10.あの人の部下だった

 玄関のそばにあったシャワールーム、そこで扉の音がして、心優は『雷神』の写真を元に戻した。

 カラダがほてっていて熱くて、中佐が触れたところ全部、甘い疼きが残っている。こんなに女として満たされたのは初めて……。そう浸りたかったのに、いま心優の頭の中を占めているのは『彼とミセス准将の間になにがあったの』ということばかりに。

 部屋のドアが開き、バスタオルを腰に巻いた姿の中佐が帰ってきた。濡れた黒髪をかき上げながら入ってきた彼は、もう汗や男の匂いが薄れていて、あの肉体からは石鹸の香り。

 そんな彼が帰ってきて、心優はベッドの縁で何事もなかったように座って待っていたふりをする。

「それ。俺が好きな格好」

 彼がにぱっと笑う。素肌に制服の白いシャツだけを羽織っている心優を見つけて、とても嬉しそうだった。

「あ、男の人はそういうの好きっていいますよね。これしかなくって、それだけです」

「じゃあさ。今度は裸ジャケットしてくれよ。あ、ノーパンタイトスカートもいいな」

 心優の隣にどっかりと座ってきて、落ちていた制服のジャケットを心優の目の前につんつんと突き出してくる。

 この変態上官と、心優はムッとした。

「もう、これこそセクハラですからね」

「プライベートなのに?」

「プライベートだからお断りします」

「上官命令なら絶対やってくれるよな」

「だから、そうなると完全にセクハラですから!」

 『は、そうか』と本気でいま気がついたかのような顔をした。なんなの、その憎めない愛嬌。普段は仕事で使っているだけの愛嬌だったと思っていたのに、ちゃんと彼の素質でもあるのだと思うと本当に憎めなくなって困ってしまう。


 なのに急に、ぎゅっと抱き寄せられ、心優は戸惑う。その顔がもう、基地で見せている憂いある眼差しになっている。ドキリとした。

 城戸中佐の腕がさらに心優を抱きしめようとする。石鹸の匂いがする皮膚、逞しい胸元に抱きしめられ、優しい手つきで黒髪を撫でてくれている。

「中佐」

「写真、見たんだろ」

 心優は黙った。見たのが自然だろうし、でも見たと言えば『雷神にいた』ことを知って驚いたと言わなければならない。

 黙っている心優を知った中佐が、溜め息を落とした。

「塚田はなにも教えてくれなかったのか。俺が小笠原にいたこと」

「はい。雷神にいたなんて、小笠原にいたなんて……知りませんでした」

 今度は彼が黙り込む。心優を抱き寄せたまま、黒髪を何度も撫でながら、彼は写真立てへと視線を向けている。そこに彼がいつも避けているミセス准将がいる。


「あの人が、一度は消滅した伝説のフライトチームを再興させた。消滅はしても、海軍の飛行機乗りになったなら崇拝するフライトだ。最高のドッグファイト、コンバットのテクニックを持った『雷神』のことは本当に伝説で憧れの存在。消滅したフライトチームを復活させてくれたあの人がパイロットを捜している。騒然としたよ。誰もが『俺を選んで欲しい』と目論んでいたと思う」

「その最高のエースチームに、中佐は選ばれたんですね。御園准将がそれだけ実力を認めてくれたんですね」

 そこで彼が辛そうに笑った。笑っているのに泣きそうな顔を心優は初めて見た。

「そう。俺を、一番最初に選んでくれた」

 それを聞いて、心優はまた驚いた。

「それって、ミセスが城戸中佐を誰よりも一番最初に相応しいと、欲しいと選んでくれたってことですか」

 すごい! 本当にすごいパイロットだったんだと改めて、彼のパイロットとしての資質と才能がどのようなものだったのか痛感する。


「しかも、若い世代でまとめたいからと、まだ中堅と言い切るには未熟な俺を『1号機、リーダー機で』という好条件で引き抜いてくれたんだ」

「雷神の、リーダー……!」

 それ以上の言葉を心優は失う。この人は、連合軍に二つしかないトップチームの『リーダー』として選ばれていた。それだけあのミセス准将に、彼の技術も人望も実力も認められていたということ。一握りどころか、湾岸部隊のフライトと併せても、本当にパイロットの頂点にいた人ということになる。


 だから、空から陸の職務になっても、彼は秘書官としてやりこなせたのだと知る。ただ空を飛べなくなっただけで、仕事の駆け引きは上等だし、部下からは慕われる。もともとそんな素質も人より突出していたのだろう。

「雷神のリーダーとして、雷神のために開発されたばかりの新戦闘機の第一号パイロットとして小笠原に転属した。御園准将がチームになるまでのパイロットを集めるまで、新機種戦闘機のテスト飛行が俺の仕事だった。どこにもない新機種の戦闘機を飛ばせることも、飛ぶことも、本当に嬉しかった。なによりも……」

 そこで彼が苦々しい様子で俯いた。

「あの人の指揮で飛べること、あの人と航海任務に行けること。もの凄く期待していた」

「期待、ですか」

 彼はあの女性指揮官から、なにを得たかったのだろう。

「先輩も、他の上官も、そして長沼准将も。横須賀にいる空の男達は口を揃えてこう言っていた」

 『御園葉月准将。彼女の土壇場の判断は、神懸かっている』

 彼が大切なものを大事に教えてくれるかのように、そっと囁いた。そしてその頬に高揚を見た気がする。この中佐殿がそんなに心昂る、そんな指揮官のそばにいた日々。栄光の日々と言うべきなのか。


 心優にもわかる。そこは彼にしてみたらミセス准将の雷神にいたことは、世界へ挑む権利を握りしめて選手団にいた心優と同じ誇らしさを持っていた離れがたい場所だったのだろう。

「それを見てみたかった。でも、あの人のそばにいられたのは、たった半年だった」

「それで。中佐は怪我をされて……小笠原からまた横須賀基地に戻ってきた、ということなのですね」

 また彼が黙った。思い出したくないのか、先程まであんなにおちゃらけていたのに、眉間に深い皺を刻んでいる。


 彼がベッドから立ち上がる。

「つまんない話だったな」

 素肌にバスタオルを巻いただけの姿で、彼はローチェストへ向かうと、心優が見ていたあの白い飛行服の写真立てをぱたりと伏せてしまう。

 少しだけ足を引きずって、彼はまたベッドの縁に腰をかける。でも、今度は心優に背を向ける形だった。


 中佐殿は、時々足を引きずっている。先ほども、心優を軽々と抱き上げて奥の部屋まで連れてきてくれたけれど、右の方が少し下がり気味で足をひょっこりとたまに不自然に動かしてバランスをなんとか取ろうとしていたのが、抱かれている心優にも伝わっていた。

 その足になって、万全の体制で搭乗せねばならないコックピットのシートに座る権利を返還せざる得なくなったのだろう。

 栄光の日々を手放す。どんなに辛かっただろうか。彼がミセス准将から目を背けるのは、その為? それにしては大人げない気もする。ミセス准将も上官として妙に彼に気遣っている気もする。


 そしていま背を向けている男の人は、心優を猿の勢いで抱いた男でもなく、基地で見せているシビアな上司でもなかった。

 そっと静かにベッドにあがり、心優は城戸中佐の背に近づいた。

 湯上がりでほてっているその皮膚に、心優からそっと頬を寄せる。その背に、心優は優しくキスをした。

「帰りますね、中佐」

 もうそっとしておいてあげよう。今日は彼から初めて聞いた話は充分すぎるもの。まだまだ隠されていることがあると予感しても。今夜はもうこれで充分。


 城戸中佐も、そんな心優のキスを感じているはずなのに、振り向いてもくれない。なにも言ってくれない。

 心優はベッドを降りると、下に落ちている自分の衣服と靴を集め、胸に抱えて『パイロット部屋』を出た。


 灯りがついてないリビング、そこのソファーで静かに衣服をまとう。暗がりの中、見繕いを済ませた心優は、ドアが閉まったままのパイロット部屋を見つめる。

 本当は、あの人の胸に頬を埋めて、もっと甘い余韻を楽しみたかった。他愛もないどつきあいみたいな会話でもいいから、もっと笑って話せるような気がしていた。

 でもだめだった。あの人が、こうして誰かと一歩近づくには、怪我のことを言わなくてはならないし、部下の心優には『雷神』にいたことが知れたならば、辛いことを話さなくてはならなかった。


 今夜はどちらにしても、こうなるしかなかった気がする。

 それでも心優はがっかりなんかしていない。


 ――きっと、忘れない。ずっと覚えている。


 ちょとふざけたふりをして『俺、猿だから』と大胆に心優を奪うように抱いてくれた人。憧れだった大人の彼に、まさかこんなふうに抱いてもらえる日が来るだなんて思いもしなかった。

 だからって、これで『恋人』とも思っていない。今日、たまたま、あの中佐と波長が合っただけのこと。あの人が、ちょっとその気になって、差し障りのない部下の女を抱いただけ。そう『気分』。


 それでもいい。それでも。多くは望まない。

 そのぶん、憧れている男性に思いきりカラダを愛してもらえたから。

 あんなに狂おしい睦み合いは、ほんとうに初めて。この自分が、彼の腕の中では『可愛い女の子』だと感じることができた。

 いい思い出。それでいい。心優には夢のような、贅沢なひとときだった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 翌日からも、心優は『何事もなかったふり』を決めて出勤した。

 それはあちらの中佐殿も同じだった。あんなに大笑いして、あんなにはしゃいで。最後は憎めない愛嬌のお猿さんになって心優を抱いた男。その影はもうどこにもない。

 心優がそれまで『これがこの人』と思っていた、シビアな大人の上官に戻っていた。

 お互いに過剰に意識する素振りもなく、幾日も過ぎていく。誰も、中佐殿と心優の間になにがあったか、疑いもしない。以前と変わらない職場のまま。


 その日の訓練は4対2。心優の背後には、護衛すべき指揮官が一人。隣にはバディ役の青年大尉。二人でコンビを組み、一人の護衛対象者を護る訓練。

 正面から四人の先輩が、暴漢として襲って来るという訓練だった。

 基地の中にある畳の道場。そこでいつも『護衛部』の訓練が行われている。


 道着の黒帯をぎゅっと締め、心優は立ち向かう。

「はっ!」

 護衛指揮官を背後に、心優は構える。前から大柄な男の先輩が一人飛びかかってくる。

 右、左、左足、右右! 互いに鋭く素早く突き出し攻撃する手、それを防御する手。手と手の撃ち合いの合間に、足が上がって相手の頬をかすめる。その隙に、心優は相手がよろめいた方に傾くよう不利な片側を突きまくる。同じ空手家の先輩との手合わせは、久しぶりの手応えを感じさせてくれるが、今日の心優は奥底から湧いてくる熱くて重い塊をパワーで粉砕するように、がむしゃらに前進攻撃をするのみ。

 大柄な先輩がついにバランスを崩し、畳に手を突いた。その途端、両隣からまた敵が来る。

 一人はバディの大尉に任せる。心優も飛び込んできた敵に真っ正面から向かい、蹴りを飛ばして脅し、向こうが怯んだ隙に懐に入って――。

「せいやー!」

 熟練の護衛官を、大外刈りで浮かせて豪快に床に落とした。

 つづいた暴漢役の先輩も、同じように床に撃沈させてしまう。

「ま、参った。もう空手も柔道も使われてしまったら、ひとたまりもない」

「兄さんが、櫻花日本大柔道部のコーチだもんなあ。その手ほどきだなんて羨ましい」

 本日の心優、向かうところ敵なしという勢いだった。


 護衛訓練を終え、女子更衣室のシャワー室で汗を流す。

『どうした園田。ここのところ、おまえ無敵というより、冷静さを欠いている』

 護衛部を任されている父親ぐらいの年齢の中佐に窘められた。

『自分でも分かっているのだろう。代表選手戦で如何に冷静になって取り組むか。それだけの経験を積んでいるだけあって、護衛部の誰もが園田が来てからその集中力に感心していたというのに』

 日本最高レベルで鍛えてきた冷静さと集中力はどこにいったんだ。そんな注意だった。


 身に覚えがありすぎて、ぬるい湯が滴り落ちてくる中、心優は顔を覆って少しだけ泣いた。

 遊ばれたとも思っていないし、本当に自分には『奇跡』だと思うほどの、憧れの男性とのひとときだった。

 でも、やっぱり胸が痛い。何事もなかった顔をされることなんかじゃない。

 あの泣いている背中は、心優にとっても痛いほど泣けるものだったから。そして、なにもできなかった。

 自分にも覚えがありすぎて、どんな言葉も救いにならないことをよく知っているから、なにもできなかった。

 そして城戸中佐は、あのようにしてこれからも『パイロット部屋』に気持ちを押し込めて、外ではパイロットだったことは一切捨てて、完璧な秘書官になる。本当の彼は『誰にも触れて欲しくない』のが本心に違いない。


 心優は、心の慰めのひとつに過ぎない。大人同士なら、ここで割り切れるはず。

 そんなことばかりが心占めていた。だから、訓練で憂さを晴らすようにして、力加減も技の配分も無視して体当たりの訓練をしてしまう。

 それを部長に悟られていた。


 汗を流して身支度を終えた心優は、秘書室に戻ろうとした。

 もうすぐランチタイム。まだ勤務時間中の廊下は人もまばらで、静まりかえっていた。

 空部隊本部へと向かう長廊下。備品室や資料室など物を保管をする部屋が多く、あまり人がこない場所だった。そこを歩いていると。

「黒帯ちゃん」

 初めて耳にする呼び方をされ、心優は振り返る。

 そこに、よその部署にいる少佐が立っていた。

「お疲れ様です」

 顔見知りなので、心優も丁寧に挨拶をする。

「訓練の帰り?」

「はい」

 どこかにやついた笑みで、彼が近づいてきた。こんなところで人に会う、声をかけられるだなんて。心優の訓練が終わるのを見計らって待ち伏せしていたとしか思えなかった。

 あまり好きな男性ではなかった。彼は心優をみたら『ボサ子ちゃん』とあからまさに呼んで笑っていた一人。最近は言わなくなったので、なるべくすれ違わないように避けていた。

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