47.【Just The Way You Are】


 艦長デスクの側に、心優専用のデスクも置いてくれた。

 そこでラングラー中佐から預かった事務処理に心優は勤しんでいる。


 そのうちに、艦長室のドアがノック音なしで開いた。

 雅臣だった。黙って静かに入ってくる。そして心優のところにやってくる。


「お疲れ様。艦長がまた仮眠を取っていると聞いたから……」

 彼が小声で話しかけてくる。心優もそっと頷いた。

「いまお休みです。先ほどの対領空侵犯措置のデータですか」

「うん。艦長に渡しておいてくれ」

「かしこまりました。大佐。……そして、お疲れ様でした」

 心優がそっと頭を下げると、雅臣も微笑んでくれる。

「……ありがとう、心優」


 いまは大佐と園田という関係のはずなのに。また懐かしい穏やかな声で呼ばれ、心優は彼を見上げてしまう。


「大佐がパイロットに見えました」

「そうなんだ……。そう見えたなら、嬉しいよ。なにせ、心優には……」

 そこで雅臣が黙ってしまう。でも、心優にはその先がわかる。

 小笠原に戻りたいくせに。甲板に戻りたいくせに。秘書官ではなくて、甲板指揮官になりたかったのではないのか。そう言い放った女に、パイロットに見えたと言われれば、あの時に理不尽な言葉を浴びせた女を見返せたというもの。


「あの日、酷いことを言いました。あの時……」

 今こそ、伝えたかったことを。そう思った。でも雅臣に遮られる。

「俺は、ラングラー中佐が言っていたことを聞きたい」

「それは……、いま、ここでは……」

「わかった。今日はいつ終わる」

「いえ。本日は、艦長にひと晩付き添うシフトになりました」

「そうなんだ。わかった。また」

 雅臣はそういうと背を向けてしまった。でも、立ち止まる。なにも言わず、そこに立ちつくしたので心優は首を傾げる。


「心優。俺が馬鹿だったのか。なにも知らなくて」

 心優は即座に首を振る。

「そんなことはありません。どうしても、言えなかったのです」

「きっと心優は正しい。気に病むことはない。俺なら、先に知っていたら秘書官として恋人にも絶対に口が裂けても言わなかった。それが秘書官だ……。なのに、俺は、」

 なのに、俺は?


「やっぱり。雅臣が来ていた」

 二人でいるそこに、御園艦長がベッドルームから出てきたのかデスクに戻ってきてしまう。

 耳が良いとはこのことか。話し声と彼の声を聞き分けてしまったらしい。内容まで聞き取れてはいないとは思うけれど、艦長の耳ざとさは本当のようだった。


「あ、その……。園田に渡しております。失礼いたしました」

 雅臣も驚いたのか、妙に焦った様子で艦長室を出て行ってしまった。

 そんな雅臣が去る姿を、御園艦長がじっと見つめている。

「ふうん」

 また意味深な声色で、御園艦長はデスクの皮椅子を引いて、静かに座った。


 そして今度は心優をじっと見ている。

「こちらが、先ほどの侵犯措置映像のデータです。モニター映像を再生させますね。そちらのパソコンを立ち上げてください」

 パソコンの電源を入れた御園艦長だったが、それを終えると、また心優をじっと見つめている。

「あの……?」

「これね。先ほどのスクランブル。どれどれ、私がいない間、どうしていたのかなー」

 マウスをクリックして映し出された先ほどのスクランブル映像へと、艦長が集中する。明らかに目つきが変わる。そして黙り込んでしまう。彼女をとりまく空気が、彼女だけの空間で隔たれているような雰囲気が漂う。


 カチカチとマウスを動かして、何度も見直している。一人でメモをしている。そんな集中している艦長になると、心優は空気になろうと努力する。


 そういえば……。まだ艦長がランチを取っていないことを、自分もスクランブルの時間帯がランチタイムで逃してしまったことに気がつく。

 どうされるか聞きたいが、いまは……。


 そこでノックの音。

「どうぞ」

 艦長の声に、指令室側のドアが開く。

「失礼いたします。お目覚めだとお聞きしましたので、ランチをお持ちいたしました」

 コックコートを着込んだ男性が入ってきた。艦長専属の軍調理師『是枝これえだ大尉』だった。


 集中していた艦長が微笑みを浮かべ、立ち上がる。

「是枝さん、お久しぶりね。昨夜はお会いできなかったけれど、相変わらず美味しかったです」

「ありがとうございます。御園艦長。まだランチがお済みではなかったので、おもちしました」

「あ、気がつかなかった。あ、もしかして心優もまだだったの?」

 心優は艦長の付き人という立場なので、食事も専属シェフのものを食べられることになっていた。ただし、艦長と共に食す。ということになっている。


「いえ、私も先ほど気がつきました。その、初めてのスクランブルを目にして、かなり興奮してしまったみたいです」

「えー、そうだったの? やだ、私も気がつかないで。眠っている間に行かせるべきだったわね」

「いいえ、大丈夫です。眠っている時こそ、お側にいさせてください。それが女性護衛官としての私の役目です」


 そこにいた是枝シェフが静かに笑う。

「艦長室の雰囲気が変わりましたね。ですが、また気持ちが落ち着かずに、不規則にされているのでしょう。少しでもかまいませんから休憩をすること、食事をすることは忘れないでください。明日から無理にでも運んで参ります」

「そうね。是枝さんを困らせないようにいたします。今回から、私のこの部屋では園田少尉が同行します」

「初めまして。園田少尉。出航前の食事アンケートにお答えくださって有り難うございました」

「初めまして。是枝大尉。食べること大好きなので、楽しみにしておりました」

 無精髭のシェフが僅かに微笑んでくれる。寡黙そうな三十代の職人というイメージ。そのシェフが、アシスタントの調理師を呼んで食事を運んできた。


 艦長室の端にある小さなダイニングテーブルに、軽食程度のランチが並べられる。

 艦長の目が急に輝く。


「艦長のお母様風のパンケーキでございます。アメリカ出身の隊員のための物資がフロリダからも届いておりますので、艦長がお育ちになられたフロリダの味にしてみました」

 可愛いパンケーキだけれど、スパムやハチミツといった組み合わせで、グリーンサラダにはグレープフルーツが入っている。もちろんホイップに冷凍のベリー類も添えられている。


 これが専属シェフがつけられる艦長の食事! すごいと心優は艦長付きの側近になったことを幸運に思ってしまったほど!


「そうそう、これこれ。ママの味」

「ご堪能いただければと思います。後ほど、デザートと食後のドリンクをおもちいたします」

 そういうと是枝シェフは、助手の調理師達と下がっていく。


「遅くなったけれど、食べましょうか」

「はい」

 准将と向かい合って座り、丸窓から太陽の光が差してくる明るい席で、遅いランチを共に堪能する。

「とても美味しいです。でも、このようなスタイルのパンケーキは初めてです。准将はフロリダにいた頃は、このような朝食をされていたんですね」

 御園准将は十歳から十八歳まで、父親が赴任していたフロリダ本部のそばで育ち、早い内から訓練校に所属していたとのこと。帰国子女だった。


「うん。このスパムがね。小笠原のアメリカキャンプにも売っているから、いまは私も作るけど、ママの味には敵わないわね」

「おふくろの味、ですか。それがパンケーキだなんて、やはり帰国子女らしいですね」

 それでも、御園准将はすこし眼差しを翳らせた。

「いちばん荒れていて、両親にとても心配させた時期でもあったけれどね」

 なんのことかわかって、心優は返答に困る。鎌倉の叔父に預けられていた時に傭兵の男に襲われ、アメリカの親元に引き取られ、ヴァイオリンを辞めて早々に訓練校に入校し、パイロットを目指した十代だったのだろう。


 昼下がり。そんなお嬢様育ちの艦長との遅いランチはとても優雅だった。

 本当に美味しかった。そして女二人で、全て平らげてしまう。大食漢の女二人。お手の物だった。


「今後の食事だけれど、心優もたまには一人になりたい時もあるでしょうし、親しみあるメニューもカフェテリアにあるでしょう。一般のカフェテリアに行きたい時は前もって是枝さんに報告してね。私もたまにそうしているの。それから、木曜日のモーニングはミーティングを兼ねて、主要幹部で揃って会議室で食事をすることになっているから」

「了解です」

「朝からいろいろあって疲れたでしょう。そろそろ休憩してきなさい」

「ありがとうございます」


 朝の出航見送り。その後のラングラー中佐からの大事な話、突然のホットスクランブル。そして艦長室のお留守番と付き添い。やっとランチを取れたところ。


「今回の艦には、日米を合体させたコンビニがあるみたいよ。部屋で休んでも良いし、自由に散歩してきても良いわよ」

「では、初めての航海ですので、艦内を散策して参ります」

 食事を終え、心優は指令室にいるラングラー中佐に報告をしてから、休憩時間にはいろうとした。




 ラングラー中佐は、デスクにて事務仕事をしている。報告をすると、心優に穴が開いている箱を差し出してきた。


「なんですか、これ」

「艦長へのリクエスト。好きな曲名を書いて入れてくれ。艦長が抽選をし、それをヴァイオリンや娯楽室のピアノで弾いてくれるんだ。氏名記入は任意。当たりやすいのは誰もが知っている曲であったり、楽譜を入れること。名前を書く者も多いかな。艦長に名を知って欲しいとかね。今日は指令室と管制室の隊員が対象」


「それでヴァイオリンを持ってこられたんですか」

「当初は、葉月さんの習慣でもあるから気晴らしだったんだが、そのうちに音を耳にする隊員からリクエストされるようになったんだ。いまは俺がこうして応募を受け付けている」


 それならば……と、心優はラングラー中佐が差し出してくれたメモ用紙にその曲名を書いて出した。


 やっとの休憩になり、心優は准将が教えてくれたコンビニエンスストアやカフェテリアがあるエリアへと向かう。空母の中は街のよう。人が集まるエリアは様々な人種が入り乱れ、外国のよう。とても活気があった。


 自分の小部屋で使うものや、ちょっとした夜食になりそうなものを購入して、心優はまた艦内を歩く。たまに心優の顔を見た者が『艦長のところの?』と声を掛けてくれたり、日本人なら『広報誌の!』と驚いてくれたりした。

 また管制室側の通路に戻ってくるとホッとする。指令がある中枢なので一般隊員は近寄ったりせず、とても静かだった。


 心優の休憩が終わると、日が傾き始める。

 艦長室で夕の事務に勤しんでいた心優は、丸窓から見える海の様子に感嘆する。

 茜を広げ始めた海の色、本当に燃えるという表現がぴったりの赤い太陽が水平線に近づいている。

「わあ、すごく綺麗ですね」

 窓辺に思わず駆け寄った心優を見て、御園艦長も微笑ましそうにして窓辺にやってくる。


「そうね。海の様々な表情をみられるのも、航海の楽しみ」

「ほんとうですね……」

 心優が見惚れているのをそっとして、御園准将は艦長デスクに戻っていく。

 燃えるような夕日とはまさにこのこと――と、心優が見ていると、背後から『ボゥ』という音が聞こえる。


 振り向くと、御園准将がヴァイオリンを構えていた。艦長デスクにはヴァイオリンケースが置かれている。

 ボゥ、ボゥ、ボゥ……。優しい調律の音色が艦長室に響く。

 それが聞こえたのか、ラングラー中佐が指令室のドアを開け放した。そして通路に出るドアも開けて、管制室へと音が通るようにドアを開け放つ。


 御園准将が肩にヴァイオリンを構え、弓(ボウ)を弦に置く……。暫く、御園准将が引く前の呼吸を整えている。そしてそっと目をつむると、静かにそのボウを引いた。


 突然響き始める軽やかなメロディ。そして心優は目を見張る。

 『私がリクエストした曲!』。


【 Just The Way You Are / Bruno Mars 】


 氏名は書かなかった。でも艦長がその曲を今日選んでくれた? 心優の文字のクセを知っていてくれたのだろうか?

 それとも偶然? そして心優は指令室の入り口に集まった男達の中に、背が高い雅臣もこちらを見ているのに気がつく。


 雅臣も少し驚いたような顔をしている。それもそのはず。この曲は、雅臣が横須賀の官舎で食事の支度をする時によく聞いていた曲のひとつで……。だから、心優には想い出の曲。こんなふうに、茜が差す海辺の官舎で、キッチンで、二人で笑いながら食事の支度をしていたあの短い日々の想い出。


 タイトルも『ありのままの君でいて』というような意味。


 燃えるような夕日とこの曲は、心優の気持ちをかき乱す。切なくさせる。そして、振り向くとその曲を一緒に聴いた人がいて、その人が心優を見つめてくれているのにも気がつく。


 わたし達、忘れてない。臣さんも、忘れていない?


 ミセス准将のヴァイオリンは、涙を誘う。彼女のウェットな重みを含んだ音は、ただの趣味で音を奏でてきた人のものではなかった。その音を航海中に聴きたいというクルーが多いのも頷けるもの。


 栗毛の艦長が美しく奏でる夕の曲。それが終わると拍手が響いた。

 演奏が終わり、艦長がヴァイオリンをケースに置くと、ラングラー中佐が開け放したドアを閉め始める。音を聞きに来ていたクルーが少しずつ散っていく。


「艦長、わたしのリクエストを弾いてくださって、有り難うございました」

 心優は御礼をすると、御園准将が驚いた顔をする。

「え、あの名前を書いていないのは心優だったの」

「はい、そうですが……」

 字のクセを知って、初航海である心優のために選んでくれたというのは、心優の思い上がりかと一瞬恥じた。たまたまだったようだ……。


 だがそこへ、指令室から雅臣が入ってくる。そして嬉しそうに艦長デスクにやってきた。


「艦長。自分のリクエストを受けてくださって、有り難うございました! 俺、空母で弾かれる准将のヴァイオリンを楽しみにしていたんです。なのに初日に俺のリクエスト……」

「えっと、うん……あのね……」

 ミセス准将が困惑している。心優も嬉しそうにすっ飛んできた雅臣が言うことにも驚いて……目を丸くする。


 え、臣さんも、同じ曲をリクエストしていた!?

 そこへ、御園艦長が二人の目の前に、二枚のメモ用紙をデスクの上に広げた。


「雅臣の名前が書いてあったというよりも、この限られたスタッフしかいない指令室と管制室の中で、同じ曲をリクエストした者が二名いる。それだけのことだったんだけれどねー」


 その用紙を見て、心優は絶句する。雅臣はしっかり氏名を書いた上で心優と同じ曲【Just The Way You Are】をリクエストしている。

「本当だ。俺の他にも……」

 不思議そうだった雅臣だが、直ぐに顔色を変えた。そして心優をあからさまに見た。心優はもう、顔が熱くて目を逸らしてしまう。


「もう一枚は、心優のリクエストだったみたい」

 御園准将がにっこり微笑んで、そのメモ二枚を雅臣に握らせる。

「いい曲よね。私も自宅では息子と良く演奏するの。息子も娘もこの曲が好きだから」

 それだけいうと、御園准将は、皮椅子に腰を掛けヴァイオリンをデスクの下にしまう。


「そうでしたか……。有り難うございました。では、失礼いたします……」

 気が抜けたようにして、握らされたメモ用紙を持ったまま、雅臣が艦長室を出て行ってしまう。


「はあ、じれったいな。私のせいなんだろうけど」

 艦長もぼそっとそれだけいうと、元の事務作業に戻ってしまう。


 丸窓に振り返ると……。夕日は短い。もう群青のベールが水平線に漂っている。

 雅臣も、岩国の夕日を見て、心優のことを思い出してくれていたのだろうか。そう思いたい……。


 彼と通じあっている? 胸のドキドキが止まらない。


 

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