35.つきまとわないで、ジュニア君
護衛部の訓練を終え准将室に戻ると、御園准将とラングラー中佐があからさまに案じている様子で迎えてくれた。
それで心優も『護衛部長が知らせたんだな』と察した。
「心優」
准将に呼ばれ、心優は彼女の大きな木彫りのデスクの前に立つ。
「テッド。心優と二人だけにして」
「イエス、マム」
ラングラー中佐が静かに秘書室へ通ずるドアへと消えていく。
御園准将が立派な革張りの椅子に腰をかけたまま、心優を見つめている。
「あの子、子供の頃からきかん坊でね。ごめんなさいね。連隊長にも叱られていると思うわよ」
だが心優は首を振る。
「いいえ。フランク中尉をお叱りにならないでください。手合わせに負けた時は悔しくて、甘さを指摘されたことも口惜しくて涙が止まりませんでした。ですが、いまは中尉に感謝しております」
「感謝?」
准将が驚き、首を傾げた。
「はい。覚悟ができました。今まで以上に。わたしの心は軍人ではなく、先程まで選手でしかなかったのだと。フランク中尉は、わたしのその心構えの甘さを見抜いていたのでしょう。なによりもミセス准将を案じてのことだと思います。ご自分で護りたかったのだと、御園大佐からも聞かされておりましたので」
「でも。あのシドを丸腰で先手を取ってよろめかせた上に、鳩尾に一発いれたんですってね。護衛部長も驚いていたわよ。彼はフロリダの特別訓練校で、特に厳しいと言われている海兵隊や傭兵の訓練をしてきて成績優秀な隊員だから、負けを知らないはずなのよ」
それは心優も知っている。だから、余計に……勝ちたかった。世界に行けなかった国内三位程度と言われた時から、彼を意識していた。取っ組み合いなら勝てると思った。
「いえ。容赦ない現場では、これは当たり前ということを教えて頂きました。この首の息苦しさに痛み、忘れません。わたしは大丈夫です。気にされないでください。中尉を責めないでください」
「心優……」
准将が席を立った。夏の白い半袖シャツ。肩には黒い肩章。将軍になった者に許された『碇(いかり)の刺繍』、そして金の星と金のライン。胸には色とりどりの階級バッジ。風に黒いネクタイをそよがせ、あの優雅な香りを漂わせて、彼女は心優の前にやってきた。
「心優、勘違いしないで。護衛は傭兵と闘う為にあるのではないのよ。私は貴女に、身体を護って欲しいわけじゃない。言ってはなんだけれど。私、貴女と対戦して勝つ自信があるわよ。オバサンになってしまっても」
彼女の優しい白い指先が、心優の頬に触れる。
「違うのよ。心優。シドは兵士だけど、貴女は護衛なの」
柔らかい手に、心優は包まれていた。
「でも。シドがいうことも本当よ。いままで艦内でそんな者に侵入されたことはないけれど、万が一、そんなことがあった場合は、貴女に護ってもらうかもしれない」
「絶対に護ります。艦長が不在になるのは、わたしの失態を意味します」
「でも……。いい。一緒には逝かない。どちらか片方が生き延びても駄目。二人一緒に還るのよ。絶対よ、わかったわね。貴女が犠牲になっても嬉しくない。私が余計に苦しむのだと忘れないで。逆も同じ。私になにかあったら貴女が責められる。だから『なにか起きても、なにも起こらなかったようにして』還るの」
最後の意味がよくわからなかったけれど、二人で絶対に還る――というミセスの心情は熱く伝わってきた。
「もう一度、護衛の意味を考えて。兵士と護衛の違いを」
「イエス、マム――」
そう答えると、心優はミセス准将にぎゅっと抱きしめられていた。
芳醇な匂いを放つ花のような女性に抱きしめられ、同じ女性なのに心優はうっとりしてしまう。優しい肌だった。
女性なんだ……。母親や姉のような、優しさだった。心優には久しく触れていない柔らかさ。ほっとしてしまう……。
「よかった。やっと、いつもの『心優』の顔になったわね。すごい怖い顔をしていたわよ。そう、あのいい目の。でも、怒っていて尖っている……。私、心優には女性だからこその護衛官になって欲しいの」
ミセス准将も、優しく笑ってくれる。そんな時は准将ではなくて、本当にお姉さんのような微笑みで『葉月さん』。
「さあて。テッドも追い払ったし……」
そこでミセスが伸びをして、ちょっと悪戯めいた顔をした。
「行こうかな。心優もおいで」
そう言って、ミセス准将はひらりと准将室の扉を開けてあっという間に外に出てしまった。
え! もしかして、これが!? しかも心優に『おいで』と言ってくれた?
心優は慌てて、准将室の扉を押して通路に飛び出す。
ミセス准将がなに食わぬ顔で、通路を歩き始めていた。
『ウサギが外に出たら、黙って後を付いていく。それだけでヨシ』。御園大佐が『もし妻が散歩に飛び出していくのを目撃したら』どうするべきか。そう教わっていた。
本当に、ウサギのようにしてミセス准将は軽やかに階段を音もなく降りていく。その後を、心優も付かず離れず後を追った。
最後に彼女が到着したのは、噂の『陸部訓練棟』の一階にある自販機。そこでレモネードを買うと、心優にも同じものを投げてきてくれた。
「これが准将が大好きなレモネード」
小さな缶ジュースを片手に、准将はさらに外へと行ってしまう。
そのうちに、心優の胸にしまっている業務用携帯が震えた。
「園田です」
『まさか。一緒か』
ラングラー中佐だった。
「はい。レモネード、ご馳走になっています」
『そうか、わかった。十五分で戻ってきてくれ』
「イエッサー」
心優も彼女の後を付いて、外に出た。海から吹いてくる潮風に、緑の芝が舞うグラウンドの土手まで。
そこで誰にも囚われずに、おいしそうにレモネードを満足げに味わっているミセス准将を、心優も後ろからそっと見守っていた。
護衛とはこういうことよ。そう言われている気がした。彼女にもきままな瞬間が必要。それを心優だけが見守っていける。初めてそう感じた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
シド=フランク中尉に打ちのめされて数日が経った。彼はあれから護衛部には姿を見せなくなった。それにみかけなくなった。
ラングラー中佐曰く『シドは連隊長にかなり叱られ、護衛部訓練の出入りを禁止されたらしい。しかも、出勤はしているが秘書室から出ることは許されず、室内業務の半謹慎状態』とのこと。
護衛部の訓練に参加することを許したのは連隊長。許可をしたばかりに、まだ新人である心優に乱暴な手合わせを強要したこと、ミセス准将の護衛官に手荒なことをしてしまったこと。『俺の顔を潰す気か』と、あの恐ろし銀縁眼鏡の連隊長がかなりお怒りになったらしい。しかも、連隊長直々に、御園准将室にお詫びに出向いてくれた。
それから彼を見ない――。
あの鬱陶しい王子様が訓練に来なくなるのは安心だけれど、でも、心優は釈然としない……。
そう。現実を思い知らされたのは確かだった。心優の中に『また彼と手合わせをしたい』という気持ちが渦巻くようになっていた。
それから武器を装備した訓練を今まで以上に真剣に取り組むようになった。スローな訓練に甘んじていたし、素人だからと大目に見てくれていた先輩達にも厳しくしてくれるようお願いした。彼等が手加減をしなくなった。
でも、心優はシドともう一度やってみたい。ロッドにナイフを装備した実戦的対戦を――。
これはもう武道家としての血とプライドと、熱だった。
講義、訓練、業務。全てを終え、そろそろ本日の仕事も終了――。
ラングラー中佐に頼まれたお遣いを、陸隊である第四中隊まで届ける。
四中隊は、空部隊本部から離れていて遠い。途中、高官達が揃っている高官棟へと帰る長い連絡通路を通らなくてはならない。
真夏の夕暮れが、目の前の海に広がっていた。少し高い位置にある連絡通路から見下ろす珊瑚礁の夕凪は、絶対にこの島でしかみられないというほど素晴らしい。
でも、海の夕は横須賀の官舎を思い出してしまうスイッチ。この夕暮れの中、あの人の部屋へと急いで、あの人の帰りをあの部屋で待っていた。夕の茜が消える頃に、あの人がやっと帰ってくる。
『ただいま、心優』
『おかえりなさい、臣さん』
秘書室でのシビアな眼差しが優しく崩れて、緩んだ頬にちょっといたずらぽいお猿の笑みが広がる。その顔で、心優に抱きついてきて『メシよりミユ』と先にベッドに連れて行かれたことも何度もあった。
「臣さん……」
必死な時は忘れている。夜も必死になって、御園大佐からもらったテキストに資料を読みあさって、課題のレポートをまとめ、テストに備えて復習をする。クタクタになって眠る。朝までぐっすり。朝、目覚めたら寄宿舎の周辺からアメリカキャンプまでランニング。アメリカキャンプでも顔見知りが増え、朝の挨拶を交わして爽やかな気持ちに整える。最後はアメリカキャンプの芝の広場で空手の演舞をする。それを見てくれる人もたまにいて、基地にいてもアメリカキャンプから出勤しているパパ隊員達が挨拶をしてくれるようになった。
ミセス准将のところに来た護衛官は空手のファイターガール。と、噂しているらしい。その時、心優の頭の中で『ボサ子って、英語でなんというのだろう』とふと考えてしまった。ボサ子と言われていた日が懐かしく、そしてボサ子と言われて嘆いていた自分がいたことが腹立たしい。
小笠原に来て、髪は短くショートカットにした。でも女らしく前髪は横流し、メイクは薄く、でも睫毛も口紅もナチュラルに手をかけておろそかにしない。今度は品の良いミセス准将のお側にいる女性として、今まで以上に女性をおろそかにしないよう心がけていた。
ここにきてまだ日は浅くても、心優はもう横須賀を遠く感じている。忙しさに紛れ、陽気なアメリカ的な空気に包まれ 気さくなアメリカン隊員に笑顔をもらっている。
そうして忘れている、普段は。
でも。
「臣さんは、まだそばにいる」
夕暮れを見ると、彼がそばにいるような気持ちになってしまう時がある。肌が忘れていない。くちびるも覚えている。身体の奥に残っているあの人の体温に熱だって――。
たった二ヶ月。でも、その期間は関係ない気がする。どれだけ濃密だったか。忘れられないか。それならたった一夜だって残る恋もある。心優のいちばんの恋は雅臣だった。きっとずっと忘れられない。
「おい」
感傷に浸っているところを声をかけられ、心優ははっと我に返る。
金髪の男が、同じ連絡通路の窓にまた格好つけた姿勢で窓に背をもたれて立っていた。
まただった。そこに見計らったようにしてシドがいる。横須賀でいうところの、井上少佐みたいで気分が悪い。
「お久しぶりですね。その節は、お世話になりました」
相変わらず無愛想な顔をしている。ほんとうに、こんな気分悪い男をどうして女性達は王子様と持ち上げるのか。疑問に思う。
しかもまだ心優を睨んでいる。
「いまから、俺と食事に行くんだ」
はあ?
「業務が終わったら、警備口で待ってろよ」
それだけいうと勝手に去っていってしまった。
なにあれ? 勝手に誘って、返事も聞かないで勝手に行っちゃって!
心優は彼が消えた通路に返事をする。
「行かないから。勝手にひとりで行けば」
その通りに、心優は業務終了後、警備口には行かなかった。約束なんかしていないから。
その夜。心優は宿舎で食事をせずに、アメリカキャンプにあるレストランに向かった。
アメリカファミリーが住まうアメリカキャンプは本当にアメリカの小さな街といったところで、現在はアメリカンダイナーが何店か出店されている。いま、心優はそこにはまっていた。
ハンバーガーは勿論、クラブハウスサンドウィッチにパンケーキなど。アメリカンなカフェめしが食べられる。ボリュームもあって心優向きだった。
ミセス准将のところに来たファイターガール――として、心優が知らなくても向こうが知っていることが多く、ほんとうに挨拶を沢山してもらえる。
顔見知りがほんとうに増えた。寄宿舎で寂しいなら、ここにくれば賑やかさに紛れる。
そしてここにはよく知っている男がやってくる。毎日ではないが、週に一度ぐらいは一緒になる。
背が高い黒髪の日本人が入ってくる。それだけで、店内がまた盛り上がる。
『アロー、エイタ!』
店内の若い青年達も、中年の男性も皆が彼がやってきて陽気な声かけをする。
「アロー」
こちらも基地中の誰もが知っている『エースパイロット』。彼が知らなくても、彼を知らない隊員はいない。
そのエース殿が、辺りを見回して、そして窓際のカウンターで基地の海を見ながら食事をしている心優を見つけてくれる。
「いたいた。園田さん」
「こんばんは、鈴木少佐」
「聞いた。シドにやられたんだってな」
「ああ、あれ……ですか」
「大丈夫? 首をやられたって隼人さんから聞いてさ。隼人さんがちょっと怒っていたんだよな。首に痣ができて心配していた」
「もう消えましたよ」
すでにネクタイを外していた心優は、シャツのボタンも緩めていたので鈴木少佐にちらっと首元を見せた。
「まだうっすら残ってるじゃないか」
鈴木少佐が隣の席にどっかりと座った瞬間、もう一つの隣の席に誰かがどっかりと座った。
鈴木少佐と反対側にいる男を見ると、またそこに怒った顔の彼がいる。しかも彼はカウンターに力を込めた拳をドンと落とした。
「来いって言ったよな。警備口で待っていろと言ったよな」
ものすごい真っ赤な顔で怒っているので、心優は逆に白けそうになる。
「わたし、OKしていませんし。約束していませんけど」
「おまえ、俺の方が上官なんだぞ」
「プライベートでは部下でもありませんし、わたしの上官はミセス准将ですから。フランク中尉の命令は聞くことはできません」
彼が『なんだとー』といきりたった。
「もう、つきまとわないでくださいよ。気が済みましたよね」
「済んでいない! おまえ、俺の鳩尾に拳入れただろ!」
なんだ、けっこう子供ぽい人だった。やっぱりジュニア君はまだまだ王子なのかもしれないと、心優は思ってしまった。
金髪の王子が子供っぽく怒っているのを、鈴木少佐は既に親しい様子で『オマエ、まだガキ』とからかって笑っている。心優もつい笑ってしまっていた。
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