星が孵る日

駒芳樹

File No.20891&20892

 誰もがもう分かりきったことだというのは知っている。奴らが今でも我々の生存圏の目の前を闊歩し、どちらかが絶滅するまで終わらないであろう戦いをそして今日も続けている。それは砂漠であったり、あるいは草原であったり、森であったり、凍土であるのかもしれないが、我々は戦い続けている。だからこそ俺はもう一度話すべきだと思った。これを聞いているあなたたちにとって知っていることは全てが起こってしまってからだろう。だが、やはりその前、ことの始まりから知っておくべきだと私は確信している。それがいつかと思い返せば、それは2021年のあの日だろう。


 はじめから、何もかにもがおかしかった。2021年に月の半分くらいの大きさの星が小惑星帯で発見されたときはまだ驚くことじゃなかったのかもしれない。それはゆっくりと近づいており、地球にも接近するという話があったものだから衝突を危惧する人が現れたりもした。とはいえ、多くの人にとってそのことはどうでもいいことだった。何年も先の話だったからだ。


 それから10年くらいは何事もなかった。近づいているとは言ってもかなりゆっくりで、10年もたってみればある種のショーのようになっていた。ちょうどそんな時だった2033年の5月のことだ、秋ごろに再接近を迎えるとかでこの年はやけににぎやかだった。その上、アメリカとかロシアとかEUとか中国とかが次々と探査機を送る計画を発表していた。まあ言ってしまえば世界中が沸き立っていたんだろう。そのとき私は東京の小さな雑貨屋で働いていて、昼休みにずいぶんと古くなったタブレットでそんなニュースを見ていた。


 別に私だって興味がなかったわけじゃない。忘れていた好奇心が湧き上がってくるのを感じて天体望遠鏡を用意していたし、休暇をとって北海道に観測に行くなんて計画も立てたりしていた。正直言って浮かれてはいた。それでもまあ私にとっては楽しみであったし、店の店長はお土産を買ってこいと快く送り出してもくれた。


 そしてその秋は予定通り北海道に言ってきた。それも一週間の日程で、だけれども残念なことに観測の夢は叶わなかった。台風が運悪く北海道を掠めていったせいでその日は雨だった。結局雨の中ホテルの部屋にこもって私はすっかりタブレットに張り付いてインターネットの中継を見ていた。そのときの中継のことははっきりと覚えている。望遠鏡から見た表面の映像が映ったときにはいくつもクレーターがあるのがはっきりと見えていたし、探査衛星から映像が送られてきていたときはそこから見える地球をタブレットで見ていることにある種面白いと思わされた。


 旅行を終えて、東京に戻った私はまだ見えるその星を自宅のマンションのベランダから眺めたりもしたもんだった。戻って3日が過ぎ、1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎても見える大きさは変わらなかった。科学者たちはこのことに頭を抱えたらしい。なにせ過ぎ去ってゆくはずのその星はいつまでも残っていたからだ、それどころかそいつは地球と月の間を一定の距離を保ってずっと存在していた。それは一年経っても変わらなかったもんだから科学者たちはこれを地球の第二の衛星にした。昔の神話から名前を取ったんじゃなかったかと思うが、その星の名前はパンディアと変わった。外から来た天体が新しい衛星になるという話は他の惑星でも見られることらしい。そんなこともあるのかと思っていた。


 そしてだんだんと、ゆっくりとではあったがニュースサイトやテレビ、新聞なんかに探査の結果が出てくるようになった。曰く、太陽系では比較的新しいだとか、曰く、内部に空洞が存在する可能性だとかそうゆう話だった。そしてそんな情報はすぐにオカルトサイトが自分たちの妄想を疲労するために使い出した。。例えばノアの箱舟の正体だとか、あるいは古代文明が崩界前に打ち上げたスペースシャトルだとかそんな眉唾の話ばかりだった。しばらく、だいたい2、3年程はずっとにぎわっていた。


 そしてそのうちにパンディアが私たちの日常に入り込むようになって、誰もがその存在を気にすることがなくなっていった。それはいつもあるもので、特段気に留める必要はないと誰もが認識しだしていた。ああ、今にして思えば愚かしい。考えても見るべきだった。はるばる地球まで旅をしてくる星が通常のものではないことを。常に我々は眼を離さずにそれをにらみつけておけばよかったのだ。


 すべてが終わったその日ははっきりと覚えている。2038年の9月26日だった。最初の異変はパンディアで地震が観測されだしたことだったらしい。らしいてのは、後から聞いたからで、そんな話はニュースにすらほとんどならなかった。その後しばらくしてついにそれは始まった。地割れがパンディアに見られるようになったことだ。


 地割れははっきりと映っていた。ちょうど、北極点辺りに出来ていたそれは、日に日に大きくなっていって、半年過ぎたときには、赤道を越えて伸びていた。あまりにその光景は恐ろしく、終末だと思った人もいた。ただ、本当に恐ろしかったのは、まだ始まっていなかったと、その後に起きた災厄を目にしたときだろう。。


 2039年10月13日、地割れはパンディアの下3分の1程を残して止まっていたが、突如パンディアが吹っ飛んだ、地割れより北側半分が砕け散ったのだ。そしてそのときになってようやく私たちはその本当の姿、分厚い殻と中に存在した奴らの姿からパンディアの何たるかを理解した。誰も想像していなかったそれは、巨大な卵だった。星のように見えていた巨大な卵から、俺たちがそれまで知りようもなかったような得体の知れない不気味なものが現れて誰もが驚いた。


 パンディア、いや、卵の殻は、新たなる存在の誕生と同時にその姿を変質させた。白っぽくごつごつとした岩は赤いスライムのようなものへ変貌し、やつらを包み込みながら地球へ降りてきた。途中で分裂し、それは世界各地に降下していった。その頃はまだテレビも、インターネットも機能していて、その恐ろしい光景が流れていた。途中、それに対してミサイルが向かって行く映像が流れた軍隊が阻止しようとしていたのだ。しかし、それは全くの徒労に終わった。ミサイルが爆発してもそれは何事もなかったかのように降下を続け、地表に到達した。地表に到達したそれらからはなんとも言いがたい形状の化け物どもが現れた、古い映画でも宇宙の生物はいろいろな姿で描かれるが、あの姿は別格だ。まともな認識など出来そうにない。それほどにおぞましい存在だった。


 当然、日本にも奴らはやってきた。九州と北海道、合計で2つ、私はパニックになるんじゃないかと思っていた。けれどその後数日は普通だった、宅配は普通に届いていたし、店もやっていた。電車はいつものように動き、学生は机に向かっていた。テレビや新聞は惨状を訴えていたが、それでも人々は台風だとか、地震だとかの自然災害のように局所的なもので、いずれ元通りになると思っていつもと変わらない生活を続けていた。それでも数日後にはコンビニやスーパーの商品が減り、減った商品を我先にと人々は買い求め、開店前の店には行列が出来るような状態が見られるようになった。気がつけば私たち戦争の只中にいた。


 雑貨屋は商品が入らなくなると一時休業扱いになり、店主は恐らく再開できないだろうといって少しばかりのお金を渡して私に実家へ帰るようにと助言してくれた。そして当時まだ動いていた電車で秋田の実家に帰った。その頃はまだ母が残っていて、帰った日には妹も婿を連れて戻っていた。彼の実家は北海道にあったが、連絡が途絶えてしばらくなるといっていた。


 実家に帰ってみれば人もまばらだったし、店だって東京にいたときより少なかったが、こっちに来たところでどの店も物資不足に陥っていた。とはいえ実家には畑も、田んぼもあったから飢えることはないだろうと思っていた。それに、実家に帰って数日もしたらインターネットは使えなくなった。テレビは避難情報と危険時の行動を伝え、それ以外の時間はもう何年も昔の映画やドラマを垂れ流していた。今にして思えば少しでも心を落ち着かせようとしたテレビ局の人間の配慮だったのかもしれない。


 11月に帰ったこともあり、冬への備えに追われそれからしばらくは大変だった。灯油をどうにか用意して、準備を整えていた。車もいざというときのためガソリンスタンドに寄ると、従業員から自衛隊が青森に向かって行った話や、北海道から次々と避難者が港に来ているといった話を聞いた。この頃はまだ政府が機能していた時期だった。官報によって状況を知ることが出来ていたし、物資も行政が配布や、炊き出しを行っていた。


 その年の冬は何とか乗り越えた。が、春になると北海道陥落とやつらの青森青森上陸のニュースが入ってくるようになった。車の燃料は配給制になり、燃料の確保にと山の木々は伐採されだした。次々と禿山が生まれていった。そして5月になると故郷を追われることとなった。


 その日は畑仕事をしていた。昼ごろに航空機のエンジン音が聞こえると思ったら、それはありえないほどの低空で飛行している旅客機だった。その機首はつぶれ、そして山の向こうへと墜落していった。隣町の山中に墜落したらしい。消防団や警察が現場に動員された。後からそれは避難者を乗せた飛行機だったと聞かされた。ひどい惨状だったらしい。その惨状に心を折られた人のうち山に何人かが入っていき、戻ってくることはなかった。そのうちの一人で、私のいとこだった彼がしきりに、助かる道はもうないということや、いずれ俺たちもあんな風に死んでいくんだと言っていた声は未だに私の脳裏に焼きついている。もう脅威はすぐ迫っていた。そして、数日もすると自衛隊がやってきて国外退避をせよと勧告していた。その時の彼らには助けられた。秋田市まで行くとフェリーが出ていると教えてくれ、足りなくなっていたガソリンを分けてくれた。そのまま私は家族を連れてほとんど荷物を持たないでフェリーへ乗り込んでいった。


 フェリーは北の空が赤く染まる中出航した。それと引き換えになるかのように、大陸から日本に向かう爆撃機の群れを私は見ることとなった。その光景が私に故郷に帰ることは出来ないという現実を突きつけているようだった。


 ああ、しかし私にとって最も恐ろしい経験はその後だった。次の夜のことだった。私はフェリーのデッキで潮風に当たっていた。フェリーは他にも航行していて、その周りを軍艦が囲むように進んでいた。海の上には赤や緑のランプの光が点灯しているのが見えた。そうしてみていたときに不意に一隻の軍艦が轟音を立ててランプが水中へ消えていった。暗闇で良く見ることは出来なかったが、光っているランプがそのまま水中に飲み込まれていくのを私は見た。それと同時にけたたましいほどのサイレンが鳴った。残った軍艦はサーチライトを海に向け奴らを見つけ出さんとしていたが、まったく見つけられず、少しの間をおいて離れたところにいたフェリーがおなじようにへし折られて沈んでいった。まずいと思い私は家族を呼びに行こうとしたがその瞬間に突き上げるような激しい衝撃が襲ってきた。船は傾き、私はそのとき海に投げ出された。冷たい海水で何とか必死に泳ぎながら疲れはてて私は意識を失った。


 どうやら運命の女神とやらは私に微笑んでくれたらしかった。目が覚めたとき私はベッドの上だった。あの後、海に投げ出された俺は軍艦に乗っていた人間の手ですぐに助けられたらしい。その後数日眠っていた間に彼らは懸命に処置をしてくれた。そして俺が目を覚ましたことをとても喜んだようだった。というのも、あの大船団の中で生き残ったのはフェリーと軍艦がそれぞれ一隻だったらしく、救助者を含めても5000人ほどだといっていたからだ。生き残った人間は多くが家族を失っていた。俺のように自分ひとりが生き残ったなんてやつもいた。このことを覚悟していなかったかというとそんなことはなかった。奴らが地球に降下してきたときには家族を失うこともあるかもしれないとは思っていた。だがそれがあんな別れ方になるなんてのは思ってもいなかった。唯一、着ていたジャケットの内ポケットに入れていた一枚の写真、今年の春先に撮ったそれだけが家族をしのぶものとなった。


 私がいたのはウラジオストクだった。元々フェリーはやつらの被害の出ていないこの地を目指していたが、その途中でやつらの襲撃にあったということだった。驚いたことに、電気は通り、街ではある程度買い物が出来ていた。とっくに消え去ったと思っていた日常が残っていた。


 体力が回復した頃に私は一つのはなしを聞いた。多くの国土を失陥した日本国民の居住のため、この大地の更に内陸に巨大な都市を建設しているという話だった。そして私はその都市があるという町に向かった。そこでは盛んに工事が行われ、行政庁舎や広い道路が急ピッチで建設されていた。そのとき一人の男が声をかけてきた。男は、ひどくくたびれた背広を着ていた。国連の人間だといったその男に仕事をしているか聞かれ、私はしていないと答えた。するとその男は私に仕事を紹介すると行って私は真新しい大きなビルに案内された。そこで私は簡単な経歴、生年月日や過去の職業だったりといった簡単なことだけを聞かれた。そして私は軍の購買部で働くことになった。商品の在庫を管理し、発注や確認を行うのが俺に与えられた仕事だった。それから数ヶ月は言語、ロシア語だったり英語を学びなおしたりしていた。翻訳システムもあったが、少しは自分で話せたほうが良いだろうという私自身の考えからだった。

 

 私がが配属されたのは西の土地だった。西ハンカだったと思う。比較的戦闘は激しくないらしく、毎日のように砲声が鳴り止まないなんてことはなかった。それでも2、3日おきにサイレンが鳴り、私は地下のシェルターへ逃げ込んでいた。そしてそこにいる兵士たちと話すうちにいろいろなことが分かるようになった。


 まずはやつらのことだ。あの日降下してきたやつらを兵士たちはザヴィシュと呼んでいた。どんな意味かと私が聞くと、彼方から来たものza veshch'だからだと言っていた。やつらにはいろいろな種類があるらしい。素早いものや硬いもの。あるいは空を飛んだり水中にいたりするものがいるとのことだった。群れで行動し、やつらのテリトリーを侵すと徹底的に排除してくるさまは野生動物のようだったといっていたのは、俺よりも年上の仕官だった。やつらは日々テリトリーを広げている。そして恐ろしいことに人間だけでなく動物までも徹底して殲滅しているらしい。そして最悪だったのは、すさまじいまでの速度で増殖と進化を繰り返すのだと言っていたことだった。


 そして、次第にいくつかの国の話も伝わってきた。アメリカはまだ残っているらしいが、彼らが把握できているのは東海岸と、西の一部だということだった。俺がいたロシアはザヴィシュが分断したせいもあって、極東はあまり彼らの管轄が及ばなくなっているそうだ。運悪く首都に降下してきた国もあったらしく、その国がどうなったのかは彼らすら知らないといっていたが、まあおおよその見当はつくだろうとも言っていた。そして、日本列島はもうほとんどの地を奴らに明け渡したともそのとき聞いた。かろうじて残っている場所も撤退が進んでいたらしく。残された僅か3つの港湾を要塞化して、抵抗を続けていた。そしてそれはその後5年存続し、最後の年の大攻勢で殲滅された。約2400万人、それが日本列島が陥落した時に脱出できていた日本人の数だ。私と同じようにウラジオストクの港に到着した人もいれば、中国にたどり着いた人も、あるいは更に南にたどり着いた人もいたそうだ。我々は結局国土の全てと国民の大半を失いアジアの各地へと散った。


 話を戻そう。私はしばらくはそこの購買部にいたが、2年ほど過ぎたころだっただろうか。突如として転属を言い渡された。奴らが迫り戦線を後退させるためだった。それからまた別の場所へ移り、数年あるいは数ヶ月で異動するという生活が続いた。戦況は常に厳しく、その厳しさは増していた。何せ兵の補充もままならなかったからだ。残念なことに、かつていた場所は今や奴らのテリトリーとなり、今となってはあの地をを見ることは出来ない。転々と各地を巡る生活はかなり長かったと思う。


 さて、3ヶ月前のことだ。皆覚えているだろうが、人類側はようやく反撃に転じた。新兵器の投入によって奴らを倒すことが出来るようになったことでそれまでは縮小する一方だった生存圏はようやく拡大に転じようとしている。だが、私たちはそれの恩恵に預かることは出来なかった。この辺境の戦場にそれを用意することは叶わなかったらしい。我々はこの小さな要塞を残し包囲された。既に地上は制圧され、間もなく我々は全滅するだろう。


 一体、どれほどの人命が失われたのか、私はそれを知る術を残念ながら持っていない。だが、我々は最盛期の半分にも満たないだろう。ひょっとしたら一割程度しかいないのかもしれない。しかし、だからこそ我々は抗うことを諦めてはいけない。私はそう思うのだ。


 この話をデータ、そして紙にし、残しておく。我々がここにいたのだと、そしてこの地を守り散っていった人たちがいたのだと誰かが知ってくれることを願いながら。

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星が孵る日 駒芳樹 @wisteriantree

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