20.泣かないで、ミセス准将
霧雨。柔らかい雨でも、二人の女を少しずつ湿らせていく。
気を失っている人を背負って、心優はゆっくり前進する。
雨、勤務の中心である棟舎が離れているのもあるが、幸いにして人がいない。でもあと三十分もすれば、ランチタイムで人が動き出す。
その前に、その前に、宿舎へ――! 重い一歩を、心優は繰り返す。腕も鍛えているので、他の女性よりは腕力がある。でも、重い……。
ごめんなさい
耳元でそんな声がして、心優はハッとして立ち止まる。首筋に温かい息を感じた。
「ごめんなさい。降りて自分で歩きたいけれど……、力が入らないみたい……」
「准将! 気が付かれましたか」
ああ、良かった。と力が抜けそうになった。
「大丈夫です。寄宿舎のわたしの部屋までお連れします。そこへ内密で、長沼准将が来てくれますから」
「ありがとう……、園田さん」
力無い息だけの声になったので、心優はまた不安になる。でも気が付いて、彼女が心優の肩にしがみついただけで、少し軽くなった気がする。
寄宿舎が見えてきた。あと少し。もうちょっと!
「あそこね、私が死にかけた場所なんだよね」
心優の首にしがみついているミセスが、独り言のように呟き始める。
「知っていますよ。最近、城戸中佐から聞きました。秘書官として知っておくこととして」
心優は息みながら、一歩を踏み出す。
「刺された日。澤村と初めての休暇旅行にいった帰りだったの。彼と、結婚しようと北海道の雪の中で約束してきた帰り。どんな恋も上手くいかなかった私の、ほんとうの……」
首筋にとても熱いものが触れた。それが心優の首筋を伝っていく。
衿から胸元に落ち、そこが濡れて染みた。それは涙だった。
心優の身体の体温が急に上がる。『嘘、女王様が泣いている!』、あり得ないものに遭遇して、心優の血が驚きで沸騰している。
しかも彼女が哀しんでいるのは、『やっと好きな男性と愛しあって結婚をしようと約束した旅行の帰り、幸せの絶頂で殺されそうになった』という絶望に突き落とされた惨いもの。女性なら誰もがわかる話。ただの一人の女性として泣いている!
「准将……。泣かないでください」
彼女を背負い歩きながら、心優も感化されそうになる。いま自分も狂おしくなる恋をしているから?
「もし、あの場所に立ってもフラッシュバックもなく平気なら……。あの場所で、幸せな気分だった自分だけを残せると思って……」
「そうだったんですね。御園大佐との想い出の場所でもあったんですね」
「あの場所に建物が建ってしまう前に、なくなる前に、記憶を上書きしたくなったんだけど……。誰もが、あそこには行くなと。当然よね……」
寄宿舎の玄関が見えてきた。今のところ、霧雨の中、誰にも会わなかった。問題は、入り口玄関で番をしている警備室に常駐している警備員。そして、休暇や代休で寄宿舎でくつろいでいるだろう女性隊員。
でも心優の部屋は、一階奥にあって、何とかなると思う。……思う。
「もう降ろして。歩けそう」
「無理しないでください」
心優は意地でも准将を降ろさなかった。
「ごめんね、園田さん」
「いいえ。気が付いたのが私で良かったです」
「本当ね……」
やっとくすりと笑ってくれた息づかい。そして心優にそっと抱きついてきて、同じ女なのに心優はその柔らかさにドキリとした。
いま、まったく思ってもいない『女性』と一緒にいる。心優の頭の中はどうにかなりそうだった。『冷たい無感情なロボットのような人』と雅臣が崇拝している人が、こんなにも一人の女性として崩れるだなんて。
「もう平気かもと思ったけれど、全然駄目だった……。すごい強烈なフラッシュバックが来て……」
「そうでしたか。先日、駐車場のことを気にされていたのは、そう思われたからなのですね」
「ここのところ、調子が良かったのよ。だから、もう大丈夫かも。もう……心配させなくていいかも、気を遣わせなくていいかも、迷惑をかけなくていいかも……と思って……」
心優の首筋に、蕩々と熱いものが流れる。甲板の冷たいロボット、女王様が、女として妻として熱い涙を流している。
「駄目だった、全然、駄目だった。むしろ……強烈すぎた……」
この人は、完璧じゃないし、なんでも出来る女王様でもない。この人も、一人の男性を好きなために、迷って落ち込んで戸惑う一人の女性。
ついに心優の目にも涙が浮かんでしまう。ミセスは深い愛を長く紡いできた上級者かもしれないけれど、それでも、今の心優にはその気持ちの切なさが響いて響いて仕方がない。
「どうしよう、うんと怒られちゃう……。旦那さんにいちばん怒られそう。長沼さんにもすごく怒られる……」
旦那さんや同僚の男性に怒られる、どうしよう――と、まるでお兄さん達にいつも叱られている妹のように困っている。
「わたし、大隊長が真っ赤になって怒ったところを見たことがないので、それなら見てみたいですね」
涙をぽとりと落としながらも、心優は笑って見せた。
「長沼さんも根をもつタイプでやっかいだけれど、うちの旦那さんは、しつこいの。ほんと、いつまでもしつこいの」
本当に可愛い女の子みたいな言い方だったので、心優はびっくりしつつも、笑ってしまっていた。
ああ、初めて。この人が『じゃじゃ馬の末娘』と言われているのが、わかった気がして。
―◆・◆・◆・◆・◆―
ついに玄関に来て、そこに来ると流石に御園准将が背中から降りたがった。
そっと背中から降ろして、まだおぼつかない足取りで立った彼女を心優は支える。やはりまだ力無い……。
よろめくミセス准将の肩を掬い抱き、心優はついに玄関を通る。ドアを開けた直ぐそこに、警備室がある。そこで女性の警備隊員が交代で二十四時間詰めている。
男性の侵入を防ぐ為でもあって、部外者を入舎させないためでもあった。
そこを、ミセス准将と並んで歩いて通る。
「待ちなさい」
ミセス准将と同世代ぐらいのベテラン警備員が、ガラス窓を開けて顔を出した。
「園田さん、お客様は前もって入舎手続きをして許可が出てからですよ」
この寄宿舎にいる若い女性隊員は、このお局様のように口うるさい彼女を煙たがっている。まあ、どこにでもある関係性であって光景でもあった。
その警備女性が、険しい眼差しで、力無く立っている栗毛の女性を覗き込む。
「ごめんなさい、少し……休ませて頂けますか……」
准将のいつにないやつれた顔のせいか、眼鏡の警備女性は一目では『ミセス准将』とはわからなかったようだ。
「具合が悪いのですか。歩けないのならそこの『面会場』でお休みになられて、医務室から軍医をお呼びいたしましょう」
「それは困るの」
きっぱりと拒否する言い方は、既にどんな隊員も口答えをできなくなるミセス准将の物言いだった。だが、警備女性はそれに気が付かない。しかも、これは職務だからとますます眉間に皺を寄せ、険しい顔に。
だから心優も焦って、彼女に告げる。
「長沼准将の指示です」
そこでやっと。警備女性が顔色を変えた。しげしげと御園准将を眺め、青ざめた顔になる。
「み、御園准将」
「宮下さん、お願いします。誰にも見られないように、ミセス准将をここで休ませてください」
「わ、わかりました。お手伝いいたします」
彼女が警備室から出ようとすると、ミセス准将が止めた。
「結構よ。ありがとう。貴女の職務はここから離れてはいけません。ご迷惑をこれ以上かけられません。あの、長沼さんが来たら私のところへ内密に案内して頂けますか」
「しょ、承知いたしました」
園田さん、お願い。
また御園准将の顔色が悪くなってきた。寒そうに震え始めている。心優は彼女を抱きかかえ、先を急いだ。
ランチタイムで人が動き始める前に、なんとかして心優の部屋に辿り着いた。
「こちらで横になられてください」
ベッドにひとまず彼女を座らせる。持ち直したと思ったのに、座った途端に、御園准将が口を覆ってうずくまった。
もの凄く気分が悪そうで、額には汗を滲ませている。
「吐きたいのですか。お待ちくださいね」
急いで入浴用に置いている洗面器をベッドの下からとりだし、准将の前に差し出す。
本当に彼女が吐いた。嗚咽が部屋に響き渡る。見ていると心優も汗が滲んでくる。あのミセス准将が、こんなにも無様な姿を晒している。
「大丈夫ですか」
畏れ多いことも忘れ、彼女の隣に座って背をさすった。
「あ、ありがとう、」
少し収まったのか、彼女はとても美しく上品なハンカチをとりだし、口元を拭いた。
また寒そうに震えている。そして心優に構わず、自らベッドに横になった。
でも、ハアハアと苦しそうで見ていられない。
「雨でお洋服が湿ってしまいましたね。わたしのものになりますが、着替えを出します」
背負っていて感じていたが、御園准将の体格は心優に近い。身長は彼女の方があって、でも、体のバランスが似ている。そして背負っていて感じた彼女の腕は、以前に鍛えた痕跡が窺えた。初めて『元パイロット』だと実感した。
クウォーターだから、日本人の女性よりは体格が良い。ともすれば、日本人男性の標準体型と違わないほどの。そこに持って生まれた身体能力と鋭い感性が加わって、女性ながらにパイロットをやってこられたのではないかと思えた。
備え付けのクローゼットにしまっている着替えの部屋着を取り出す。トレーナーとスウェットパンツという、優雅なミセス准将には似つかないもので、非常に躊躇った。
そこでノックが聞こえた。『園田さん、いらっしゃいましたよ』。警備の宮下さんの声だった。『どうぞ』と声をかけると、勢いよくドアが開き、そこから制服姿の男性がずかずか入ってきた。
「葉月ちゃん」
長沼隊長が到着した。彼はベッドで苦しそうに横たわっているミセスへと一目散に駆け寄っていく。
しかもベッドに跪いて、心配そうに彼女を覗き込んだ。そんな長沼准将も初めて見る。
「ごめんなさい……、長沼さん……」
さらに御園准将がもうしわけなさそうな情けない顔で彼を見上げている。涙まで浮かべて。
いつも狸と狐の化かし合いを全力でやっている若き准将二人の、威風堂々としている姿はどこにもない。
「どうして、いつ横須賀に来ていたんだ」
「……実家に……、ひとりで、いいえ……、いつもの彼の付き添いで、父と母に会いに……」
「その彼はどうした」
御園准将がまた申し訳なさそうに黙り込んでしまう。でも、長沼准将は『読めた』ようで、呆れかえる様子で顔を覆い大きな溜め息をついた。
「まさか! あの彼まで、小笠原の秘書官を困らせるように、まいたのか!」
「向こうはプロだから難しいことだとはわかっていたんだけれど……、その、できちゃったので……」
「できちゃった、じゃないだろ!」
どんなことでも、得体の知れない笑顔で受け返す長沼准将が、本当に顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ご、ごめんなさい。本当に……」
「今すぐ、いつもの彼に連絡しろ! 君がいなくなって、とても困っているだろう。滅多に失敗しないベテランのプロ、しかも当主である御園のお父さんの命を受けて懸命に君を護っていたというのに。彼のプライドを傷つけたことになるんだぞ!」
「わ、わかっている」
心優は目を丸くするだけ。いつも『張り合っているライバル』で互角の会話でやられたらやり返している対等の准将二人ではない。
それに、大ボスがあんなに怒りを露わにして怒鳴っているのも初めて見た。
「園田!」
大ボスに突然呼ばれ、後ろに控えていた心優は『はい』と飛び上がる。
「彼女のバッグを貸してくれ」
そこはいつもの大ボスの怖い目で迫られた。
女性のバッグなのに。しかもプライベートの……。心優はミセス准将をちらっと見たが、彼女がもう申し訳なさそうな表情で苦しそうにしているだけでなにも言わない。
「早くしろ!」
「イ、イエッサー」
ベッドの端に置いていた、白いクラッチバッグを恐ろしいあまりに差し出していた。
持ち主の許可も得ずに、長沼准将がバッグを開けてしまう。ああ、女性のバッグなのに……。そんな……。
彼が見つけたのは、白いスマートフォン。それをミセス准将に差し出した。
「いま、俺の目の前で、直ぐ彼に連絡をしろ。拒否をすれば、もう、君とは二度と組まない。こんな勝手な行動をする人間は信用できない」
長沼准将が真っ赤になったのも驚いたが、今度はミセス准将が青ざめたから、心優はまた驚きを隠せない。
「わかりました」
そして彼女はもう、長沼准将に全てに於いて降伏したかのように素直。こんなミセス准将を見ることになるだなんて、信じられない光景だった。
彼女が『彼』という人に連絡している。ご主人でもなさそうで、でなければ、御園家のボディガードのことだろうかと心優は黙って予測する。
「エド……、葉月です」
その『彼』に通じたようだった。
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