ななだんめ 睡蓮

私が通っていた学校には「睡蓮」という題名がついた絵があると言われていた。それは卒業生が当時の同級生を描いたと云われていて、その子は奇行と容姿から当時の学校関係者より宇宙人と呼ばれていたそうだ。しかし、その絵は美術室の奥深く、鍵のかかる部屋にあるらしく、誰も見たことがなかった。

当時の私は一寸何かを言われただけで、何かをされただけで心の中で誰かを×していたり、妄想の中で見知らぬ人に暴力を振るったりしていた。おまけに突然の吐瀉や不眠に襲われていた。つまるところ、苛々と不安定さの中で私は生きていた。原因は父親の××現場を目撃してしまったことやら当時の失恋の傷である。それからというもの、私はすっかりと心が荒れてしまい、「小さな竜」と密かに渾名されるようになってしまった。生活をしていれば耳に入る。段々と友達と呼べる人間も少なくなり、私の心は小さな針で傷つけられていくようであった。

高校生活でのある日、私は「睡蓮」の絵の噂を耳にした。昔在学していた生徒を切り取った絵。私は興味が湧いてきたのである。しかし、誰に聞いても何を聞いても噂しか出てこない。自分で探そうと思っても私は美術室の雰囲気がどうも苦手であった。なんだか石膏像は自分を見ている気分になるし、そこら辺にある絵は動き出したりしそうで気味が悪い。たまにある静寂そのものを描いた湖面の絵やら野っ原の絵は何かが現実世界に出てきそうな気がして静から動に転ずる瞬間がありそうで怖いのだ。私はそんな事があってか美術の授業はとらず、必然的に美術室とは疎遠であったのである。しかし、その「睡蓮」の絵の噂はどうしても私の胸の内に引っかかって取れなかったのである。高校生が空いている時間といえば放課後か朝一番だ。私は出来るだけ怖くなさそうな朝一番に美術室に行ってみることにした。

翌朝、作戦を決行することにした。朝八時、不良生徒の中では誰よりも早く学校に来た。朝ならば、美術室にいる魔物も動き出したりしないであろう。私はそう思っていた。職員室で美術室の鍵を適当な理由をつけて借り、私は美術室へ向かった。

美術室の引き戸は軽やかな音を立て開いた。やはり引き戸のガラスから見える石膏像がこちらを睨んでいる。私は武者震いか何なのかわからない震えを身に覚えつつ、美術室へ入った。美術室の中には可愛らしい猫の絵、自画像、空想的生物の絵、どれもこれも飛び出して来て私を襲ってくる。そんな妄想が頭をよぎる。森林を描いた作品は蝶々がひらひらと舞い、現実に出てくるのではないか。私はそんな恐怖感と戦っていた。美術室を進んでいくとたしかに扉があった。そこには鍵がかかっているという噂であるので念のため針金などを持って来ていた。手に汗をかいているのを感じる。心臓の鼓動が早くなっていく感覚を私は覚えた。扉に手をかけゆっくりと回すと、開いた。まるで、客人を迎えいれるかのように。まるで、食虫植物の中に入る虫のように私はその部屋に入っていった。中には既に使われなくなった画材や石膏像で溢れていた。床には卒業生が置いていったと思わしき絵もあった。その中に『彼女』はいた。ベットの上に座っており、病的に白く、凛とした雰囲気のなか、柔らかそうな唇に長い睫毛、形の良い眉、そして恐ろしい程澄んだ目をしており、昔美しかったであろう髪は少しパサついているようになっている少女が座っている絵。恐ろしい程に美しい、これこそが「睡蓮」であると私は思った。その確証通り、絵の下部には小さく×××に贈る×××よりと書かれており、さらに小さく「睡蓮」と書かれていたのだ。

それから連日、朝八時に登校し、先生から美術室の鍵を借り「睡蓮」を眺めるのが日課と化した。彼女は見る角度によりなんだか表情が違うのだ。ある角度から見れば微笑みを湛えているように見え、また別の方から見れば不思議そうな表情をする。しかし、絶対に悲しんだり怒ったりする表情をする事はないのである。私はそんな『彼女』の虜になっていった。どうすれば絵の中の彼女に近づけるのだろうか。自分も絵になればよいのか。それとも、私が彼女のところにいけばいいのか。『彼女』に自分の痕跡を残したい。私はそんな一念しか湧き上がることがなかったのである。この感情は何なんであろうか、経験したことのない感情であった。例えるなら失恋した彼に抱いた感情に似ていた。きっとこれは恋だ。私は絵画に恋をしてしまったのだ。この頃から吐瀉は収まり始め、精神も落ち着き始めた。誰かを心の中で傷つけることなく、穏和な表情を浮かべることも多くなったと母に言われた。しかし、私の心の中は彼女の事でいっぱいだった。ある日珍しく朝遅刻をし、放課後に彼女のところに行った。彼女はオレンジ色の光の中相変わらずの表情であった。しかし私には彼女が手招きしているように見えたのだ。ああ彼女が呼んでいる気がする。


睡蓮の花が私には見えた。

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半宵の怪談集 石燕 鴎 @sekien_kamome

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