男達の希望でもあったんだと思う。その人がついに、そこに自らピリオドを打つ。


「俺だけは、ジジイになってもみっともなくてもパイロットであろうとしたけれど。毎年の審査と更新で必要な飛行時間を確保するのが難しくなってきた。それに俺も……事故を起こさないとも限らない」

「男達ががっかりするわよ」

「そう思ってきたんだけれどな……。おまえ達も頑張れば、いつまでもやっていけると俺が証明をしていきたかったんだけれどな。でもな。誰だっていつかは終わりがある。みっともなくても、と思っていたが、やはり『ケジメ』も引き際も大事だってことも残しておかなくちゃな」


 お二人の会話が止まり、オホーツク海上に停泊している空母甲板には、潮騒だけが聞こえる。


 御園准将の息が白い。春先とはいえ、ここはオホーツク。まだ夜は気温が低い。カップが冷めないうちにと、心優は思いきって甲板へと姿を現す。


「お邪魔いたします。珈琲をお持ちいたしました」

 二人が揃って驚いた顔を心優に見せた。聞かれたと思ったのかもしれない。だがそこは秘書官。なにを聞いても知らない顔。これは塚田中佐の時から言われてきたことだったから、笑顔を見せる。


「おー、心優ちゃん。サンキュー。やっぱオホーツクまで来ると冷えるわ」

 心優の手から、橘大佐が二つともカップを取り去ってしまう。

「ほら。葉月ちゃん」

 橘大佐は、遊び人と言われているだけあって、女性に対してどこか紳士的なところがある。差し出してここまで取りに来い――なんて仕草は決して見せない。御園准将の目の前まで行き、ちゃんと手元まで持っていく。


「ありがとう心優。橘さんも……、ありがとう」

「あはは。葉月ちゃんに御礼言われた。どしたの、なんか優しいじゃん。素直じゃん。葉月ちゃんらしくない」

 指揮官服の上に、紺の軍コートを羽織って寒さを凌いでいるが、二人の息は白く、あつあつの珈琲をすする時も、どうしてか二人で目を合わせて微笑みあっている。

 そこに、共にパイロットとして、または海の指揮官として歩んできた絆を見た気がした。


「やはり残念よ。だって、橘さんのアクロバットはとても美しくて、本当に海上の燕だった。まだ見ていたかったもの」

「もう充分、飛ばしてもらったよ。葉月ちゃんの部下になったからこそ、好きな時に空を飛ばせてもらえて、いっぱい融通をきかせてくれたもんな。資格を維持することが出来たのは、なにを言いだすかわからないけれど、言いだしたらその通りにするじゃじゃ馬さんが例外を認めてきてくれたからだ」


「私や雅臣のように、コックピットに想いを残したまま降ろされることもあるじゃない。橘さんならどこまでも飛んでくれる気がしたから――」

「俺を側に呼んでくれて有り難うな。また、葉月ちゃんと艦に乗れて楽しかったよ。また一緒に航海ができてさ」

「ほっとするんじゃないの。私といると心臓が止まることばかりだったとかいうじゃない」

「かもな! 今回もなにか変なことを航海中に言い出すなよ」

 二人が揃って、北海の星空の下、声高らかに笑っている。


 本当に、戦友なんだな――と思える姿を見た心優は、二人をそっとして艦内に下がった。


「お届けしました。おやすみなさい。ハワード大尉」

「おう、有り難うな。俺は明日は非番だから、よろしくな。グッナイ、ミユ」

 大尉に挨拶をして、心優は艦長室の小部屋で眠りについた。


 すぐに微睡んだはずなのに……。少しだけ目が覚めた時、どこか遠くからアヴェマリアが聞こえてきたような気がした。


 星空のオホーツク。戦歴を重ねてきた戦友と甲板でのひととき。そんな戦友に聴かせているのだろうか。艦長の夜のヴァイオリンが、かすかに聞こえるような夜は深く眠りに落ちて。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 暫く平和だと思っていたが、そうでもなかった。

 何時なのかわからないが、小部屋にもついている天井スピーカーからけたたましい警報音。


 ――ホットスクランブル!

 心優は一瞬にして飛び起きる。タンクトップの上に紺の上着を羽織って部屋を飛び出す。


 艦長室のドアが開けっ放しになっていて、御園艦長が飛び出していったのだと心優は後を追う。


 管制室に入ると、展望窓には朝靄にけぶる海上が広がり、夜明け前の紫苑と茜に染まっていた。美しい朝の海原にうっとりしたいが、それに反して管制室も甲板も緊迫している最中。


 日が昇る前でも、甲板要員が待機させていた白い戦闘機に集結する。出航後のあの光景とまったく同じ迅速な離艦作業が、まだ夜間照明で照らされている甲板で繰り広げられている。


 指揮カウンターには既にインカムヘッドホンを装着した御園艦長。艦長の横顔を見て、心優は愕然とする。眠らなくなって三日か。明らかに目元が疲れ、くまができている。


 それなのにあの琥珀の瞳は、爛々と輝いて海を見据えている。


「雷神1号『スコーピオン』、雷神2号『ドラゴンフライ』行きます」

 官制員からの報告に、御園艦長は無言で頷く。

「再度の牽制でしょう。この艦がこれからオホーツクを回り、宗谷海峡へ向かう。私のクセを知っているなら、押し気味でくることも先日の偵察でわかっているでしょうから。頼んだわよ、スコーピオン」

『ラジャー、キャプテン』

 出航の偵察、そこから暫くは平和で北上の航海を続けていた。ここ数日は、流氷の様子を見てのオホーツク停泊だった。


「艦長!」

 仮眠を取っていただろう雅臣がまず駆けつけてきた。

「大丈夫よ。いつもの北上前の牽制だから」

 雅臣も一夜明けての、ミセス准将のやつれた様子に驚きを隠せないようだった。心優が控えていたことに気がついて、近づいてくる。


『大丈夫なのか、艦長は』

 そっと耳打ちされたが、心優もどうして良いかわからなくて首を振った。

 それでも雅臣も、艦長の隣へと向かっていく。


『不明機を確認』

 雷神のキャプテンを務めている1号機スコーピオンに乗っているスナイダー=ウィラード中佐の声が聞こえてくる。


 カメラ映像がモニターに映し出される。ぼやけた気流の向こうに、前回と同じ機種の戦闘機が見えた。

「またsu-27ですね」

 雅臣もモニターを食い入るように見つめている。

「スコーピオン、低気圧も近づいていて徐々に西から荒れ始めている。直ぐに去るでしょう。退去勧告を」

『イエス、マム』

 いつもの訓練で何度も見てきた措置が行われる。艦長の言葉どおり、ベテランのウィラード中佐の落ち着いた退去勧告一度のみで、今回はレーダーから消えていった。


「夜明けの奇襲ってところね。来ると思った」

 御園艦長はわかりきった顔でインカムヘッドホンを頭から外す。


「嫌な位置に出現して、この空母にスクランブル指令が行くように仕向けたわね。こちらの夜間と早朝の瞬発力を試そうとしたのかしら。慌てた様子を確かめて、笑いたかったの? 残念でした、起きていましたよ」

 いつもは言葉数も少ない艦長が、そんなことをぶつぶつ言いながら管制室を出て行く。


 そんなミセス准将を見た心優は『さすがの艦長もお疲れで、苛つきやすくなっている』と感じたりした。


 心優と雅臣も、その後をついて艦長室に入った。

 深い息を吐きながら、艦長の皮椅子に深く背を預けた御園艦長。雅臣が艦長席の前に向かう。


「艦長。お疲れのようですが大丈夫ですか。新人の俺では頼りないとは思いますが、任せて頂けませんか」

 目下が浅黒くなっているお顔は、いつもの優雅で品のあるお嬢様の顔ではなくなっていた。


「雅臣は、私のこの顔を見るのは初めてだもんね。心優も……」

 御園艦長がふっと笑う。


「その時が来たら、電池が切れたみたいにどこでも眠ってしまうと思うから大丈夫だって。それに昨夜も一時間ぐらい、この席でうとうとしていたのよ。橘さんといろいろと話して楽しかったせいか、ほどよく疲れたみたいでね。それに昨夜は彼が夜間の担当だったから、安心していたし……」

「俺も頼ってくださいませんか。俺も空母に何度も乗っていた男です。同じコースを航海しました。空にはいけなくなりましたが、どんなスクランブルが来るか、どう対処してきたかわかっています」

「頼りないから眠っていないわけじゃないってば……。どう説明したらわかってくれるの。そういう体質なんだって……」


 流石にミセス准将も少し苛ついた言い方になってきていて、控えていた心優はちょっとハラハラしてきた。


「わ、わかりました。どうあっても眠れないんですね」

「うーん、でもあと少しかな。でも……ちょっと気が立ってる。悪いけど、一人の方が気が休まるの」

 そっといておいて――という意味を、雅臣は突きつけられてしまう。だが雅臣も残念そうな顔をしているが、素直に一歩引いた。


「承知いたしました。はやく眠れますように」

 ミセス准将も今度は、優しく微笑む。

「私が寝付いたら、ぐっすり眠りたいから、その時は本当によろしくね。城戸大佐」

「はい! 勿論です」

 今よりも眠りについたその時こそ頼りにしている。役所を理解したからから、雅臣も笑顔を見せたので、心優もほっとする。


「悪いけど。資料室から持ってきて欲しいものがあるんだけれど」

 御園准将がさらっと手元のメモ用紙になにかを記している。

「俺、探してきますよ。手伝います」

 御園准将が雅臣にメモ用紙を渡そうとする。


「この展示飛行の映像と、過去十年の対馬海峡から東シナ海を航行していた時の日誌のデータが欲しいの。日時はこの時期のものを、三月中旬のものを集めてきて」

「かしこまりました、艦長」


 すると艦長は、デスクの上にあるラップがされてあるお皿を雅臣に差し出した。そこにはスモークサーモンが挟まれている穀物パンのサンドウィッチがあった。


「なんでしょう……」

「私の夜食。是枝さんが持ってきてくれたけれど、資料に夢中で食べられなかったの。雅臣と心優で分けて」

 そして艦長が心優を見た。

「心優。雅臣と資料を探すのを手伝ってあげて。直ぐには持ってこなくていいから。揃えたら、朝食まで二人でゆっくりしてきなさい」

 驚いて、思わず……心優と雅臣は顔を見合わせてしまった。


「これ、資料室の鍵ね。城戸大佐に任せるから。朝食まではひとりにして。艦長室には入ってこないで」

 そうきつく言われ、雅臣は差し出されたあの部屋の鍵を受けとり、サーモンサンドも押し付けられる。

「もう、行って」

 一人になりたいと、素っ気なく艦長室を追い出されてしまう。


 艦長室のドアを閉め、管制室前の通路で二人……。

 でも、心優はわかってしまう。これは葉月さんの気遣いで、あの時のお返しなんだ。


 私の勝手な行動で、若い二人の間に波風を立ててしまった。いつまでも、そんな関係のない顔をしていないで、二人で向きあっておいで――。

 そのチャンスをくれたのだ――。

 雅臣も戸惑っている。そんな彼と目が合った。

「……もしかして、俺達のことばれてる?」

「はあ……、その、えっと、後でお話します。まず、資料を探しましょうか」

「そ、そうだな」

 早朝でまだ静かな通路を二人で歩き、脇道のような細い通路奥にある資料室へ。

 

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