43.行って参ります、お父さん


 小笠原の桜開花は早い。二月には咲いてしまう。そしてあっという間に散る。

 早くも葉桜が息吹いた頃。心優はついに、その日を迎えていた。


 ミセス准将の手には『ヴァイオリンケース』。

 それを持って、『艦長』が空母入りをする。


 彼女が歩けばついてくる秘書官を従え、御園艦長が空母の通路を往く。

 すれ違う乗船クルーは立ち止まり、背筋を伸ばして御園艦長に敬礼をする。

 彼女がヴァイオリンを持って空母に乗船する。それが御園空母艦の完成を意味すると、海の男達はそう囁く。


 今日がその日。『出航の日』。


 雅臣が転属してきてから二十日ほど。橘大佐と雅臣が先行して空母に乗り込んだ後、甲板要員が各基地から小笠原にやってきて日を追って順次、搭乗。各スタッフも集結し、空母は徐々に賑わいを増していく。


 そこはもう移動する基地、海に浮かぶひとつの街、『海の要塞』だった。

 最後――。この艦を司る『女王様』が乗りこみ、基地と街は完成する。


 艦長室に到着した御園准将が、立派なデスクの上にヴァイオリンケースを置く。

「これより、横須賀へ向け出航する」

 その一声で幹部達が『イエス、マム』と敬礼をし、各所へと出航へ向け動き出す。


 小笠原を出たのは、日が沈んだ宵の口。アクアマリンの夜海に、大きなカナリア色の月が昇ったところ。


 空母艦がゆっくりと、小笠原諸島の沖合から動き出す――。

 ミセス准将がご家族とどう別れてきたか心優は知らない。

 これから妻が母親が二ヶ月ほど帰ってこないのに、御園大佐の姿も、息子の海人の姿も心優は見ることが出来なかった。


 密かな別れを自宅でしてきたのだろう、そして、家族も密かに見送ってくれたのだろう。そう思いたい。

 艦長室の丸窓に見えるカナリア色の月。それを御園准将は、じっと一人で見つめているだけだった。



 翌朝。艦は、横須賀沖合にあった。

 真っ白な正装軍服に身を包む。

 白と黒の制帽を被り、黒い階級肩章を付けた真っ白なジャケットを羽織る。黒いネクタイをしっかりと締め、今日は准将とお揃いで白いタイトスカートに、ヒールのある黒いパンプスを履く。手には真っ白な手袋をはめる。


 准将の胸にはたくさんの記章バッジ。肩には碇の刺繍がある将軍の肩章。袖口には誰よりも多い金のラインがある。

「うん、心優。素敵になったわね」

 真っ白な海軍正装で麗しい艦長姿になった御園准将が、同じく正装姿になった心優のネクタイを綺麗な手で直してくれる。その仕草は、ほんとうに母親のよう……。最近は、そんなふうに思えてしまうことが多くなってきた。


「艦長には敵いません」

 誰よりも煌びやかな将軍正装のミセス准将は、本当に素敵で格好いい。

「でも。心優の若いキラキラ感はないからね」

「そんな。大人の女性ですよ、わたしから見たら。わたしも早く艦長のような大人の女性になりたいです」

「知らないの。貴女、最近とても大人っぽくなったと、男の子達がアドルフやテッドに恋人はいないのかと聞いてくるらしいわよ」

 『はあ、またその話ですか』と、心優は溜め息をつく。

「この間まで、ボサ子と言われていたんですよ。わたし……」

「心優が女性として本気になったら、やっぱり素敵だったという証拠じゃない。それまで興味がなかっただけでしょう」

 そういって、ミセス准将は、今日はどうしたことか、心優の黒い前髪まで櫛で綺麗に横流しにして甲斐甲斐しく手を掛けてくれる。どんなに女の子に世話を焼きたいと思っていても、今までの御園准将はこんなに心優に触ったりはしないのに。


「いまから、『お見送り』があるから、綺麗にしておかないとねー」

 ご自分のことより、心優をそうして見目良くなるように懸命になってくれている。なんだか、心優は違和感を持った。


 今から『お見送り』とは、横須賀にいる海東司令が直々に空母の出航を見送ってくれることだった。

 海東司令は今から空母が通過する横須賀港沖合まで、護衛艦に乗船してやってくる。


 その空母と護衛艦がすれ違う時に、持ち場を離れられるクルーが甲板に整列して、お見送りをしてくれる司令に『行って参ります』という姿を見せるという恒例の習わしだった。


 特に主要幹部は、御園艦長の側に並ぶので、皆が白い正装に整えているところだった。


 御園准将が、パイロット仕様の腕時計を見た。

「では、行きましょうか」

「はい、かしこまりました。それでは、指令室の幹部を呼んでまいります」

 彼等は艦長室の隣にある指令本部室にいる。艦長室は通路に出るドアとは別に、指令室と繋がっているドアもあった。陸の隊長室と秘書室が繋がっているのと同じ作りになっている。その指令室へのドアを、心優は開ける。


 そこには秘書室のメンバーと、空部管理事務の主要幹部が共になる業務室になっていて、既に真っ白な正装服に整えた凛々しい男性ばかりになっていた。


「おお、心優ちゃん。いいじゃん、いいじゃーん」

 またいつもの軽いノリで、橘大佐がすっとんできた。

「メイクもしたんだな。うん、かわいい、かわいい」

 この大佐はほんとうに臆面もなく女の子を持ち上げるから、心優はいつまでも慣れずに戸惑うばかり。


 でも。やっぱり真っ白なジャケットに、黒い肩章を付けている海軍正装姿の男性はかっこいい。

「大佐も素敵ですね。基地の女の子達も見たかったでしょうね」

 普段はおちゃらけているけど、いざとなるとこの大佐は空の男に変貌する。獲物を狙う夜の猛禽のような目になる。その内に秘めた色気が漂う雰囲気を持っているうえに、いつまでも独身でいるから女性関係も賑やかな人。何歳になっても恋ができるような大人の男だった。


「御園艦長が甲板に行かれます。皆様もご準備をとのことでした」

「ああ、そうか。もう時間だな。おい、雅臣も行くぞ」

 そこに爽やかな空気をまとった男がいた。あの頃のように颯爽とした彼が、真っ白な正装姿でこちらを見た。心優には『キラキラ』と輝いて見える! また卒倒しそうだった。


 髭ももうなくて、髪も綺麗に整えていて、秘書官だった時のように男っぽくて大人のビジネスマン風だった彼が今日は清々しく微笑んでいる。


 臣さん。臣さんは、やっぱりその愛嬌あるにっこり爽やかな(お猿さんみたいな)微笑みが似合っているよ……。心優はまたクラクラして、倒れたくなった。


「雅臣、おまえ、金モールを付けておけよ。葉月ちゃんが言っていただろう。彼女と、俺と雅臣の三人は目立っておかなくてはいけないんだって」

「イエッサー。先輩。忘れていましたよ。いままではただのパイロット乗員だったので」

「だよなー。空母に乗るのは久しぶりだもんな。でも、おまえもう、この艦のナンバー3なんだから、しっかりしろよ」

 横須賀マリンスワロー飛行隊所属時代に上官だった橘大佐と、エースパイロットだった雅臣。今度は空母の指揮官として先輩後輩になった。


 元々、上官と部下だったからなのか、二人の息はとても合っているらしく、空母艦出航準備も忙殺されながらもスムーズに滞りもなく整ったと聞かされている。


 雅臣が机に置き忘れていた金モールを、黒い肩章の下に付けて提げると、さらに輝く大佐殿になったので心優はつい惚けて釘付けになってしまっていた。

「あ~あ。やっぱ若い男の方がいいよな~」

 いつのまにか心優の側で、橘大佐がにんまりと囁いていたので、心優はやっと我に返る。


「じゅ、准将を呼びに行ってまいります」

 熱くなった頬を見られる前にと、心優は橘大佐のところから艦長室へと駆けだしていた。


「では、甲板に行くわよ。テッド、まとめ役をお願いね」

「イエス、マム。大丈夫です。おまかせください」

 御園准将を先頭に通路を歩き出す。その隣を心優は歩き出す。心優はつねに彼女の隣にいる護衛官として許されている。


 准将と心優の後に、副艦長の橘大佐、飛行部隊長の城戸大佐。その後ろにラングラー中佐とハワード大尉、御園秘書室からウィルソン=コナー少佐が秘書官としてついてくる。


 艦長室の周辺は、指令室と管制室と指揮系統のセクションが集結している場所。そこから甲板に向けて歩いているうちに、真っ白な正装姿に整えた『雷神』のパイロット達が整列しているのが見えてきた。海軍の白い正装になった鈴木英太少佐も凛々しい姿で待機している。彼等も、雅臣の後へとついてくる。


 女艦長の後ろに、徐々に従っていく海軍の男達。その壮観な光景を心優は肩越しに振り返って確かめる。ほんとうに、自分の隣にいる女性が『女王様』なのだと痛感する光景だった。


 でも、心優がなによりも素晴らしいと心を震わせたのは、男らしい『大佐殿』になった雅臣が、雷神のパイロットを引き連れていることだった。


 泣きそうになる。もうパイロットに戻れない男でも、彼はパイロットと共に海の上に在る男に戻れたことに――。

 その真っ白な正装姿になった者達が、空母の鉄階段を上がり、甲板のキャットウォーク沿いを往く。


 本日は快晴。やや風あり。

 小笠原より優しい色合いの青空に、真っ白な雲が流れている。

 その真下を、白波を切って海原を往く空母艦。


 蒸気を揺らめかせているカタパルト。そして展示するように並べられている戦闘機。空母の船首に波が打ち砕けるのが見えるそのキャットウォーク沿いに、白い制服の隊員が何人も横一列にならんだ。


 中心は『御園葉月艦長』。その右隣は『橘副艦長』、そして左隣は『城戸飛行部隊大佐』。

 金モールを肩にきらめかせる、この艦の女王と大佐殿二名。その堂々とした三人が、まず波しぶきが見えそうなキャットウォーク沿いに並ぶ。



 横須賀沖をゆっくりと進む空母艦。その甲板に並ぶ白い正装制服を揃えた隊員達。

 空母が進む先に、護衛艦が見えてくる。その甲板の船首にも、白い正装姿の隊員が十数名並んで待機しているのが見えた。


 徐々に、その護衛艦へと空母が近づいていく。大きな空母と、それよりかは小さい護衛艦。それでも空母艦は停泊している護衛艦に巧みに幅寄せをして近づいていく。


 ついに。その人達の姿が見えた。

「司令のお見送りです」

 ボーという汽笛が鳴る。

「全員――、敬礼!」

 空に突き抜けるようなラングラー中佐の澄んだ掛け声を合図に、甲板にずらっと並んだクルーが一斉に敬礼をする。


 真っ白な正装をしたクルー達が綺麗に横に並び、中心には誰よりも涼やかな風をまとっている『栗毛の女王様』。


 御園艦長を中心に、その敬礼が並ぶ。心優も制帽のつば先に、手袋をはめた白い手をかざし、護衛艦の船首甲板に整列してくれている海東司令の一行へと姿勢を正す。


 潮風にあおられ、白いスカートの裾がぱたぱたとはためく。御園准将の綺麗な栗色の毛先も日射しにきらきらしながらそよいでいる。


 空母と並んだ護衛艦の甲板には、海東司令とその側近達、護衛艦の艦長が並び、長沼准将と塚田中佐も並んでいる。


 見送りに来てくれた上官達を見つめていた心優は、そこでハッとした。海東司令を先頭に並ぶ一行、その一番端にいる男性を見て、目を疑った。


 ――お父さん!


 誰よりも体格の良い男が、娘と同様に真っ白な正装制服にきっちりと身を包み、制帽をかぶり、大きな手に白い手袋をはめて心優に向かって敬礼をしてくれている。

「どうして……」

 ラングラー中佐ハワード大尉の隣にいるそこで、心優はくちびるを震わせていた。


 敬礼の姿勢を整えたままのラングラー中佐が、心優へとそっと囁いた。

「葉月さんと隼人さんだ。見送りの時にひと目、会わせてあげたいと――」

 御園夫妻がそこまで気遣ってくれていた驚きと共に、あの人達は本当に、小笠原にいる心優にとって『親になるつもり』でいてくれたんだとわかった気がした。だから今日は、父親に会う娘の為に、先ほど御園准将が『綺麗にしましょう』と懸命だったのだと知る。


「園田教官は断ったそうだが、隼人さんが説得してくれたそうだ。そして今日、長沼准将が連れてきてくれた」

「そんな、わたしのために……?」

「違うな。お父さんのために、だ。特に気にしていたのは、隼人さんだ。意地を張っているが、誰よりも案じていることだろうと――ね。あの人も娘がいる父親だからな」


 心優の為よりかは、意地を張っているお父さんのため――。

「さあ、ミユ」

 ハワード大尉にも背を押され、心優は再度、父に向かって敬礼をする。


 行ってまいります、お父さん!


 雅臣も凛々しい真っ白な制服姿で敬礼をしている。あのシャーマナイトが光る眼差しがそこにあった。彼の目がコックピットにあったように生きている。

 雅臣の隣には、彼が望んでいた栗毛の彼女がいる。誰よりも清々しい風をまとうような佇まいの御園准将。その隣で敬礼をしている雅臣の微笑みは満ち足りていた。


 それでも御園艦長の眼差しは、いまは真っ直ぐ。過ぎていく海東司令へと向けられていた。


 海と波を挟んでいても、わかってしまうほど。その二人が今から背負うものを離れていこうとしている今、確かめ合っているかのようだった。


 最後にもう一度、護衛艦が見送りの汽笛を響かせた。


 御園准将と海東司令の視線が最後まで離れなかったように、心優もまた父の姿が見えなくなるまで目を離せなかった。

 ずっと敬礼をしてくれている身体の大きな父が、白い姿をした父が徐々に小さくなっていった。


 最後は波の音――。

 これから暫く、心優は海上の住人に。そして、防衛最前線へ!

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