15.海と空を失って
「意識が戻って直ぐに、忙しいだろうに御園准将が小笠原からすっとんできてくれた。嬉しかったよ。でも、辛かった。彼女も俺の足を見て、愕然としていて。まるで母親か姉貴のように俺にすがって泣き崩れた」
雅臣も自分の目の前にコーヒーを置いた。深いため息をつきながら、額を抱えている。足をひょっこりと動かしながら椅子を引いて座ろうとしていた。
やめた方がいいかな。心優は迷った。雅臣は椅子に座ると、心優を見ている。顔色がいつもと異なるが、目は心優が知っているシャーマナイトの目だ。
「甲板の無感情ロボット、若い頃からあの人はそう呼ばれている。空を飛んでいる時、無線から聞こえるあの人の声は抑揚がなく冷たい。感情を一切抑え込んだその声は、時にこちらの迷いを払拭させてくれる、気持ちをなくしてどんな過酷な判断を強いられてもその指令に従うことこそが『最大の使命で、それが防衛だ』と信じさせてくれる。俺達にとって、あの人の声と指示は最大の『後ろ盾』だった。もうその時、あの人の声はどんなに女性の声と違わなくても、女性の声には聞こえなくなる。機械にインプットされた声のようなもの。そして俺達も空の上で『戦闘機』という機械の一部になれる。それが、俺達を守ってくれている。そう思わせてくれる『無感情』。でも、彼女が誰にもできないほどに、機械になれるのは、それだけの感情と向き合ってきたからだ。そのロボットが、決して俺達に美麗な笑顔もみせず、泣き崩れもしない人が――」
臣さんの目に、涙が滲んだのを心優は見てしまう。その男の涙は、心優の胸を貫いた。
「あの人が、俺達には甲板のロボットだったあの人が、俺を見て、ぼろぼろ泣いた――」
彼が目の前で顔を覆った。その手の下から一筋の涙が落ちてきた。もう、心優も堪えられない。目頭が熱くなってきた。それだけ、この人の身に起きたことだと思うと哀しくなってしまうから。
「でも。それが俺の感情を余計に逆撫でした。言って欲しかったんだ。いつもの甲板の冷たい女上官の顔で、『なにやってんの。こんなところで寝ていないで、早く帰ってきなさい』と。なのに、あの人がパイロットの目の前で感情を露わにするってことは、『もう俺はパイロットじゃない。この人の部下でもなくなった』と思わせるに等しかった」
徐々に見えてくる彼と、彼が心を預けて任せていた彼女との『決裂』が。心優は息苦しさを感じてきた。聞きたくないことを聞いてしまいそうな、そんな予感……。
「意識が戻って最初に側にいたのは実家の母親だった。戦闘機に乗れなくなると確信しても、まだなにもしらない母親といる方が良かった。でも、あの人は駄目だ。あの人が泣いたのを見たら、どうしようもなくなって……」
そこで彼が口ごもる。微かに聞こえたのは『手のつけようがないほどに暴れた』だった。
いつも冷徹に仕事をしている室長がそんなになるだなんて想像も出来ない――といいたいところだったが、心優にはわかる。暴れたくなるその絶望感。心優がそのベッドにいたのなら、沼津の母に泣かれるより、いつも厳しいことばかり言うコーチがやってきて涙を流してショックを受ける顔を見せられる方が『ショック』だ。それと同じ。空と甲板で結ばれていた関係だからこそ、そこで母親か姉のような人に子供のように癇癪を起こす。
「その時、御園准将が言った。コックピットは戦闘機の中だけではない、私と一緒に甲板で空を飛べばいい。私もそうだった。私も戦闘機に乗れなくなるとわかって、いまの貴方のように暴れて癇癪を起こして、夫を困らせた。空への感触はなかなか抜けない、私もいまだって抜けない。でも、いまは雷神のパイロットが私を空に連れて行ってくれる。甲板にいても同じ、コックピットと同じ緊張感で空に挑む。私の隣に来なさい――そう言ってくれた」
「そうでしたか。でも、あの、臣さんは、甲板に残らなかったのですね……」
「うん。甲板に行けなかったんだ」
こんな時に、彼があの愛嬌あるにっこり笑顔を見せた。でも心優は逆に哀しくなった。その笑顔って、こんな時にあなたを隠すための笑顔だったのだと初めて知ったから。
「甲板に、行けなかったのですか?」
「うん。情けない話だが、怪我が治って小笠原に戻って、あの人と一緒に『指揮官』を目指そうとしたんだ。だけど基地から沖合にある空母へ届けてくれる連絡船に乗って訓練に向かう時、その船内で異様に吐くようになった」
吐く? 海軍の船乗り飛行機乗りが、吐く? もうそれだけで『精神的なもの』だと心優にも察することができる。
「俺は飛行機に乗れなくなったショックで、他のパイロットを見るのが嫌で嫌で、そんな甲板になんか行きたくない――と心の奥で嫌がっていたんだろう。後でわかったことだ。その時は、甲板から絶対に離れてはいけない、准将の隣で俺も指揮官になって空を護ろうと気持ちを切り替えたつもりでいたはずなのに。心は体は嘘をつかなかったということだ」
もう心優から言葉は出そうになかった。心優を現役から引退させた怪我では、そこまでのショックにはならなかった。心のどこかで『これで辞められる』と思って肩の荷が下りたと少しだけほっとした記憶が残っている。
でも、過酷な飛行で三半規管を酷使するパイロットが、コックピットでは吐かないのに、小型の連絡船で吐く。それも毎回吐いて、甲板には立てなかったと雅臣が付け加えた。
「そして少ししてから、御園准将に言われた。『横須賀に帰りなさい』と。その時も、もう、なんていうんだろう。あの悪ガキみたいな英太のことなど言えないほど、あの人につっかかたんだ。ありったけの暴言を吐いていたよ。でもそんな時こそ、あの人は怒りもせず、取り繕う笑顔も見せず、涙も見せず、甲板にいる無感情の真っ白な顔でただ俺の暴言をじっと受けていた。最後の通告も甲板にいる指揮官の声で言った――『いまの貴方には無理だから、陸に上がりなさい』と。つまり、空の男として生きていくことをあの人に止められたんだ。そして、切り捨てられた。冷たい目で俺を見て、あの人は背を向けた。横須賀の長沼大佐の補佐官として辞令がでて、俺とあの人の半年が終わったんだ」
切り捨てられた。期待に応えられなかった。
やっと、この人がミセス准将が来ると、どうにも割り切れないような頑なな態度になる訳がわかった。
いままでのあの人のミセス准将に対する不可思議な接し方を思い出しても、すべてがそんな哀しい出来事を挟めば理解できるものばかり。
秘書官として、あの人に上等のミルクティーでもてなすことで償っているの? 空部隊本部の秘書官として、陸から空の男達と准将を守るために『室長』を目指したの?
もうそうとしか思えなかった。そして、やはり心優は涙を流していた。
「ほらな。そうして、泣かれると……ちょっとな、辛いんだ。俺も。俺が辛いんじゃなくて、その彼女にも重いものを感じさせてしまうのが、辛いんだ」
「どうして。知らなくちゃ、臣さんと一緒にいられないじゃないですか。隠されても、臣さんはどこかで一人だけで泣いていただろうし。そんな時、そこにわたしの存在がないだなんて、嫌――」
もう泣いているのは心優だけで、彼は穏やかに微笑んでいるだけ。でも目は悲しみに暮れている。
「だから。心優に近づけずにいた。きっと心優は俺の気持ちをわかってくれると思っていたから、女として抱いた後、これからもずっと俺のことを知って心優は俺に共感して泣いてくれるだろうけれど、ぐずぐすしている俺を見て辛く思うことも多々あるだろう。そう思ったら、『また俺と一緒にいて欲しい』なんて甘えているようで言えなかった」
それがあの夜から近づけずにいた訳だったと、心優も初めて知る。
「わたし、そんな不格好な男の臣さん、嫌いじゃない。室長の城戸中佐も素敵だと思っているし、お猿さんも『けっこう好き』……」
『お猿さんも好き』と言ったところで、彼が目を丸くしている。
「臣さんのそばにいることで、重荷になっているだなんて思わないでください。あの、一人になりたい時は言ってください」
「ありがとう、心優」
やっと彼がほっとした微笑みを見せてくれた。それだけで、心優も嬉しくなる。
完璧な室長になるまで、たった一人で彼はそれだけのことを抱えて目指してきたことがわかった。これでは、なかなか恋人もできなかったのではと思う。
だったら。心優は何故――かといえば、境遇が似ていたから、彼の隙にすうっと入って行けただけなのかもしれない。だからボサ子でも、この人が興味を持ってくれた……。それが少し哀しいような気もしたけれど、それでもいい。そんなキッカケでもいい。
「でも、臣さんは時々長沼准将と、横須賀で配備している空母艦へ行くことがありますよね。それは大丈夫なんですね」
空部隊本部隊長だから、大ボスの長沼准将は時々空母の甲板訓練を監察しに行くことがある。その時、雅臣も付き添いで沖合にでかけている。
「ああ、うん。それは大丈夫なんだ。たぶん、いまなら小笠原の訓練空母にも行ける。精神的にきていたのも、あの時だけで。いまはもう吐かない」
それを聞いてほっとする。そうでなければ本当に空をサポートするなんてことは出来ないはずだから。
「ミセス准将にも、酷い態度をとったことは謝罪してある。許してくれたよ。『あの頃の私にそっくりで、痛いほどよくわかる。もう気にしないで、いま出来ることだけに集中しなさい』とね。陸からパイロットを守って欲しい、そう託された。だから……」
だからこの人は、完璧な秘書官になることで、御園准将に応えていると言いたいようだった。だからロイヤルミルクティーは完璧に淹れたい。そんなことでしか応えられないという彼の気持ち。
でも、二人はそれからもギクシャクしている。あの奇妙な空気をつくってしまい、周りもそれに気遣っているというのが現状のようだった。
しかし心優はそんなミセス准将が、彼の気持ちを受け止めてくれている『私もそうだった』という下りが気になった。
「ミセス准将は、結婚でパイロットを引退されたとお聞きしていたのですが。ご自分で決めて、コックピットを降りたのですよね?」
どのように彼の気持ちを理解しようとしたのか、心優は気になった。自分で降りたコックピットと、突然の事故で奪われたコックピットでは、辞めた気持ちに落差があり過ぎる。心優はそう思った。
彼の目がまた哀しみに沈んだ気がした。コーヒーを一口飲むと、彼が教えてくれる。
「女性だから、子供を産みたいと望むようになって、彼女から降りると申告をしたそうだ。その時から、いまのご主人である御園大佐と恋仲だったようだから。女性としての幸せを初めて望んだと思う。十代の時からコックピット一筋だった女が、それよりも女としての幸せを選ぶ。あの人にとって、本当に幸せな時だったのだろう」
「それでは、臣さんがコックピットを降りた理由と正反対の引退理由だと思いますけれど――」
どこが『私もわかる。貴方の気持ち』なのだろう? 少し酷いと思った。だが心優はそこで、先ほど、彼が話していた中で『私も暴れた』と言ってくれたというミセスの言葉を思い出してしまう。
「正反対ではない。俺と同じだ。故意にコックピットを奪われたんだ、あの人も」
「よく、わからないのですけれど――」
自分から女の幸せを思い描いて降りたのに、どこが奪われたと?
「俺は、足。あの人は、胸のど真ん中だ」
雅臣が、心優の目の前で、胸を拳でドンと叩いた。
『え?』と、心優は固まった。
「刺されたのは、この基地で。俺達と同じ海軍の傭兵に、直行便ゲートの駐車場で刺されたんだ」
『駐車場』――。やっとその言葉とミセス准将が結びつく。
「どんなに怪我をしても、コックピットに復帰することが出来る怪我もある。でも、俺とミセスは駄目だった。戦闘機は特に気圧と重力がかかるので、少しのリスクでも持ってしまうとパイロット失格と弾かれる。結婚をして出産をして、子育てが落ち着いて。女性なら一時その場を離れることがあっても、復帰する可能性もあっただろう。ミセスもそうだ。自分の都合で一度はコックピットを降りる。フライトチームの権利を返す。誰かがそこに穴埋めにやってくる。それでもいつかは復帰すると誰もが思っていたと思う。でも、それをあの人は、お家の事情に巻き込まれ一番立場も力も弱い『末娘』として狙われて殺されそうになった」
それが『パイロットとしての致命傷』だった。そう雅臣に教えられる。
それが御園のタブーに繋がること?
そして心優は大ボス長沼准将の言葉を思い出す。
『彼女は過酷のひとことに尽きる女性だよ』。
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