32.GO Launch 空へゆけ!

 キリキリと胸が痛むのに、小笠原の空は快晴で、今日も珊瑚礁の海がきらきらと青い光を散りばめている。


 真っ白な小型船が、波の上を跳ねながら、基地から離れて沖合に向かっていく。心優の目にはもう重厚に君臨する空母艦が見えていた。


 やっと……。臣さんの魂を見に行けるよ。

 なにも知らない力無い女の子。わたしはそんなんじゃない。頑張っているし、憧れの上司にも愛された。ちゃんと持っている。横須賀でのわたし。

 そんなちっぽけな自信が傲慢を生んで、彼を傷つけた。


「元気ないな。まさか、船酔いか」

「いえ。乗り物に酔ったことはありません。大丈夫です」

 船内はガラス張りの屋根と窓で、とても明るい。そして長椅子が窓際に設置してあり、心優はそこに御園大佐と並んで座っていた。


 今日の御園大佐は、紺色の訓練着を着ている。そして、心優も。

『カーキーが一般隊員、ネイビーは指揮官チーム。ホワイトは雷神のパイロットだ。園田は、ミセス准将の護衛官ということで指揮官チームに属する』

 そう言われ、紺色の訓練着を手渡される。本来なら、心優が到底着れるはずもないカラーの訓練着だった。


 まだ申し訳ない気持ちで、紺の訓練着に袖を通し、心優は大佐と共に海に出た。

「それならいいんだけれどな……」

 御園大佐も訝しそうだった。

「まあ、でも。そんなところ女の子らしいね」

 どういう意味だろうかと、穏やかな眼差しで見つめている大佐を見上げていた。


 今日の大佐は甲板に出る時はコンタクトだから――と、眼鏡をかけていない。剥き出しのホークアイが南の太陽にキラッとしているけれど、柔らかい。

 彼は心優を女の子として見ている時は、とても優しい。それに眼鏡を外すと、ちょっと目尻のしわが目立つけれど、余計に爽やかな素顔をみせつけてくれる。若い時は……やっぱり、格好良かったんだと思う? あのミセスも、彼のこんな目とか笑顔とかに癒されていたに違いない。


「女心なんてそんなもんだろう。七色で移り気だ。でも、七色は見ていて面白い」

 はあ、なんて大人の男の言葉なんだろう――と、心優は唖然としてしまう。

「七色ですかあ」

 あのじゃじゃ馬奥様のご主人だから、余計にそうなのだろうなあと心優は思う。この一ヶ月、ミセス准将の側にいたが、彼女は外に出ればそれは冷たそうな女性なのに、准将室という自分のテリトリーで信頼している仲間に囲まれている准将は確かに『じゃじゃ馬嬢様』だった。




 一度だけ『また准将が消えた』と秘書室がざわめいたことがあった。ラングラー中佐から聞かされていたが、お供もつけないで准将は『ふらっと一人で何処かに行ってしまう』ことがあるらしい。

 それが御園大佐が心優の寄宿舎に来た時に、奥様に叱りつけていた『秘書官をまいて行方不明になる』という『彼女の癖』。


 それでも、秘書室のラングラー中佐も、護衛官のハワード大尉も落ち着いていた。誰がどこへ確認に行き、誰がどこの誰に連絡をしてそこを訪問していないか確かめる――と、ラングラー中佐の指示が飛び交う。

 まるで、非常事態訓練のようにして、あっという間に秘書官一同が広い基地へと捜索に散らばっていく。


『二十分で見つけろ』

 ラングラー中佐の鋭い声の指令は本気で、秘書官達もこれで見つけられなかったら室長にどやされると恐れおののいて、それこそ、捜索ではなくて『ミセスを捕獲する』かのような勢いで出て行く。

 室長の指令通り。二十分ぐらいで、ミセス准将が秘書官数名に周りを囲まれて帰ってくる。


『もう~。なんなのよー。あそこの自販機のレモネードを買いに行っただけなのに』

『そのレモネードがお好きだから遠い自販機に行ってしまう。だから、このフロアの自販機をレモネードがあるメーカーの自販機に入れ替えたではありませんか。そこで買ってください』

 ラングラー中佐のお説教が始まると、あのミセス准将が子供のようにぷいっとそっぽを向くのも珍しい光景で、心優は目を丸くしていた。

『どうしていつも、いちばん遠くにある陸部訓練棟の自販機を狙っていくのですか。あそこ、自販機除けてしまいますよ』

『やってみなさいよ。訓練後の隊員からブーイングが出るから』

 その通りのようなので、ラングラー中佐が黙った。絶対になくならない、でも遠い自販機を狙うミセス准将にとって、その場所は絶好のポイントと言うところらしい。


『そんな遠いところを往復するだけでどれだけ時間がかかるかわかっているのですか。そういうことは、私達にお申し付けください。いつまでも、ここで自由気ままだったお嬢様ではないのですからね』

『はあ。買い損ねた! あと、百メートルのところでウィルと福留さんに見つけられた!』

 准将は悔しそうだったが、見つけられて悔しいと言うより、自分で買いに行きたかったレモネードが買えなくてがっかりという顔だった。

 黒髪に青い瞳のウィルが『そう思って買っておきました』と准将にレモネードの缶ジュースを手渡しても、准将のご機嫌は直らない。

 そこで秘書官達が『買った後、陸部のグラウンドに行って、外の風を感じながら飲みたかったことでしょう』と、さらに准将がサボタージュをしようとしていたことを見抜いて、からかって大笑いをする。


 お転婆なじゃじゃ馬ミセスは、そんな陽気な男達にきちんと管理されながら、でも彼女がこの秘書室と隊長室を司っている。

 そんなくるくると忙しいミセス准将の日常を目の当たりにしては、心優はただただ唖然として見ているしかできない。

 でも。そんな御園准将隊長室と秘書室の変わった日常を見慣れてきても、ラングラー中佐は心優に念を押す。『あの気まぐれな散歩についていける護衛官になって欲しい』――と。


 そんな突然いなくなるのに、無理。と思っている。




「あの、お聞きしてもよろしいですか」

 気まぐれお嬢様として過ごしてきた彼女の夫に聞いてみる。

「なに」

「奥様が気まぐれにどこかに消えちゃったりして、やっぱり御園大佐はそれを知ったら、あの時のように怒っていらっしゃるのですか」

「あ~。……うん、園田の世話になったあれは、周りにかけた迷惑が酷かったからね。子供でもそうだろう。これは絶対にやったら駄目だという時にこそ本気で叱るだろう。それと同じ。でも基地内で彼女がやっているのは、ある程度は大目に見ているよ。秘書官達もすごい鍛えられているだろう。それに彼女の散歩は、基地内の情報収集という意味もあるからそれは放っておいている。時々、すごい拾いものをしてきて、誰もが仰天するんだよ」

「拾いもの、ですか?」

 まるで動物みたい――と、心優は呆気にとられる。


「そう。悪い鼠をみつけたり、時には野ウサギやスズメバチを退治したついでに自分の秘書官をみつけたり、金の卵をみつけて拾ってきたりねえ。本当はもう立場的にやめて欲しいんだけれど、彼女の目には誰も敵わなくてね」

「目、ですか」

「俺達には見えないものが見えている。連隊長も彼女のサボタージュを見つけたら大目玉で怒る姿勢を取らねばならないと決めているけれど、そうでなければ、知らないところで彼女がなにを見つけてきてくれるのか期待しているところもあるようだね」

 じゃじゃ馬ミセスがやることは誰も真似もできず、そしてそれなりの功績を生むようだった。


「その散歩に黙って連れていってもらえるようになったら、ミセス専属護衛官として合格だ」

 はあ、ここでもそれを言われる。心優はため息をつきそうになって、大佐に気付かれまいとその息を抑え込む。

「大丈夫だって。脈有りだから、園田を引き抜いたんだから。きっと、テッドでもなく、俺でもなく、アドルフでもなく。『ミユ』ではないと許されないことがあるはずだ」

 そんなこと、いまは彼女の側に来たばかりで先が見えない。それでも御園大佐はなにかを確信したかのように言う。


「お姉さんと仲良かったんだ。可愛く育てられたようで、それまでは女の子らしい可愛いことが大好きだったようだよ。女同士もわりと好きなようだし、男社会で生きてきたから『憧れている』ところもあるんだと思う」

「わたしなんて、女らしく育ってこなくて、いつも道場で汗まみれだったのに」

「ほんとうに? 女らしくなりたいと思ったことはなかったのかな?」

 ないわけない。優先順序が低かっただけで、本当は可愛いこといっぱいしたかった。でもそれ以上に、『この特技で一番になりたい』気持ちが強かっただけ。


「心許せる姉妹になってほしいね」

「そんな、姉妹だなんて……」

「似てるよ。若い時の『葉月』に」

 夫の顔だった。いつもは怖いホークアイが、やっぱり妻を想う男の目に和らいでいる。

 そんな時の御園大佐の顔は、素敵だった。心優は思わず頬を染めてしまう。こんなふうに、夫に愛されるようになれたらいいのに……と。


「さて。少し復習をしておこう」

 教官の顔に戻った御園大佐が、持ってきていたタブレットの電源を入れると空母艦の見取り図を画面に映した。

「この連絡船は、ここに着艦する。この通路を通って、ここに。ここに戦闘機を甲板に運搬するエレベーターがある。まずはここから見学。ここにいる甲板要員のジャージの色は?」

「ブルーです」

「ブルージャージの、他の仕事は」

「航空機牽引、トラクター運転士、伝令・電鈴。航空機の移動担当です」

 『正解』と、彼が微笑む。


「そして、今回はこの階段を通って上階へ。ここでスクランブル発進に備えているパイロットの待機所がある。スクランブルの指令が出て、この階段を駆け上がると、すぐに甲板のキャットウォーク付近にでる。今日はここにホーネットが準備され、このカタパルトに装着される。そこの発進をこの位置で見学だ。甲板では自分の判断だけでうろうろしない。必ず俺の側にいること。いいな」

「はい」

 明るかった船内が急に薄暗く翳った。上を見上げると、もう空母艦の鉄壁がそびえている。その大きさに圧倒される。


 連絡船から着艦口へ。ついに心優は灰色の要塞に踏み入れる。

 波間に揺れる連絡船が離れていき、また基地へと折り返していく。


 心優はここに来た。でも、雅臣はまだ陸にいる。あの連絡船からここに踏み入れることができなくなって、彼は苦しんでいた。

 着艦口から、心優は小さくなっていく連絡船をしばらく見つめていた。身体はここにこれなくなって、でも魂は……。


「どうした。行くぞ」

 先に鉄階段を上がろうとしている御園大佐に呼ばれ、心優も後を追う。


 雅臣の魂が残っている、甲板へ行く。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 鉄階段を上がり、途中で予定通りに、戦闘機を乗せた大きなエレベーターを見学したあと、いよいよ甲板へと向かう。


 幾つもの通路を通る。静かな通りもあれば、整備員が行き交う賑やかな通りもある。


 階段をいくつか上がると、また潮の香がきつくなった。波の音も聞こえてくる。

「さあ、甲板だ」

 そこで御園大佐が、隊員に指示をして甲板に行かせた。そこから戻ってきた隊員が差し出したものを、心優は装着させられる。

 『はい、これを被る』と、御園大佐にヘルメットを被され、さらに大きなヘッドギアまでつけられる。

 御園大佐も同じようにヘルメットを被り、ヘッドギアをセットした。


《聞こえるか》

 ヘッドホンから御園大佐の声が!

《インカムのマイクを口元に近づけて》

 ヘッドホンについているマイクを曲げて、言われたとおりに口元に近づける。

《甲板に出ると、戦闘機の音で声が聞こえにくいのでこれで通信をする。俺と園田だけのチャンネルにセットしてある》

《了解です》

《俺の後ろから離れないように》

 こっくり頷き、心優は御園大佐の後ろをついていく。側にいる隊員がみな、御園大佐に敬礼をして見送る。


 通路を出ると目の前は海。艦内よりもずっと華奢な鉄階段がある。波しぶきがすぐそこまで迫ってきて、濡れるのではないかと心優はそれだけでドキドキしてしまった。しかも階段の下、海が透けて見える。


 その階段を御園大佐は慣れたように軽やかな足取りで上がっていく。

 階段を上がりきり、そこに開けた世界に心優は圧倒される。

 階段を上がったそこは甲板の端キャットウォークだったが、心優の目の前にはもう戦闘機が待ちかまえていた。


 灰色のスーパーホーネット! すでに真っ赤に噴射口を燃やしていて、陽炎が揺らめいている。

 ヘッドギアをしていても、耳に迫ってくる高音のエンジン音! それが唸りを上げながら、翼のフラップをバタバタさせている。


《ちょうど発進前だ。姿勢を低くして》

 彼が跪いて頭を低くする。心優も同じように……、いやもう身体にぶつかってくる気流がそうさせてしまう!

 それでも心優はなんとか頭を上げて、戦闘機の周辺をみつめる。


 ――わかるよ! 大佐に教えてもらった通りにわかる!


 黄色ジャージの『航空機誘導士官』が、コックピットに『もうすぐ発進する』タイミングを知らせるコマンドサインを送っている。

 緑ジャージの『射出・着艦装置員』が、カタパルトシャトルに戦闘機の前輪車軸と結合を済ませ、そのコマンドサインを各所に示して作業の確認をしている。


《わかるか。コマンドサインでカタパルトセットの作業がきちんと終えているか示して、それをひとつひとつ確認している》

《わかります! 教わったとおりです!》

《よし、コックピットが見えるところまで行こう》

 御園大佐が戦闘機の噴射気流が強い中、コックピットへ向かってキャットウォークに沿って甲板の端を前進する。


 コックピットが見えるところで、御園大佐がまた跪いて止まる。手招きをされた隣に、心優も並んだ。

《いくぞ》

 コックピットにいるパイロットが黄色ジャージの『カタパルト・シューター』に、敬礼をする。

 カーキーの飛行服姿、そしてヘッドマウントディスプレイを装着したヘルメットをしているパイロットが、側に御園大佐がいることに気がついていたのか、こちらに向けても敬礼をしてくれた。

《気をつけて行ってこいよ》

 御園大佐が敬礼をして、グッジョブサインで返答する。

 さらにパイロットは心優にまで……! 驚いて、心優も慌てて敬礼を返した。


 黄ジャージの『航空機誘導士官』が跪き、まっすぐに腕を伸ばし海へと指さす。『GO Launch!』、行け、発射の合図。と同時に、カタパルトシャトルに結合されている車輪がガタンと動いたかと思うと、あっという間に甲板を走り出していく――。

《わっ》

 カタパルトのスチームが湧き上がる。甲高いエンジン音から、噴射口の爆発音。真っ赤に燃やして戦闘機が機首をあげ轟音を轟かせ空へと飛び立つ。

 ビリビリとする空気、音、そして、海と空に連れて行かれそうな気流!


《すごい!》

《すごいだろう。一瞬だ》


 心優は震えていた。そして額に汗を感じている。ここは別世界だ。剥き出しの新幹線レールの側にいるのと一緒。しかもレールに乗っていた乗り物は、そこから力強く空へと飛び立っていく。ここにいる誰もが、蒸気が渦巻く気流から空へと連れて行かれる錯覚を起こす。


 飛んでいったスーパーホーネットが空母の上で旋回している。太陽の光を受けた尖端が輝いている。


 ――臣さん。

 光を反射するコックピットにその人の輝くシャーマナイトを見た気がした。


 

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