31.琥珀の目は誤魔化せない

 小笠原の空部大隊本部、隊長秘書室に配属されてから、一ヶ月が経った。


「おはようございます」

 朝はまず、准将室へと出勤する。

 まだ誰もいない准将室を掃除する。そのうちに、栗毛のラングラー中佐が出勤をする。


「グッモーニング、ミユ」

 綺麗な英語での挨拶。彼がまだ秘書官モードになっていない証拠。秘書室の標準語は、ミセス准将に合わせてだいたいが日本語。ラングラー中佐は秘書室では日本語を使う。なのに挨拶が英語なのは、まだ家庭から出てきたパパモードということだった。


「おはようございます。中佐」

「今日はいよいよ甲板だって?」

 心優の頬が自然にほころんでしまう――。

「そうなのです。やっとです。この一ヶ月、御園大佐のスパルタ講義でついていくのが大変でしたが、知りたかったことがいっぱいで夢中でした」

「あはは。毎日、張りきって御園大佐の講義に向かっていたもんなー」

「でも、テストばかりで毎日緊張です」

 『毎日テスト? 澤村大佐らしいね』と、ラングラー中佐も笑っている。

 その日の業務に合わせて、ラングラー中佐が御園准将のデスクに資料や書類、パソコンの中のファイルを確認、揃える。心優はその手伝いをする。


 秘書室にも、御園准将秘書官メンバーが集結する。

 大きな准将室と秘書室は、ドアひとつで連結している。それは横須賀の隊長室秘書室と同じだった。

 でも、ここの秘書室の空気は、そこはかとなく優雅。毎朝、准将が出勤する時間になると、扉の向こうから珈琲の匂いが漂ってくる。

 その頃になって、御園准将が出勤する。

「おはよう」

「おはようございます、准将」

 ラングラー中佐と共に、心優も御園准将に朝の挨拶。


 彼女の声は柔らかいのに、いつも朝の挨拶だからってにっこりと微笑んでくれるわけではない。固めたような真顔で『おはよう』と返される。なのに、ちょっと砕けた敬礼をかーるく返してくれる仕草はどこかお茶目で、それが彼女の愛嬌なのかもと心優は感じている。


 彼女が笑わないのは、もう既に准将として気構えているから。


 それでも彼女が来ただけで、隊長室がとてもいい匂いになるから不思議だった。トワレを沢山ふりまいているわけでもなく、さりげないのに。あまりメイクもしていなくて、きっちりと制服に女性の身体を包みこんでいるのに。女性の甘い、でも清々しい匂いが朝の潮風に混ざって隊長室に広がっていく。


「今日はなにがあったかしら、テッド」

「園田が甲板に出ます」

 木造の重厚なデスクに、お洒落なトートバッグを置いたミセスが驚いた顔をする。

「もう、そんなところまで来ることができたの」

「そうですよ。澤村大佐からもお聞きしておりますが、思った以上に早く講義が進んでいるそうです。心優の意気込みがすごいらしくて」

 驚く彼女に、ラングラー中佐がどこか得意げに返答する。

「すごいわね、心優」

 この秘書室では、『心優』と呼ばれるようになっていた。御園准将が、半分はアメリカ人である秘書達をファーストネームで呼び分けることが多いので、心優のことも『ミユと呼ぶ』と決めたからだった。


「おかげさまで、念願の空母に初搭乗です。ありがとうございます」

「どこのフライトの訓練の時に?」

 御園准将が率いる雷神以外にも、小笠原には他にいくつもフライトチームがあって、日々、沖合の甲板で訓練、または停泊している空母からスクランブルのアラート待機をしているフライトもいる。


「今日は、第四飛行隊のビーストームです」

「コリンズ大佐の訓練ね」

「はい。准将が現役の時に所属していたフライトとのことで、楽しみにしております」

「あー、うん。なんていうか。あそここそ、アメリカンの神髄というか。血の気が多い暴れん坊という感じだから、大佐にもパイロット達にも気をつけて」


 え、そうなんですか。と、心優は少しおののいた。


「コリンズ大佐がそうだもの。当時は私がいたチームのリーダーね。あの人達と、いろいろ……。ねえ、テッド」

「はあ、当時の自分は事務官見習いだったので、フライトパイロットがどうしていたか良くは存じないのですが。そこらへんの飲食店を食い荒らす――という噂は聞いたことはありますかね」

「食い荒らすってなによ。……うん、でも、そうでした。兄さん達と一緒に、食い荒らしていたかも。夜はみんなで、食べまくるの。港の屋台のラーメンもおでんも、私達だけで空にしたことがあるし」


「つまり、大食いってことなのですか? でも、わたしにも覚えがあります。選手同僚と食事に行くと……」

「わかってくれるの、心優」

「わかりますよ。わたし、大食いですから。同僚も大食いばかりですよ。あ、家族もです!」


 ミセスと心優の会話に、普段はミセス共々冷めた表情が常のラングラー中佐が楽しそうに笑い出す。


「参りますね。ここは女性お二人のほうがお元気で。おそらく、食べる量はお二人には敵いそうもありませんね」


 そこでお二人の笑い声が響く――。

 思った以上に砕けた人達で、心優もすっかり馴染んでいた。


 この人達が外で人を寄せ付けない冷気を放っているのは、本当に外では警戒をしているからなのだなと思わせられる。

 その代わり、仲間がいるこの部屋と秘書室では肩の力を抜いて笑っている。

 長沼准将秘書室とは、雰囲気がまったく違う。あちらは本当に『男堅気な職人的兄貴達』だった。何事も真剣でシビア。


 御園准将秘書室は、アメリカナイズされていて、ちょっと大袈裟な冗談を言い合って、お腹の底から笑っている瞬間をよく見る。なのに、ひとたび任務の指令が出ると、それについて真剣な話し合いを瞬時に展開する。しかも決断が早い。

 ――彼女の判断は、神懸かっている。

 あの雅臣の言葉を思い出す。彼が憧れていたのは、この空気だったのか。ここにずっと居たかったのだろうか。彼にとても合っている空気だったのだろうか。


 だとしたら。あの横須賀の空気に、彼は無理矢理合わせていたことになる。

 ここでミセスに切り捨てられ、致し方なく、でもあそこで中佐に昇進し、秘書室長になる努力は怠らなかった。『いま自分にできることをする』。雅臣はしていた。なのに、なにもしてこなかった心優は、彼に酷いことを突きつけて飛び出してきてしまった。


 いけない。いまは振り返ったらいけない。

 もう少しで、また雅臣のことで涙に暮れそうになったが、心優は必死に堪える。


「今日は心優に、アイスティーを煎れてもらうかしら」

「だそうだ。心優、頼んだぞ」

「はい」

 ここのお茶入れは厳しい。准将もそれを思って、心優に任せることも多い。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 講義が始まる時間までに、隊長のお茶を煎れる。

 ミセス准将お気に入りのお茶は、どれも香りがよい。ミルクティーはアールグレイ、ストレートティーは甘酸っぱい果実の香りがする赤いお茶。


 夏場になったせいか、彼女は冷たいストレートティーを所望することが増えた。

 御園秘書室でのお茶入れは本格的で、ティーサロンにあるようなワゴンに茶器を揃え、彼女の目の前で作らなくてはならない。


 熱いお茶を濃く抽出し、氷水を一気に流し込む。その作業をしている間、御園准将は立派な木造りの机で、なにかの書類をパラパラとめくって眺めている。


「心優、すごい頑張っているわね。澤村の空母関連のテストの点がすごい良いわ。知らなかった。貴女がそんなに空母に乗りたがっていたなんて」


 どうやら、御園大佐が日々彼女に渡す『教育日誌』を眺めているようだった。御園大佐が心優に対して、なにを教えたか。どのような進歩があったかを記して、准将に毎日提出している。ミセスの夫、御園大佐はとてもきめ細かい仕事をする人だった。


「横須賀でも空母に連れていくチャンスは幾らでもあったでしょうに……。長沼さんも『ソニック』もパイロットだったんだから」


 『ソニック』? 初めて聞く呼び名に心優は首を傾げる。紅茶がおいしそうに冷えたところで、グラスに注いで准将デスクに心優は持っていく。


「ソニック――とはどなたのことですか」

「あら。知らなかったの? 城戸中佐がパイロットの時の『タックネーム』よ」

 タックネームは、パイロットに付けられるフライト時の操縦者識別ネーム、つまりニックネーム。


「存じませんでした。ソニック、だったのですね」

「そう。ソニック、音速の――という意味。まさにそれだったのにね」

 彼女の眼差しが翳る。多大なる期待を寄せていたパイロットを失った喪失感はいまも鮮明に残っているようで……。


「城戸中佐は、現役時代のことにあまり触れることはありませんでしたから……。とても聞きにくかったところもあります。ですけれど、転属する少し前に、そろそろ空母に連れていってくれると言ってくれていたのですけれど」

「聞いたわ、澤村から。城戸君が大事にしていたから、そのスケジュールはゆったりしていたとか。それで空母はまだだったのね。でも貴女を少尉にして立派な護衛官にするつもりだったらしいわね」

「はい。あちらでお世話になった秘書室の意向も忘れずに引き継いで、こちらで達成しようと思っております」


 頑張ってね――と、彼女が優美な微笑みを心優に見せてくれる。仕事では、真っ白な顔とも言いたくなるぐらいに冷たい顔になる人だから、微笑んでくれると心優も心がほぐれる。


「うん、美味しい。上手になっているわね」

「ありがとうございます」

 今度はワゴンの片づけをしようとする。御園准将はまだ日誌を眺めている。


「貴女、城戸君の事故のことは知っているの?」

「はい……。今年度に入ってから、教えて頂きました」

「誰から。塚田君から?」

「いいえ。ご本人から教えてくださいました。辛そうだったので、塚田少佐が代わりに教えておきます――と申し出たのですが、城戸中佐が自分から話す……と」


 御園准将から聞いておいて、彼女は『ふうん』と急に素っ気ない。彼女は時々、こういうところがある。人の話を聞いているのか聞いていないのか、でも、だいたい聞いている。ご主人の御園大佐とも講義後、良く話をするが、夫である彼も『あいつの反応をいちいち気にしないように。気のない返事をして、もうその時は数々の思いを張り巡らせている瞬間だから』と――。


「城戸君が自分から話すだなんて、珍しい気がするわね……」

 ドキリとした。御園准将が急に素っ気ない返事で、でも頭の中を直ぐに占めたのは『彼から事故のことを話すんだなんて、珍しい』と気になったからなのだ――。


「彼、根っからのパイロットだったから……。すごくわかるんだけれどね。精神的に辛いこと。私もそうだったし、精神がその辛さを受けきれなくなった時に身体も辛くなるからね。それだけが今も心配」


 御園准将も過去に受けた暴虐の傷が癒えず、吐いたり、気を失ったり、呼吸困難になる。心優はそれを目の当たりにしてしまったから、小笠原に来ることになった。

 御園准将のあの痛々しい姿。きっと雅臣も、この小笠原で同じような症状に見舞われたのだろう。


「ですが、城戸中佐はもう、横須賀の空母連絡船に乗っても吐かないそうです。いまなら、小笠原の連絡船に乗っても吐かないと思うと言っておりました」


 ワゴンの茶器を整理して、秘書室へと向かおうとする。

 『片づけてきます』と御園准将に告げると、彼女が怖い顔で心優をじっと見据えていた。


「それ。雅臣が言ったの」

 ソニックでもない。城戸君でもない。彼女が、自分の男のように彼を呼んだ。それがここでの本当の呼び名? しかも雅臣から聞いたことをそのまま話しただけなのに、御園准将がここの部下達を一斉に制する時の冷徹な目、アンバーが凍った怖い目をしている。


「そ、そうですが」

「ふうん」

 また気のない返事。でも、准将は心優から目線を外してくれない。

「その、雅臣が『吐いた』という話は、極秘でお願いね」

 心優の胸の鼓動が、どっくりと息苦しく蠢く。『極秘!?』。そのひと言で、他の誰も知り得ないことを心優が知っていたと、いまここで心優は知ったのだから。


 心優を射ぬくように見ていた御園准将が、今度はなにかを誤魔化すかのように目線を逸らしてしまう。心優から顔を背け、重苦しく彼女が言う。


「あれほどのエースだった男が船で吐きまくって甲板に行くことができなくなった、海の男で空の男であることが生き甲斐だったエースのプライドをズタズタににしたのよ。そんなことが面白おかしく噂にされたくなかった。だからあの船に乗っていた者、指揮官チームしか知らないこと。全ての隊員に口止めしていたんだけれど……。横須賀では長沼さんだけが知っているはずなんだけれどね」


 心優は真っ青になる。雅臣が話してくれたから、秘書室の誰もが知っているものと思っていた。それでも心優も彼のプライドを傷つけた出来事だから、たとえ知っている人がいても口にはすまいと心がけてきたのに――。


 どうして今日に限って言ってしまったのだろう。ミセス准将が、彼が心酔する上官で、彼女こそ彼の心をよく知っているだろうからと、つい……心優は気を許してしまった……。

 知らなかった。小笠原のごくごく一部しか知り得ない『ソニックの成れの果て』。それを、雅臣は、心優に……、惜しげもなく告白してくれていたなんて!


「そう。雅臣が、貴女をそこまで信頼していただなんて――。でも、わかる気もする。だって、私も澤村も、貴女に惹かれて連れてきてしまったんだもの」

 御園准将はそう言うと、おもむろに心優が煎れたアイスティーを口に含んだ。

「私、また雅臣の気持ちを逆撫でしちゃったのかな……」

 准将ではない口調だった。逆撫でした。俺の気持ちを――。准将がパイロットの目の前で泣いたら、もう彼女のパイロットではない証拠。あの時のようだと言いたそう……。


「もしかして。ここに来る前に雅臣と、大喧嘩しちゃったりしていない?」

 さすがに心優はドッキリ、汗がどっと滲み出る。あからさまな言葉にしなかったが『恋人だった彼と喧嘩した』と遠回しに言われている!

「いえ、彼は上官です。そんな畏れ多い……」

 嘘をついた。そう言うしかない、雅臣のためにも。

 でもミセス准将は笑っている。

「そうなんだ。ふうん」

 意味ありげなその反応が、いまはとても恐ろしい。彼と恋仲だったと、きっと気がついた。


 だがミセス准将はそこを追求することはなかった。彼女が気になったのはもっと違うところ。

「あの雅臣が、小笠原の連絡船に乗ってももう吐かないだろうと言ったのね」

 心優はその顔を初めて見る。彼女が不敵な笑みを湛え、席を立った。

 これから心優がワゴンを片づけるために行くはずだった秘書室に、彼女の方が先にドアを開け消えてしまった。


『テッド、ちょっといい』

 ドア越しからそんな声が聞こえる。

 きっと……。心優が雅臣から直々に『エースの秘密』を教えてもらっていたことを報告するのだろう。


 心優の頬に、久しぶりの涙が伝う。

「臣さん、ごめんなさい。臣さん……」

 自分の過去を、きちんと心優には告げてくれていた。その気持ちに気がつかなくて……。


 『恋人』として、見てくれていた。でも、それを心優から壊した。


 

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