28.酷いのは、わたし

 迎えに来てくれた御園大佐と黒塗りの車に乗る。

 車も大きくゆったりしている高級車。後部座席に御園大佐と心優が、運転は黒スーツの『エド』だった。


 横須賀基地から車が発進する。

「うちの自家用ジェットがあるからそれで、小笠原まで行こうと思う」

 自家用ジェット!? 奥様が資産家のお嬢様だとは知っていたが、まさかのそんなセレブ的なご実家だとまでは、心優の想像に及ばなかった。

 そんな驚いている心優を見て、眼鏡の大佐が穏やかに笑う。

「ああ、妻の実家のもので、俺のものじゃないからね。俺が婿養子だとは知っているよね」

「はい、長沼准将からお聞きしております」

「旧姓は澤村。小笠原では妻の葉月と一緒だと『どっちの御園か階級がついていてもわからなくなる』ということで、その場によって『澤村』と呼び分ける者も多いからよろしく」

 かしこまりました――と心優は頷く。


「さて。飛行場へ向かうまでに、少し話しておきたいことがある」

 急に眼鏡の奥の目が冷たくなったと、心優は感じた。あの青みがかったホークアイになったから、心優も気を引き締める。

 高速道路のインターチェンジを通過し、高速を走り出したころ。

 御園大佐が持っていたアタッシュケースから、幾分かの資料を出して、心優に膝の上にひろげるようにと指示をした。


 渡された資料はふたつだった。

「まずひとつめ。こちらの資料を開いてくれ」

 高速を走行する音もあまり聞こえない車内だったが、バックミラーに映っているエドはちらりとも見ないし、こちらの会話に意識もしない。ひたすら前を見て運転をしている。

 静かな走行音の中、心優は指示されたひとつめの資料を開く。


「二月までほぼ半年。空母に乗るまでにこのカリキュラムで行ってもらう。午前と午後二時までは、俺のところに来てもらい講義を。午後二時以降は、護衛部の訓練や御園准将の秘書室で仕事をしてもらう」


 二月までに学ばなくてはならないものが、ぎっしりと記載されている。目を見張るハードスケジュールだった。

 目で追うのも大変なのに、まだ追いつかない二月の最終予定を御園大佐が指さした。


「最終目標はここだ」

 その最終目標に記されていることを確かめた心優は、驚きのあまり御園大佐に『ムリです』と口を開きかけた。でも、初めてあのホークアイに鋭く威嚇された。


「無理だという顔をしているな。これから『誰よりも』御園葉月の側にいる人間になるんだ。その為には、ある程度の権限を持っていてもらわねば困る」

「勿論、転属したからには、この予定通りの努力を致します。ですが、いまのわたしの立場からこれは……」

「出来るんだよ。俺と一緒にやっていけば出来るんだよ。半年で。でもだからって、ただ講義を聴いただけでは無理だ。だから、そこは努力で勝ち得て欲しい」


 無理と言うより『無茶』と言った方がいいと、心優は思い直す。しかし軍人一家である一族の長になる人がいうと、どう見ても無茶でも『この人は本当にやってしまうのだ』と思えてきてしまう。


 でも、だからって――。それって職権乱用? 御園の力で強引に推し進めようとしている気がした。

 それでも御園大佐は、真っ青になっている心優を見て、おかしそうに笑っている。


「わかっているよ。無茶だって。けど、どうかな。俺も確証のない計画は立てないよ。それに……『彼』もそれを望んでいたようだし……」

 『彼』? そのひと言に心優はぴくりと反応してしまう。そこで御園大佐が、もうひとつの資料を開くようにと心優に指示をする。


「先に見せたのが、俺が君を迎えに行く前に組み立てた講義の予定。こちら、いま開いたのは『城戸君』が、先ほど、警備口で待っていた俺にわざわざ持ってきてくれたものだ」

 臣さんが――?

 その一言で、心優は御園大佐が雅臣から預かったという資料を、さらに手元に引き寄せ覗いた。


 順を追って眺めていると、最後に記されていることが、『御園大佐の計画』と一緒だった。

 最後に雅臣が、心優に期待していたもの。そして御園大佐が求めるもの。


「空母に乗る前に、少尉に昇格してもらう」


 スケジュールの期間こそ御園大佐の無茶とは異なるが、雅臣と塚田少佐が、初めて選んだ女性事務官を最後は護衛官として『少尉』にまで育てようとしていた計画が記されていた。


 だが御園大佐は座席にゆったりと身を沈めながらも、足を組んで残念そうに溜め息をついている。

「ただ。俺からみると、なんとも『のんびり』とした計画だね。三年も時間をかけようだなんて。三年の間に誰になにが起こるともわからない仕事なのに。しかし、それは『大事に育てようと、真剣に考えていた』とも思える」

 心優の胸が熱くかき乱される。涙が滲みそうになるが、この甘くない大佐の横では泣けないと堪える。


 城戸中佐にしてみれば、心優などたまたま気になった力無い事務官でしかないと思っていた。実際に雅臣は『力無い心優が御園に振りまわされないように』と口にして、心優はそれにも激怒していた。


 ――酷いのは、わたしだった。

 力無いに決まっているのに。それから守ってくれようとしていたのに。真剣に、無理しないよう、じっくりと育て上げようとしてくれていたのに。


「正直いうと、園田さんも、これまでは軍人として随分とのんびりした隊員生活を送っていたもんだね」

 もうなにも答える気力がなかった。己の至らなさが今になって判りすぎて、辛すぎる。そして、雅臣になんてことを言い残して突き返して、別れてきてしまったことかという後悔が押し寄せてきている。


「自覚……、しております。軍に残るための試験はしてきました。ですが、懸命になったのはその時だけでした」

「だよね。最初の試験は、空手をするためにとりあえずした――と、採用後の城戸君との対面で告げているね。選手に戻れるわけでもない、一般企業に就職したとしても選手として雇われるわけでもない。だから軍隊でトレーニングがなんとなく出来るから、得意なことで食べていける居場所として確保していただけ――というところかな。城戸君のところに来て、その後すぐだね。二等海曹に昇進させてもらっている。はっきりいって、園田さんの経歴だともったいないほどの階級だね。新人入隊の後輩に事務を教える、空手の練習相手になるぐらいのことしかしてこなかっただろう? 随分と期待されての昇進だったね」


「……おっしゃるとおりです、期待しているからとの気持ちで頂いたものでした」

 そこで、御園大佐にはっきりと言われる。

「言われるまま人生ってわけか。城戸君の『可愛いお人形』だったんだねえ」

 息が出来なくなるほどの衝撃に、心優は打ちのめされる。


 本当ならば、これは上官であった雅臣から言われるべき言葉だったかもしれない。でも、彼は、秘書室の誰もが心優を大事にしてくれていたからこの『姿』であっても、『今は言うまい。いずれ彼女は育つ』と寛大に見守ってくれていただけ。


 長沼准将に至っては、雅臣に任せているからなにも言わないだけ。返せばそれはなにも気にならない隊員だっただけのこと。


 そこで大佐にもう一度、心優は問われる。

「覚悟はできたかな」

 試すような嫌な笑み、でも、あのホークアイが心優を捉えている。


 良く判った、痛いほどに。心優は唇を噛みしめる。

「俺から来てくれと頭を下げたくせに『こんな厳しい目に遭うとは思わなかった』と思っているのかな? 今なら、エドに言えば、すぐにUターンしてもらえる。大事にしてくれる秘書室に帰れるよ」


 泣きたいのに。涙が出てこない。痛いのに、その痛みを和らげてくれる手がどこにあるか知っているのに。心優はそれを良しとしなかった。


 雅臣に抱きしめてもらって、甘く泣いているだけの日になんか、帰りたくない。あの人の胸にまた優しく抱かれても、こんなにもなにもない自分だったから不安になっていたくせに。


 あの痛みは雅臣のせいではない。なにもない甘いお人形ちゃんが、なにもできないくせに、あっちを見ないで魅力のないわたしでも見て――と駄々をこねていた人形だったせい。


 ふと気がつくと、ただ真っ直ぐ前を見据えていた黒スーツの『エド』と、バックミラーで目が合ってしまい、心優はどきりとした。

 心優を試すようにじっと見つめている。その目線にぞっとした。

 あの男は傭兵としても重宝されているという長沼准将の言葉を思い出す。

 彼にとって『御園は主』、葉月お嬢様も、その夫である御園大佐も、ご主人様。

 お守りするお二人のそばに来る女が、どんな小娘か試している傭兵の鋭い目。

 この女、本気でお嬢様を護る気があるのか。丁寧に腰を低くしてくれていても、彼等の本心はそこにあると感じさせられる目つき。


「半年だ。まずは今回の引き抜きで、一等海曹に昇進させてやる。特待生並の昇進はこれが最後だ。最後の少尉は自分で勝ち取れ」


 また昇進。心優は驚きで固まる。でも今度こそ最後の『特別扱い』。ここで階級相応の資格を手に入れないと、護衛官としても後がない。御園准将以上の護衛など成れっこないという意味。


 ――『司令官の護衛だってできる』。

 父の言葉が蘇る。園田教官の見る目を曇らせてはいけない。行かせてくれたのだから、それを証明したい。

 御園大佐が今までのように、恐ろしい笑みさえ消して、険しい面相になる。


「いい眼だ。今から俺の教え子だ。いいな、園田」

 御園大佐配下の部下になった瞬間だと思った。

「はい、大佐。よろしくお願いいたします。覚悟はできております。その目標を遂げてみせます」


 是非に来て欲しいと、にこにこ丁寧に接してくれた交渉人ではなくなった。そして心優は、彼に望まれて転属を承知したが、ミセス准将の護衛官になって守りたいと願ったのは自分。決めたのは自分。もう、言われるままの人形ではない。


 きっと。いままで心優が出会ってきたどの上官よりも手厳しく、そして、これから心優にとって辛い鍛練の日々がやってくる。


 でも。心優は顔を上げ、窓の外に見える青い空を見上げる。

 あの人に酷いことを投げつけて飛び出してきたのだから。自分だけ生易しい道を行こうだなんて図々しすぎる。

 あの人を置いてまで行こうとしているのだから、御園准将の護衛官になると決めたのだから。その為に必要だと思ったのなら、やるのみ。


 そうだ。あの日が戻ってきたんだ。どんなに頑張っても『世界』が手に届かない辛い日々だったけれど、あれこそ心優にとっての『生きている』だった。


 きっと見つけたんだ。あの日のように、なによりもやってやるというものを。


 民間の空港までは少し距離があり、途中、サービスエリアで休憩を取る。


「隼人様、なにかお飲物は」

「ああ、そうだな。俺はいつものカフェオレ系で。エドもひと息つけよ。園田はなにが飲みたい」

「お水を――」

 水? 御園大佐は不思議そうだった。

「なにかが入っていると喉が渇きやすいので、選手時代から、そうしてきました」

「ああ。そうなんだ。……そっか」

 妙に感心した顔をされた。


「今更だけれど、怪我は辛かっただろうね。園田の選手団時代の試合、全て観させてもらったよ。もの凄いファイターだった。……それを観て、余計に妻の側に欲しいと思ってね。俺の気持ちも止まらなかった」

「そうでしたか。観てくださったんですね。……今日からは、あの時の気持ちを忘れずに、また胸に置いて前を向こうと思わせて頂きました」

 やっと御園大佐が、にっこりと穏やかな笑みを見せてくれた。笑うととても爽やかな人。


 そのエドが初めて、心優へと謙って頭を下げてくれる。

「好みのお水がありましたら、教えてくださいませ。これからお嬢様のお側にいる時にはご用意させて頂きます」

 その対応にも呆気にとられていると、隣の御園大佐が笑う。

「慣れたほうがいいよ。妻の実家はそういう家だし、これから君はエドには何度も会うだろう。彼女の実家で仕えている者は、そのうちに徐々に紹介していく。それに……」

 御園大佐がそっと心優に小声で囁く。『彼がやる気を認めてくれたんだよ』と、そっと耳打ちをしてくれた。

 それならと、心優はエドに好きなミネラルウォーターの銘柄をいくつか伝えた。

 彼が運転席を降りて、黒いジャケットの裾をひるがえし、颯爽と売店へと向かっていった。

 彼もカップ珈琲でひといきついてから、運転席に戻ってくる。

 再度、車が高速を走り出す。そうすると、御園大佐はなにも話さなくなってしまう。

「はあ、では。俺は少し休ませてもらうよ」

 カフェオレを半分まで飲み終えたところで、御園大佐は眼鏡を外して目をつむってしまった。いつも余裕の笑顔の人だと思っていたけれど、仮眠を取る横顔は疲れて見えた。


 静かになった車内。飛行場に着くまで心優は、雅臣が手渡したという園田教育課程を資料を、隈無く確かめる。


 それには心優が面接した日に起きたこと、採用された理由、そしてその時の秘書室で話し合われた最終選考のメンバーの意見。そして、採用された時の再度の面談で心優が答えたこと。そして試験の日程、護衛部の訓練を始めた日。護衛部の部長から聞いた様子が細やかに記されている。城戸中佐のサインもあれば、塚田少佐のサインも――。


 あの二人が丁寧に、どれだけ丁寧に心優に手塩にかけて見守ってきてくれたのか、導いてきてくれたのか、それが記されている。


 やはり泣かずにはいられなかった。今になって、彼等への感謝を噛みしめるだなんて愚かすぎる。もしかして、御園大佐が眠ってしまったのはそのせい?

 運転席にいる彼も、まるで空気のよう。まったく気にならない空気をつくり出している。

 だから、ついに。

 静かに、密かに、でも心優はそっと涙を流していた。



 

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