25.私、行きます。

 柔らかいベッドから起きあがると、雅臣はもうスラックスのベルトを外して戦闘態勢に入っていた。

 でも、今日のお猿は『楽しそうなお猿』ではなくて、『凶暴そうなお猿』の目をしていて、心優は硬直した。

 その通りに、彼は妙な気迫を漲らせて、ベッドに足をかけあがってくる。お猿の住処に無理矢理連れ込まれた猫が、いまから有無も言わさず襲われる寸前。それほどの空気を雅臣が造り上げている。

「どうしてこんなことになった。まったくわからない」

 怒りを秘めている眼差しで、雅臣が心優に覆い被さった。

「お、臣さん――」

 彼にすぐに唇をふさがれた。そして心優も……。求められているのなら、拒まない。むしろ、彼がまだ自分を惜しく思って怒ってくれていることを嬉しく感じることができて、自分からも抱きついて迎え入れてしまう。


 彼がジャケットのボタンを外しているから。心優も自分から脱ごうとする。

 雅臣は心優の夏シャツのボタンを外し、胸元を開く。そこで雅臣の手が止まる。

「今日もまた……」

「護衛部の訓練が夕方だったから。シャワーを浴びて着替えたの……」

 雅臣が開いた心優の胸は、愛らしいベビーピンクのランジェリーに包まれていた。でもレエスは黒色という、どこか小悪魔ぽいランジェリー。


 この前の休日にも、もう少し大人っぽいランジェリーを身につけてきて、雅臣を驚かせた。


 これは完全に、ミセス准将からの影響だった。勝負下着なんて、自分にはもったいない。厚かましいと思っていたのに。自分と同じような女性感覚で青春を過ごしてきた女性が、いまはあんなに素敵な大人の女性。やっぱり、少しずつでも、好きな男性が出来たら努力しないとだめだと思い知らされた……。


 いや、違う。彼女のような女性になって、雅臣に認められたいという安易なものだと薄々気がつきながらも、心優は女らしくなってみたいという強い願望に見まわれ抗えなかった。


「言っただろう。心優のままでいいのに。どうした急に。仕事でも、俺と一緒にいても……」

 最近の心優はおかしい。雅臣の目の色がいつもと違う。

 室長でもないお猿さんでもない。心優が見たことない男の目をしている。



 臣さんも、おかしいよ。

 いつもの空気じゃないことは、心優もわかっている。

「心優。身に覚えはないのか」

 急に、中佐のような声で問われ、心優は我に返ってしまう。

 こんな時に、そんな質問?

「ないです」

 嘘だけれど。そう言うしかない。

「本当だな。嘘じゃないな」

 いつもと違う顔、声、目つき。これから睦み合ういつもの二人ではない。今日は違う空気。


「本当に、身に覚えがないんだな」

「ないよ……ないってば」

「じゃあ、どうして心優なんだ」

「どうしてって」

「心優である理由がわからない」

 本当ならば、こんな二人だけの素敵な時間に、そんな仕事のこと、挟まないでほしい。その話は、愛しあった後にじっくりして欲しい。そう思っていたのは心優だけなのか。


 夕闇の中、心優のカラダの上から高く見下ろしている雅臣の目が、今度こそ、シャーマナイトの目で……。でも燃えている。


「あの人は、俺から心優までも奪うのか。奪うなら、俺じゃなくて、どうして心優なんだ」


 え……。心優のなにもかもが、凍った気がした。急激に。いままで見てきた綺麗な花の色だった世界が、一気に灰色になった気もした。


 俺じゃなくて、どうして心優? 『あの人』と言った。二人きりの時間にさえも、『あの人』のことを悶々と考えて、雅臣は心優を愛そうとしている。


 それでも雅臣は心優を奪う準備を淡々と整え、襲いかかってきた。今度こそ狂暴な猿になって、心優の足を開いて、強引に覆い被さろうとする。

「い、いやっ。やめて。そんな臣さんイヤ!」

「心優は、俺のところにいればいい。そうだろう、心優」

 力が強い男が、手荒く心優を素肌にしようとする。

「い、いや……。いや、いや……、離して、臣さん……」

 泣きながら心優は腕をつっぱねて、こんな気持ちの噛み合わない睦み合いを阻止しようとする。


 力いっぱい心優を奪おうとしても、いまもいままでも、その目に見ているものはなに?

 泣いている心優に、その世界はきっとあれだと映る。覆いかぶって心優の肌をまさぐる男の肩越しに見える『空の男』。壁にある空にいた時の彼。


 いま彼は、心優のカラダをコックピットにして、過酷な空の気流の中にいた激しさを思い出すようにして体験している。そして彼の向こうに見えるのは『栗毛のあの人』。


 はやく帰ってきなさい。冷たい声の、あの人と通信している。

 それが彼の本心。この人が行きたいのは、あの人のところ。この人が、愛しているのはあの人の隣にいること。恋じゃない、愛じゃない。この人が欲しい『人生』は、そこにある。


 俺の心優。その熱い手が肌を愛でても、もう虚偽にしか思えない。


「やめて、どいて、離して!」


 大好きな彼を、恋しい室長を、心優は初めて拒否をする。

 雅臣も我に返った顔になって、さっと心優の身体から離れた。


 今日は心優からそっと、彼の胸の下から抜ける。

 いま脱がされた服を探して、かき集めた。

 雅臣が見てもくれなかったピンクのショーツをはいて、スラックスをはいた。そこで雅臣がやっと心優の様子に気がつく。

「心優、帰るのか」

 心優は黙って、ピンクのブラジャーを探す。雅臣がどこに放ったのかわからない。

 仕方がないから、白いシャツだけを羽織って、ジャケットを手にした。スラックスのベルトもままならないまま心優は全てを羽織って、ベッドを降りる。


「心優、俺はまだ力無いおまえが御園に翻弄されることを心配してるんだ」

 ベッドを降りた心優は、まだ裸でベッドに座っている雅臣に振り返る。


「嘘、臣さんは嘘ついている!」

 いつも可愛い部下だった心優が吠えたせいか、雅臣が驚愕の表情に固まった。


「俺が嘘? 心優、おまえ、小笠原に行きたくないんだろう。だから俺が、おまえを御園から」


「違うでしょ。本当は臣さんが、小笠原に『帰りたい』のでしょう。なのに、ミセス准将が欲しいと言ったのがわたしで、本当は臣さんが帰りたい場所にわたしが行ってしまうのが我慢できないから、そうやって怒り狂っているんでしょう!」


 彼の頬があきらかに強ばった。言って欲しくないことを言われた? それとも、気がつきたくないことを言われた? とにかく心優は、決して言ってはいけないことを、これまで我慢していたことを吐き出していた。


「気がついてよ。臣さん。本当は、秘書官じゃない。臣さんは、ミセス准将の隣で艦隊の指揮官をしたいんだって――。もう一度、海の男に戻りたいんだって」


 そうでなければ、あなたはどんな女性と寄り添っていても、決して幸せになんかできないし、あなたも幸せになれない。……そこは、言えなかった。


「力無い私を守るだなんて、聞きたくなかった。結局、臣さんにとって、わたしは、ただの力無い、好きなように出来る部下、女の子だっただけなのよ」


 それだけいうと、心優はパイロット部屋を飛び出していた。

 心優――。呼び止める声が一度だけ聞こえた。でも心優を追いかけてはこなかった。


 泣きながら、心優は暗くなり始めた官舎の道を走り出す。

 海辺の星が瞬きはじめる空の下、心優はしばらくして走るのをやめて、ゆっくりと歩き始める。


「なんにもわかってない」


 とめどもなく流れる涙を拭きもしないで歩いていると、空に飛行音。あの白い戦闘機が夜間訓練で飛んでいた。


 雅臣が乗っていた戦闘機。ネイビーホワイト。あの人はいまもあのコックピットにいて、やっぱり心優はこんな下で見上げているだけ。こんなに離れている。


 警備口の前に来て、乱れた服装を直していて、心優はやっと気がつく。あのピンクのブラジャーをしていないことに。

「バカみたい。……わたしも、臣さんも、あの人に振りまわされて……」

 やっぱり自分はまだ子供だった。臣さんに愛されたくて、なりふりかまわずに頑張っている女の子達をバカにしていたところがあったけれど、自分もかなり無様なことをして台無しにしている。


 ブラジャーをしていない胸を隠すために、夏用の薄いジャケットを羽織ってなんとか誤魔化し、そのまま警備口を通って、心優は寄宿舎に戻った。


 



 何度も携帯に着信があったけれど、この日の夜、心優は携帯の電源を切って、一晩、泣き明かした。



 翌朝。心優は泣きはらした目のまま出勤をして、まずは長沼准将室へと向かった。

「どうした。その顔は……」

 さすがに、大ボスが女の泣きはらした顔に目を見張っていた。

「とても悔しいことがありまして、個人的なことですので気になさらないでください」

 でも大ボスはじっと心優の目を見て、怖い顔をしていた。


「男と別れ話でもしてきたのか。そいつ、園田のことをちゃんと引き留めてくれたのか」

 心優は息が止まるほど驚いて、なにも答えられなくなった。一年半、食えない男と言われている上官の部下をしてきた心優だからこそ『臣さんとのこと、ばれている』と確信してしまう。


 でも、大ボスもそこは巧くぼかしてくれているから……。

「いいえ。自分が行きたかったようです……」

「ふうん、嫉妬ってやつかねえ。だよな。ここにいる男なら、ミセス准将からお声がかかれば行きたいと思わねば、男じゃないだろうからねえ」

 それが自分の直下にいる優秀な秘書官だとわかっていて、言っているのかどうか。とにかく大ボスは『それほどの話、男に嫉妬されても致し方あるまい』と当たり前のように言って、放っておけとまで言った。


「で、園田はどうするんだ」

 一晩泣き明かし、一晩眠らずに考えた心優は、胸を張って大ボスに告げる。

「行かせてください。小笠原に。御園准将の護衛官として精進したく決意いたしました」

 雅臣の魂が置き去りにされている小笠原に行く。

 そうは望みながらも、心優が小笠原に行くことは、それを羨んでいる雅臣の気持ちを無視した離別を意味していることもわかっていた。

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