18.猫の目に映るのは

 『あの人』は、本当に秘書室をかき乱してくれる。


「来年の巡回任務展開の詳細が来たぞ」

 長沼准将の隊長室に呼ばれていた城戸中佐が、秘書室に戻ってきた。

 室長の中佐がデスクに座ると、秘書室メンバーも皆デスクに戻ってパソコンモニターに向かう。

「いつものフォルダにある中の『二月展開』というファイルを開いてくれ」

 全員がマウスを握って、クラウドから落とすファイルを探して開く。

 どのメンバーのモニターにも城戸中佐が大隊長室から持ち帰った資料が表示される。心優も同じようにモニターにファイルを開いた。


「それをひと通り確認しておくように。二月にある展開任務で乗船する予定の隊員名簿もある。ブリッジ指令室の組織形態と、隊員名は覚えておくように」

 塚田少佐に、先輩達が一斉にどよめく。

「またミセス准将が『艦長』に任命されているぞ」

「来年の二月か。この人、一年に何度も任命されるな。もう超ベテランの域に来ているんじゃないか」

 お兄さんや親父さんたちの話を聞きながら、心優も言われたとおりにひと通り眺める。ファイルの内容は、海域空域のパトロール強化と実戦的訓練を目的とした国内海域周回航行任務の決議内容だった。


「いつもの如く最終決議までは、俺たち長沼大隊本部でとりまとめ、出発前の最終会議までを取り仕切ることになった。よろしくな」

「イエッサー、室長」

 皆が息を合わせ、志気を高める。


 それでも、いつも静かで無駄口を叩かない兄さん達は、まだひそひそしていた。

「何回、あの人ばかり行かせるんだよ。他にも艦長クラスの大佐、いっぱいいるじゃないか」

「嫌がらせにもほどがあるな。御園派を敵視している副師団長が、自分のところの大佐が失敗しないよう出し惜しみして、若い将校のミセスはいつ失敗しても切り捨てられるように差し出して、毎回候補者にしているんだろう」

「でも、あのミセス准将は、ご自慢の雷神を引き連れて、『雷神のためになる』と喜んでいくんだろうな」

 うんうん。と、先輩達が頷きあっている。


 兄貴達の話に、最年長の親父さんが少しだけ違う話し方をする。

「嫌がらせと言うよりは、嫌がらせで何度も行かせていたら、彼女以上に任せられる艦長がいなくなってしまったのだろう。ここ横須賀にいる副師団長なんて壁を越えて、御園准将は既に司令の絶大な信頼を勝ち得てしまった。あちらの派閥さんも、彼女の首を絞めようとしたのに、逆に育て上げてしまったというところかね」

 もう嫌がらせではない。『彼女しかいなくなってしまったのだ』と親父さんはため息をつく。


 そして塚田少佐も。

「仕方がないでしょう。いま、日本海と東シナ海の海域を巧みに航行できるのは、ミセス准将ぐらいです。他の艦長ですと、保守的になって内側を航行して済ましてきてしまうので、ギリギリの路線で踏ん張ってくれることを考えると、副師団長の人選というよりかは、総司令からの希望かもしれませんね」

「そうかもなあ。ここ数年、防空識別圏の摩擦でほんの数分でも不明機の侵犯を許してしまった艦長が続出。小笠原のミセスと岩国にいるベテラン高須賀准将ぐらいか、侵犯せず、侵犯をさせず、パイロットを駆使して抑えられるのは。とにかく、彼女に頼りきりだよ。そして彼女が航海に出ると『海上現場はミセス担当、陸からの現場補佐は長沼担当』というタッグを組まされて、航海に出ていなくても、うちもサポートで忙しくなる……と」

 秘書官になって二年目の心優には、何となくわかるようになった話題でも、中に入っていけない話だった。


 それでも、ミセス准将がここ数年で日本側の総司令官から信頼される艦長になってしまったことだけはわかる。

 そして、今の心優はいままで思わなかったことにも気が付いてしまう。

 本当だったら。この絶大なる信頼を得ている女艦長と一緒に、臣さんもエースのキャプテンとして雷神のパイロットとして任務に勤しんでいたはずなんだと。

 それが彼が思い描いていた望んだ将来だったはず。心優は室長のデスクで、もう仕事を始めている彼を見た。


 あの冷徹な眼差しで、部下達の囁きも意に介せず、まっすぐに書類とデーターに向かっている。

「第一回目の顔合わせの会議に出す資料ファイルを作成する。それぞれ担当させるからな」

「イエッサー」

 そろそろ無駄話はやめろよとばかりに、彼の強い声が秘書室に響き渡る。

 先輩達も、いつもどおりの真顔でデスクについた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 心優が担当したのは、搭乗するクルーの一覧だった。

 横須賀の隊員、小笠原の隊員、そしてフロリダ本部から派遣されてくる隊員。

 それぞれの部署を担当するクルーに分け、パイロットの飛行部隊の編成別に一覧をまとめ、トップの補佐官チームをまとめる。


 その頂点に、あのミセス准将。

 右腕の副艦長は、橘大佐。

 艦長になれる者は、海軍飛行士(パイロット)か海軍航空士(航空機搭乗員)に限られる。


 こんな時、心優はミセス准将が本当に女性とは思えなくなる。優秀な補佐官を多数従えていても、空母艦で海に出ると言うことは、ひとつの要塞基地を動かす長であって、多数のクルーという市民を乗せて生活を総括する市長みたいなものでもある。国際連合軍のフロリダ本部から大型艦船での任務指令が下れば、その時は五千人を収容することになる。


 それで国境付近を航行し、昼夜を問わず、スクランブルに対応する。

「はあ」

 これが臣さんの『あの人』。壊れた夢そのものを、空母に乗せて海の彼方へ往く人。一緒にいるはずだった人。

 女性としてもとても敵いそうにないけれど、この人が男性でも、敵わなかった気がする。


 雅臣にとって、心優はカラダだけ。合間の安らぎだけ。彼が本当に欲しいものを心優はひとつも持っていない。ため息がでる。


「クルー全員となると、たくさんだな。手伝おうか」

 定時のラッパが基地中に響いたのに、いつもの如く事務作業はもたついている心優を見て、隣の塚田少佐が声をかけてくれた。

「いいえ。大丈夫です。これぐらいさせてください」

 そうでなければ、ミセス准将なんて程遠い。勿論、まったくなれっこないのはわかっていて、心優は見比べている。


 秘書室の誰もが一時間ほど残務をして片づけを始めた。心優はまだ集中してまとめている。キーボードを打っている。

「おい、園田さん。あんまり根詰めるなよ。顔合わせはまだ先なんだから」

 最年長の親父さんが心配して声をかけてくれる。他の兄さん達も『そうだぞー』と笑いながら帰り支度をしていた。

 彼等が『お先に失礼いたします』と帰宅しても、室長の城戸中佐はまだデスクに。そして塚田少佐も片づけを終えたのに、心優のそばで見守ってくれている。


「塚田、もういいぞ。俺が彼女を見ているから」

 気心知れている塚田少佐だけになったせいか、雅臣からそう声をかけてきた。

「そうですか。……では、室長にお任せしますね」

 いつも笑わない眼鏡の少佐が、妙にニンマリした笑みを見せて帰ってしまった。

 また、デスクで一人、雅臣がちょっと頬を赤くしてバツが悪そうな顔。

 でも心優はまだまだ、パソコンの画面に集中している。臣さんと二人きりだなんて『ときめき』は今はどうでもいい。


 彼も暫くは、室長デスクで自分の仕事を続けていた。

「まだ、頑張るのか」

 はたと我に返ると、いつのまにか城戸中佐が隣の塚田少佐の席に座っていた。

「はい。あの……。横須賀のこの甲板要員の役割と、フロリダ本部のこの役割が同じなのか、よくわからなくて」

「どれ」

 元パイロットの彼が心優の手元にあるクルー隊員の名簿を眺める。


 和名の部署名と英語の部署名がよくわからない。

「これとこれが同じ役割のポジション。甲板では黄色のジャケットを着用するポジション名。これとこれは緑のジャケット。あとでジャケットの色とポジション名の早見表をつくってやろう」

「ありがとうございます。……わたし、まだ甲板をみたことがないので」

「あー、そうだったか。今度、長沼隊長が監察に行く時に一緒に船に乗るか」

 初めて、空の世界に? 心優の頬が一気に緩む。

「はい。是非!」

 心優が喜ぶと、彼もにっこりと爽やかな笑顔を見せてくれる。そしてほっとしたように心優を覗き込んだ。


「どうした。力んでいるな。空母航海任務のアシスト業務は初めてではないだろう」

「いままでは、皆さんのお手伝いばかりだったから。今回は初めて、わたし担当のお仕事をくださって、ありがとうございました」

「いつまでも新人でもないだろう。やる気があって室長としては嬉しいけれどな」

 それでも、彼の大きな手がそっと心優の手をとって握った。

「今日はもういいだろう。一緒に帰ろう」

「は、はい……」

 彼の眼差しが、切ない男の目になった。夕暮れの二人だけの秘書室、静かな夕の視線は心優の心を甘く苦しめる。


 二人だけで歩いていても、上司と部下だから誰もおかしな目線は向けない。それでも二人でにっこりと目を合わせて歩く帰り道は、また心優の心を優しく包む。

 葉桜の道を、今日も警備口に向かって歩いている。上司と部下の顔で、でも、二人の間ではもう臣さんとミユ。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 御園のタブーを聞かされてから、一ヶ月が経とうとしていた。

 梅雨の季節で、しとしとと雨がよく降る。


 今夜も彼の熱い肉体に寄り添って、心優は眠っている。

 でも、セットしたアラームが鳴って仕方なく、ベットの上で起きあがる。


 雨が降っていても、外の街灯の明かりでほんのり明るい『パイロット部屋』。

 薄明かりの中、彼を起こさないように帰ろうとベッドを降りようとしたら、窓の外から眩しい光がフラッシュし、それと同時に大きな音が轟いた。


 バリバリと夜空に響きわたる『雷鳴』。それが合図だったかのように、ザアッと激しい雨の音。それまでしとしと降っていたのに、どしゃ降りになった。

「泊まっていけよ」

 ベッドを降りようとしている手を、掴まれていた。雷鳴で彼も目が覚めてしまったらしい。

「こんなどしゃ降りの中、びしょ濡れになるだろ」

 掴まれた手首を、雅臣がさらに自分のそばにと引っ張っていく。

 結局、心優はまた彼の隣に寄り添うように横たわってしまう。

 また、彼の熱い肌に抱かれる。雅臣が心優の素肌にもタオルケットを掛けてくれる。そしてまた窓に閃光が瞬き、大きな雷鳴。

「雷神様のお通りか」

 彼がぎゅっと心優を抱き寄せる。だから心優も、彼の胸に頬を寄せて抱きついた。

 ぴたりと抱き合って、その『雷神』を窓から見上げている。


 バリバリと響き渡る音、素早く走る稲妻。

 光の尾を引いて、飛行音を轟かせて飛び去っていく白い戦闘機。『ネイビー・ホワイト』。それが空を飛んでいる時は、こんなかんじなのだろうか。


 横須賀にも数機配備されていて、心優もたまに青空に見つけることがある。艦載機として空母に配備しているので、いつも沖合から基地に向かって飛んでくる。


 彼は、この軍が造り出した新機種の白い戦闘機、現在は航空マニアに『ネイビー・ホワイト』と呼ばれるようになった白い戦闘機に乗っていた。


 それも小笠原の『雷神』にだけ配備されている新機種。紺ラインがある白い戦闘機、《海軍の白》という名づけをされたエースの証となる戦闘機に一番最初に乗っていた。


 ビカビカと激しく瞬く閃光が、壁にいるもうひとりの男『空を飛ぶ男』を何度も浮かび上がらせた。

 こんな、雷神が通るような飛行機に乗っていたのかな。心優は雷の夜に思いを馳せる。


「なにを考えているんだ、心優」

 ただ黙って抱きしめられている心優の顔を、雅臣がどこか不安そうに覗き込む。頬にかかっていた黒髪の毛先を、彼の長い指先がそっとのける。

 心優の顔も、稲妻の光があたった。すると、彼がくすりと笑う。


「猫の目が光った」

 心優は笑わなかった。雅臣は笑っているけれど『雷神様のお通り』と言った時から、彼の心も空を飛んでいると思ったから。


 そんな時の彼は笑っていてもそっとしておく。なんの言葉も挟まず、でも、そばにいる体温だけは離れないように彼の隣で寄り添っている。


「どうした。機嫌の悪い猫みたいだな」

「そんなことないですよ」

 少し当たっている。彼の邪魔をしないよう、じっと息を潜めてそばにいるだけ。

「目が覚めたな……」

 まだ雷鳴轟く中、彼が機嫌を窺うようにして心優のくちびるをふさいだ。


 目覚めたばかりの気怠さの中、男の匂いが心優を覆う。

 もう幾夜も重ねた肌、慣れてきた睦み合い。彼のくちびる、舌先、そして心優の身体の奥で溶けてしまいそうな彼の指先。そして。ひとつになった時の体温と、男の形に馴染んでいく女のカラダ。


 覆い被さった彼はもう心優の真上。心優の猫の目をいつまでも楽しそうに見つめながら、また愛してくれる。


 心優にとっては、初体験のドラッグのよう。身体は疲れているのに、もういいと満たされているのに、与えられるとまたそれを食む。

 稲光が、女の肢体を青く浮かび上がらせる。女の裸体に抱きついて、男が貪っている様は淫らで動物的。猿が猫を啼かして犯している。


 だけれど。心優は女としての熱に浮かされながらも、最近、少し思っている。

 身体だけ愛しあえば、なにかが見えると思ったけれど『違った』。

 そして、中佐殿もきっとそう。波長があった女をそばに、体温を分け合う穏やかさに癒されても、でもだからって『彼の空は戻ってこない』。


 肌の体温が溶けあっても、心は溶けあわない。彼が欲しいのは、心優の身体や体温にはない。こんなの彼の満足ではない。


 でも、彼の大きな手が心優の細い腰を掴んで激しく揺らす。心優も彼に抱きついて、夢中なその人の首筋や顎にキスを繰り返した。


 心優は最近、一ヶ月前の塚田少佐の言葉を思い出している。

 ――女からふるんだ。もって三ヶ月。それ以上つき合えたら本物だ。

 一ヶ月で心優はもう、彼のそばにいる苦しさにみまわれている。


 彼のことは好き。シビアで冷徹な目をした室長の顔もドキドキして好き。二人だけの時は、大笑いをして、すぐに心優に抱きついてきてふざけたことばかりいって、肌を欲しがってくれるお猿の臣さんも好き。


 そして、シャーマナイトの狂おしい眼差しを愛している。でもその眼が、壁にいる男と同じ顔になった時だから哀しくなる。


 真っ直ぐに空を愛している彼の眼を、愛しているだなんて。掴めない夢を追っている彼の気持ちが満たされないのに、その満たされない時に輝いている眼がいちばん好きだなんて滑稽すぎる。


 どうしてパイロットの彼に出会えなかったの? 心優の心が痛く軋む。


 この人の幸せは、ここじゃない。珊瑚礁のアクアマリン色の海にある空を、白い戦闘機で飛ぶことにある。いまも彼の心はそこを飛んだまま。

 わたしを見ながら、彼はそれを探している。ないから、心優の顔を見て、哀しい色の眼で微笑む。


「どうした。機嫌が悪いと思ったら……、なんか……激しいな」

 彼の腕に落ちて果てても、心優は彼の腕の中でまだ欲しがっている。心優もそう、彼がそうしてわたしと繋がって私の一部になっている今この時しか、実感できないから。

 涙は出ない。見せない。その代わり、彼と繋がっているそこが熱く泣いている。涙の代わりに溢れる熱が彼を引き留めている。

 雷鳴と激しい雨音が、心優の儚い声をかき消してくれる。

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