9.ネクタイほどいて、シャツ脱いで
官舎の団地群が見えた時、心優の心臓がドキリと大きく動いた。
心優だって、もう大人。彼の住まいに連れて行かれることがどういうことか、予測がつく。けど、さすがにこれは困惑。
え、さっき。キスしたばっかりなのに。
え? キスができたら、もうエッチとか!?
なんの心の準備も、もちろん、身体の準備だってできていない!
ものすごく早急すぎ! ああ、でも……、体育会系ってこういうところあるよー。と、心優は『ほんとはクールじゃない中佐殿』に泣きたくなってきた。
それでも、中佐の熱い手は、公園で心優の手を握ってから一度も離さない。ぎゅっと握って、ぐいぐい引っ張って来た。
一番奥にある六号棟。防風林の向こうにはもう海が見える。横には横須賀基地、そして夜の滑走路も見える。
そんな潮の匂いがかすかに届く夜の団地は、もう夕食も終えただろう時間で、家庭の灯りは煌々としていても、外は静まりかえっていた。
こんなところ。他部署の隊員や、隊員の家族に見られて平気なの? 心優のそんな心配もお構いなしに、三階まで階段を上って引っ張られてきた。
「ここ、俺が借りてるとこ」
城戸中佐が鍵を取りだし、玄関を開けてしまう。
ここでも中佐は心優に有無も言わせずに、引っ張り込んだ。ものすごく、強引!
真っ暗な玄関。どうしよう。ほんとうにそれでいいのか。このまま勢いで行ってしまっても?
どうして中佐がわたしにキスをしてくれたのかも、どうしてそんなことができたのかも。予兆もなにもなかったから、理解できない。それに『勢い』って言っていた。男の気まぐれ? 他の女性より、部下である心優は利用することもないから安全安心?
そんなことを暗がりの中、考えているうちに、靴も脱がないまま城戸中佐が玄関の壁際に美優を追い込んで押し迫ってくる。
どこから入ってくるかわからないけれど、外灯りがほんのりと玄関を明るくしている。城戸中佐の顔も夜明かりにぼんやりと見え、男の胸に押し迫られている心優もそっと彼の目を見つけ、見上げた。
あれ。もう、いつもの基地でのクールな中佐殿の顔になっている? でも、ちょっと違うことに心優は直ぐに気がつく。目が潤んでいる。熱く、心優を見ているのがわかる。
「いま、かあって頭に血が上っている」
「そ、そうなんですか?」
「猿みたいだと思っているだろ」
「い、いいえ?」
いえ、本当は体育会系の男子がそうなるとイケイケなのを心優はよく知っている。
「ほら。『私、こんな猿知っている』って顔しているぞ」
「だって。キスしていきなり、ですよ。しかも部下を」
好きだったのに、憧れだったのに。大人の素敵なビジネスマンで、クールな上司だと思っていたのに。
まさか。心優の周りにいた猪とか猿とか熊とか、そういう肉弾戦で行くぜ――みたいな男だったなんて夢にも思わなかった! と、言いたい。
言いたいけれど――。城戸中佐の眼差しが、初めて見る男の目で、あの綺麗な色の目で、薄暗い夜明かりの中でもやっぱり綺麗に澄んでいて拒めない。
「いきなりだと思っているのか」
「わたしなんて、ボサ子な部下で、いつも中佐に声をかけてくる女の子とは違・・」
壁に強く身体ごと押さえられて、また唇を塞がれた。今度は心優の口を割り開こうと、舌先で唇を愛撫される。
「っん、中佐」
大きな手が肩を掴んでいるけど、痛い。痛いけど……、そんなに欲しがってくれて、本当は嬉しい。
柔らかくて温かいキス。男のしょっぱさと、性的な甘さが入り交じっている。男と一緒にならないと得られない匂いと味がする。
そんな官能的なとろみに、心優の強ばっていた身体は徐々に柔らかくほぐれていく。
だって、中佐のキス……。経験ある男のキスで、やっぱり大人のキス。猿さんじゃない。
「勢いできたけど、これだけは」
そう言いながらも、城戸中佐は壁に押しつけている心優の襟元、ネクタイの結び目に触れた。長い指が、結び目をそっと静かにほどこうとしている。
「男、いないよな。横取りはしたくない」
しゅるっと心優の黒ネクタイをほどきながら、中佐は尋ねる。
「いたら、ネクタイを結び直して帰してくれるんですか」
「いるなら、帰す。その男に結び直してもらえ」
ボサ子に男なんていないと確信して、ほどいているくせに。心優が男がいるような口ぶりをした途端に、基地にいる上官の口調になるのもズルイ。
「いません……、もう、ずっと」
「じゃあ、初めてではないな」
にっと笑った彼の手が、心優のジャケットの金ボタンを手早く外す。
テーラードジャケットの衿が開くと、城戸中佐は心優の白シャツのボタンも上から外しはじめる。それでももどかしいのか胸元まで開けると、あとはシャツの裾をスラックスから引き抜くと、たくし上げられた。
胸元に、自分の胸の谷間が見える。もう、こんなにされちゃっている。
どうしよう。もとより勝負下着なんて持っていないけれど、こんなことになるなら普段から大人っぽいランジェリーを身につければよかった。でも、そんな心優の後悔先立たず。
そして勢いがあった中佐が止まってしまう。
「あの、女っぽくなくて、ごめんなさい」
幻滅しているのかな。急に思い止まったのかな。そう思った。やっぱり、色気ナシのボサ子を家に連れ込むなんて、ちょっとした気の迷い。いまなら心優も、逆らえない上官がちょっと先走っただけだと出て行ける。
でも中佐は黙って、心優の乳房を見ている。
「思った以上だな。園田、スタイルがいいと気がついていないだろう」
「え、でも、腕も足も、腹筋も柔らかくないですよ」
「こんなに堅くなるなよ。遊んでないだろ」
「長続きしなかったので――」
「なんでだよ。ボサ子だから? 本当にその男ども、おまえのカラダちゃんと見てくれたのか。こんな綺麗な肌を手放したのか。バカだな」
彼の手が心優の白い肌にそっと触れて撫でる。首元にもキスを落とされる。
男の熱い唇、その唇が心優の肌の上をそっと這って降りていく……。その熱さと甘さ、彼の黒髪の匂い、それだけで狂おしく心優を刺激していく。
「俺の、欲しくなった?」
意地悪な質問をされる。でも、心優は黙った。自分から欲しいなんて言えない、言えない。
「園田、欲しくない?」
「……あの、」
こんな中佐になるだなんて。でも中佐のいまの顔、すごくセクシーで、やっぱり大人の男。
身体の奥から湧き上がってくる、いつしか忘れ去った『女の性』。いま心優は否応なしにそれを目の当たりにして当惑している。
久しぶりだった。男は三年ぶり。しかも、憧れの上司。ちょっとイメージが変わってしまったけれど、でもその体格はものすごくタイプ。
きっと細マッチョでも、ガチムチでもなくて、本当に日々の鍛練で鍛えられてきた『プロ肉体』。日常に鍛練された身体を要求される、それが生業の男達が身につける体格。つまり心優がよく見てきた男達の身体。
返事をしない心優を中佐殿は待ってくれない。
「返事、言ってくれないと、抱けない」
「ずるい。ここまで、勝手に連れてきて、こんなにしてるのに」
「欲しいだろ、俺の」
ついに心優は潤んだ目で彼を見上げ、こっくり頷いてしまった。
「よっしゃあ!」
またそういう体育会系のノリ! と思った瞬間には、もう心優のカラダは宙に浮いていた。
ふわっと彼に抱き上げられている。
「中佐――、ちょっと、まって。靴」
靴を履いたまま抱き上げられた。でも城戸中佐はそんなことは構わず、自分だけ靴を脱いで、両腕に心優を抱き上げたまま玄関を上がった。
彼の自宅の中へ、突き当たりにあるいちばん奥の部屋まで進んだ。暗がりの中、ドアが開く。そこから、男独特の匂いがふわっと心優を包んだ。
その部屋いっぱいに、大きなベッドがあった。男らしいモノトーンのファブリックでまとめられているベッド。そこに中佐が心優を静かに降ろした。そこでやっと靴を脱がしてくれる。なのにそれを豪快に、部屋の隅っこに中佐は放ってしまう。もう、とにかく直ぐ抱きたい。そんな急く気持ちで心優をこの部屋に連れてきてくれたと思いたくなる。
すごい男の匂い。でも慣れている匂い。軍隊はこの匂いに満ちている場所が多いし、選手時代も男子部室はこんな匂い、父に兄も。珍しくもなく驚かないけれど、でもやっぱり、この人は男として生活している。そんな彼の日常の奥深い場所に、いま心優はいる。
来たばかりの部屋は薄暗かったけれど、心優はベッドに寝かされて見えたものに驚いている。壁一面に、戦闘機のポスター。そして写真。
戦闘機がいっぱい。そう言いたかったのに、もう城戸中佐もベッドに上がってきて、心優のカラダを跨いで、どんと乗っかった。
「本当に『猿』だから、驚くなよ」
心優のカラダに乗ったまま、城戸中佐はネクタイをほどくとシュッと衿から引き抜いて、ベッドの外へ放った。
基地ではスマートな秘書官だけれど、……根っこは豪毅な元パイロット?
心優のカラダの上でスラックスのベルトを外している姿を見つめながら、彼の肩越し、向こうの壁にあるコックピット内で撮影されたパイロットを心優は見つめている。
空を飛んでいるのか、コックピットの向こうは白い雲と青空、上空。そこに、この人がいた。
いま白いシャツを脱ごうとしているビジネスマンスタイルのこの人も、あの壁にいる豪毅に輝くあの人も。同じ人。
彼がシャツを脱いで、素肌を露わにした。思った通り! 心優は思わず『きゃー』と密かなる声を抑え込むようにして、両手で顔を覆ってしまう。
「なんだよ。やっぱり猿って思ったのかよ」
「さ、猿でも大丈夫ですっ」
「でもってなんだ、でもって」
猿、猿って気にしすぎ! 過去になにかあったのかと思ってしまう。それでも、余程に気にしているのか、城戸中佐は心優の顔を覆っている手をそっとのけようとした。
のけられた手から、勇ましい胸板と鍛えられた太い腕、そしてしっかりと鍛練された腹筋の『プロ肉体』が見え心優は震えた。
あの城戸中佐がちょっと緊張した顔をしている。自分でここまで一気に心優を連れ込んできたくせに、おもいっきり心優の上に乗っかって、すっかり自分のペースに巻き込んだくせに。
「園田」
額の黒髪をそっと撫でられる。優しい男の手で。
心優の目の前に、あのシャーマナイトの目がある。艶めいてる黒い石。心優もその目をじっと見つめる。
「猿なんて、言わないで」
心優からも、彼に触れる。彼の額に落ちる黒髪に触れて撫でた。
「心優、ミユ。可愛い名前、つけてくれたんだな」
そうして、城戸中佐はもう一度静かに『ミユ』と囁くと、心優の唇に優しく口づけてくれる。
「中佐……」
素肌になった彼の肌から男の匂い。もう、心優から腕を伸ばして背中にしがみついていた。
目も熱くなって、少し潤んでいる。うっすらをまぶたを開けると、自分のカラダに吸いついている男と壁からこちらを見ている空の男が、交互に自分を襲っているような奇妙な錯覚に陥る。
これまでの心優の男性経験は、苦いものしかなかった。いつも男の方から『ちょっとおまえとはムリ』と言われて終わってしまう。
女の子らしい、柔らかくて、優しいカラダ。そういうのを抱きたかったと言いたげだった。
でも今夜は違う。
こんなに熱く愛されるのは初めて。
「園田」
もう部下として呼ばれている。
「はい」
「シャワー浴びてくる。おまえも後で浴びてこいよ」
中佐はそのままベッドから降りると、逞しい肉体の背中を見せて部屋を出て行ってしまった。
二人で余韻を楽しむ気持ちはなかったよう、中佐は男だからなのかあっさりしていた。
時間は二十一時。ベッドテーブルの灯りをつけて、どこかに落ちている白シャツを探す。ベッドの下に落ちていたのを拾って、素肌の上に羽織った。
ほのかな照明に浮かび上がる彼の軌跡を物語る『パイロットの部屋』。
壁にあるローチェスト。その上に、写真立てもいっぱいある。滑走路でパイロットの装備をつけた姿で同僚達と賑やかそうに映っているものも、キャノピーが開いているコックピットに乗り込んでいる写真も。
だが、心優は信じられないものを見つけてしまい、慌ててベッドを降りて、その写真へと向かう。
その写真立てを手にとって、心優は穴が開くほどしげしげと眺める。
空母甲板に、紺のラインがある白い戦闘機。そして白い戦闘機とお揃いの、紺のラインがある白い飛行服を着た姿で城戸中佐がそこにいる。いまよりもずっと清々しい笑顔で。驚いたのは、彼の隣に写っているのが紺の指揮官服を着込んだ栗毛の女性『ミセス准将』!
それだけではない。心優がさらに驚いたのは、彼が白いパイロット服を着ていること! 彼の腕にある『白昼の稲妻』をデザインしたワッペンがある。
「雷神のパイロットだったの!」
国際連合軍の中でも一握りのパイロットしか配属されない『エース中のエース』が選ばれるフライトチーム。『雷神』。
本家はシアトルの湾岸部隊にある。そしてもうひとつは、あのミセス准将のフライトチーム。彼女の眼鏡にかかったパイロットしか選ばれない。
そこのパイロットだった? ミセス准将の部下だった?
エースの中でもトップクラスの、雷神パイロットだったという新事実がいま目の前に。
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