48.お許しください、大佐殿

 艦長が、夜行性になる。暗闇に神経を尖らせる野生動物に。


 灯りを落とした艦長室。心優は応接ソファーで読書をさせてもらったり、格闘技の録画DVDを見たりして時間を過ごした。


「心優、資料室に行くから手伝って」

「はい」

 潮騒だけが柔らかに漂う夜半。御園艦長は資料室に準備させていたいくつものファイルを探して抜き取って、それを延々と再生させたり、記録を眺めたりして過ごしている。


 時々……。栗毛が垂れるその中に顔を隠して、じっと俯いている時がある。その時は、少しだけうとうとしているのだとわかって、でも、感が強くなっている彼女には触れまいと心優はそっとしておく。こんな時は逆に、心優が神経を尖らせて警戒をしている。


 夜中の三時に、一度だけラングラー中佐が様子を見に来てくれた。

 その時に彼が気遣ってくれたのか、是枝シェフを呼んでくれていた。シェフもよく心得ているのか、ハーブティーをそっと艦長のそばに無言で置いていく。それだけで、御園艦長は気配を読みとって、ハッとした顔になり目を覚ましてしまう。


「園田さんはこちらがよろしいですよね」

 心優には目覚ましのカフェラテを持ってきてくれた。そしてちょっとした夜食も。

 ラングラー中佐と是枝シェフが去ると、艦長の目がまた薄闇の中で輝き始める。本当に夜行性の生き物のように。


 資料室からかき集めてきた過去の航海日誌を眺めたり、戦闘機の飛行映像や、過去にあったスクランブル時の対応を幾つも幾つも眺めている。

 なのに目が爛々としているのが、心優には空恐ろしく感じてしまう。

 そこに彼女の生き様が現れているようで。こんな時に、彼女が強く生きているオーラを凝縮させているようで。本当に、自分たちとは異なる感覚の持ち主だと思わざる得なかった。


 ラングラー中佐に言われたとおりに、だからこそ心優は夜勤明けの非番にはぐっすりと眠らせてもらい、また翌日に備えた。

 朝方の交代から少し眠って、眠りすぎないよう午前中には一度は起きて、洗濯をしたりしてすごす。


 今回は艦長専用のランドリーを使わせてもらっているので、初航海なのに心優は随分と優遇された環境で、身の回りを整えることが出来ていた。

 それでも『現実』が気になるので、女性隊員が過ごしているエリアに出向いて、本当の共同ランドリーを覗きに行ってみた。そこでは、女の子達がベンチに座って、雑誌を眺めたりして楽しそうにお喋りをしていた。匂いも柔軟剤の香りが漂っていてほんわりとしている。まさに女の子サロン。


 彼女達も心優に気がついて『アロー』と声をかけてくれる。非番の日は、彼女達はここでお喋りをしているとのことで、心優も少しだけ仲間に入れてもらえた。艦長付きの護衛官という立場は、そんな意味でも心優を助けてくれる。


 ランドリーのサロンの帰り。アメリカで流行っている柔軟剤がコンビニでパウチで売っているよ――と金髪青眼の甲板要員の女の子に教えてもらい、探してみる。


「准将にも買っていこうかな」

 十代はアメリカで過ごしたのだから、なんとなく懐かしく感じてくれる匂いかもしれない。そう思って、心優はいくつか選んでみる。


 開いているレジにカゴを置こうとして、同じ事をしようとした背が高い人とぶつかった。

「sorry…」

 お互いがそう口にして、お互いの顔を見て、一緒に驚く。

「心優」

「大佐」

 紺の指揮官服姿の雅臣だった。


「お先にどうぞ、園田少尉」

「いえ、大佐がどうぞ」

「女の子に気遣っている男にしてもらいたいんだけれどなあ」

 レジにいる赤毛の可愛い女の子がニンマリと眺めていた。

 お言葉に甘えて心優から先に会計をする。雅臣もちょっとした生活雑貨の買い足しのようだった。


 先に会計を済ませてコンビニを出た心優の後を、雅臣が追いかけてきた。いつのまにか隣に並ばれる。

「柔軟剤? 女の子らしいな」

「女の子達がいるランドリーに行ったら、アメリカンの子達が国で流行っていると教えてくれたんです。御園准将はアメリカにいらしたから、もしかしたらお気に召すかもと思って」

「へえ。俺も使ってみようかな」

 臣さんが。柔軟剤。男臭いばかりのお猿さんが、柔軟剤。心優はちょっと頬を緩めてしまいそうになる。

「似合わないと思っただろう」

「い、いえ」

「誤魔化しても無駄だからな。俺、心優のそんな顔はよく覚えているから」

 心優は表情を止めてしまう。でも、胸の奥はものすごく大騒ぎ。『いま隣にいるのは大佐殿じゃなくて、お猿さんだ』。久しぶりに彼に出会ってしまったという、ときめき。そして、戸惑い……。


「臣さん……、柔軟剤なんか使っていなかったもの」

「だろ。でもそれは興味あるな」

「使いますか」

 いくつか買ったうちのひとつを差し出した。

「いいのか」

「臣さんなら、これが良さそう」

 グリーンハーブタイプのものを差し出した。

「ありがと」

 大佐殿がにっこりと受け取ってくれた。その笑顔、あの頃の愛嬌ある彼の笑顔で、やっぱり心優は澄ました顔を保っていてもドキドキしてしまう。


 あの頃を思い出す。雅臣と恋仲になる前。ただ憧れの上司だった彼にドキドキとときめくだけだったボサ子だった頃を。あの頃も心優は懸命に澄ました顔をしていた。雅臣はそんな心優のことを『笑わないんだな。試合をしている時の心構えでやってくれているんだよな』と言ってくれた。


 今だって――。ここは生活をしている場でもあるけれど、どうあっても職場。そんなになし崩しになれるはずもない。

 でも雅臣はずっと心優の横にいて、おなじ歩幅で歩いてくれて、離れていく様子がない。


 ここでも雅臣はすれ違う隊員に挨拶をされては、愛嬌あるあの笑顔で手を振っている。でも心優も同じく。もう顔が知れてしまって、知らない人にも声を掛けられる、挨拶をしてもらえる。


 そのうちに、やっと指令室へ向かう途中の通路で二人きりになった。

「心優も有名になったもんだな」

 雅臣がため息をついた。

「あの広報誌のおかげです。葉月さんだけかと思ったら、ご主人の隼人さんまで巻き込んでしまって。さすが、じゃじゃ馬さんて感じでした」

「そうだったんだ。最初からご夫妻で撮影する企画ではなかったんだ」

「はい。でも。御園大佐は、奥さんが華やかになるならなんでもやってやるという顔で、嫌々いいながら、すぐに着替えて一緒に並んでくれたんです」

「すごいな、その話。あの撮影にそんな裏話があるだなんて」

「はい……、でも……」

 どつきあいのような会話でさえ、軽快に交わす息があったご夫妻。でもそのご夫妻の道のりには……。


 裏話なんてありすぎる。人には言えない過去をたくさん乗り越えてきたご夫妻。なのにたくさんの隊員の目が向けられているご夫妻。心優はため息をついてしまう。


 そんな心優を雅臣が静かに見つめてた。

「なんだよ、そのため息。やっぱり御園夫妻のそばにいると、いろいろありそうだな。俺も小笠原にいた時に思っていたけれど、誰も間に入れない強いものがあるよな。そして、誰も踏み入れられない、触れさせてくれない、お二人だけの辛いもの。あるみたいだったし……」


「大佐も、感じていたんですね。そうなんです。いろいろあったみたいです。でも、私は秘書官だから、ラングラー中佐がそうしてきたように、空気のようにして知らないふりをしようと思っています。だから……」

「あの日のことは、俺にも言えないと。そういうことなら、もう別にいい」

「別に、もう話せるんですけど……。でも……、極秘も極秘の話で……」

「いいよ。また話せそうな機会に聞かせてもらう。俺も知っても良いような許可も出ていたし、極秘なら大事に話したいし聞きたいから」


 雅臣なりに、心優が言いづらい事情は噛み砕いてくれたようだった。

 その雅臣が、心優が歩く目の前に急に立ちはだかった。


「俺、思っていたんだけどな……」

「はい」

 その眼差しはもうやわらかくて、微笑んでくれていて、いつかのような冷たい痛さは向けられていなかった。


「ここぞという時に、心優ははっきり言ってくれるんだよな。雄々しく、逞しく。怒っていたじゃないか。わたしのことをなにもできない女の子ぐらいにしか思っていないって……。意味がわからなかったけど、後で痛いほどわかったんだ」

 そうなの? と、心優は目を丸くする。決して、臣さんには自分の言いたいことは通じないと思ったから、離れてしまったのだから。


「ボサ子だってバカにしていた奴等と、俺も同じだったんだなと。これぞ強敵という格闘に何度も身体を駆使して立ち向かってきた子なのだから、いざというときに力を発揮できる、行動が起こせる、その実力を持っていたのに。俺は、事務仕事が劣っている、大勢の人間に慣れていないだけのことで、心優を見くびっていたんだ」


「いいえ。それも本当のことなんです。わたしの不徳なんです。御園大佐がわたしを迎えに来てくれたその後直ぐ。厳しく指摘してくれました。なにもしてこなかった、人の好意と今までの経歴にただ助けられて流されてきただけだって――」


「そして。俺は、園田という人材を手に入れながら活かせなかった。逆に御園大佐は、たった半年で園田という人材を叩き上げて空母に乗せる准将付きの秘書官に仕上げ、なおかつ少尉まで昇格させた。……敵わないよ。俺も計画はしていたけど、そんなこと出来なかった」


 あの頃。見えていなかった自分達。自分がやっていることが恋人から責められるはずもないとお互いに思いこんでいて、安穏としている二人だからこそ外界から揺さぶられた途端にひずみ出来て、あっという間にヒビが入り壊れてしまった。

 そんな脆い関係だったのだ。それを心優だけではない、雅臣も噛みしめてくれていた。


「やっと、心優に言えた」

 あのお猿さんの微笑みで笑ってくれる。

「わたしも……、こうして大佐と話せて良かったです。あの、本当に申し訳ありませんでした。大佐に酷いことを言いました」


 心優はやっと告げることが出来ると、どうしてか微笑みながら雅臣に頭を下げている。


「お許しください、大佐」

「どうして」

「大佐がたった一人で傷ついて、たった一人で立ち向かっていただろう傷に素手で触って無頓着に荒らすようなことをしました」


 頭を上げて彼を見上げると、今度の雅臣は哀しそうな目をしている。


「いつか、俺は心優にエンジンなんかかかってないと言ったことがある。覚えているか」

「あ……、はい。ホルモン焼きを食べに行こうとなる前に……」

「エンジン、おまえがかけたんだろ」


 雅臣が心優の真ん前にそっと寄ってきた。もう彼の胸が目の前……。


「俺を置いて、俺が行きたかった場所に行ってしまう。まさに『あの人』の隣に。なにもできないと思っていた部下に先を越された。その部下に、痛いところつかれた。誰もが、可哀想なパイロットだからそっとしておこうと大事にしてくれていた中で、俺はぬくぬくしながら、うじうじと膿んでいる傷を一人だけでいじくりまわして四年。あの人が、それほどに俺を信じて待っていてくれたなど知らず。あの人が来いと言うはずがない。俺が子供のように拗ねて避けていたんだから。あんな恥ずかしい俺になって合わせる顔がないと逃げていたんだから。それを、正面切って言ってくれたのは……」


 シャーマナイトの澄んだあの目が心優を見つめてくれている。あの大きな手が心優の黒髪にそっと触れる。


「俺を歩かせたのは、心優だろ」

 懐かしい手の感触に、心優は泣きそうになる……。

「でも、臣さん……。許さないって……」

「……バカな男だから。そういってでも心優に覚えておかせようとした。もちろん、あの時はまだ頭に血が上っていて、気持ちの整理もついていなかったけれど」


 そこで言葉を止めたまま、じっと見つめてくれている。あのシャーマナイトの瞳で。


「大佐?」

「ごめんな、心優」

 急なひとことに、ただびっくりしていると、雅臣が静かに身をかがめる。彼の顔が近づいてきて、心優はどきりとする。


 短くなった黒髪、そこに彼がそっとキスをしてくれた。

 心優の目に涙が溢れる――。

 臣さん――! 彼の胸に抱きつきたい衝動に駆られる。


「大佐、どこにいってらしたんですか!」


 雅臣の背後に、息を切らしたハワード大尉が駆けてくる姿が見えて、心優はドッキリして飛び上がりそうになった。雅臣もハッとして、心優を隠すようにして慌てた様子で振り返る。


「あ、大尉……。えっと……」

「ちょっとだけコンビニに買い物に行くと聞いていたのに、お帰りにならないから、艦長が心配していますよ。スクランブルがないうちに、広報の撮影計画についてのミーティングをする予定でしたよね。お待ちですよ」

「すみません、すぐに行きます」

 レジ袋片手に、雅臣が走り去っていく。


「わ、ミユもいたのか」

 雅臣が隠すようにしてくれていたのに、行ってしまったから心優が急にそこにいてびっくりしたらしい。ということは、雅臣がしてくれた黒髪キスは見られていないようでホッとした。


 でも。それだけでハワード大尉がちょっと困った顔をしている。

「俺、もしかして邪魔した?」

 なんか……。皆さんにもしかしてバレちゃっているんじゃないかと心優は顔を熱くしそうになったが、必死に堪えて澄ました顔に整える。


「いいえ。お久しぶりだったので、懐かしい話をしていただけです」

 なのに、一緒に歩き出したハワード大尉に言われてしまう。

「秘書室チームはもう知っているよ。つきあっていたんだろ、横須賀にいた時」

「まさか」

「准将も気がついているし、ラングラー中佐もそう思っているよ」


 心優は押し黙る。でも決定的なことを言われてしまう。


「城戸さんがさ、連絡船で吐いていたことをミユは知っていた。それだけで充分、それだけの関係だったと知っている者はわかってしまうよ」

 心優はさらに黙り込む。決して、自分からは認めまいと……。

 なのに、ハワード大尉が思わぬことを言い出した。

「もう、小笠原の船に乗っても吐かない。ミユがそう教えてくれたから、御園准将が『雅臣を連れ戻す』と腰を上げたんだから」

 驚き、心優はハワード大尉に詰め寄ってしまう。


「そ、そうだったんですか? あの時……、わたしが話したひとことで?」

「ああ。そうだよ。その少し前に、城戸さん自身が『秘書官を辞して、現場に戻りたい』と言いだしていたようなんだけれど、長沼さんは『感情的すぎる』と保留にしていたらしいんだ」

 感情的すぎる? でも心優には直ぐに理解できた。長沼准将も、心優と雅臣の恋仲を察していた様子だった。雅臣がいきなり秘書官を辞して現場にと、心優を見返すように行動を起こしたことを見抜いていたのだろう。


「保留だから、小笠原にはその情報は伝わっていなかったんだけれど。ミユから届いた城戸さんの気持ちを聞いた御園准将が動き出した。だから長沼准将も手放す覚悟をしてくれたそうなんだ」

 心優もやっと……。雅臣がどうして岩国に急に転属になったのかやっと知る。


 エンジンをかけたのは、おまえだろ。


 心優が彼の痛いところを触ってしまったから。心優と雅臣だけが知る言葉で、あのやり手の女将軍様が動いてくれたから。

 そして、雅臣も半年間。たった一人。岩国で叩き上げてきた、大佐となるまで、空の男に戻るために――。

 離れていた二人は、それぞれの目標を超えて、おなじ艦でまた会えた。


「少しは話せたみたいだな……。葉月さんにもそれとなく報告したらいいよ。准将は、自分のせいで若い二人を別れさせたと思っているからさ」

 いつのまにか心優は、言葉では応えずとも、無言でこっくり頷いてしまっていた。


「非番だったよな。今日は俺が寝ずのお供なんだ。今回は何日目に寝てくれるのかなあ」

 大柄なハワード大尉は慣れているだろうに、ちょっとげんなりとした顔になった。

「早く安心してくれるといいですね」

「まあ、橘さんも側にいるから、余計に気が立つんだろうけどね?」

「どういうことですか?」

 すると、ハワード大尉がちょっとおかしそうに教えてくれる。

「葉月さんも、橘さんのことは男として見ているんだろうね。側にいると安心して眠れない危険な男と言っているから。もしシャワールームで私が気を失っていても、橘さんには助けられたくない。と言い張っているから」

 わからないでもないなあ。と心優は苦笑いを浮かべてしまう。


「で、どうしてか。男の中で裸の私を助けてもいいのは、アドルフだけだって言うんだよ。これって男として不名誉だと思わないか」

「あ、でも。わたしもそう思います。だって大尉は愛妻家で、優しいパパさんだって皆さんも言っているし、わたしもアメリカキャンプでお姿を見たのでそう思っています。ぜったいに、他の女性は襲わないでしょうって思うほどに」

「本当にそうなったら、勿論、いかがわしいことは絶対にしないよ。でも、やっぱり男として……」

「護衛官として素晴らしい信頼を得ているってことじゃないですか」


 そうだけど……と、熊さんのような顔で首をひねる優しそうな大尉を見て、心優はそっと微笑んでしまう。

 まあ。でも確かに。あの橘大佐は、ちょっと危ないのよね――と心優も彼が夜の艦長室にやってくるとつい警戒してしまっていた。

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