8.投げてください、ボサ子様

 また来いよ――と、大将に見送られて店を出た。

 初夏の夕は長くなってきたけれど、もう空は薄闇。城戸中佐と港町を歩く。


「いっぱいご馳走様でした。美味しかったです」

「そうか。でも本当に平らげたな」

 また中佐が笑い出してしまうので、心優はもうこの人が上官だというのも気にせずにむくれてみた。


 夕凪の海、紺碧の海。そして、燃ゆる茜が水平線に一筋。もうすぐしたら、海も真っ暗になる。

 基地へ向かうまでの道、途中に小さな芝の公園があって、中佐は何故か公園の中へと小径を歩き始めた。


 柔らかな潮風が吹く芝を往く彼の背中に、心優もついていく。

 空から飛行音。甲高い音と轟音。翼の端と尾翼のライトが点滅している。夜間訓練で沖合の空母に帰還する戦闘機だった。

 それを城戸中佐が、どこか憂いある眼差しで見上げている。心優も一緒に見上げた。


「あー、今日はすごい笑った。汗をかいた」

「申し訳ありません。ご馳走してくださるとおっしゃるから、つい遠慮なく地が出てしまいました。食い意地がはっているんです」

 また中佐が吹き出しそうな顔になっている。

 でも、いつのまにか。あの優しい目で心優を見つめていくれている。

「こんな腹の底から笑ったのは、久しぶりだったよ。楽しかった」

 もう心優は、そのたまにしか見せてくれない柔らかな眼差しにドキドキ。言葉が出なくなってしまう。頬も耳も熱くて、顔がほんのり染まっていることがどうしてなのか、彼にばれてしまいそうで余計に身体が熱くなる。

「あ、ここで座って待っていろよ」

 芝の道脇にあるベンチに座らされる。なのに中佐は制服姿のまま、芝の上を駆けていく。

 どこへ行っちゃうのだろう? まさか、イタズラで置いてかれちゃうとか? なんか、今日の中佐ならやりそうで怖いとすら思ってしまった。

「おまたせ」

 でも直ぐに戻ってきてくれた。

「大将の店、こういうのがないからな。俺もちょうど食べたかったんだ」

 彼の手には、ちょっと贅沢な気分の時に食べたくなるアイスクリームのカップが二つ。公園のそばにあるコンビニエンスストアで買ってきてくれたとわかった。

「あ、甘いものはだめだとか」

「いいえ、大好きです。頂きます」

 笑顔で受け取って、早速、カップの蓋を開けた。中佐も隣に座って、同じようにアイスを食べようとしている。

 今度は心優がクスリと笑ってしまう。

「中佐も、甘いものを食べるんですね」

「ああ、食べるよ。秘書官の仕事をしていると、訪ねた先々でお茶菓子が出るからな。出されたものは食べる主義なんだ」

「中佐はいつでも秘書官の心構えなんですね。部下のわたしにまで、こんなに気遣ってくださって」

「この仕事、向いていたといえば、向いていたのかもしれない」

 また、彼の眼差しが曇った。せっかく気構えない楽しそうな笑顔を見せてくれていたのに。

 そんな彼に『コックピットに戻りたいですか』と聞きたくて聞きたくて、でも心優はその衝動を抑え、どうにかして聞きたい言葉を飲み込む。

 中佐も空気が重くなったのを察したのか、食べかけのアイスのカップを放って、立ち上がった。

「園田。あれ、教えてくれないか」

「なんでしょう」

「塚田を投げたあの技。コツがあるんだろう。俺も秘書官だからさ、いざというときは使えるようになりたいんだよな」

 中佐が空気を変えようとしたから、心優もそれに乗ることにした。

「いいですよ。でも、あれは空手ではなくて、上の兄に教わった柔道に近い技です。コツはあってもそれが直ぐに使えるかといえば、そうではないんですよ」

「わかってる。でも、俺をあの時みたいにひっくりかえしてみろよ」

「えー、中佐をですかあ。怒らないですよね」

「怒らねえってば」

 そうですかと、心優は仕方なく城戸中佐の前に立ちはだかった。

「まずは、こことここを持ってですね……」

「うんうん」

「ひねるために、持った瞬間の手首はこのようなねじれで……」

 城戸中佐は、塚田少佐より背が高い。筋肉のハリと重厚感は、お二人ともおなじぐらい。感覚的には、心優の父親ぐらいの体格か。そう思って、制服ジャケットの衿を掴み、そして足を払う。

「え、ちょっと、まっ」

 足を払い、男が重心を失った瞬間に心優は腕をひねらせる。『ちょっと待った』とも言わせない間に、心優は芝の上に城戸中佐を軽々横転させていた。

「は? ちょっとわからなかった。もう一回」

「え、もういいじゃないですか。一度ではできませんよ。塚田少佐に教わったほうがよろしいですよ」

「いいや、だめだ。日本代表選手団にいた園田に教えてもらうんだ」

 なんだか急に上司が子供っぽくなったように見えて、心優は困惑する。

「もう一回!」

 ムキになって向かってくる上司の衿をまたひっつかんで、同じ事を繰り返した。

「いや、ぜんぜんわからなかった。もう一回」

 三度。心優は上官の彼を芝に沈めた。

「なんだよー! ものすごく楽々投げているだろ。どういうことなんだ」

 ますますムキになってしまい、これ、いつ帰してくれるんだろうと不安になってくる。

「投げられるより、わたしを投げてみますか」

「よし! やる!」

 女の子の身体を投げる――という気遣いもすっとんでいるようだった。

 でもそのほうが変に気遣われたり意識されるよりやりやすいと、心優は彼の手を取った。

「ここを持って」

 自分が着ている制服ジャケットの衿を中佐に握らせる。さらに各ポイントを掴ませ、足を払う方法を教え……。

 でも、心優も甘くない。すぐに投げられないように抵抗した。投げ方をわかっているから、防御のポイントもわかっている。だから城戸中佐はすぐには投げられない。

「この、手加減なしかよ」

「当然です。それとも簡単に投げたいですか。わたし、投げられる動きをしましょうか」

「くそ、そんなことすんなっ!」

 子供っぽいのか、真剣なのかわからないけれど、いつもの大人の中佐ではない。むしろ心優のほうが、この場では落ち着いている。

 自分より大きい彼が『わたし』のジャケットの衿を掴んで押し倒そうとしている力んだ顔を、ただ澄まして眺めている。

 そのもたつく手元が、じれったかった。

「全然、だめです。中佐ったら」

 ちっとも慣れない彼の手首を掴んで、また足を払って、また心優は中佐殿を芝の上に落とした。

「どうしてだー! なんで俺より華奢な女に倒されるんだー! んがー!」

 ついに城戸中佐は、黒髪をくしゃくしゃとかきむしって癇癪を起こした。

 もうこうなってしまうと、今度は心優がおかしくておかしくて、笑いが止まらなくなった。

「なんだよ、園田」

「だって。中佐が子供みたいで……」

 『んがー!』なんて悔しがる中佐殿は、絶対に基地では見ることができない。

「そんな中佐、女の子達が見たらがっかりしちゃいますよ。だからやめましょうよ」

「いや。まだやる!」

「えー、もういいじゃないですかー」

 日が暮れた芝の公園で、三十半ばの男を相手に、心優も立ち向かう。

「もう無理ですって。また今度、練習しましょうよ」

「うるさい。ここをこう持って、こう……」

 あれ、上手い? そう思った時にはふわっと足が浮いた感覚?

 そして気がつけば、ドンと背中に重い衝撃。そして目の前は、星の空――!

 え! 一瞬だった。でも、上手い! 心優が教えたコツを完全に捉えて、とうとう地面の上に落とされた!

 すごい、中佐! できましたね! 心優は起きあがって、彼と一緒に喜ぼうと思ったけれど。

「うおー! できた、やった! すげえ、羽みたいに軽かった。まじかよ!」

 拳を掲げて、あの中佐殿が『よっしゃーっ』と渾身のガッツポーズ。その凄まじいはしゃぎっぷりに気圧され、心優はぽかんと彼を見上げるだけに。

 しかも海が見えるほうへ走って行ってしまい、そこで『ロックオン完了、撃墜、撃沈!』なんて……。パイロットのような敬礼をしてまだ飛び上がっている。

「あの人、だれ?」

 ゆっくりと芝から起きあがった心優は、唖然とするしかない。

 でも――。もう、心優は柔らかく微笑んでいた。

 あれが、きっと本当の城戸中佐。

「あ~。やっぱり兄貴達と同類かも……」

 クールな大人のビジネスマンだって、憧れていたのに。

 それでも心優はずっと笑っている。そんな自分も、基地にいる時のような部下であるための堅い心構えが解けている。

 あ、園田。ごめん。

 やっと我に返ったのか、中佐が慌てて戻ってきた。その姿もおかしい。

「わるい、一人で勝手に盛り上がって。女の子を投げ落としたのに」

「大丈夫ですよ。むしろ、ここで女の子扱いされるほうが腹立ちます」

 身体についた芝を払いながら、心優も立ち上がる。二人で元のベンチに戻ると、アイスが溶けかけていることに気がつく。

「せっかくのアイスクリームだったのに」

「悪かったよ。また買ってやるよ」

 そんな、またこんなふうに誘ってくれるってこと? そうだったら……、嬉しいけれど……。心優は密かにそう思いながら、溶けかけたアイスを頬張った。

 隣の人が、兄貴みたいなもんだと思うと気が楽になった。心優より六歳も年上だから、どんなに無邪気な一面を見られたとしても、ずっと大人の男だけれど。

 中佐も黙って頬張っている。でもやっぱり、すぐ隣にあのパイロットの横顔があるかと思うとドキドキする。スッとした鼻筋に、湧き上がる力を秘めているシャーマナイトのような黒目がいつも心優を惹きつける。彼の瞳が石になって心優の手にあったのなら、もの凄い熱を持って体温とパワーを上昇させてくれる気がする。

「中佐の目て、パワーストーンみたい」

 彼が少し面食らっている。

「石ってことか」

「シャーマナイトっていう、ネイティブアメリカンが愛用してきた石です」

「へえ、そんなのがあるんだ」

「母が試合の前に、プラス思考になるようにと、わたしによく握らせた石です。母はそういうことを割と信じているんです」

「お母さんからのお守りって意味か。俺の目がそのお守りと一緒? 畏れ多いな」

 自分の目に中佐が触れる。

「ふうん、やっぱりそんなところが、女子なのかもな。面白い」

「でも。その石を思い出すぐらい、目の色が綺麗です。今も、そして映像の中の……パイロットの中佐の目も、同じでした」

 彼が満足そうに微笑んでいる。

 そして、今度は彼から心優の瞳を覗き込んできた。

「俺は、おまえの目は、猫みたいだなといつも思っている」

 猫!? びっくり大きく見開くと、それだけで彼があの優しい笑みを目の前でみせつける。

「ここ、アイスついているけどな」

「あ、」

 唇の端を指さされる。

 だって。とろとろになっていたんだもの。でもちょっとお行事が悪かったかもと、ハンカチをポケットから取りだして慌てて拭こうとする。

 恥ずかしい。中佐の前で、アイスがついた顔になっていたなんて――。

「ほら。猫のような目になっている」

 そこで心優は手からハンカチを落とした。彼が、中佐殿が、心優の鼻先まで顔を近づけてジッと見つめている。

「ちゅ、中佐?」

「嫌なら、今のうちだ」

 ど、どういうこと?

 でも、まだ返事もしていないのに、心優の唇の端に熱いものが押された。

 手のひらじゃない。唇に、彼の熱いものが触れている。

 しかも舌先でちろっと舐められた。

 また中佐は心優の唇から離れて、心優の目を覗き込んでいる。

「その、俺はいつも、勢いで」

 勢いって、その時の気分次第ってこと? 

「じゃないと、女を誘えないというか」

 中佐のほっぺたが赤くなっている。あの中佐が照れていて、誘ってくれているのに目を逸らしてしどろもどろ。

 ああ、やっぱり。そんな男性なのかな? どこか近いものを感じてしまっていた。

「嫌では、ない、です」

 そんな返答をしたら、中佐が一時固まっていた。けど、直ぐにまた唇を重ねられる。何度か、唇だけをちゅっちゅっと吸われただけ。すごく熱い唇。もう心優の腰は抜けそうだった。

「行くぞ」

 もう力が入りそうもない身体を中佐に抱き起こされ、力強く手を引っ張られていく。

 行くぞって、どこへ?

 彼が心優を引っ張って連れてきたのは『官舎』。彼の住まい。

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