22.初めまして、旦那様

 雷鳴の中、その人はゆっくりと心優の部屋に入ってきた。

 しかも一人ではない。その後ろにも黒スーツ姿の外人、栗毛の男性がいた。

「園田さんですね」

 眼鏡の男性と初めて目が合う。

「はい、そうです。初めまして、御園大佐」

 心優から敬礼をして、一礼をする。

「初めまして、御園です。妻が迷惑をかけまして、申し訳ありませんでした」

 また誰もが知っている上官に頭を下げられてしまい、心優は当惑するしかない。


「葉月は……」

 心配そうに彼が暗がりの部屋のどこに妻がいるのかと辺りを見渡した。ベッドを見つけ、ほっとした顔をしている。

「いつから眠っていたのかな」

「ここに来た時から、目を覚まして暫くお話ししたら、また眠ってしまうことを繰り返しております。夕食は召し上がりませんでした」

「そうですか」

 眼鏡の旦那さんが、呆れたため息をついた。

 黒いスーツにドビー織りの水色のシャツ、そして揃えたのか同じくドビー織り無地の白いネクタイという、とても爽やかな出で立ちの大佐だった。


 いつも地味目で、よくいる理系の眼鏡男。と思っていた心優だが、目の前で御園大佐を見ると爽やかな品の良さがそこはかとなく漂っていて上流社会の匂いをまとっているのを感じていた。

 普通の男性に見えていたけれど、やはりこの人も御園家の男だと感じざる得なかった。だから、心優はその人を初めて目の前にして、なにも言葉を発することができなくなった。


 なのに、そんな心優のことを知ってか。御園大佐が優しくにっこり、眼鏡の顔で微笑んでくれる。その目が、どこか臣さんに似ていると思った。爽やかなんだけれど、どこか情熱的で、そう見せかけて腹の奥では冷徹なことも秘めている。雅臣がシャーマナイトなら、この人はホークアイの目。遠くまで見えている鷹目石のような青黒い眼差し。


「妻の不始末で、早退扱いになるようなことをさせてしまって、本当に申し訳なかったと思っています。しかも駐車場から、ここまで運んでくださったとか」

「鍛えておりますので、大丈夫でした。ですけれど、奥様はここに到着された時、幾分か吐いています。それから眠ったり目覚めたり……、その間も数回、吐かれました」

「あの症状が出た後、葉月は吐いたり、めまいを起こしたり、酷い時には熱を出します。急激に精神を疲労させるせいか、回復させるためなのか、眠りに落ちます」

 『エド、頼む』。御園大佐は背後に控えていた栗毛の男性にそう告げると、栗毛の男性が『かしこまりました』と一礼をした。そして、颯爽と准将が眠っているベッドへ向かった。


 その男性を見ていると、片手に持っていた鞄から、医療道具が出てきたので心優は目を丸くした。

 『エド』とは、御園准将のプライベートボディガードではなかったのか。眺めていると、彼はテキパキと『点滴』の準備を始めてしまった。


「彼は医師でもあります。これで妻の容態も安定するでしょう。今夜はすぐ近くに住まう御園の両親の元へ連れて帰ります。点滴を終えるそれまで、ここにいさせてください」

「それは構いません。でも、安心いたしました……。ご主人の御園大佐がいらしてくださって……」

 緊張が解けたのか、つい心優は涙を浮かべてしまった。


「本当に助かりました。事情を理解してくれている長沼さんの秘書室の方で。他の隊員に知られたら、大変なことになるところでした。いえ、もしそうだったとしても、『どんな手を使っても』伏せたと思いますが……。貴女で良かったと安堵していたところです」


 穏和な笑顔と眼差しを心優に向けながら、『どんな手を使っても』と優しい声で言い放つ御園大佐。心優の涙が瞬時に止まる。先ほどの大ボスが基地では許されない行為を平気で使おうとしていた思考と似ているとゾッとした。


「……隼人、さん?」

 ベッドからか細い声が聞こえ、心優の目の前で穏やかに微笑んでいた大佐の表情が固まった。

 彼がゆったりとベッドへと向かう。『エド』という男性が、ミセスの腕に点滴の針を刺し終えたところ。

「来てくれたの」

 ミセスが夫を見つけて、静かに起きあがった。


 眼鏡の横顔が凍っているように心優には見えた。物腰の柔らかい静かな人で、そして、動揺しない人。穏やかそうな微笑みが印象的な人。じゃじゃ馬嬢様のミセス准将を包みこんでくれる人。そう思っている。そんな旦那さんが迎えに来てくれたのだから、これからミセスは優しく抱かれて安心することができるだろう――、そんな心優の安堵。


 だが、遠く光る稲光と共に、彼の黒い眼鏡のフレームが光り、部屋に『パシン』という乾いた音が響いた。


 御園大佐の手が、妻の頬を叩いて空を切っていた。そして、起きあがった御園准将の栗毛が宙に乱れ、彼女の身体が傾き、頬が赤くなっている。


「隼人様……、そこまでされなくとも」

 栗毛のエドが御園大佐の足下に跪いて頭を下げている。忠誠を誓っている家臣のように。ボディガードという雰囲気ではなかった。


 だけれど、御園大佐は眼鏡の冷たい眼差しで、栗毛の男を鋭く見下ろしている。

「エド。これ以上、葉月を甘やかさないで欲しい。部下の秘書官を困らせるのも大概だが、エドにここまでするのは俺は許せない」

「私はなんとも思っておりません。むしろ……、この私に、お嬢様がそこまでのことが出来るようになったのだという感心すら」

「なんだと。もう一度、言ってみろ」

 御園大佐らしからぬ、ドスの利いた重い声色に、エドという男がさらに頭を下げて黙り込んでしまった。


 ミセス准将は、迎えに来た夫にいきなり張り倒されて呆然としてる。

「葉月。俺はあそこに行くなと何度も言ったよな。こうなることは目に見えていたよな。まあいい、おまえはどうしても行きたいなら行くと思っていたよ。ただし、その時には、せめてエドも一緒に付き添わせてだと思っていた」

 ベッドでうずくまる妻に、背が高い夫が上から見下すような威圧感。心優はこの部屋から出て行きたくなった。


 こんなのミセス准将ではないし、まさか、あの御園大佐が……、こんな恐ろしいゴッドファーザーみたいな人だったなんてショック。でもよくよく考えれば階級は大佐でも、唯一ミセス准将を飼い慣らしていると言われている男性であって、御園家の婿養子でもあって、跡継ぎ娘がいるとしても彼も『当主』と同等になる。エドという男が、あれだけかしずいているのは、御園大佐がそれだけの威厳と権限を持っているからなのだろう。


「隼人様。私がお嬢様の願いを拒否したからいけなかったのです。隼人様がおっしゃるとおりに、私さえお嬢様に付き添っていれば」

「いいや。これだけ横須賀の様々な隊員に迷惑がかかることも、長沼さんに負担がかかることも、そしてなによりも! これから空母に乗らねばならぬ責任があるのに、それを無にするかもしれないリスクを忘れて、その垣根を越えた『身勝手さ』について、考えが及ばない『お嬢ちゃん気分』が許せないと言っているんだ」

「ほ、本当にごめんなさい。反省しています」

「どうだか。今までも、そうして何度も自分の思い通りにしたいことには、周りの心配も迷惑も顧みずに、独走していったよな。今回ばかりは、俺も怒りが収まらない」

 すごい気迫の旦那様で、あのミセス准将が震えている。


 でも、心優はそこで『違う』という気持ちが渦巻いていた。


「もう、二度と致しません。あそこには行かない。もう……、駄目だとわかったから」

「秘書官を弄ぶように姿をくらますのも、そろそろ控えて欲しい。それと同様のことを、エドに対しても二度とするな。今度同じ事をしたら、エドをボディガードから外す。おまえの為に日本に残って、おまえの都合に合わせていつだってそばにいてくれる。本来なら、ジュール同様に大きな事業を抱えて活躍できる男なんだぞ。日本に残るために、その事業も全て部下に譲って単身で仕えてくれといるというのに」

 そして、御園大佐は、言い返せずに項垂れている妻に最後のひと言を投げつけた。

「俺も、そんな妻の面倒は見きれない。御園を出て行く。わかったな」

 それってつまり……。『離婚』ってこと? 冷たい男に言われるだけ言われて、あの女王様が小さくうずくまっている。その時、心優には『霧雨の中の熱い涙』が湧き上がっていた。


「お待ちください。御園大佐」

 他人など入れそうもない切りつめた空気の中へ、後先考えずに心優は飛び込んでいた。

 まるで、理不尽な夫から、無抵抗な妻を守るが如く。御園大佐の前へ立ちはだかっていた。


「園田さん?」

 彼も不思議そうだったが、心優の心も恐ろしさに震えながら、でも口を開く。


「そんなにお叱りにならないでください。少しは奥様の気持ちもお聞きください! 御園准将があの場所にどうしても行きたかったのは、御園大佐のためでもあったとわたしは思っています!」

 それまでキリキリとした鋭さをまき散らしていた御園大佐の表情が、一気に緩んだので、意外すぎて心優は驚いてしまう。


「い、いいのよ。園田さん」

 ミセスが止めたが、心優は女性の彼女を守るかのように立ちはだかって続ける。

「結婚を約束して帰ってきた幸せな場所。その記憶だけを残したかった。嫌なことがあった場所でも、その想い出が勝っている。あの場所がなくなる前に、記憶を上書きして、ご主人との素敵な想い出だけを残したかった。そんな奥様のお気持ちは、ご存じなのですか」


 面食らっている御園大佐の顔がそこにある。青みがかった黒い鷹目石と目があって、心優は自分が大それたことをしたのだと我に返った。


 眼鏡の奥の目が、妻を睨み付けていたように険しくなった。心優は蛇に睨まれた蛙になる……と思ったのだが。どうしたことかそこで、御園大佐が意味深な笑みを浮かべている。


「ふうん」

 ニヤリと怪しく微笑みながら、御園大佐が顎をなぞる。そして一歩踏みだし、心優の顔を覗き込み、右、左と値踏みをするようにあちこちを眺められた。

「なるほどねえ。長沼さんが選んだだけあるなあ。なるほどねえ」

 それまで恐ろしい君主のようだった御園大佐が、いつも心優が遠くから見ていたにっこり優しい理系男子の笑顔に戻った。

「園田さん、ありがとう。妻が言いたいことが良くわかりました」

 といって、心優の肩を優しく掴むんだ。でもそっと、でも優しく目の前から除けられてしまう。つまり優しいけれど『どけ』と言われたのと同じだった。


 しかも、笑顔が怖い。長沼准将も得体が知れないけれど、臣さんもお腹に冷たさを備えているけれど。御園大佐の笑顔はもっと怖い。でも掴まれた肩への優しさには労りがあった。不思議な感触。


 心優も素直に、また後ろに控えた。御園大佐が泣いている奥さんへと、また向き合う。今度は、ちゃんと彼も彼女の目線に合わせて床に膝を落として。

「馬鹿だな。俺と一緒に洞爺湖に行った想い出もあるだろう」

 そこにはもう、恐ろしい君主のような男も、怒っている夫の横顔もなかった。

「帰ろう。葉月」

 大きな手が、淑やかな栗毛をそっと撫でた。それだけで心優の胸が急にドキドキし始める。


「はあ、心配させるなよ。なにやっているんだ……。でも、わかった。おまえが、どうしてあそこに行ったのか、わかった。ごめんな、俺が一緒に行ってやれば良かったのに」

 その男性の手に、心優は愛おしさを見てしまったから……。男の人が大事な女性を、夫が妻を労る優しさが滲み出ていた。


「でも、貴方だって、あんなところ行きたくなかったでしょう」

「……そうだな。俺は、さっさと建物が建って消えてしまえと思っている……。おまえが、死にそうになった顔なんか、思い出したくない」

 そうか。そう言うことにもなるのか――と心優はハッとした。ミセス准将がご主人に内緒で、自分だけあの場所に行ってしまったのは何故か。旦那さんにとっては、結婚を約束した帰りに妻にしようとした女性が血を流して倒れていたのを見てしまった場所になる。旦那さんにとってもトラウマに決まっている。奥さんがそこで悪魔の顔を刻んでいるなら、旦那さんは今にも死にそうな彼女を脳裏に焼き付けている。


「ごめんなさい。隼人さん」

 あのミセス准将が、夫の首にぎゅっと抱きついて離れなくなった。

「帰ろう。海人が心配して待っているから」

「うん」

 抱きついている妻を、御園大佐もぎゅっと抱き返して、何度も栗毛の頭を撫でている。


 まるでロマンス映画のようなムード。先程まであんなに恐ろしい空気でキリキリしていたのに、急に甘い雰囲気が漂っている。

 もう唖然とするしかない。上から突き落とされる恐ろしい目に遭ったと思ったら、最後はこんな『のろけですかっ』と突っ込みたくなるような終止符にぐるぐると振りまわされるジェットコースターに乗せられた気分。


 でも、心優はそんなミセスを見て、ちょっと涙ぐんでいたから困ったもの……。お騒がせなんだけれど。なんだろう。理解できない女性上官だと思っていたけれど、違うみたい――と、彼女を近く感じている。知っている女性が、思い悩んでいた気持ちを愛する人に伝えて通じた。その姿を見届けられてほっとした『女の気持ち』だった。


 やっぱり。二人は最強の夫妻だと初めて心優は感じていた。奥様はお嬢様で上官で、ちょっと我が侭なじゃじゃ馬台風。それに振りまわされているけれど、そのじゃじゃ馬をうまく乗りこなせてしまう旦那様。国防の最前線に出て行くミセスが、いまや信頼される艦長であるのは、きっとこの人が影で支えていることがとても重要で大切なことなのだと感じられた。


 栗毛の妻を抱いて安心させると、御園大佐はミセスをもう一度横に寝かせた。

「エド。少し出てくる。葉月を頼む」

「かしこまりました。隼人様」

 黒いジャケットの裾を翻し、御園大佐が背を向ける。その律した姿は、もう『御園大佐』だった。


 旦那さんが出て行くと、ミセス准将は安心したのかまた眠りに落ちた。

 エドという男性はじっと黙っていて、決して心優に話しかけることはなく、お嬢様のそばから片時も離れない徹底振りだった。


 


 夜半になって、御園准将はご主人の御園大佐と、付き添いのエドと共に、静かに寄宿舎を出ていった。

 こんな夜中にどうやって基地から出て行ったのかはわからないけれど、あの人達なら、出来ないこともあってはならないことも、出来てしまいなかったことにしてしまうのだろう。そう思った。


 翌朝、今度は心優が体調を崩した。そんなことは滅多にないのに、熱を出してしまったのだ。

 その時、心優は思った。あの人達の強烈な夫妻愛を目の当たりにして、知恵熱みたいなものが出たのだと。本気で思った。


 実際は、訓練後に汗をかいたまま雨に湿ってしまい、自分よりもミセス准将のことにばかり気遣っていたことが、本当の原因だろうけれど。心優の頭の中は、あれから何度も、御園准将と御園大佐が残した夫妻のやり取りが繰り返されている。


『園田。大丈夫か。悪かったな、ミセスの世話を任せてしまって。この一年半、園田は皆勤だったな。疲れも出たということにして、ゆっくり休めばいい』

 大ボス自ら心優に連絡をしてくれて、そう労ってくれた。

 心優はそれから三日休むことになった。その間に、雅臣から何度も連絡があった。

 でも心優は電話には出ずに、SNSのメッセージに『大丈夫です』と応えることしかできなかった。


 秘書室に行かない日なんて、気が抜けてしまいなにもやる気が起きなかった。それほど、今の心優には休暇は退屈。


 でもその退屈な隙間に、嫌なものが入り込んでくる。雅臣の『あの人』の本当の姿を知ってしまった。そんなことも知らずに雅臣は『女王様であるあの人』を追いかけている。

 ミセス准将を身近に感じられたのに。それと引き替えに、今度は雅臣を遠く感じている。

 雅臣はきっと、いまもミセス准将の隣にいる。


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