さんだんめ 透明人間の欲望

私が透明人間に出逢ったのは冬のとある日であった。その日は雪が積もり、私は夜遅くに帰宅のため歩いていたらところであった。しんしんと降る雪の中である。音が雪に吸い込まれるので、無音の空間であるはずなのにさく、さく、と誰かが歩く音がするのである。私は音の出先を伺ってみたが周囲には人影も見えない。今度は周囲を見回してみたが誰もいないのである。不思議なこともあるものだと思っていると肩に鈍い衝撃を受けた。私が「痛ッ」と言うと何処かからかか細い声で「すみません」と聞こえてきた。私はぶつかってきた主を探ろうと後ろを振り向くと誰もいない。

唯、先程とは違うところがある。雪を踏みしめて歩いたような痕跡があるのだ。私はどうも気になりその足跡を観察すると靴の大きさは28センチ程、余程の大柄な男であろうと推測された。

ふと、前を見てみると足跡が残っている。この足跡を辿るとぶつかってきた輩に会えるのではないかと私は考えた。私は不思議な執着心からその足跡を辿り始めた。一刻も消えかけた足跡を辿っていると一軒の荒屋敷に辿り着いた。外見はボロボロで一見すると人間が住んでいないのではないかと思うような場所であった。しかし、先程の足跡は確かにこの荒屋敷で途切れている。私は意を決して扉を叩くことにした。私はやや乱暴に扉を叩くと、引き戸がからからという音を立てて開いた。しかし、どこにも人の姿はない。私が扉から入ろうとすると見えない何かにぶつかったのである。私は思わず「すいません」と言う。すると、

「いえ大丈夫です。それより、先程は歩いている最中にぶつかって申し訳なかったです。しかしあなたも執着深いですね」と返答があったのである。私は思わず先程ぶつかってきたときからの疑問やらを投げかけてみた。すると彼は「とりあえず中へお入りください。今夜は雪も降っていますし、外で話しをすると凍死しますよ」との申し出があったのでありがたくお招きに預かったのである。

荒屋敷の中は意外とこざっぱりしており、外観よりも荒れてない印象を受ける。唯、1つ不気味なのはふよふよと湯呑みやら薬缶やらが動き、火が勝手につき、茶の用意をし始めたのである。やがて端が欠けた湯のみ2つがちゃぶ台に置かれると、彼が私の向かいに座ったことを感じた。彼曰く、昔は透明人間ではなかったらしい。現在は30代であり男性、25.6の時に透明人間になる薬を発明し、自分が服用したところ、10年以上経過した今でも透明人間であるということである。それから人目を避けるように人の家を物色し、食料をほんのすこしばかり拝借したり、ぶらぶらとすごしているそうだ。私は思わず口を開いた。

「服は着ていらっしゃるのですか?」透明人間は笑声で「着ているよ。着ているけど、どうも周囲には完全に認知されないようなんだ」とのことであった。

「誰からも認知されなかったということは寂しくはなかったのですか?」

「最初は寂しかったよ。でも段々と慣れてしまったよ」

そういう透明人間はもの悲しげな声色で言った。私はとんでもない好奇心とわずかな親切心から実験を試みることにした。透明人間も一応は「誰かがぼくを認知してくれるなら」と了承をしてくれた。

私は黒いペンキを大量に買ってきた。そして彼にかけてみることにしたのだ。彼にここにいるようという旗を立ててもらい、私は彼にペンキをひっかけたのだ。しかし、彼にかかった分だけ透明になってしまい、黒い壁に透明の人型が出来たようになってしまったのだ。実験は失敗したが透明人間からは「身体がペンキまみれで気持ち悪い」との一言を頂いた。私は実験をあの手この手で繰り返す内、邪心が心の中で燻ってきた。実は私には密かに思いびとがいた。私の家の近所に住む貞淑な女性である。旦那を会社に送り出す時に振る手の美しさとどことないあどけなさに私は虜になっていた。もし、私も透明人間になれば、こっそり閨に忍び込み慾望を満たすことが出来るのではないか……と。私はそれとなく彼にどうやって透明人間になったかを聞いた。なんの根拠もないが、もし同じ薬を飲めばもとの普通の人間に戻れるかもしれないと告げたのである。透明人間はそれは試したことはなかったと薬品を調合し始めた。小一時間程であるか、薬っぽい燻んだ臭いが周囲に漂う中、漸く薬品が完成した。透明人間は「じゃあ一気にいってみるね」と言い、薬品を一気に煽った。彼は短い叫び声を上げ、同時にバタンと床に倒れる音が聞こえた。私は「透明人間君大丈夫かい?」とさりげなく声をかけ、彼の一部分を掴んだ。そこから彼の身体をなぞり、喉元に手を当てると彼はもう息をしていなかった。すると、同時に段々と透明人間であった彼の姿が顕れたのである。そこからの私の行動は早かった。私は台所に行き、残っていた薬品を一気に煽ったのである。そうするとみるみるうちに身体が消えていくではないか。私はこれで念願が果たせると思い嬉しくなった。私は喜び勇み、自宅に帰った。私は近所の思いびとの家にこっそり忍び込んだ。引き戸がからからと音をたてたがなにも恐れるものはないという気持ちを抱いてた。その家の貞淑な妻は夕餉の支度をしていた。私はこっそり後ろに立ち、彼女の身体をすぅっと撫でた。ああ、なんと滑らかですべすべした肉体であろう。この身体を自由に出来たら……!そう私は考えた。しかし、彼女は後ろを振り向き、不安そうな表情を見せたのである。その表情を見てなんだか私も不安になってしまい邪心が萎んでゆくのを感じたのである。その後も何度か忍び込み、彼女の身体に触れたりしていたがついに閨に忍び込むことは出来なかった。彼女が亭主の横ですやすやと安らかな表情で眠っているのをみるとなんだか申し訳ない気持ちになっていくのである。

私の知る透明人間はもうこの世にはいない。つまり私をどうにかして素の人間に戻せる人間(決して生きてはいなくとも)はいないのだ。私は漠然とした不安に襲われながら毎日誰にも気づかれずに生きている。そうするより他にないのである。

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