14.そんなお猿も愛おしい
初夏の夕は、いつまでも空が茜色で心浮き立つ。
鍵を持ち、心優は初めて合い鍵で好きな男性の部屋に入った。
この前と違って、夕に染まっている優しい空気。でも男の匂い。
「おじゃましますー」
靴を脱いで、リビングまで。あまり使われていない様子のリビングには、よくあるローテーブルとソファ。そしてダイニングテーブルセット。家具は一般的で拘りがないようだった。
散らかってもいないし、汚れてもいない。強いて言うなら、やはり仕事をした痕跡がどちらのテーブルにもある。
キッチンも一般的で、普通に男の独身暮らしといったところ。でも、この3LDKの官舎にたくさんの隊員の家族が所狭しと暮らしているだろうに、独身の中佐が一人で借りられているのはとても贅沢だと思った。
でもだからといって、若い隊員ばかりの寄宿舎では中佐ともなると気を遣わせるだろうし、外で民間の賃貸に住むよりは、基地の直ぐ側にある官舎にいるほうが緊急時はすぐに動けるという利点もあるようだった。
リビングからは、芝の団地群が夕に綺麗に染まる景色が見える。心優も沼津では官舎育ち。父が一軒家を建てるまでは、こんな官舎に住んでいた。
でもこの独身男性が住まう官舎は、心優が兄達と暴れ回った家庭の雰囲気とはまったく異なる。
ソファーに座って、しばらくその夕日を静かに眺めていた。ここで一人、城戸中佐は過ごしてきたんだと。一般的な味気ない独身男の部屋、でも彼のベッドルームはパイロットの部屋。
もう一度見てみたいけれど『未練たらしい部屋』と言うだけあって、彼が自宅に留守番させているもう一つの心に勝手に上がり込むようで気が咎める。
キッチンから、湯気がしゅこしゅこと噴いている音が聞こえてきた。誰もいないのになんだろうと覗きに行くと、炊飯器が動いている。
予約炊き――している。急に生活感が見えて、一人で笑ってしまう。
あのシビアな完璧室長が、ご飯を予約炊き。で、家に帰ってくると、体育会系のお猿になって食べているんだ――と。
そこで鍵が開く音がした。
お、来てる。
そんな声が玄関から聞こえた。
玄関廊下からリビングへのドアが開く。制服姿の中佐が現れる。
アタッシュケースを片手に、立派な中佐の肩章、胸には色とりどりの階級バッジのキリッとした制服姿。黒いネクタイを弛めることのないシビアな男の顔で帰ってきた。
「先にお邪魔しておりました。お疲れ様でした、中佐」
「うん。お疲れ様。えっと、来てくれてありがとうな」
室長の顔が、ちょっと崩れた。柔らかに笑ってくれる。――と、見とれていたら、もう真っ正面からぎゅっと抱きしめられていた。
「あの、……」
もしかしてもうお猿さんスイッチが入った? 男臭い匂いがする制服ジャケットの胸元から中佐の顔を見上げようとしたら、彼のほうが切なそうな目で心優を見下ろしている。
「あれから、心優のことまともにみられなかった」
「そう、なんですか」
「裸の心優ばっかりちらついて」
えー、あんなシビアな出来る男の顔をして、頭の中では部下を見るたびに『裸にしていた』?
やっぱりこの人、表と裏のギャップが激しいような気がしてきて、心優はまた呆気にとられただ彼を見上げるだけに。
そんな心優の顔を見下ろしている中佐が、面白そうに笑った。
「このエロ上官と思っているだろ」
「そんなダメですよ。中佐ほどの秘書官が職務中にそんな妄想」
「でも、それって健全だろ」
そういって、彼が心優の小さな顎を掴みあげた。そしてまた、有無を言わせないキス。
彼の舌先を感じると、もう心優から唇をそっと開いてしまう。少しだけ彼がふっと笑った。この女、すっかり俺に墜ちたと思っているのかもしれない。それでもいい、その通りだから。
「いいな。この前より、甘い」
この前は、この人にされるまま。ただ受けれて抱かれたから。これからは、心優も好きだってことをわかってもらいたい。
「もう、駄目だ」
中佐から離れていった。お猿さん、今日は大事な話があるから我慢してくれたんだ――と思ったのに。また心優のカラダがふわっと宙に浮く。あの日とそっくり。また中佐殿に抱き上げられていた。
「俺のスイッチ、あれから入ったままな。もう頭から離れなくて離れなくて、」
ああ、お猿さんになっちゃってる。心優はそう思った。しかもせいいっぱい仕事中は抑えて、室長の顔を必死で整えていたんだって。
そんな中佐殿の目を見て、抱きかかえられたまま彼の首に抱きついて、心優からキスをした。
「中佐の腕の中にいると、わたし、本当に女の子みたい」
長身で体格の良い元パイロットの腕の中、女としては少し大きめの背丈で鍛練されてきた心優のカラダは小さく華奢に見える。しかも、密かに憧れていた『姫様だっこ』をしてくれている。この前の夜だって本当に嬉しかった。お願いしてやってもらうのではなくて、ほんとうに軽々と彼から抱き上げてくれる。
「なにいってんだよ。すっかり女の顔になっている」
そんな自分の顔は想像できないけれど、心優は目線が同じ高さになった彼をじっと見つめてしまう。
「いまから中佐は禁止な」
「え、でも……」
「俺のこと、心優はなんと呼んでくれる?」
心優も考える。『雅臣』だから……。
「ま、まさ……」
「却下」
「まー、君」
「やめろ、却下な」
『マサ』も『まー』もダメなら、残っているのは。
「お、臣さん。オミさん……」
「いいな。それ」
彼からキスをしてくれる。ああ、もう……わたしもダメ。中佐の首にぎゅっと抱きついてしまう。
だからまた、お猿さんにパイロット部屋に連れて行かれてしまった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
少しだけ微睡んでいたようだった。忙しかった心も休息を求めていたのかもしれない。
目が覚めると柔らかいタオルケットに包まれていて、心優は白いシャツだけを羽織った裸だった。
部屋はもう暗がりの中。窓から街灯の明かりが、ほんのりと部屋を浮かび上がらせている。
お猿さんが、臣さんは、もう隣にはいなかった。
シャツの前を閉じて、心優はベッド降りて部屋のドアを開ける。
リビングには灯りがついていて、彼もシャツと制服のスラックスの姿に戻っていて、ダイニングテーブルで書類を眺めていた。
「中佐」
彼が振り返る。目が覚めた心優を見て、また優しげに微笑んでくれた。
「なんだよ。さっきまで、俺に抱きついて臣さん臣さんて呼んでくれて嬉しかったのに」
まだちょっと恥ずかしい。抱き合っている時は、夢中になっていて、気持ちが高ぶって言えてしまうのに。
「やっとスイッチが切れたよ。またすぐに入りそうだけどな。そんな恰好でいられると」
書類を閉じて束ねると、城戸中佐は椅子から立ち上がった。
「夕飯にしよう。服を着てこいよ」
「はい」
お猿の欲望が消えたせいか、秘書室の男にすっと戻っているようにも見えてしまった。
パイロット部屋に戻り、心優は服を着る。リビングに出ると、ダイニングテーブルにはもう夕食が用意されていた。
いい匂い。カレーライスとサラダ。
「これ、臣さんがつくったの」
「おう。今週の作り置きな」
「自炊もされているんですね」
「少しぐらいは作れるようになっておかないと。いざという時に役に立つこともあるだろう」
さあ、食べよう。城戸中佐に促され、心優もテーブルに着いた。
『いただきます』。二人で一緒に向き合ってカレーライスを食べる。
「わー、辛い! でもこれぐらいの辛いの大好きです」
「そうか、良かった。男基準のカレーなんで、心優の口に合うかどうかちょっと心配だった」
「おいしいですー。臣さん、おいしいです」
食堂の海軍カレー並のおいしさだった。
「飯五合炊いたから、いっぱい食えよ」
いっぱい食えよ――なんて、笑っていってくれる男の人、初めてかも。心優は密かにきゅんとしてしまっていた。
でもここでちょっと我に返る。
「わたしったら、本当に色気がなくてすみません。ホルモン焼きの次に、男性につくって頂いたカレーをおかわりできると喜んじゃって」
目の前でカレーを頬張っている彼が笑ってくれる。
「どうして。俺はおまえの食いっぷり気に入っているよ。気持ちいいじゃないか。俺も遠慮なく大食いできる」
こういうところ、確かに同じ感覚で気兼ねがない。
だから心優も遠慮なく平らげて、遠慮なくおかわりをしてしまった。
臣さん、『雅臣』は食後のコーヒーまで、心優に淹れてくれた。
テーブルの上で優雅な手つきでコーヒーを淹れる姿は、基地で見せている秘書官の佇まいだった。
「秘書官になったら、お茶入れが厳しくなった。休日に練習したな。特にロイヤルミルクティーはうまく淹れられるようになっておかなくてはと思って」
『ロイヤルミルクティー』。そのひと言が出ただけで、それまで心も身体も気持ちよくほどけていたのに、一気に心優は硬直した。
そのお茶を好んでいる人が、うちの隊長室に良く来る。しかも、臣さんの様子を変えてしまう人が好きなお茶。
心優を受け入れてくれた彼ならと信じて、思い切って尋ねる。
「ロイヤルコペンハーゲンのティーセットは、臣さんが揃えたんですよね」
彼が黙ってしまった。でもカップにコーヒーを注ぎながら、今日は微笑んでいる。
「うん。あの人が本当に紅茶が好きで、夕方の終業時間を迎えて残務の時間になると、必ずラングラー中佐が淹れているそうだ。どこにいっても紅茶を飲みたがるらしい」
「でも。臣さんは、いいえ、城戸中佐はミセスに会うと辛そうです。避けているようで、なのに、丁寧にもてなそうとしている」
「どんな客でももてなすのは常識だろう」
でもそういって、彼が致し方ないように口元を曲げた。
「そうするしか、あの人に応えられなかったからだ」
応えられなかった。そこに、彼を苦しめた事故が見え隠れしてくる。
辛いところに、いまの心優はどこまで入っていいのだろう。それがまだわからない。
「事故で実家近くの病院に運ばれ、三日ほど意識が戻らなかった。目が覚めて足を見て愕然とした。すぐにわかった。『もう飛べない、乗れない』と……」
出来上がったコーヒーを彼が心優の前に置いてくれる。穏やかな食後を迎えられそうな気持ちでいたが、心優も覚悟を決める。
この人がどこまで話してくれるか、話せるのかわからないけれど、聞きたい。でも辛そうだったら、すぐに引こう。そう決めて耳を傾ける。
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