23.初めまして、園田さん
復帰してから、心優は仕事の遅れを取り戻すためにがむしゃらに、担当の仕事に取り組んだ。
出勤をすると、デスクに雅臣が約束してくれた『甲板要員、ジャケット色分け早見表』が置かれていた。
「熱が出たんだって? 大丈夫だったのか」
隣の席の塚田少佐も心配をして待っていてくれた。
「面目ないです。体調を崩さないのが自慢だったのに。もう若くないってことなんでしょうかね。やっぱり十代のピークの時のようにはいきませんね」
それらしいことを言って、自分の身に起きたことは仄めかすことも許されないと心優は心を堅くした。
秘書室にいる限りでは、雅臣は心優のことなどちらりとも見てくれない。勤務中は、すべてを教育係の塚田少佐に任せているから、心優が知っている穏やかさで雅臣が向き合ってくれるのは二人きりの時だけ。
ここのところ、心優の心には翳りがある。雅臣が二人きりの時には、とても可愛がってくれることは良くわかっている。でも、どうしても、どうしても。雅臣の奥底にしまってある『本心』が、心優をそれ以上にしてくれない。
まだつきあい始めばかりだから、将来的なことなど心優も考えられない。それでも、彼の中で最愛とも感じられない。
女として今はいちばんでも、彼の人生の中でいちばんではない。そんなジレンマに襲われている。
もしかして。他の別れた女性達も、この壁にぶつかったのだろうか。そう思ってしまうほどに、心優の心はかき乱されている。
それでも好きだから。やっぱり、雅臣を見たら笑って欲しいから。心優も、お猿さんになった彼を抱きしめたいから。だから、その日も官舎に行ってしまう。
でも雅臣は、そんな心優の様子にちゃんと気がついていた。
「熱を出してから、元気がないな。隊長がいうように、疲れでもでたのか。心配だな」
二人で簡単な料理をして、一緒に夕食をとることも多くなってきた。
独り暮らしをしている彼のダイニングテーブルで向き合って食べていると、長い腕が伸びてきて、心優のおでこを優しく触ってくれる。まだ熱があると思っているようだった。
「大丈夫ですよ、臣さん。ほんとうに、体調管理を怠っただけだから」
「そうか? 仕事もなんだかずうっと力んでいるだろう。この前も言っただろう。まだ提出は先なんだから、もうちょっと慎重にゆっくりやってほしいんだよ。その方が覚えられるから」
上司の厳しさでもなく、先輩としての優しさを感じる言い方だったが、それでも心優は『臣さんはわかっていない』と密かにむくれてしまう。
「心優、ほんとうにどうしたんだ。ほんとうは、他になにかあったんじゃないか。長沼准将が妙に気遣っているようにも見えるし」
どっきりとする。秘書室長にまで上りつめた男、元エースパイロットの目は、やっぱり節穴じゃないと心優は硬直する。
「皆勤のわたしが熱なんか出したから、びっくりされたのでしょう。なんですか、皆さんで、わたしが熱を出したらこの世がひっくり返ったみたいに、大丈夫大丈夫って」
「心配しているからだよ。それに……。心優がいない秘書室が、急に男ばかりになって、女の子の柔らかさをそばに仕事をしていたのが、いつのまにか当たり前になっていたんだなと、皆で話していたところだよ」
「そう、なんですか……」
そんな話を聞くと、ちょっと申し訳なく心優は思った。雅臣の心を占めたいと思うと、『わたしなんて』と苛ついてしまうのに。秘書室では大事な一員だと教えられると、それだけで力無くとも頑張ろうとも思わせてもらえる。
「俺だって、寂しかったんだからな。いつ心優が会いに来てくれるのかと……。俺も、当たり前になっていたかな」
一緒に食事をしながら、彼がそう言ってくれただけで、心優は泣きなくなってしまう。これでいいんだよね。これで……。別に雅臣はあの人に恋をしているわけではない。手の届かないところに行ってしまった過去を大事にしているだけ。
それぐらい、なんともない……。なんともないと、思えば大丈夫。
食事を終えて、二人で片づけをする。なんでも二人でしているこの時間が、心優以上に雅臣はご機嫌になる。鼻歌を唄いながら、心優が洗ったお皿を綺麗な布巾で拭いて、小さな食器棚に返す。秘書官をしているせいか、一般的な家事はだいたいこなせる。そして心優だけに押し付けない。
「俺が選んだ食器は味気ないから、心優が好きな女の子らしい食器を持ってきてもいいからな」
シンプルな白い食器しかない。彼にインテリアのこだわりはない。
それは心優も一緒だった。でも、心優は違うようだった。『女だなあ』と思うことが多くなってきて、女性雑誌を覗くことも多くなったし、こんなものが欲しいと思う気持ちがいっぱい芽生えていた。
食器棚に向かっている雅臣の背中に、心優から抱きついてしまう。
「ありがとう、臣さん」
「あれ? 心優から抱きついてくるって珍しいじゃないか。なんか変だなあ。本当は心配なことでもあるんじゃないのか」
この人は、やっぱり大人。一人だけ抱えてしまった秘密が自分になにを起こすか心配で不安で、でも言えなくて。甘えたい気持ちがある。その甘えたい気持ちを見抜いてくれている。いままでは甘ったるい自分など似合わないと思っていた心優だったが、最近はもう雅臣が頭を撫でてくれたら、その胸にすっぽり埋まって溺れてしまう。
この晩も心優は雅臣と夜遅くまで肌を貪って、寄り添って眠った。
こうして彼と幾夜も愛しあっていけば、三ヶ月以上愛しあっていけば、必ず、彼は心優をいちばんに見てくれるはず……。そう願いながら、彼の肌を心優も愛す。
―◆・◆・◆・◆・◆―
ミセス准将に乱された日常を取り戻した頃だった。
寄宿舎の食堂で朝食をとっていたら、女の子達がざわざわと噂をしていた。
同じ護衛部にいる女性先輩を見かけたので、心優は隣の席に座って『どうしたのですか』と聞いてみた。
「警備の宮下さんが、急に転属になったんだって」
え! 心優も当然驚く――。だが心優の驚きは、他の女性隊員とは異なっていた。戦慄すると言った方が良い。
「ど、どちらに転属に……」
「どこか詳しい部署はわからないけれど。小笠原みたいよ」
お、小笠原! 今度は血の気が引いた。
間違いない――と、言いたいけれど、そうとも限らない? もうすぐ夏の異動時期。長年、横須賀で警備に勤しんできたお局様が、それに合わせて何処かに辞令が出ただけの話。でも時期が早い――。だから皆が『なにかやっちゃったの』とひそひそと囁きあっている。
「仕事に厳しすぎて口うるさいところはあったけれど、悪い人じゃなかったよね。むしろ、宮下さんならこの寄宿舎を守ってくれたのに……と、惜しく思うほど。皆も、ウザイウザイと言っていたけれど、本当は宮下さんを頼りにしていたこと今頃気がついたんじゃないの」
宮下さんぐらいの年齢を目の前にしている女性先輩だからこそ、そこは口惜しく思っているようだった。
「でも、宮下さんなら……。ここだけじゃなくて、他でもいい仕事しますよね。きっと」
「そうそう。小笠原は離島で島流しみたいに言われる時もあるけれど、はっきりいって、独身女性なら、あそこで働いた方が良いポジションをもらえることもあるからね。横須賀は日本社会寄りだから男性が優位なところがあるけれど、小笠原ではミセス准将もいるせいか、アメリカ寄りで女性事務官の起用も活発だしね。ご主人の御園大佐は毎年一人新人の女性隊員を引き取って、立派に仕込んで各部署に送り出すことも有名じゃない」
「え、そうだったんですか」
「そうよ。確か、小笠原連隊長の、細川少将に頼まれてやっているみたいよ」
わー。あの旦那さんなら『女性もきちんと扱えます』となんなく育て上げられるイメージが易々浮かんでしまう。
それと同時に、あの御園夫妻のことを思い出すと、また熱が出そう……。強烈だったあの夜を思い出してしまう。
それから暫くは、宮下さんがどうして――という話題で持ちきりだったが、それも一週間もすれば立ち消えていった。それもそのはずで、また宮下さんのような口うるさいベテラン女性警備隊員が配属されてきたからだった。
それが安心できるくせに、また新しいオバサンはウザイと若い子達が影で言う。それも、日常で、繰り返し。宮下さんでも、新しいお局様でも、誰が警備しても同じ事だと誰もがわかった安心から話題にならなくなったのだろう。
だが、心優には一抹の不安を残していた。
もし宮下さんが、御園准将のPTSDを目の当たりにしてしまった隊員として小笠原に転属になったのなら……。
それはきっと御園の監視下に置くために、小笠原に、手元に来るようにさせられたのだと心優は感じていた。
だったら。自分は? 御園夫妻のあんな姿まで見てしまった自分は?
でも。きっと大丈夫。自分は、ミセス准将と親しい長沼准将の部下だから。大ボスの監視下にさえあれば、また心優も誰にも言うつもりもない覚悟を決めているから、御園夫妻も安心してくれているだろうと思っている。
梅雨が明け、横須賀にも真っ青な空が戻ってきた。それと同時に、蒸し暑い夏の到来。
白い半袖シャツ、肩には黒い肩章、そして黒いネクタイ。室内では夏服の爽やかさで仕事に勤しんでいる秘書室。
「御園大佐が来られた。お茶を頼む。カフェラテじゃなくて『カフェオレ』だから間違えるなよ」
電光石火の衝撃が、兄さんと親父さんの間に走ったのを心優は見てしまう。
ミセス准将が来た時よりも、青ざめている。
「どうして。御園大佐が」
塚田少佐も信じられないという顔で、城戸中佐に尋ねている。
「わからない……」
雅臣すら困惑していた。
そしてどうしたことか、中佐の顔をしているはずの雅臣が、臣さんのような目で心優を不安そうに見た。中佐殿がそうして心優を見ているので、秘書室メンバーの視線が心優に集中してしまう。
「ど、どうかされましたか。中佐」
どこか心苦しそうにして、雅臣がやっと中佐の顔で心優に告げる。
「長沼准将が隊長室に、園田をお呼びだ」
驚いた皆の顔、そして視線が今度は心優ではない、雅臣に集中した。
隣の席の塚田少佐が立ち上がった。
「どういうことですか」
下っ端の心優が、どうして『爆撃にくる御園大佐』が来た時に、隊長室に呼ばれるのだ――。その理由が見あたらないから、塚田少佐も慌てている。
「園田。御園大佐もお呼びだ。すぐに隊長室に」
「かしこまりました」
彼が来る時は、『なにか獲物を狙って、長沼准将から捕獲する時のみ』。だから、皆が『今度はなにを捕獲しに来た』と騒然としている。
心優は嫌な予感に、もう震えていた。
隊長室に向かうと、本当にあの御園大佐が、この日は制服姿でソファーに座っていた。
「初めまして。園田さん」
眼鏡の奥のホークアイが、にっこり緩んでそう言った。もうそれだけで、心優の背筋は凍っていた。
初めまして――と、平然と言いきるその笑顔が、やっぱり怖い。目もちゃんと笑っているけど、どこもかしこも爽やかな笑顔なのだけれど、目の奥が怖い。千里の鷹目。
「は、初めまして。御園大佐。園田と申します」
「お噂はかねがね。妻からも良く聞いております」
「園田。ここへ」
長沼准将が、隣に座るように心優を促した。大ボスの隣に座るのも緊張するのに、目の前には、掴み所のない御園大佐がにっこりと眼鏡の微笑みを浮かべて心優を見ている。
雅臣も落ち着かない顔で、長沼准将と心優が座るソファーの後ろに控えている。
「いえね。妻が常々、園田さんという可愛らしい女の子が長沼さんのところにいるのよ。空手をやっていたのよ、どんどん可愛くなってきて、最近、会うのがとても楽しみなのよ――と、まるで自分の妹みたいに自慢するんですよ。だから、僕も一度、園田さんと直接話したくなってしまいましてね」
うわー、胡散臭い喋り方! と、心優は唖然としてしまった。ちゃんと会ったことがあるのに、挨拶を交わしたこともあるのに。如何にも今日が初めてです――、しかも、奥さんが『妹のように』なんて、絶対にミセスの言葉ではなくて、この旦那さんがそう思わせるために勝手に言っているんだと思った。
「長沼さんからもいろいろと、園田さんのお話を聞かせてもらいました。そこで……」
心優が恐れていたことを、御園大佐が言い放つ。こんな時だけ、眼鏡の奥の黒いホークアイが、青く光った。
「是非、小笠原に来て頂きたく思っております。御園准将のそばに。御園准将秘書室の護衛官として」
もう御園大佐は笑っていない。狙った獲物は逃さない男の爆撃は、心優の引き抜きだった。
「御園准将直々の意向です。彼女は園田さんをそばに置きたいと望んでおります。この度は、そのことを伝える使命を仰せつかりました」
眼鏡の怪しい笑みの男が、心優に恭しく頭を下げた。
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