16.タブーには気をつけろ

 

 もの凄い音速飛行音で心優は起きあがる。

 素肌にタオルケット、心優の乳房の上を滑り落ちていく。

 そんな自分の有様を見て、はっと我に返る。タオルケットを肌に引き寄せ、胸元を隠した。

 夜明け。海が近いこの官舎の窓は、葡萄色に染まり明るくなってきている。


 心優の直ぐ側に、熱い身体を横たえている人が眠っている。

 心優は昨夜の話を思い出す。



 心は傷ついても、パイロット。コックピットを降りてもパイロット。他のパイロットを見たくないと拒絶した時期があったとしても、いま彼は陸からパイロットを守っている。

 彼も裸のまま眠っていて、心優は逞しい素肌の背を見て静かに微笑む。

 大丈夫。いまはもう、この人はちゃんと大好きな空と向き合っているから。

 あとは、ミセス准将とのわだかまりを完全に消せたら、本当の笑顔になれるんだろうけれど……。


 雅臣のパイロット腕時計は、朝の五時を示している。心優はそっとベッドを降りる。


 昨夜、『御園のタブー』の話を聞いて、いろいろと解釈しようと雅臣に質問したり、丁寧に応えてもらっているうちに夜が更けた。

 大変重い話で、気が沈んだ……。その後、寄宿舎に帰ろうとしたけれど、まだ気が済まなかったのか『お猿さん』に捕獲され、ベッドという名のお猿の住処(すみか)に連れ去られる。


 夜半になって彼の寝息が、微睡む心優の背中をくすぐった。心優の腰に巻き付いた逞しい腕、ぐっと自分の身体に抱き寄せてぴったりとくっついて彼は眠った。

 まるで心優を帰さないかのような、そんな抱きつきかた。夜中でも寄宿舎には帰れるけれど……。なんとなく彼の寝息を大切に感じていたら、自分も眠ってしまったようだった。

 目覚めると、彼の腕はほどけていた。だから、心優はそっとベッドを降りて、寄宿舎に帰ろうとする。

「帰るのか」

「はい」

 背を向けて眠っていた彼が、タオルケットに下半身を包んだまま寝返った。鍛えている肉体が朝の光を受けて、筋肉の陰影が色濃く刻まれる。腹筋は心優より割れていた。

「中佐はまだ、寝ていていいですよ」

「あ、中佐といったな」

「あ、臣さん、でした」

 でも彼が致し方ないように微笑む。

「でも、もう園田の顔だな。……昨夜も、楽しかったよ。また来いよ」

「はい」

 下着を拾って身につけていると、また官舎の上空に音速の飛行音。

「御園のタブーのこと、気をつけてな」

「わかっています」

 気が沈んだ重い話を思い出しながら、心優はシャツのボタンをとめる。


 雅臣も起きあがって黒髪をかき上げている。ベッドヘッドにもたれて、彼がまた基地で見せている寂しそうな目をしている。


 その視線の先は、また『あの人』だった。

 恋とか憧れているとか、そんな『恋する女性という対象ではない』のに、心優の胸につきんとした痛みが走った。


 恋とか、欲しい女性とか、そんな対象ではなくても、敵わない存在ってあるんだ。心優は初めて、女の苦さを噛みしめていた。


 もうすぐ夜が明ける。その前に心優は人目を避けるようにして、官舎を出て行く。基地の中にある寄宿舎へと帰る。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 水平線からすっかり太陽が顔を出して、明るくなった道を歩く。

 警備口でIDカードを出して、基地の中に戻る。


 寄宿舎は基地敷地内の端にあって、そこからは官舎の団地群も見えるし、例の『駐車場』も近くだった。


 直行便ゲートの駐車場。そこで、十数年前、御園葉月准将は傭兵に胸を刺され、危篤状態に陥った。


 犯人の男は、この連合軍の本部がある『フロリダ本部』の中央で、何度も指令を受け任務をこなしていたフリー契約の傭兵だった。

 その男と、ミセス准将の間に、どのような関係があるのか。その話はとても長かった。


 だけれど、心優が聞いた限りでは、城戸中佐が説明してくれた通りに、ミセス准将にはなんの非もなく『完全たる被害者』だった。なのに何故、彼女がターゲットにされたのか。御園という軍人一家がもたらした栄華の影を、彼女が、小さな葉月さんがその身に受けていた。まるで悪魔に気に入られた生け贄のように思えるほどに。


 とても酷い話であり、そして……その事件が何故起きたかを聞くと、『タブー』と呼ばれる理由も頷けるもの。


 御園のタブーは、イコール、『面白半分に噂で話したものは、横須賀基地に害するもの』と認定されるほどのものだった。

 つまり『基地にとっては、都合の悪いもの。出来れば波風を立てたくないもの』であった。


 そこに『横須賀訓練校の不祥事』が絡んでいた。横須賀訓練校が学生の不祥事を隠そうとしたが為に起きた事件。その不祥事に遭遇し正当な裁きをと立ち向かったのが『御園皐月』という女性教官。御園葉月准将の、姉上だった。


 


 ミセスが基地内で刺されたという事件は、当時、新人隊員だった城戸中佐もリアルタイムで耳にしていた世代で、基地内が騒然としたことを良く覚えていると教えてくれた。


 新人隊員も驚くその事件。その時、大勢の隊員が御園葉月大佐が刺されたことを、記憶している。

 人の口に戸口はたてられない。上官から部下へ、そして先輩から後輩へ。どうしても『事件』として語り継がれていく。だが問題は、『何故、御園准将が傭兵に狙われたか』。御園家の令嬢だから、大佐嬢だったから、その若き権威を恐れてというものではない。なのに狙われてしまったその『原因』を探ると、横須賀基地のタブーに触れることになる。

 淡々と話してくれる臣さんの言うことを、心優も心を乱しながらも静かに聞き続けた。


 傭兵の犯人は逮捕され、裁判も終え、死刑が確定し、その刑も執行され事件は完結したとされている、ここまでは誰もが耳にしていること。

 頬が冷たくなる。血の気が引くとはこのことか。あの優雅な女王様は、やはりただ事ではない人生を生きていた。


 危険を顧みず、フロリダの傭兵部隊の危機を救うために、単独潜入をしたとか。そのテロの主犯格である男を討ち取るために、自らが的になり、犯人ごと撃ち抜くようにスナイパーに指示をしたとか。そんな噂は心優も聞いている。

 でも、それらは遠い映画の世界のように実感が湧かない。でも、この基地内のすぐそこで、そんな血なまぐさいことが、よく会う女性の身の上に起きていたという衝撃。


 初めて、自分は『軍人なのだ』と思わされた。軍人である以上、なにかの責任を負えば、命の危機も伴う。そんな職業なのだと。


 だが、それは少し違っているようだった。青ざめている心優を宥めるように、雅臣がそっとおかわりの珈琲を入れてくれた。

『これは箝口令がでているので、園田にもその心構えで、この話を知り、気を付けて欲しい』

 彼はそう付け加えて、続けた。


 箝口令が出ているのは、御園准将を刺した傭兵が、元は横須賀基地の本部員であって、軍人だった当時の横須賀訓練校で起きた『不祥事』の調査に絡んでいたからだった。


 元々を辿れば長くなるので――と城戸中佐は詳しくは省略するとしたが、御園准将が刺されたことを紐解くと、どうしても横須賀基地にとって探られては痛いところに辿り着くのだと言った。


 だから、ミセス准将が刺された事件については話題になっても『深入りはしない』というのが、基地の中では鉄則になっている――とのこと。

 恐ろしいタブーだと解った。でも心優は冷たくなった手先をぎゅっと握りしめ、思い切って尋ねる。


『准将がおっしゃられていた、駐車場までもが、私を一人にするのか、というのはどういう意味だったのでしょうか』

『あのような酷い事件現場を知っている人間は、もう私一人になってしまった……と、准将はよく言っている』

 城戸中佐は辛そうに続けた。

『その傭兵は、ミセスの姉上も殺している』

 心優の心臓が大きくゆっくり動いた。それはとても痛いもの、苦しく感じるもの。そのフロリダ本部が契約していた傭兵の残酷さを目の当たりにした気分。


 しかもそれだけではなかった。


『ミセスの姉上は横須賀の訓練教官だったそうだ。祖父と父親譲りで武道に長けていたようだ。その時に、上層部が隠そうとした不祥事を挟んで、御園の長女と調査命令の密命を受けていた傭兵の間で、不祥事の扱いに行き違いがあったらしく、対立することになったそうだ。そのせいで、当時、本部員だった犯人が、上からの指令で受けていた調査を失敗することになった。仕事に汚点をつけた姉を貶めようとしたその傭兵は、横須賀基地の学生をそそのかし、姉を襲わせた。その時、御園准将も監禁されている。彼女が十歳の時だ。姉は……男達に弄ばれたようだが、葉月さんは姉にいうことをきかせるための『人質』に使われたらしい。姉をいたぶることで報復を楽しんだ傭兵は、最後は姉の目の前で妹を刺殺するという冷酷な犯行も実行している。御園准将はその時に、一度、その傭兵に殺されかけている」


 また、とんでもない話が出てきて、心優は気が遠くなりそうになった。十歳の少女が監禁? しかもお姉さんが酷いことをされるための人質になって、それを目撃して、最後は姉をより哀しませるために、妹を目の前で殺そうとした?


『その時のショックが大きく、御園准将は主犯格だった傭兵の顔をすっかり記憶していなかったらしい。長い間、姉を襲った学生がいちばんの悪だと思って生きてきたそうだ。なんの因果かわからないが、恋人だった御園隼人大佐とでかけた旅行先で、その男に遭遇してしまったらしい。だが、ミセスはまったく彼のことを覚えていなかった。でも、男は記憶を取り戻す前にと口封じに、再度、大人になった彼女を襲ったのだと――』


『二度も、同じ男にミセス准将は襲われたということなのですか』

 そうだ、と、城戸中佐が重苦しく頷く。


『傭兵が敵視した姉は殺され、悪だと思っていた学生達も口封じに傭兵に殺され彼等も被害者だったと知り、そして傭兵を御園家が総力をあげて確保して警察に突き出した。そして真っ当な償いの道を行かせた先で、真っ当な償いとして、男は死刑執行され、御園准将より先にこの世を去った。だからなのだろう。長沼准将にも彼女は時折言うそうだ。いちばん小さかった子供の私だけが、あの悲惨な事件を記憶していると。自分が刺殺されそうになった現場であった駐車場がなくなる。現場までもがなくなる。姉と監禁された別荘もいまは取り壊されて更地になっているとか。だから、『一人にするのか』と言っているのだと思う……』


 御園のタブーは、横須賀基地の不祥事を原点に、正義を信条とした女教官と、任務の徹底遂行を信条をした有能隊員から起きた軋轢。


 上層部が知られたくないことが含まれ、ましてや『犯罪者』と知らずに任務の要請をし長年契約していたフロリダ本部の落ち度にも触れる。

 なによりも。まだ御園の力を持っていたい本部が、御園姉妹への恥辱的な仕打ちを面白半分に噂する者が、軍のバランスを崩す要因になるのならば排除するという方針らしい。


 大抵の隊員は『ミセス准将は、この基地で傭兵に襲われたことがある。余罪があった傭兵はそれをきっかけに逮捕され死刑となった』とまでは知っているが『でも、どうしてそんな酷いことに。ミセスはどうして襲われた?』という最深部に疑問をもつことを『タブー』とされていた。


 深く知るものは限られている。知った者は、口を閉ざすか、上手く流して気を逸らすことを必要とされる。

 『その話には深入りしない方がいいよ。横須賀基地にいたいのなら。ここから出世をしたいのなら。飛ばされたくないのなら』。そう伝えていくのが、御園のタブー。




 初夏の爽快な光の中、心優が見つめている向こうに、直行便ゲートの駐車場が見える。

 いま、心優の前方にその駐車場が見える。どこでミセス准将は刺されたのだろうかと、遠く見つめる。

 あまりにも身近すぎて、気温が上がってきた早朝でも、心優は少し寒気を感じて震えた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 初めての『朝帰り』だった。まだ宿舎の女性達が眠っている間にシャワーを浴びて、新しいシャツに替え、食堂で朝食をとって出勤をする。

 彼ももう出勤していた。パリッとした佇まいに戻っていて、心優がずっと見てきた大人のビジネスマンの横顔。本当はずっとその横顔に憧れていたんだけど、思ってもいなかった『お猿の本性』が予想外でびっくり。でもあれが心優の前だけだと思うとなんだか愛おしい。


 そのお猿な臣さんを思い出して笑みが滲み出そうになったが、心優はここは秘書室とグッと抑えた。臣さんも、完璧にお猿を封印しているのはすごいななんて、変なところに感心してしまった。


 いつもの事務仕事をする午前。それを終えると、正午のラッパが基地中に響く。

 今日の留守番を残して、事務処理が終わった人からランチタイムに入っていく。

 心優もあと少し。ちょっともたついてしまったのは『朝帰り』のせいかもと、反省しながら仕上げる。

「園田、今日は一緒に行こう」

 心優のデスクが片づいたのを見計らったようにして、隣の席にいる塚田少佐が立ち上がっていた。

 教育係なので良く一緒にいるけれど、今日はそれぞれの仕事をしていたのに……。

「時間がなくなるだろう。早くしろ」

 少しヒヤッとする。塚田少佐の目が、いつもの冷たい顔にぴったりの冷ややかな眼差しになって、上から心優を見下ろしていたから。

 そして、心優もその理由を見つける。『臣さんとわたしのこと』だと――。

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