44.艦長は眠らない
無事に出航を終え、空母艦は北上していく。南から北へ、北から西へ、西から南、南から東と、日本の海域をぐるっと一周する。
途中で停泊をしながらのパトロール、そして訓練。沖合で物資補給船とコンタクトなどを経て、約二ヶ月かけて横須賀に帰還する予定。
クルーもそれぞれの持ち場に散らばり、甲板にはカラージャージの甲板要員が既に戦闘機を移動させたりして、アラート待機、スクランブルに備えている。
艦長室も同じく――。
「あー、もう肩凝った。あー、もう。やっと脱げる!」
ミセス准将が、せっかく素敵に着こなしていたのに、ほどいたネクタイをぽいっと応接ソファーに放り、ジャケットも放った。
艦長室は広い。書斎のような立派な木彫りの机、そして艦長専用の寝室も同室にある。まるでホテルのスイートのようだった。
空母艦の大きさによって、艦長室の雰囲気も異なるらしく、近頃の御園准将はこのように立派な艦長室が誂えてある空母に乗れるようになったとのことだった。
今回さらに素晴らしいのが、『艦長専用の料理人と厨房』があることだった。
そして艦長の寝室の隣に、小さな部屋がある。そこは側近の部屋。今回は心優がそこに入ることになった。
いままではラングラー中佐がいただろうに……。ラングラー中佐が『やっと肩の荷が下りる。どんなに信頼されている部下だと言われても、男と女。よからぬ噂ばかりが流れたもんでね』と、その部屋を同性である心優に譲ることに嫌な思いはひとつもないらしく、むしろ『頼む、女性同士で頼む』と懇願されたほどだった。
「心優、私、少し眠るわね」
『え、眠る?』。出航したばかりなのに、順調にこの艦が運航できていると思えるまで気が張るものではないの? 心優は密かに驚きつつも『はい、わかりました』と力無い返答をしてしまった。
「じゃあね。なにかあったらすぐに起こして」
ソファーに立派な将軍のバッジに肩章に金モールまでついているジャケットをほったらかしにして、白いタイトスカート姿の綺麗な後ろ姿を見せて、栗毛の女艦長はベッドルームに消えてしまった。
心優は溜め息をつきながら、艦長が放ったジャケットを手に取る。
「しわになるではありませんか……」
綺麗で、女性のいい匂いがするジャケットを手に取った。艦長デスクの横にある壁掛けハンガーフックへと、そのジャケットを片づける。
心優もいつまでも白い正装姿ではと思い、艦長寝室の隣にある側近用小部屋で着替えることに。だがそこで艦長室に繋がっている指令室のドアからノックが聞こえる。
「失礼いたします」
まだ正装姿のラングラー中佐だった。
「お疲れ様。えっと、艦長は」
中佐も艦長室を見渡した。
「お部屋で少し休まれるそうです」
「休む? それは眠るということかな」
彼が眉をひそめた。やっぱり、艦長としてあるまじき行為なのかと思った心優は慌てて言い繕う。
「あの、昨夜も就寝されたのは遅い時間でしたし、今朝も誰よりも早く起きていらっしゃって……」
いきなりラングラー中佐が、『しっ!』と立てた指を口元に当てた。そして心優に向かって『こっちにおいで』と無言で手招きをしている。
言われるまま心優は指令室と繋がっているドアへ向かうと、ラングラー中佐に手を取られ、サッと外に出されてしまう。ドアを閉めると、心優は指令室に入れられていた。
「あの?」
「静かに。せっかく眠ると言っているのだから」
思っていた反応と違い、心優は首を傾げる。
「アドルフ。艦長がお休みになられたようだから、ミユの代わりに艦長室で出入りを見張っていてくれ。彼女にいつものことを話しておくから」
「眠っているということですか……?」
ハワード大尉も、信じられないような顔をして驚いている。
「みたいだな。頼んだぞ」
「ラジャー。中佐」
中佐の指示で、ハワード大尉が静かに艦長室に入ってしまった。
「ついておいで」
指令室には空軍管理官の青年達が、出航後の事務処理に追われているところで、橘大佐も雅臣もそこにはいなかった。
「木田。城戸大佐を呼んできてくれ。例の部屋まで」
「ラジャー」
空部管理の木田少佐が指令室を出て行った。
雅臣も一緒に? どのような話があるのだろう?
指令室をラングラー中佐と共に出ると、彼は指令室から少しだけ離れた通路の奥にある部屋へと心優を入れた。
四畳半ほどの狭い部屋だったが、ミラー大佐がいるデータ管理室のようにファイルをたくさん収めた高い棚がぎっしり並べられていた。その奥に、スチールのデスクと向きあって座るように用意された椅子がある。
「そこに座って」
言われて心優は中佐と向かい合うように座る。
「大事な話がある。城戸大佐にも説明しておきたいので待っていてくれ」
「はい」
こんな奥まった小さな部屋に呼ばれて、大事な話? 胸騒ぎで心優の胸がドキドキしている。
「失礼いたします」
すぐに雅臣もやってきた。彼はもう既に紺色の訓練着、指揮官服に着替えている。
「お疲れ様。城戸君。大事な話をしておきたいので、そちらへ」
人目がないここで、ラングラー中佐は秘書官として中佐同士だった頃の口調に戻っていた。
「どうされたのですか。ラングラー中佐」
雅臣もこの部屋の違和感に戸惑っているようで、あたりを警戒するように見渡している。
「この部屋は、建前は『艦長専用資料室、備品室』としてあり実際に艦長が必要としている資料を置いています。ですが『裏』の用途もあり、このようにクルーにも聞かれたくない話をするための、指令室にいる一部の幹部だけが出入りできる部屋として準備しています」
そうですか――と、心優と雅臣は並んで座っているそこで、一緒に頷いていた。
「本来なら、中に防犯カメラをつけるところですが。聞かれたくない話もあるために、外につけて出入りのみを監視しています。盗聴につていも、秘書室のコナー少佐が毎朝妙なイタズラはされていないかチェックしているので、本当にこの部屋は極秘の部屋ということになっています。聞かれたら資料室とおっしゃってください」
それにも二人は、『はい』と返答するだけだった。艦長ともなると、こういう裏部屋もいるのかなという感覚だけだった。
「この部屋を資料室として知っているのは指令室にいる全員。空部管理官の若い事務隊員にも艦長専用の資料室、備品室だと教え、指令室部外者は立ち入り禁止と厳しく言い含めています。『裏』の使い方、つまり『盗聴も仕掛けられないように厳重な管理をしている裏部屋』として知っているのは、艦長、橘大佐、そして私、ラングラーと、ハワード大尉、コナー少佐秘書室の者、そして空部管理官では、先ほどの木田少佐、空部管理長であるダグラス中佐のみ。そして今回新しく、園田と城戸大佐が加わります」
「了解しました。指令部のみでおおっぴらに話せないことは、ここでということなのですね」
「そうです。今から、それをお話しします」
おおっぴらに話せないことを今から、もう今すぐこの部屋の機能を活かして話すと言っている。
心優の胸騒ぎが増し、そして雅臣は早速の『秘密裏部屋』で極秘の話をされると硬直している。
「まず、艦長の体質について」
心優はドキリとする。艦長の体質といえば……。雅臣は知らないのでは、まさかここで打ち明けるのか。
遡れば、心優と雅臣の関係に亀裂が生じたのは、御園准将の秘密を知ってしまったからだ。それを雅臣が知るとなると、心優は彼からどう思われる?
ラングラー中佐が、静かに告げる。
「御園准将は毎回、出航後、三日から五日ほど眠らなくなります」
『え?』。心優も雅臣も目を丸くして、絶句する。
「ですが、いま先ほど。艦長から『少し眠る』とベッドルームに……」
心優の質問に、ラングラー中佐はどうしたことか心優を見て微笑んだ。
「珍しいんだよ。葉月さんが出航後に仮眠を取ろうという気になるのが。おそらく、それほどにミユが側にいることで安心しているのだと思う。それまではどんなに信頼しているといえども『男達』に囲まれているのだから。本当は昨夜も眠っていないはずだ。ミユが気遣うから寝たふりをして、でも艦長室で書類を眺めて一晩を過ごしていたはずだ。だから『早く起きていた』ように見えただけで実際は徹夜に近い状態だったと思う」
「そ、そんな……。わたしを起こして頂かないと常に側にいる護衛として意味がないではありませんか」
「そんなことはない。そんな時は、俺かアドルフ、ウィルが代わりに護衛をしている」
ショックだった。搭乗初日の夜に、護衛官というよりも新人として気遣われ、ぐうぐうと寝させてもらっていただなんて――。
「だから。彼女が眠るというのなら、そのまま寝させて欲しい。あの人は任務に就くと、妙に勘が鋭くなって野生動物みたいになる。なにもかもに敏感になる。耳も良いので、すぐ目を覚ます。だから俺達の話し声が聞こえないようにして、ミユを艦長室から出した。ミユと城戸君に話しておきたいことがあったのでちょうど良い時間が出来たわけだ」
女性として常に彼女の側にいる。彼女のお世話をする。そう誓ってこの艦に乗り込んだのに……。そんな納得していない心優を見て、ラングラー中佐に再び諭される。
「いいか。ミユ。だからこそ、俺達側近と護衛官だけは規則正しい生活を保って、どんな時もあの人の力にならなくてはならない。その為には秘書室のメンバーそれぞれが体力を温存して、艦長が不眠の間は、誰かが一晩付き合う。そうしていかなくてはならない。艦長のあの体質につきあっていたら、俺達が先にまいってしまう。あの人は特殊な経験をされてきたから感覚が自分たちとは異なる。故に、自分も一緒に付き合わなくてはと思うことはない。彼女のペースに巻き込まれないよう、こちらはだからこそ規則正しくしておく。今日から五日が正念場だ」
そこでじっと黙っていた雅臣がやっと口を挟んできた。
「どういうことですか。眠れないだなんて」
「艦が正常に運航できていると確認が出来るまで、気が張るのでしょう。特にスクランブルは昼夜問わずありますから。まったく眠らないわけではないのですが。心安まる瞬間に、二十分から一時間ほど座ったままうとうとするぐらいです。それが一日に三回ほどあれば、なんとか持ちこたえます」
「それでは、出航開始から艦長が過労で倒れるという危険性が。そんな体調管理はやめさせるべきです。睡眠薬を使ってもらうとか、軍医と相談することが出来ないのですか」
流石、元秘書官。それならそれで、どうするべきか直ぐさま打開策を打ち出してきた。
「睡眠薬はすでにお持ちです。精神安定剤もね……」
心優に緊張が走る。心優もそれはもう知っていること……。
雅臣だけが、不可解といわんばかりの顔をしている。
「精神安定剤……? 艦長がそんなものを。そんな不安定な隊員が艦長だと知れたら……」
だがラングラー中佐は、淡々と答える。
「海東司令も承知の事実です。御園艦長がそのような体質であるのは、ここ最近のことではありません。服用についても使うと身体がいうことをきかなくなると、余程でないと口にしません」
雅臣が黙った。海東司令も知っていることとなれば、自分がどうこう言ってもどうにもならないと悟ったのだろう。
そしてラングラー中佐がついに告げる。
「御園准将は、結婚後からPTSDを発症しています」
「PTSD?」
雅臣が絶句する。そして心優は『ああ、ついに知られた』と顔を覆いたくなったが、そのまま彼の目線を避けるように俯いた。だが雅臣は心優がそれを知っているか知っていないかは、まだどうでもよいことらしい。
「それは、つまり。御園准将が、横須賀で傭兵に刺された後――ということですか」
「そうです。パイロットだった時、つまり、横須賀で刺される事件前。子供の頃に襲われた時、恐怖のあまり、記憶に蓋をしてしまったということは、准将秘書官だった大佐もご存じですよね」
「はい、御園のタブーとして事の成り行きは聞いております」
「ですから、記憶の蓋が開いていない現役パイロットだった時にはこの症状はなかったので支障はなかったのですが。事件をきっかけに、恐怖の記憶が蘇り症状を引き起こすようになったとのことです。主犯格は実行犯に指示をだしていた傭兵だったわけですが。御園准将にとって、その男こそが最強の恐怖の対象だったとのことです。それを横須賀で刺される時に思い出してしまった。刺殺される痛みと、幼少の時のありあまる恐怖。どれほど恐ろしかったことでしょうね。それからです。結婚後、その症状がでるようになりましたが、まだ軽いもので業務に支障はないという診断もついています。それでも、ちょっとしたきっかけでパニック症状を起こすともあれば、過呼吸の際に起きる過喚気症候群になることもあります」
「ちょ、ちょっと待ってください」
突然の『真実』。雅臣はそれを受け入れられないようだった。
なのにラングラー中佐は続ける。
「それを、私達、秘書官とごく一部の幹部でこれまで支え、知られないようにカバーしてきたんです。艦長のこの体質を知っている者を言います。今後のために覚えてください。橘大佐、秘書室の私とハワード大尉、コナー少佐。空部管理ではダグラス中佐、木田少佐。こちらの二人は私と艦長と共に、中隊時代の同僚です。よく知っています。さらに家族同然として親しくしている雷神の鈴木英太少佐。本日からは、城戸大佐も。ですので、大佐にはそのつもりで極秘になるよう努めて頂きたいのです」
そこでやっと、雅臣がじっと黙っている心優をみた。
「園田も、知らずにこの艦に乗ったのですか。知らせずに、ミセスの護衛官に? だから、俺と一緒にいまここに?」
その時が来た。心優は目をつむる。
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