27.許さない、忘れない、言われたことは。

 横須賀から離島へ。その日が来た。


 それまで移転の手続きに心優は追われた。その間に一度だけ、小笠原にいる御園大佐と話せる機会があった。


 長沼准将を通じての電話だったが、その時に心優は『家族とどのような話し合いになったか』も報告をした。

 するとあの御園大佐が絶句していた。

『そうか。園田教官がそのような覚悟で――』

 父親が娘をどのような気持ちで小笠原に見送るか。それは同じく娘を持っている御園大佐の胸にも痛く響いたらしい。


『僕からもお父さんに連絡をしておこう。安心して預けてくれるようにね。話してくれてありがとう。では、その心積もりなら一日も早くこちらで受け入れたい――』

 父と娘の決意を知った御園大佐もかなりの本気になったようだった。『君を絶対に育て上げるよ』。どこか戸惑いながら移転の支度をしていた心優だったが、大佐のその声に腹をくくった。




 一年半使った寄宿舎の部屋も空っぽになった。心優の荷物は、大きなトランクひとつだけ。寄宿舎生活はことたりるものだけで充分。

 そのトランクを引きずって、心優は最後の秘書室に向かった。


 秘書室のドアを開けると、お世話になった先輩達が笑顔で出迎えてくれた。

「園田。待っていたよ」

 冷たい眼鏡顔だった塚田少佐が、とても優しい微笑みで迎えてくれたのが余計に哀しみを誘った。でも、心優は今日は笑顔を務める。

「頑張って、行ってこいよ」

「辛くなったら、すぐに帰ってきてもいいんだぞ」

 兄さんに親父さん達が次々と、ほっとする言葉をかけてくれる。

 大きなピンク色の花束も頂いてしまった。可愛いリボンがかけてあって……。そこで心優はここでは本当に女性として接してもらっていた有り難さがいまになって心に沁みた。


 でも。その部屋に雅臣がいない。室長のデスクを哀しそうに見つめていると、塚田少佐が申し訳なさそうにうつむいた。

「たぶん。もの凄く辛いんだよ」

 塚田少佐がそういうと、どうしたことかお兄さんと親父さんが散っていった。それで心優は悟った。本当はこの室内の誰もが、もう雅臣と心優の関係を薄々勘づいていたんだと。


 デスクに座った親父さんが舌打ちをしている。

「まったく仕事は出来るし、エース時代からいい男っぷりなのに、女のことになるとてんで駄目。何度目だ」

 ――何度目のところで、隣の席にいる兄さんが『それは言っちゃダメでしょ』と親父さんを窘めた。

「今度こそ、うまく行くと思っていたんだけれどなあ。なあ、塚田君」

 兄さん達も見て見ぬふりをしてくれていたようだった。

「御園大佐が直々に迎えに来るんだってな。中佐も警備口にいると思う……」

 塚田少佐がそう言いながら、心優に花束をさらに押し付けた。『早く行け』の合図。

「お世話になりました。この秘書室に来なければ、わたしはいずれ空手も辞めていたと思います」

 塚田少佐のいつかの言葉を心優は思い出す。『それさえあれば、生き返ると思った』。これから行く道は、父が反対するほどに危険なものなのかもしれない。でも、心優は確かに、道場で身体を酷使してまで上りつめようとしていたあの息が詰まるほど邁進していた日々の充実感を蘇らせている。


 しかしそれは、もう雅臣の側では保てないものだった。哀しいけれど、過去に縛られた男に甘んじていたら、自分もきっと流されていつか本当の意味で雅臣とは壊れていたと思う。


 そのまえに、少しの欠片でもいいから、甘く思い返せるうちに終わりにしたい。これまでの二ヶ月が無駄ではなかったとまだ思っていたいから。だから心優だけでも先に行く……。


 その後に臣さんがどうなるかだなんて、わからない。わからないけれど、心優は臣さんを捉えているものをこの目で確かめたい。

 そこに雅臣が心酔した『栗毛のあの人』がいる。その人の隣に、わたしが先に立つ。そして雅臣が心優を通り越して見据えていた魅力を、この目で確かめる。いまの心優が先に進むのは、まずそこから……。


「行ってこい、園田」

 塚田少佐に背を押され、心優は再度先輩達に挨拶をして秘書室を出た。


 臣さんが、待っている? 本当かな。あれから、まったく話していない。もう雅臣の日常から切られたと思っていたし、雅臣も手放す覚悟をしてくれたのだと思っているから。


 会ったら、なにを話したらいい?

 ピンクの大きな花束と、大きなトランクを引きずって……。やはり心優の足は警備口に急いでいた。最後に、一目でもいい。会いたい。


「園田さん」

 訓練の帰りに良く歩いていた長い廊下。人気のない廊下で、また声をかけられていた。


 そしてその声に心優は硬直する。ふりかえると、業務隊の井上少佐がいた。


「久しぶり。小笠原に転属するって聞いて、とっても驚いてね」

 いつものにやついた顔でそこに立っている。でも今日の彼はどこか野心めいた目で、ゆっくりと心優に近づいてきた。


「どうやって御園准将と御園大佐に取り入った?」

 基地中がその話題になっていると井上少佐が付け加えた。

「しかも御園大佐直々に引き抜きに来たとか。空手ひとつで横須賀に来ただけでもボサ子ちゃんの奇跡だっただろうに。今度は、御園一族に気に入られたその訳を知りたい」

 いつもの井上少佐とは違う気がした。どこか気迫を秘めた目が険しい。

「特に、訳などありませんけれど」

「また空手ひとつで、採用されたのか」

「だと思います」

 しかしその返答では納得していない顔で、井上少佐が近づいてくる。いつか心優の黒髪にキスをした時のように、遠慮なく近づいて密接的に迫ってくる。


 彼が心優の直ぐ目の前に、胸を押し付けるかのようにして立ちはだかり、真上から見下ろしている。


「心優ちゃん。俺、ほんとうにあんたに興味が湧いたんだ。俺と好い関係になってくれないか」

 本当に好い関係になりたいのなら、もっと女が喜ぶ甘い言葉を吐くはずなのに。今日の少佐は男の目ではない。野心を滾らせた軍人の目をしている。それはそれで、この男が本気で上を目指そうとしているのだと、そう言う意味では素晴らしいとは思える。しかし、それでも心優の返答は決まっている。


「小笠原に行ってしまう女ですよ。そう滅多にお会いできないでしょう」

「会いに行くよ。直行便もあるし……」

 荷物で両腕がふさがっているのをいいことに、心優の耳元に唇を近づけてきて熱い息で囁く。『その時は、うんと可愛がってあげるよ』と――。その手がついに心優の頬に……。


「どうせ、城戸中佐と駄目になったんだろう。官舎に出入りしていること、奥様方のお茶会でいちばん盛り上がる話題だったみたいだな」

 奥様方の噂にされていることは覚悟していた。どうしてもそこで生活をしている人々の目は避けられなかったから。ただ目につかないよう目障りにならないよう努力はしてきたつもり。


「彼と駄目になる女はみんな可哀想でねえ。みーんな、俺が慰めてやったんだ」

 初めて、心優はこの男を汚らわしいとゾワゾワっと鳥肌を立てた。雅臣と駄目になった女の弱っている心に付け込んで、まるで残った餌のおこぼれをもらいにやってくる野獣のよう。


「塚田もこれは言えなかっただろう。塚田の奥さんは、元は城戸中佐の女だったと――。あいつだって、おこぼれもらっていたんだぜ」

 それには心優も驚いて、うっかり井上少佐を見上げてしまう。彼と目が合うと、頬に触れていた少佐の手が心優の顎を掴みあげていた。


「彼女も言っていたよ。女心がまったくわからない、男臭いばかりで猿のよう、小笠原の想い出から抜け出せない戦闘機バカで、ミセス准将が一番の女性。私のことを見てくれないってね。城戸さんのこと。なーんでも話してくれたよ。ものすごく泣いていて、可哀想だったなあ。俺はとても気に入っていたんだけれど、彼女は平凡な幸せが早く欲しかったみたいで、どうしたことか塚田のところに行ってしまったんだよ」


 『中佐をふった彼女に聞いてみたんだ。……その彼女が中佐のことを猿みたいだったと』。塚田少佐のあの話。あれは、奥様から聞いた話だったんだと、心優はさらに驚愕する。


 そして塚田少佐が井上少佐に怒りを燃やしていたのは……。奥様が自分のところに来る前に、この男に弄ばれたから!


「そんな空ばっかり見ていて過去に囚われている男なんて忘れて。俺がうんと可愛がってやる。御園で困ったことも、俺が助けてやるから」

 違う。この男は、御園で困ったことがあったら心優を助けてくれるのではなくて、『御園のことを逐一、俺に教えてくれ』、それが目的。

 男と別れたばかりの女の哀しみに付け込んで、臣さんのおこぼれをぜーんぶ食い散らかすハイエナ!


 なにが哀しんでいて可哀想だから、可愛がってやるだ! 心優の手から花束が落ち、そしてトランクも手放した。


 拳をぎゅっと握りしめ、半歩下がって小さく構える。こんな男、まっすぐ一発、目の前の鳩尾みぞおち! それで充分!

「痛ってぇ!」

 心優はハッとする。まだ拳を発射させていないのに、目の前の男が痛みで悶えている。

「彼女に触るな」

 心優の頭上に、光るシャーマナイトの黒い眼。その鋭い眼差しが、井上少佐を睨み、彼の腕を高々とひねりあげていた。


「御園の一員になるんだ。その覚悟で手を出しているんだろうな」

「くっ、城戸中佐」

「そうだ。猿だ。よく知っているだろう」

 臣さん! 心優は唖然としたまま、少佐を心優から突き放した中佐殿を見上げた。


「少佐。いつまでも園田をなにも知らないお嬢ちゃん扱いしていると、やり返されるぞ。見ろ。俺が来なければ、ミセス准将がお気に召した拳が鳩尾に入るところだったぞ。塚田以上の腕前がある黒帯、ずいぶんと余裕カマして近づいていたんだな~」


 心優も我に返る。少佐に鉄拳を打ち付けようとした構えのままだった。そして井上少佐もこの時になって初めて、黒帯ちゃんが本気で自分に鉄拳を下そうと戦闘態勢を整えていた事に驚いたようだった。


「もうミセス准将の部下だ。彼女は自分に近づく怪しい者は、御園の敵として遠慮なく力を発揮し、御園に近づく不審者にもその鉄拳を使うことを許される隊員になったことを忘れるな」

 突き放された井上少佐の顔が悔しさで歪む――。

「本当ならば、業務隊長に報告するところ。御園が引き抜いた隊員に手を出したと知れば、業務隊長も真っ青になるだろうなあ」

 どんなに中佐殿のおこぼれを食い漁っても、こちらの男の方が格が上。猿社会だったならば、絶対に逆らえないはず。


「行け。今日は見逃してやる」

 威嚇する気迫を漲らせている猿に睨まれ、小賢しいハイエナが走り去っていった。

 何日ぶりか。それしか経っていないのに、もう何週間も会っていないかのような気持ちで、心優と雅臣は向き合っていた。


「小笠原にもあんな男はたくさんいる。気をつけろよ」

「はい。ありがとうございます」

「本当に辛かったら、俺を頼ってくれ。戻ってきてもい……」

 そこで雅臣が言葉を濁し、黙り込んでしまった。

 その間が長いので、心優は彼を見上げてしまう。哀しそうな眼差しで、でも、今日は透き通ったあの綺麗な目が心優をみつめている。


「いや。心優はきっと、素晴らしい護衛官になるだろう。俺を置いて行ってしまう強さがあるのだから」

「最後に生意気を申し上げたままだったこと、心苦しく思っておりました。本当に申し訳ありませんでした。お許しください……」

 心優として、大好きだった臣さんに投げつけた惨い言葉は、彼の傷をえぐったことだろう。それだけが心優には心残りだった。


 また雅臣が黙っている。今度の眼差しは、険しく、でも熱く揺れて心優を見ている。

「許さない。忘れない、心優に言われたことは」

 その一言に、心優の胸がズキンと痛む。やはり彼を深く傷つけたのだと……。もう取り返しがつかない。


「御園大佐が直々に、警備口まで迎えに来ている。じゃあな、元気で」

 なのに最後に、彼が心優を真っ正面から抱きしめていた。

 ぎゅっと抱きしめてくれて、そして黒髪もよく知っている大きな手が何度も撫でてくれている。

「臣さん……」

 二ヶ月の甘い想い出が一気に蘇る。彼の汗の匂いも、甘く狂おしい胸の痛みも。全部!


「心優。小笠原はこことは違う。本当に気をつけてな」

 そこで、彼から強く心優を胸から突き返した。とんと、突き放すように……。

 まだなにかを言いたそうにして、でも、唇を噛みしめ、ついに彼は背を向けてしまう。


 静かに、中佐殿が遠のいていく――。

 熱い涙でかすんで、もう、心優には彼が見えなくなっていた。


 


 ピンクの花束を片手に、トランクひとつ。

 警備口に行くと、その人が待っていた。

 黒塗りの車に、黒いスーツ姿の『エド』を従え。大佐の肩章を携えている眼鏡のおじ様が、制服姿で立っている。


「いらっしゃい。園田さん。待っていたよ」

 御園大佐が、悠然とした笑みで心優を迎え入れてくれた。

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