42.俺に近づくな

 大佐殿の荷物も、ボストンバッグひとつだけだった。


 最終会議を終え、御園准将一行を乗せた飛行機が小笠原に到着する。

 行く時はいなかった彼が、いきなり、今日から『小笠原の隊員』になって同じ飛行機に乗っている。

 ミセス准将がやることは大胆すぎる。心優を引き抜いた時も吹いてきた風にさらわれるようだったが、ミセス准将はまた違う風でとんでもないものを運んでくる。


 小型飛行機から滑走路に降りると、御園准将は雅臣に振り返る。

「貴方の住まいを官舎に確保しておいたけど、荷物はまだ何日かかかるのでしょう。それまでは寄宿舎で過ごせるように一室とっておいたから。今日はもう、そこで休みなさい。急な辞令だったのに岩国からとるものもとらず飛んできてくれて、そのまま小笠原に連れてきてしまったわね。ごめんなさいね」


 急な辞令だったようで、雅臣も身ひとつですっ飛んできたようだった。だが彼は満ち足りた笑みをそっと浮かべ、頭を振る。


「いいえ。嬉しかったです。間に合わせてくださって……。やはり『俺の准将』です」

 『俺の、』その言い方に、心優はややショックを受けた。わかっていたが、本当に彼はミセス准将に焦がれていたんだという証拠みたいなものだった。


 だからといって『女性として見ている』わけでもないことは心優もわかっている。雅臣の『精神の問題』。俺がどこにいちばん居たいか。それが小笠原飛行部隊だった。そして、そこに所属するための絶対的条件が、ミセス准将という上官であるだけ。


 でもきっと。彼のいまの『いちばん』は、ミセス准将。雅臣の目が、琥珀の瞳を持っている栗毛の女性から離れない。

「前のように思ってくれて、ありがとう雅臣。明日から、大佐として動いてもらいます。朝、私の准将室まで来て。連隊長への挨拶は、明日、改めて一緒に行きましょう」

「イエス、マム。それでは、本日はこちらで失礼致します」

 ミセス准将、そして橘大佐や、いままで先輩だっただろうラングラー中佐にダグラス中佐に敬礼をすると、そのまま背を向けてしまった。


 また、彼と言葉を交わす機会を失ってしまう。

 ボストンバッグを肩に担ぐ後ろ姿が、遠くて、もう知らない人のよう。心優の胸の痛みは止まない。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 雅臣は翌日、連隊長への挨拶を済ませると、ミセス准将の指示で『出航前準備をする』という目的で、副艦長の橘大佐と共に、ひと足先に空母に乗り込むことになってしまった。


 せっかく同じ小笠原の隊員になっても、大佐として『飛行部隊指揮官』となった雅臣は忙しすぎて、心優の前に現れることはなかった。

 しかも准将室にも来ない。聞けば、一足先に乗り込んだ大佐二人は既に任務に着任したも同然で、もう海の上。陸に帰ってくることはほとんどないとのことだった。


 さらに心優がいちばん驚かされたのは、御園准将が『出航前で忙しい。私は陸の庶務に集中する』と言って、空母の演習訓練に行かなくなったことだった。

 これでまた心優は、雅臣と会う機会を失っていた。雅臣は、ミセス准将と共に指揮官として邁進していきたかったのではないのか。せっかく望んだ上官と空母にいられると期待していたのでは。また……がっかりしていないだろうか。


 だがミセス准将は『いいの。橘さんがいるから。まず、雷神のパイロット達にも私がいなくても、雅臣の指示で動かなくてはならないということを体感しておいてほしいのよ』と言って、陸の准将室で悠然としている。


 彼が目の前に現れたのは、まるで幻だったかのように。いないに等しい日々を心優は送っていが、御園准将一行と共に乗船する数日前を迎えていた。


「心優、これを隣のデーター管理室にいるミラー大佐に返してきて」

 御園准将から渡された書類とデータファイルを受け取り、心優は准将室を出る。

 大隊本部室の隣にあるので遠くはない。ただし、小笠原飛行部隊特有の『データ管理』をしている一室なので、扉が厳重にロックされている。


 インターホンを押して『御園大隊長室の園田です』と言えば、ロックを解除して自動ドアで入れるようになっている。

 いくつものパソコンモニターが並び、旧式の映像データも管理されているため、ファイル棚もいくつも並んでいる。


 責任者は『ブライアン=ミラー大佐』。ミセス准将の右腕で、パイロットとしては同じ上官に仕込まれた『兄弟子』ということらしい。

 橘大佐が横須賀から転属してくるまでは、ミラー大佐が副艦長としてミセスに付き添うことが多かったらしい。


 いま彼はここで、小笠原飛行部隊で空を飛ぶパイロット達の『飛行データ』をまとめている。

 この『飛行データを一括管理している』というのが、小笠原飛行部隊の特徴だった。しかもこのシステム、御園工学科大佐が創り上げたらしい。


 パイロットが空を飛ぶ。その飛んだデータを『ホワイト戦闘機』から引き抜く、引き抜いたデータはこの『データ管理室』でデジタル化される。それを工学科のプロジェクトチームが開発したシミュレーション機である『チェンジ』に入力する。すると、このシミュレーション機は、『パイロット個々の癖』を認知してパターン化。現役パイロット達が、このシミュレーション機でそこにいない腕前が上のパイロットと対戦が出来る。またはそのデータ内にあるパイロットを『敵機』として設定して、あらゆるパターンの対領空侵犯措置の訓練も架空で体験ができるということだった。


 そのシステムを御園大佐のところに集結した工学科隊員と民間企業のシステム会社と重工機を造り出す会社と組んで、戦闘機と連動させたデータ化に成功していた。

 御園大佐の功績とされているが、夫の彼は『パイロットだった妻が、こんなシステムが欲しいと言ったから』と思いつきは奥さんが先だったと言っている。


 小笠原の空部隊のこのシステムを欲しいという基地も多く、横須賀基地も徐々にそのシステムを導入しはじめている。


 今日も空母から訓練で空へと飛んでいった戦闘機の演習データを甲板から持ち帰り、プログラマーの隊員達がデータ化に励んでいる。

 ミセス准将もよくこの管理室にやってきては、パイロット達のデータと睨めっこをしていることが多い。


 お遣いの書類封筒を胸に抱え、心優はいつも訪ねるミラー大佐のデスクへ向かう。だけれど、ミラー大佐は不在だった。

 黙って置いていくわけにもいかず、心優は困り果てる。すぐそばでデータ化の作業をしている男性隊員に聞いてみる。


「御園准将が、空母での演習訓練データの確認を終えたのでお返しに来ました」

 眼鏡の彼が少しだけ手を止めて心優をデスクから見上げる。

「大佐なら、視聴デスクにいると思うけど」

「あ、さようでしたか。よく確認もせず、申し訳ありません」


 図書館の本棚のように並んでいるファイル棚の向こう、そこで各映像を再生し視聴するためのパソコンを設置したデスクが並んでいる。ファイル棚の影になっているのでよく見えない場所だった。


 高いファイル棚の通路を抜け、心優は『銀髪』を目印に探す。銀髪のミラー大佐はそこにはいない。黒髪の男性が一人、背を向けて座っているだけだった。


 指揮官が着る紺色の訓練着の男性だった。ここに銀髪の大佐殿が来ていなかったか聞いてみようと声をかける。


「お忙しいところ、失礼致します。こちらにミラー大佐……」

 振り向いた男性を見て、心優は言葉を失う。

 無精髭だらけのもさっとした男だったから……。違う、それが、雅臣だったから!


「ああ。なに。ミラー大佐なら留守だよ。いま、俺が留守番を頼まれてここにいるんだけど。それ、御園准将から?」

 胸に抱えている書類封筒を指さされる。

「そうです。演習訓練のデータの確認を終えたので、お返しに。それから御園准将がまとめられた確認書も一緒です」

「それ、昨日、俺が雷神を指揮した訓練のものだと思う。俺が預かっておく」

 本当にあのエースパイロット集団『雷神』の訓練を、彼がやっている……。わかっているけれど、ミセス准将の代役を、いとも簡単にこなして当たり前のような顔をしている雅臣を知り、心優は絶句する。


 それでも、気を取り直して――。

「そうですか。お願い致します」

 大佐ならいるよ――と、教えてもらってこちらに来たら、こっちの大佐殿だったなんて。


 陸にはもう戻ってこないと聞いていて、次に会えるチャンスは空母に乗船してからだと思っていたから、心の準備が出来ていなかった心優の手は震えていた。

 雅臣が書類を受け取ってすぐ、心優は手を引っ込めてしまう。


 でも、これだけは。伝えておかなくちゃ!

「城戸大佐。昇進、おめでとうございます。それから、甲板復帰も。よろしかったですね」

 あのシャーマナイトの目と合う。もう心優は卒倒しそうになった。あんなにあんなに焦がれていた目がそこにある。しかも自分を見ている!


 だけれど、彼はもうあの頃のような愛嬌あるにっこりした微笑みは見せてくれない。

「ありがとう。そっちもな。少尉に昇進、おめでとう。岩国で広報誌を見た。向こうでも、隊員達の話題だった。葉月さんが笑っているし、夫妻で並んでいるし、その間に妹だか娘のようにして一緒にいる若い女性護衛官。どんな子なんだろうなとかさ、俺の部下だったと知った男共にいろいろ聞かれて大変だった」

「そ、そんなことに?」

「うん。高須賀准将にもいろいろ聞かれたな。ミセス准将と御園大佐が余程のお気に入りのお嬢さんのようだけれど、どのような子なのかとね。広報誌もそうだけど、御園の影響力はすごいんだ。そこにいるんだよ、園田は」


 久しぶりの会話なのに。彼の声は淡々としていた。しかも、目を合わせてくれたのはほんの少しで、彼はそれだけ言うとまた背を向け視聴していた映像の続きを再生するためにマウスを握り直した。


「あの……」

 勇気を出して。最後に傷つけたことを『お許しください』と今こそ言おう! 一歩、雅臣の背に近づいた時だった。


「近寄るな――」

 肩越しに頬も口周りも真っ黒になった髭面の彼が強く言う。

 さすがに心優も後ずさった。やっぱり嫌われている!


「し、失礼致しました。では、これで戻ります」

「わ、悪い。その……。風呂に二日ほど入っていないんだよ」

 バツの悪い顔で、また身体ごと振り返ってくれた。


「それで、その……髭?」

「ああ、もう……。わかっていたけれど、いま空母の中は出航前で艦長室と指令室の拠点になる幹部の事務室を整えるのでてんてこまいなんだよ。出発前でいろいろな」

 大佐となってその責務は、秘書室以上なのだと心優はやっと痛感する。


「でも、」

 心優は後ずさった分、少しだけまた雅臣へと一歩近づいた。

「気になさっているほどではありません。……よく、知っている匂いです」

 清める暇もなかったむさ苦しいほどの男の匂いは、心優にとっては慣れた匂いだった。父も兄も、そして軍隊にいればこの匂いはそこら中にある。でも、よりいっそう濃く心優の鼻腔に記憶されている男の匂いは、この匂い。


 驚かせてしまったのか、雅臣は唖然とした顔で心優を座っている姿から見上げていた。

「准将が待っている。早く帰れよ」

 急に素っ気なく、また背を向けられてしまう。


「それでは、お邪魔致しました」

 見てもくれないとわかっていても、心優は一礼をして去ろうとした。

 無理もない。あんな別れ方をして、半年ぶり。久しぶりだねと笑顔で会えるわけがない。


 でも、言えた。『おめでとうございます』だけでも言えた。本当に伝えたいことは、まだきちんと伝えられる雰囲気ではなさそうだけれど。


 歩き出した時だった。心優の背後から『ぐぐぅー』とお腹が鳴る音が聞こえてしまった。

「はあ」

 雅臣が辛そうに、腹部をさすった。空腹らしい。


「ちゃんと食べてくださいよ。空母にも大きなカフェテリアがあって、もう開いているのでしょう」

「うるさい。時間がなかっただけだ」

 少し心配になってきた。そんな髭も剃る余裕もないほど駆け回っていて? 朝食もまともにとらないで? 臣さん。突っ走りすぎていない? そう言いたい、聞きたい。


「なにか買ってきましょうか。体に悪いですよ」

 振り向いてもくれない彼。なにも答えてくれなかった。

「カツサンド、お好きでしたよね。小笠原のもおいしい・・」

「俺のことより准将のことをまず考えろ。園田はもう俺の部下ではない。そうだろ。おまえが、小笠原を選んだのだから」

 背を向けたまま、きっぱりと言い返された。


 心優の心臓にどーんと一発、爆撃されたほどの衝撃。


「……ですよね。そうでした」

 もう部下ではない、いま目の前にいる上官を優先しろ。それはごもっとも。でも……『俺より、小笠原を選んだ』、最後、彼の気持ちはそこにあると心優は知ってしまう。


 それはまるで、他の男を選んだかのような責められよう。でも逆に心優も、彼が望んでいるのは仕事上での気持ちであっただけなのに、他の女性を想っているかのような彼のことを責めたのだから、文句は言えない。


「失礼いたしました」

 今度こそ、心優はそこから駆けだしていた。

 管理室を飛び出した廊下で、涙が溢れてきた。


「いけない。准将に気付かれちゃう」

 それにこの通路は、本部室の管理官に事務員達がたくさん出入りして歩いている。だから、心優は顔を伏せて、階段を駆け下りた。


 この高官棟は、正面玄関がある棟で一階の玄関にいくと、通路から中庭が見える。

 そこに鯉が優雅に泳ぐ池があった。それが見える渡り廊下に立って、暫く気持ちを落ち着けた。

 池の周りには南国らしい草木が、島の風に吹かれている。赤い石楠花しゃくなげが咲いていて、愛らしく揺れている。


 あの人はもう、わたしが知っている臣さんじゃない。

 彼はもう小笠原飛行部隊を配下にもつ『大佐殿』――。

 彼は、わたしを許してくれない。


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