36.おまえを助けに行くよ

 今夜も心優はダイナーで、食事を済ます。

 アメリカンポップなネオンに彩られた店の外に出ると、バイクにまたがっている金髪の男がいる。


「食ったのか。いくぞ」

「うん」

 金髪にアクアマリンの目をした男が黒いヘルメットを被り、心優も渡されたヘルメットを被る。


 バイクの後ろに乗り、金髪の男の背に掴まった。

 彼がバイクのアクセルを回し、アメリカキャンプの警備口を出て、夜の海岸線を飛ばしていく――。


 いくつものカーブを曲がると、彼がいま住んでいる『丘のマンション』が見えてくる。御園准将が独身時代に住んでいたという御園家所有のマンションを通り過ぎる。

 彼の自宅だけれど、そこを訪ねたことはないし、彼も心優を連れていこうとしたことはない。


 シド=フランク中尉と行くところは、毎回決まっている。二日に一度、彼とそこに行く。彼がバイクで迎えに来てくれる。

 アメリカキャンプ、日本人官舎、丘のマンション、島のリゾート地区、マリンハーバーを通り過ぎると、一気に人気がなくなり海岸線だけが暫く続く。でも、そのうちにカーブの向こうにまた住宅地が見えてくる。海沿いに白や青い家が並び、灯りがキラキラと揺らめいている。夜の帳に沈んだ海の向こうには、漁り火。


 シドが飛ばすバイクに乗って、心優はその住宅の灯りへと向かっている。

 いつもの場所に到着した。南ヨーロッパを思わせる白に青を基調にした一軒家が二つ並んでいる。

 白や黒のファミリーワゴン車の他に、トヨタの真っ赤なスポーツカーが駐車してある。その広い敷地内の片隅に、ちいさな道場があった。


「はじめるぞ」

 訓練着に着替えた二人は、腰に訓練と同様の装備をして向き合う。

 だが基地と違うのは、心優の腰に装備しているのは『本物のナイフ』、真剣だった。


 それを抜き取り、構えてくれているシドへと振りかざす。

 彼の構えているところを狙って、持っているナイフを振り落とす。ガチンと静かな道場に刃と刃がぶつかる音が響く。

「遠慮するな。思いっきり来い」

 力強く受け止めてくれる彼の腕を信じて、心優はナイフを振るスピードを速める。徐々に本当に戦闘をしているかのような打ち合いになる。


「いいぞ、心優。じゃあ、こちらからも行くぞ」

 ナイフを持っている手を、シドはシュッと素早く突き出してくる。それを心優はナイフで受け止め、シュッと切り返して跳ね返す。

「そうだ。その動きだ」

 まるでフェンシングのように、突き出される刃を剣で受け流し、弾き飛ばし、または突き返して威嚇する。それが徐々に息が合っているようにリズミカルになる。息が合っていると言っても、揃えているわけではない。兵隊としてプロのシドが手加減をしてくれた上で彼が決めてくれたペースに、心優が付いてこられるようになっただけのこと。シドがペースを上げて、どこまで心優がついてこられるか。または阻止できるか攻撃できるか、いまの彼は真摯に心優の実力に向き合ってくれている。


 そのうちにシドは本気になるのか、心優が敵わない手つきになってくる。その時、彼が繰り出してきた一手、ナイフの刃先が、受け止めようとしたタイミングが合わず手の甲をかすった。


 ――っ痛! 心優は顔をしかめたが、シドは構わずに攻撃を続けてくる。こういう彼の冷徹さは見習いたいところ。そして心優もここで怯むような彼なら、こんな時間外訓練を頼んだりしない。


 この夜もナイフとロッドの訓練を終える。

 一汗かいて、持ってきていたスポーツドリンクで水分補給をする。彼も同じく。

 道場の真ん中で、二人で向き合って座った。


「手が傷ついた。貸せよ」

「いいよ。これぐらい」

「いいから、貸せって」

 本当にうっすらとかすっただけ。でも血が僅かに滲み出ていた。

 シドが黒い訓練着のポケットから絆創膏を取り出す。心優の手をとって、それを丁寧に貼ってくれる。


「おまえ。こっちの手の動きが少し鈍るな……。仕方がないけどな」

 引退をすることになった怪我をした方の腕だった。酷使すれば痛むことがある。それがわかっているから、かばいがちになってしまう。


 シドもそれはもうよく知ってくれていた。

 彼が連隊長秘書室に半謹慎状態になっていた頃。心優からミセス准将を通じて『フランク中尉と手合わせを続けたい』と願い出た。ミセス准将は驚きもせず、いつもの平坦な様子で『そう、わかったわ』と答えただけだった。なのにその後すぐに、連隊長からも許可が出たということで、そこでシドの半謹慎が解け『時間外で二人で責任を持ってやれ』ということになった。つまり『勤務時間や訓練時間に特別な枠は用意しない。やりたいならプライベートで二人の合意の元やれ』ということだった。


 その許可が出たら、御園准将が『うちの家の道場を使っても良いわよ』と。それでいま二人で居るちいさな道場に二日に一度通うことになった。


 シドも『おまえのおかげで、やっと秘書室の外に出られるようになった』と言ってくれ、『心優の素手での取り組みは、いい練習相手になりそうだから。訓練に付き合ってやってもいいぜ』――と、いつもの上から目線な言い方だったが引き受けてくれた。

 御園家と御園准将と同期生という副連隊長の海野家がならぶ自宅。南ヨーロッパ風の白い壁、青い屋根とテラスがある家。そこの敷地内に『息子達のために建ててしまった』というちいさな道場を借りている。


「よし。今度は組み手をやるぞ」

「イエッサー」

 武器を装備したまま。二人は向き合い、そして互いに呼吸を整え互いに構える。

 ――ハッ! ――ヤァッ!

 気合いの声を張り上げ、二人は男も女も関係なく拳に蹴りを繰り出し、それを跳ね返し、時には身体にヒットして吹っ飛ばされる。でも軍人の訓練はそこで負けではない。転んでも、床に腰をついてしまっても、そこから起きあがってまた敵に向かう。

「……っく」

 シドの表情が苦々しく歪む。たとえ力で心優を抑え込もうとしても、心優には『技』がある。シドはそれに興味を持って、互角の相手にしてくれる。


 幾分かして、シドが畳に膝をついて心優に言う。

「参った。いまの……、俺にも教えてくれ」

「いいよ。立ってみて」

 彼と向き合って、今度は心優が『技』を教える。そんな時のシドはきかん坊の王子ではなくクールな中尉殿だった。


 訓練を終え、着替えをする。ちいさな道場の片隅にちいさな収納部屋があってそこを更衣室にしていた。


「なあ、俺の部屋に来るか」

 ドア越しにそんな声が聞こえ、着替えていた心優は驚いて、彼が見えないのに振り返ってしまう。


 汗でびっしょりになったスポーツブラという姿だったので、心優の心臓が余計にドキドキと跳ねるように鼓動が早まった。


 でも心優は冷静を装って言い返す。

「疲れたから、宿舎に帰りたい」

「そっか。なんか女を抱きたいんだよな。心優ならいいなっと思っただけだよ」

 誘い方がものすごいストレート。まるで普段の気兼ねない会話をしているような空気のままさりげなくて、しかも嫌味じゃない。


「他にシドの部屋に誘われたい女の子いっぱいいるでしょ。そっちで探してよ」

「でも、俺。ここにいるの今だけだし……」

 いつも俺が一番と自信過剰な王子の言い方ではなかった。

「どうせ、俺は素性も明かせない私生児だからさ。そういうの興味もたれるの、面倒くさいんだよ」

 ――私生児。素性も明かせない『訳ありの養子』。心優もなんとなく、彼の素性は探ってはいけない空気を読みとっていたから避けてきたが、本人から告げられてまた固まってしまう。


 いま、扉を隔てた姿が見えない状態で良かったと心優は思った。いろいろと動揺している。それでも平静さを努める。

「シドの素性がどうでも、本当に好きになったならそばにいてくれるよ」

「おまえじゃダメなのかよ。御園の一員になったんだろ。触って良いとこ悪いとこ良く見極めて、知らん顔もうまいもんだよ。『奥さん』と『旦那さん』が気に入るわけだ。だからさ……。俺のこと、どこにいても待っていてくれるような気がしたんだよ」

「そんな立派な女じゃないよ」

 心優は制服のシャツを羽織り、スラックスを急いではいた。でも、シドは『俺と今夜、抱き合おう』と男として誘っているのに、確実に肌を露わにして着替えていることが判っている更衣室には押し入ってこない。


 そんな冷静さを持って、または、心優を大切に扱ってくれている男らしさと優しさを初めて感じてしまっていた。


 そんな男性に、心優も真摯に向かうべきだろう。

「わたし、忘れられない人がいるの」

 ドアの向こうの息づかいが、消えたように思えた。


「なんだ、そうだったんだ」

「良くない別れ方したから、心残りがあってね。だから、その人とケジメつけたいんだよね。いつか」

「いつかって……。いつなんだよ、それ」

「わからない。今度……、会ったらかな」

 短気なシドらしく、ドアの向こうから『チッ』という舌打ちが聞こえてしまう。


「鬱陶しいな。今すぐ会ってケジメつけて来いよ」

「わたしが……、まだ、ダメなんだ。今は会えない」

 今度は呆れた溜め息が届いた。

「あー、そうかよ。待ってられねえー、俺が!」

 ドアをゴンと彼の足が蹴った音――。


「ありがとう、シド。でも、わたしみたいなボサ子に、よくそんな気になるね」

「その『ボサコ』て、おまえが自分の事をボサコだっていうからさ。日本語でなんていう意味か、マジでオジキに質問して恥ずかしい目に遭ったんだからな」


 誰に聞いたの? と、スラックスのベルトを締めた心優は荷物をまとめて、やっと収納部屋の扉を開けた。

 夏の白シャツ、黒い中尉の肩章がついている制服姿に戻ったシドが、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向いているところだった。


「ボサ子なんて、誰に聞いちゃったの?」

「母親の仕事仲間のオジキ。俺の生みの母は、フランス人で俺もフランス生まれなんだけどさ。母の会社は御園系列で、他の系列会社も、元は御園のお祖母様がスペイン人だから、資本がヨーロッパにもあるんだよ。エドとか、あと御園の執事みたいなオジキもいてさ。その母親の仕事仲間がだいたいヨーロッパ系」

「ああ、御園系列の、お母様の仲間のオジサマに聞いたってこと?」

「その執事みたいなオジキが母親と幼馴染みなんだよ。若い頃からなんでも一緒に仕事をしてきたみたいでさ。俺も一時、本当はこいつが俺のオヤジじゃねえかと疑ったことはあったんだけれど、どうも俺とは血の繋がりはないらしい」


 そこで心優は、私生児と言われるシドだが、自分の父親を本当に知らないのだろうかと確かめたくなったが、ぐっと堪えてやめておく。


「でもそのオジキに『ボサ子』て日本の女の子が気にする意味を教えて欲しいと聞いたらさ……。すんげえ笑って『それって園田心優さんのことだろう』って、一発で言われてさ」

 心優は目を丸くした。アメリカから来た彼から見たら(本当はフランス生まれだが)、『ボサ子』はごく一般的に使われている日本語だと思ったらしい。

 今度は心優の頬が、かつての劣等感を思い出し熱くなってくる。


「その、ボサ子って――。わたしが横須賀に転属してきた時に、あまりにも女性として無頓着で女らしくなかったから、ボサボサの女の子って意味でつけられちゃったの……。ボサ子って言えば、わたしのことなんだよ」

「……らしいな。てっきり日本語の『かわいい』とかさ、『やまとなでしこ』とかさ。その逆の『ぶさいく』とかさ、そういうごくごく一般的なもんだと思っていたから。まさかニックネームだったとはね」


「それで、そのフランスのオジサマはなんいっていたの」

「別に。なにも言わなかったけれど、ずうっと嫌な笑みを俺にみせていたよ。たまに目が合うと笑ったりしてさ。だからボサ子=心優のこと気にしているって、ばれちゃっただろ」

 

そんなこと言われても……と、心優はむくれた。


「どこがボサ子なんだよ」

「横須賀に来たばかりの頃は、こんなメイクもしなかったし、ほんとうに眉もぼさぼさにしていたんだって」

「俺、おまえみたいな女。いいと思うけどな。日本人にはボサ子に見えるんだろうけど、俺みたいな西洋人からみたらアジアンキュートにしかみえないけどな」

 わー、やっぱり根っこはフランス人だと心優は思った。俺は絶対におまえが喜ぶこと言わないぞ、という顔をしておいて、いざとなったらこんな甘いこと言ってくれるんだ――という驚きだった。


「シドって、フランス生まれなんだよね?」

「生まれはな。でもフランスとイタリアを中心にヨーロッパ中を行ったり来たりしていたかな。俺の母親、起業してから駆け回っていたから。あ、ガキの頃は何度か日本にも来たよ。御園の家の関係で――」

 いままの話しぶりからも、シドは完全たる『御園ファミリー』だった。


 まだ御園夫妻から詳しい説明は受けていないが、エドに、シドの母親といった、西洋人を中心とした関係者からはどうも『裏方仕事』をしている雰囲気を感じてしまう。


 エドが若い時に諜報員並だったということは、エドがそのような仕事をしていたということになる。ということは。心優と同じく、シドも生まれた環境の影響で幼少から鍛えられてきて腕もあるということは、そのように育てられた『諜報員的役割』を持っているのかもしれない。


 軍に籍を置いているが、実際は御園のために育てられた男……。そんな気がしている。


「シドはいつまで、小笠原にいるの」

「さあね。おじさん達の意向によるかな」

 彼は表では秘書官という役割になっているが、もし『秘密隊員』だったら? でももし本当に秘密隊員だったら、本当のことは決して話してくれないだろう。そして心優もそれをうっかり聞いてしまい彼に答えさせたくない。


「またお腹すいちゃった。帰る前にどこか食べられるところ連れていって」

「はあ? またかよ。ほんっとおまえ良く食うな」

「シドにもご馳走してあげるよ」

「じゃあ、行くか」


 少しだけ色めいた危うい空気になっていたが、シドも踏み切れないなにかがあるのか、強引に推し進めることはなかった。


 シドとバイクに乗ろうとした時だった。御園家から、ピアノとヴァイオリンの音が聞こえてくる。


 ヘルメットをかぶろうとしていたシドの手が止まる。口が悪くて、目つきも悪くて短気なシドが、どこか憂うような眼差しで音だけが聞こえてくる白い家を見つめていた。


「奥さんのヴァイオリンと、息子の海人のピアノだな。いつもの『カノン』だ」

「いつ聞いても、うっとりするね」


 この家に来ると、夜はヴァイオリンとピアノの演奏が時々聞こえてくる。

 ミセス准将は元はヴァイオリニストを目指していたお嬢様。事件をキッカケにそれを諦め、戦闘機パイロットへと身を投じた。

 でも今は――。息子と一緒に、その音を楽しんでいるようだった。


 御園家の長男『海人』は、父親の御園大佐が教えてくれたとおりに、母親の准将にそっくりだった。栗毛に琥珀色の瞳、そして母親と同じようなツンとした鼻筋の貴公子のような顔立ちだった。

 そんな栗毛のジュニアのピアノはなかなかのものだった。


「海人君のピアノ、いつ聞いても凄いね。ちいさな時からやってきた音だね」

 そんな音楽にシドはいつまでも浸っている。海辺の白と青の家。そして優雅な夜の音楽。潮騒と一緒に包みこむメロディ。

「心優」

 神妙な様子の彼に呼ばれ、心優は隣にいるシドを見上げる。

 だがシドは見えない潮風だけを見つめているような遠い眼差しのままで、心優を見ていない。


「なにがあっても絶対に奥さんを護れよ」

「わかってるよ」

「おまえも、なんでもかばえばいいってもんじゃないからな。帰還しろよ絶対に」

「うん。准将ともそう約束しているよ」


 心配してくれて、正直嬉しかった。今夜、この凛々しい金髪の中尉殿に誘われるままに抱き合えたら、それはそれで甘いひとときを一緒に過ごして互いに癒せるような気にもなる。


 でも……。きっとあとで後悔する。雅臣を一時でも置き去りにしたくない。どんなにあの人のぬくもりが消えて寂しくても。


 そしてシドも、そんな心優を抱いても虚しくなるだけだろうし、そんな気持ちにさせたくない。


「もし、なにかあっても。どんなところにいても、おまえと奥さんを助けに行くから。最後まで諦めるなよ。なにがあっても」

「……わかったよ」


 海に出てしまえば、シドでもなかなか来られないだろうと思うのに……。そこまで言ってくれるから、本当に帰還しなくてはと思わされる。

 星空の下に流れるクラシックメロディ、シドが心優の肩だけを抱き寄せてくれる。


 どうしてそんなに心配してくれるのだろう。心優は不安になってくる。彼はなにかを知っているのだろうか。軍が裏でなにをしようとしているのか――。


 


 小笠原にも、緩やかに家族と営む時間が流れている。

 厳しい訓練をしても、緻密なスケジュールをこなして、哀しい恋を振り返る暇がなくても。陽気なアメリカキャンプ、優雅な海辺の白い家。ここは珊瑚礁がある基地街。本島と変わらない日々がここでも培われている。


 


 珊瑚礁の海に降りそそぐ日射しが徐々に柔らかくなって、海の色がまた変わる。

 この島には、本島で感じてきたような秋はない。春のような柔らかな色合いの海がいつまでも潮騒を奏でていて、穏やかなまま。


 心優の昇格試験が近づいてきた頃、急にシドの姿が見えなくなってしまった。

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