19.緊急事態です、大隊長!

 雨上がり、束の間の青空、晴天。爽やかな日だった。

 基地の緑が雫できらめき、湿っているけれど柔らかな風は、濡れた葉の匂いがした。


 護衛部の訓練を終え、いつもならまっすぐ秘書室に帰るところなのに、心優は寄宿舎に向かっていた。

 いつも準備していた着替えの下着が入っていなかった。とくに汗をかきやすい季節なので、体調のためにも、エチケットのためにも着替えておきたい。そう思って、寄宿舎の自室に向かってきちんと替えておこうと向かっている。


 寄宿舎の入り口が見えたところで、心優はふと目を奪われる。

 軍制服の隊員ばかりのこの基地敷地内に、濃紺のワンピーススーツ姿の女性が歩いている。


 凛とした佇まいで、見るからに品の良い綺麗な後ろ姿。栗色の髪、優雅なクラッチバッグを片手に、直行便ゲートの通路がある道を歩いている。


 高官の奥様? 私服姿で歩いているのはとても目立つ。

 だが、その奥様の後ろ姿をじっと見つめているうちに、心優は青ざめる。

 ――ミセス准将?

 背丈から、佇まいから、そして、湿った風に吹かれてそよいだ栗毛から見えた横顔は彼女によく似ていた。


 着替えに来たことを忘れ、心優の足はふらりと彼女を追い始める。


 直行便に搭乗するためにチェックインする搭乗口へ向かう通路に彼女が入った。まっすぐにその渡り廊下のような通路を歩いて、やがて室内の通路に入っていく。

 綺麗な後ろ姿。彼女の後追っていると、ジャスミンとローズのような色香漂う匂いを残して歩いている。身長は心優とおなじぐらい? 細い足に引き締まったウエスト、モデル並みの体型に歩き方。本当に綺麗だった。ここに男性がいたら、絶対に目に留めて振り返ると思う。


 でも誰もいない。僻地にある基地への直行便が離陸する時間でもない。でもその人は間違いなく、そのチェックインをする待合室へと向かっている。

 その待合室の前に来て、彼女はそこの自動ドアをくぐって消えていった。

 なんだ。ミセス准将ではなかったかも。彼女なら、必ず付き添いがいるはず。それがプライベートでも付いていると城戸中佐から聞いたことがある。瀕死になるような事件に遭遇したので、横須賀の実家に来た時でも、実家が手配しているボディーガードが同行していることが多いとか……。


 だからあれはミセス准将に似た外国人だったのだと思えてきた。小笠原基地にいるアメリカ隊員の奥様か女性隊員だったのかもしれない。

 また来た道を寄宿舎へと戻ろうとする。室内通路を出たところで、また小雨が降り始めた。


「ああ、せっかくの青空だったのに……」

 基地の棟舎へ向かう渡り廊下を歩こうとした時だった。またあの女性の影を、今度は遠く駐車場に見つける。


 その人は、あの綺麗な姿で小雨の中を歩いている。やがて、駐車されている車の影に消えた。

 車で来ていた人? でもそれから暫く佇んでいた心優が見ていても、動き出した車は一台もいない。駐車されている車も少ない。車が出て行く警備口ゲートは少し遠くになる。


 そこへ向かっていく順路になっている道も通らなかった。

 そして心優はどうして自分がいつまでもここから動けないのか、いまやっと自身で理解した。


 綺麗な女性が、栗毛の女性が、御園准将にそっくりで。そして、ここがあの忌まわしい駐車場で、そして彼女が気にしていたことを知っているから。


『なんで、駐車場を気にしているんだよ』、『俺だったら、あんなに酷い目に遭った現場なんか、二度と近寄りたくない』、『葉月さんが横須賀に来た時には、気をつけておいてください。お願いします』。心優の脳裏に、鈴木少佐の言葉が蘇る。

 心優は走り出していた。小雨の中、駐車場の女性が消えた付近を見渡した。彼女もいなければ、車が動いた気配もない。


「どこなの。御園准将が襲われた場所は、ここのどこなの」

 そこに誰もいなければいいのだ。それさえ確かめれば、その女性の姿がもう見えなくても安心して帰れる。

 なんの目印もない駐車場で、それらしき女性の姿も気配も消えていた。

「やっぱり気のせい?」

 嫌な予感で締め付けられていた息苦しさが、少し緩んだ。小雨の中、心優は走ってきた道を帰ろうとして……。目印はないけれど、違和感がある場所を見つけた。一カ所だけ駐車が出来ないように芝が植えられている一角を。何故、そこだけ駐車が出来ないようにされているのかわからなかった。


 でも誰もいない? でも蠢くものを心優は目の端で感じた。黒いハイヒールの靴が、車の影、アスファルトの上でぴくぴく動いている。

 そっと覗くと、ハイヒールには白い足が続いていて……。心優はハッとして、そこへ駆け寄った。


 駐車されている大型ワゴン車の後部を覗き込むと、そこに女性が倒れている。

 小雨の中、濡れ始めたアスファルトの上で、身体中を痙攣させ、そして苦しそうに首を押さえているけれど、もう意識は朦朧としているようだった。


 その栗毛の女性を上から見下ろして、心優の身体中の血が凍った。

 その人は、まさに、『御園葉月准将』!


「じゅ、准将! ど、どうして!」

 彼女のそばに心優は跪く。真っ青な顔で小刻みに震えている彼女が心優を確かめ、なにかを言おうとしている。

「な、なんでしょうか」

 ……く、くすり。

 彼女の指が芝がある方を指さした。心優が違和感をもった芝の上に、先ほど目にした優雅な白いクラッチバッグがあった。


 それを直ぐに手を伸ばして拾い、蓋を開けて中身を探る。本当に『薬』がある。

 とにかくそれを一粒取り出して、彼女の口に入れた。

 すると痙攣が収まった。けど、まだ苦しそうにしている。

「救急隊を呼びます」

 もっている業務用のスマートフォンを制服の胸ポケットから取り出す。救急隊への連絡はタッチひとつで繋がる。

 そのタッチをしようとしたのだが、その瞬間、制服の袖を引っ張られた。止められていることがわかり、『どうして』と彼女を見た。悶絶の顔で、彼女が首を振っている。


「どうしてですか。このままでは……! 准将になにかあったら、大変なことになります!」

『長沼さん……呼んで』

 微かにそう聞こえた。

『長沼さんしか、知らないから。他は駄目。城戸君も駄目』

 それだけいうと、ついにミセス准将は気を失ってしまった。

「嘘。やだ、どうして。じゅ、准将!?」

 彼女を揺さぶったが、返答がなかった。


 どうみたって救急隊に迅速に見てもらった方が大事にならない。

 どう言われても、ここは救急隊――。業務用のスマートフォン、タッチパネルにその指先が触れようとする。でも、震えていた。


 そうだ。ミセス准将がここで気を失って私服で倒れていたことは、やがて基地中に流れてしまうだろう。そうするとどうなる? どうなるの? でも彼女のこんな無様な姿は誰にも見せてはいけない気がしてきた。


「臣さんなら、なんとでもしてくれるはず……」

 やり手の秘書官。不都合なことを、都合良くカバーするプロだ。

 ――長沼さんしか知らない。城戸君は駄目。

 その言葉を反芻し、心優の身体から冷や汗がどっと湧いた。

 つまり。御園准将が薬をもつほどの『持病があって』、それを『長沼准将しか知らない』ということになる。


 これが公になったらどうなるの。まさか、艦長業務が出来なくなる!? いま、彼女のキャリアが国防を担っているのに?

 やっと事の重大さを心優は理解する。


 スマートフォンの連絡先を、心優は今度こそ迷わず、大ボスの携帯スマホ連絡先へと表示しタッチする。

 心優の業務携帯番号が表示されて、空部隊大隊本部秘書室 園田 と表示されるはず。

 だけれど普段もさほど言葉を交わすことがない『大ボス』が、秘書室のオマケのような小娘隊員からの直接のコンタクトに応えてくれるのか?

 呼び出し音が長い。忙しければ、下っ端隊員からの直通はきっと無視されるだろう……。


『長沼だが――』

 出た!

 心優はすかさず、彼に伝える。

「園田です。訓練の帰りに、私服姿でしたが御園准将にそっくりな方を見かけて、気になって追いましたら。その、本当に私服の御園准将で、直行便ゲートの駐車場で痙攣と呼吸困難を起こして倒れていました」

 なんの返答もない。驚いているのか、それとも、部下の戯れ言だと思っているのか、様子がわからない。


『わかった。少し待ってくれ。外に出る』

 とても落ち着いている声に心優はほっとする。やはりこの人は将軍にまでになられた人だと痛感するほどに。

 長沼准将が扉を閉めた音が聞こえきた。廊下にでも出たのだろうか……。

『園田。よく知らせてくれた。それで葉月ちゃんは!』

 今度の声は慌てている。しかも、ミセス准将を親しげに呼ぶ時の声になっている。


「今、気を失っています。先ほどは意識があったので、指示された薬を一粒だけ口の中に。それで痙攣が収まって、でも、意識がなくなって」

『大丈夫だ。過呼吸の際に起きる過喚気症候群だ。いずれ目を覚ます』

 慌てていたのに、また大ボスは落ち着いている。ミセス准将の身に起きたこんな酷い症状でも、よく知っている口ぶり。


 そして大ボスが心優に言った。

『いいか、園田。誰にも見られないように、今すぐ彼女を隠してくれ』

 え? 隠す? 言葉を返せなかった。


『園田。落ち着いて聞け。いま、そんな彼女を誰にも見られてはいけないんだ。私服だったのが幸いだ。もし誰かに見られても、外から来た一般客だと言え。誰かに見つかって手伝うといわれも、長沼准将が手伝いに来てくれると言って人を避けろ。彼女の顔を見られるな』

 そんな、無茶すぎる! こんな目立つ人を誰にも見られずに、どこに隠せと!? こんな状況に陥ったことがないため、心優はパニック寸前。


「落ち着け、」

 深呼吸をする。そうだ。これは試合前だと思って……。

 心を落ち着ける。心拍マックスの試合前。母が握らせてくれた『シャーマナイト』の冷たい感触を思い出す。

『そうだ。落ち着け。園田』

 心優も目を開ける。

「寄宿舎のわたしの部屋に連れて行きます」

『わかった。十五分以内にそこに行く。遅くても三十分で必ず行く』

「ですが、寄宿舎の入り口には、部外者の出入りをチェックしている警備女性がいます。そこを通過しなくては……」

『俺がなんとでもする。その警備員には見られても仕方がない。なにを言われても構わない。とにかく園田の部屋に連れて行ってくれ』

「ラジャー、准将」

 頼んだぞ。大ボスが通話を切った。


 そして心優も意を決する。

「失礼いたします。御園准将」

 クラッチバッグを拾い、スラックスのベルトに挟んで腰に仕舞う。ぐったりしているミセスを抱き起こし、力無い腕を心優は肩にかける。

 気を失っている人間はものすごく重い。でも、心優は歯を食いしばって、ミセス准将を背負った。


「くっ……」

 小雨が女二人を濡らす。柔らかな霧雨のヴェールが少しでも、この奇妙な搬送を隠してくれることを祈りながら。心優は一歩を踏み出した。

 その場を離れる時、心優は少しだけ『芝』へと振り返る。きっとそう。不自然にそこだけ『芝』にしているのは、この人が血を流した場所だからなのだろう。


 

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