3.ドキドキです、中佐殿
横須賀海軍、空部大隊本部 長沼准将付き隊長秘書室 に護衛兼、秘書官として配属されて一年。
城戸中佐!
城戸中佐の付き添いで一緒に歩いていると、可愛い声が彼を呼び止める。
「ああ、お久しぶり。お疲れ様」
にっこりと爽快な笑み全開で、城戸中佐が振り返る。
でも、心優は彼の背中の影で密かにため息をついていた。
わたしはお先に失礼ます――と、言いたいけれど、彼の付き添いでいるのだから彼の指示がないのに勝手に一人で帰ることは許されない。
声をかけた彼女は、とある将軍配下の事務官だった。秘書室ではなくその部署に設置されている総合管理をする事務所。彼女はよく城戸中佐に声をかけてくる。
「あら。園田さんも、お疲れ様」
城戸中佐に向けられていた眼差しが、途端にツンとしたものに変貌する。とてもわかりやすい彼女だった。
「中佐。またお時間ありますか」
彼女がにっこりと長身の中佐を下から覗き込む。とっても可愛らしい仕草だった。
そして中佐殿もまったく迷わない。
「ああ、いいよ。久しぶりだね。後でメールをしておくよ」
「楽しみです。お待ちしております」
彼女が元気よく返事をして、そして心優に勝ち誇った笑みを残して去っていく――。
でも心優は嫌ではない。どちらかというと『いいな~。可愛いから可愛く見えるんだもん』と羨ましくなる。
だけど彼女は心優を敵視している。こんな『ボサ子』に嫉妬してどうする。どうみたって、女性としてはそちらが勝っているし、中佐殿に近づくための大胆なこの手練手管……。心優など相手なんかじゃないはず。
「参ったな。どうした。今週に入って、この手の誘い三人目」
制服の胸ポケットから小さな手帳を出して、彼がメモをする。
彼はいつも女性からのお誘いが多い。でも漏れなく引き受けてしまう。それは目的があってのこと。
「三人もということは、どこかで大きな動きがあったのかもしれないですね」
心優の冷めた話し方に、城戸中佐が微笑む。その笑みは、あの微笑み! 心優の心臓がどきゅんと動くその笑みは『よくできました。いい子だね』といわんばかりのもので、とても優しい眼差し。
そんな中佐殿のお褒めの眼差しに、既に心優はドキドキ。そしてメロメロ……なんだと思う? でも誓っている。絶対にそんな甘えた顔を見せるものかと。
でもこんな城戸中佐の『よくできました』の優しい眼差しは、彼は他の女性には見せたことがない。たぶん、という心優だけの願望かもしれないけれど――。彼が外で彼女達に会った時、『情報をくれたご褒美』に、この眼差しを見せているのかもしれないけれど。
でも、基地では『同部署、同室にいる同メンバー』である心優だけだと確信している。
「久しぶりだな。彼女達との食事。困ったな~。俺も最近、外の店は巡っていないんだよな。変な店に連れて行ってご機嫌を損ねたくないし? これは塚田に良い店をリサーチしてもらうか」
こうして彼は他部署の彼女達から、小さなことでも良いからと『情報』を収集する。女の子達のかしましい噂話だって、中佐殿には貴重な情報源。
おいしい食事と、にっこり爽やかな元パイロットの色気と熱い眼差しを駆使して、彼女達の下心を彼は上手く操っている。
彼女達もそれは良く解っていて城戸中佐が食いついてくる情報を集めてくる。そしていつか、尽くした彼に認めてもらえたら――と思っているはず。
それは恋人だったり、妻の座であったり、または心優のように秘書室秘書官として配属されたいが為の、様々な願望があってのこと。
そんな涙ぐましい努力をしているのに比べたら、『空手ができる』のひとつで大抜擢された心優は、彼女達にとっては『悔しい、うざい』存在らしい――。
彼女達も虎視眈々と狙っている。元エースパイロットだったのに、いまは空部隊を仕切っている将軍殿のエリート秘書官である彼のお側にあがれることを。
心優にとっても、この一年はとてもめまぐるしかった。
浜松基地から抜擢された、武道指導教官の娘。と、それなりに注目された。
女性達からの、ある程度の妬みも受けたが、そこは大基地ゆえか。そんな『仕事に関係のない妬み』で夢中になっていられる職場でもなく、彼女達も時間が経てば冷たい目線だけになって心優に触らなくなった。
そんな心優の立場を知ってるはずなのに、やはり中佐殿はにこにこしているだけで、取り立ててフォローをしてくれるわけでもない。
そこで初めて心優は『上司だからかばってくれる』だなんて、馬鹿なことを考えていたと思い改めたものだった。
『何故、助けてくれないのですか』――なんて、冗談でもほのめかしたら。きっと中佐は、つまんないことで妬む女性の心根よりも心優を蔑むのだろうと。
俺の側にいるなら、闘える者ではないと困る。
きっと、そう思っている。
中佐殿は、そういう冷たいところがある。
『基地に慣れたか。女性ばかりだから、いままでと勝手が違うだろう』
『はい。女性って難しいですね……』
『そんなもんだろう。どこにいっても』
『そうでしょうか。ここの女性の競争心って普通ではありません』
心配してくれているのかと思って、ちょっと本音を漏らした。
『そうかな。当たり前じゃないかな。いまよりもっと良くなりたいという向上心の表れだ』
当たり前という言い方に、心優は肝を冷やした。にこにこしているくせに、目が笑っていない……。
彼女達に妬まれ、影で嫌味を浴びせられ一方的に激突されている様子を察して、心優がどうするか……。その目が心優を試していることに気がついた時、ゾッとした。
この男性は本当は、誰よりも厳しく人を見ている。そして切り捨てている。きっと甘えた隙などちょっとでも見せたら、あっというまに秘書室から追い出されるという危機感を持った。
その時、心優は面接の日に廊下にたくさんの女性隊員が並んでいたことを思い出す。『いくらでも候補はいる。すぐに入れ替えられる。横須賀ならすぐに』。そんな危機感だった。
秘書室の男性達は、城戸中佐以外は既婚者。あの塚田少佐だって、二児のパパ。年上でベテランの男性隊員に囲まれていて、手厚く丁寧な指導は受けているが、だからといって、紅一点ちやほやされているわけでもない。
むしろ、それまでなんとなくこなしてきた『職務』に初めて真剣に取り組んでいる。
半年経った頃。城戸中佐が言ってくれた。
「女性が多い横須賀基地での、第一難関を突破したな。お疲れさん」
いまでも時々、城戸中佐を気にしている女性達からあからさまな嫌味を言われたりもしているし、影でこそこそ(実際は聞こえるように)『女っけなしの体育会系女』と囁いているところに遭遇したりするけれど、もう胸も痛まなくなってきた。
そんな心優の心情の変化を見抜くように、城戸中佐が労ってくれる。
「園田を採用して、正解だった。園田は、いつも試合で強敵と戦うことになった時はどんな気持ちなんだ。……たぶん、もうそんな気持ちでいるような気がしている」
いつものにこにこ……ではなかった。優しい眼差しで心優をじっと見下ろしてくれて。
ドキドキしてなにも答えられなかった。
「笑わないんだな、園田は。だよな、試合中に笑ったりなんかしないもんな」
ただ見たこともない優しいあなたにドキドキしちゃっているから。笑うことも出来ないだけ。
どうして、今日はそんなに優しくわたしを見てくれるの?
いつもの彼じゃない。でも、そんな彼を見ることができて、ドキドキしている。
でも、そう。中佐殿が言っていることはそのとおり。彼女達の蔑みが気にならなくなったのは『これは試合なんだ。気持ちで負けたら、私の負け』と切り替えらてから。
それから、心優は笑っていない、ようだった。それは彼に言われて、自分でも初めて気がついたこと。
転属してきた当初は、『園田教官の娘、世界選手権の代表選手、全国三位だった』という目で見られると同時に、『田舎臭い子』とか『武道一筋だったからしようがないんじゃない』とか、『城戸君が選んだ初めての女は、なんとも冴えないボサ子』だとも影で言われていたようだった。
終いについた基地でのあだ名は『空手家ボサ子』
自分でもその空気を感じ、逃げたいと思ったし、やはり相応しくない辞めたいとも思った。
だけれど、城戸中佐は『もうちょっと女らしくしたらどうだ』なんて一度も言わなかった。そして、彼の第一補佐である塚田少佐も『気にするな』と言って、なにかを改めるような指示はしなかった。
半年経って、心優も心構えを変えた。
黒髪はだらしなくならないよう、短くてもこまめに美容室に通って手入れをして、メイクも顔色が良くみえるよう、小綺麗にするよう心がけた。
ショートボブは、野暮ったくならないよう美容室でカットしてもらい、大人っぽくなるよう前髪を横分けにして、艶々の黒髪を保つ。メイクも基本のファンデだけじゃなくて、眉を整えて、ほんのり自然なチークも忘れずに、品の良いナチュラルな口紅を選んで、最後の難関はアイメイク。いかにも盛りましたみたいにならないよう、こちらもナチュラル志向。でも目元がぱっちり明るめになるように……。
秘書室にはたくさんの訪問客がある。『身だしなみ』は第一。美しくある、ではなくて、清潔感や第一印象の問題。ぎとぎとしているノーメイクのもっさい女がいても別になんとも思わないだろう……ではなくて、思う人もいるかも知れないというエチケットの問題だと思うようになった。
可愛い女性になりたいわけじゃない。ただ、ただ……。中佐殿の評判を落としたくないために。
ひたすら秘書室の先輩達に迷惑をかけまいと、必死だった。
朗らかで、いつもにこにこ明るく愛嬌があって、元パイロットという経歴で男性からも慕われている中佐殿。
ちょっぴり腹黒いしたたかさも持ち合わせていて、なにごともそつなくこなしてしまう。みるからにやり手だった。
塚田少佐には『冷静沈着』という言葉が本当に似合う。にこりとも笑わない。だからって本当に恐ろしい訳ではない。言葉の端々に温かみや思いやりをかんじる。
逆に、城戸中佐は見た目はにこにことっつきやすそうに見せて、内側に秘めている冷徹さは徹底されている。
しかし、そんな中佐殿が変貌してしまう人が、ただひとり。
心優はその人が来ると、城戸中佐同様、落ち着かなくなってしまう。
あの朗らかな中佐の様子が明らかにおかしいから……。
―◆・◆・◆・◆・◆―
その方の訪問は、城戸中佐の心を揺らすだけではない。
長沼准将の秘書室の空気をひっくり返す。
「ミセス准将が隊長室にお見えだ。すぐにお茶を差し上げてくれ」
「かしこまりました、中佐」
塚田少佐がすぐにデスクから立った。
だけれど中佐殿のその一声を耳にした秘書官男性達がざわついた。彼等の視線が一斉に、城戸中佐へと向かう。
「中佐、まさか。いま隣の隊長室にミセス准将が?」
「ああ。毎度の如く、お友達に会いに来たといわんばかりにアポなし」
呆れた中佐に同調するように、彼等も疲れたため息をこぼした。
『ミセス准将』と聞くと、ここにいる男達は揃って落ち着きをなくす。
『ミセス』が遠い離島部隊である小笠原基地から横須賀に基地にやってくると、あまり良いことがない。
心優達の大ボス、長沼准将を巻き込んで、彼女はなにを言い出すかわからない。『ミセス台風』とも言われているぐらい。
ここの男性先輩達だけでなく中佐殿さえ、あからさまに嫌な顔をしてしまうほどの彼女は『海軍パイロットの女王』だった。
「またうちの大ボスが荒れなければいいけれどな。真っ向勝負するといつもミセスに負けている」
「いやいや、あれでけっこう互角。ミセスだって勝った顔をしているだけで、小笠原基地に帰る時にはきっと腸煮えくりかえっているんだろ」
「あのアイスドールと将軍達に言われているミセスが? 腸煮えくりかえる? そんなことあるのかね」
彼女がやってくると、普段無口な男達が急にお喋りになるのも特徴だった。
「園田、手伝ってくれ」
「はい」
眼鏡の塚田少佐に言われ、心優もすぐさま立ち上がる。
塚田少佐は、新人秘書官である心優の『教育係』を任され、彼と一緒に作業をすることが多い。
塚田少佐もどちらかというと『護衛官』寄りの特質を持った隊員として配属されているけれど、いまは護衛兼、補佐官という立場だった。秘書官としての『たしなみ』に『業務』は全て彼から教育してもらっている。
でもその護衛官としての経歴もあるので、心優は彼の指示に従って、基地内で行われている『護衛部』という武道訓練に参加するようにしていて、それも必須業務の一つになっている。
秘書室の片隅にある給湯室で、塚田少佐がお湯を沸かす。
心なしか、いつも冷静な塚田少佐まで落ち着きなくみえてしまう。ミセス准将は、そんな人。
そして心優も心がざわざわする。ミセスがくると、『見たくないもの』をみることになってしまうから。
それは塚田少佐が、秘書室の誰よりも感じていることだった。
「園田。わかっているな。ミセスが帰った後のこと……」
「はい。もちろんです」
そこに『みたくない中佐殿』が現れてしまう。
給湯室で少佐の手ほどきで丁寧にお茶を煎れていると、じれたような城戸中佐の声がかかる。
「まだなのか。先に隊長室へ行っている。頼んだぞ」
「承知しました」
またもやふっと小さく息を吐いて、中佐が背を向けた。制服の黒ネクタイをきゅっと締め直し、ドアを開けて行ってしまう。
それだけ彼も気合いをいれねばならない相手。そして彼の眼差しに翳り――。
塚田少佐と心優は顔を見合わせる。
「ミセスは、園田がいることで明るくなる。城戸中佐とは駄目だから頼んだぞ」
「……はい」
――女性も必要。
この秘書室でなぜ女性が所望されたのか、心優はミセス准将を接客することで体感することになった。
ミセス准将と城戸中佐は、折り合いが悪い。
表向きはきちんと話せても、どこかギクシャクしている。
特に中佐殿の拒絶反応が酷い。新参者の心優の目から見ても、あからさまだった。
誰もがその功績を認めている『パイロットの女王』と言われているミセス准将。彼女も元パイロット。
エースチームの一員だった元パイロットの城戸中佐。
おなじパイロット同士なのに、打ち解けられない関係。
心優はそこに城戸中佐の『過去』を感じ取っている。
そのミセス准将が訪ねてきている隊長室へ、心優は向かう。
どことなく凍った空気と視線が絡む、息が詰まる瞬間をまたみることになるだろう。
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