第2話 LETTER
「僕は記憶障害なんだ」
患者はそう言い、物憂げに窓の外を見つめた。自分の運命を呪うかのような目だった。私はそうですかと言い捨てるように呟く。
「この話を誰かにするのは初めてだ。だってさっき医者に言われたばかりだからね」
はは、と乾いた笑いを零す。点滴だらけの腕に違和感も覚えず、患者は今日からよろしくねと言った。
患者は入院してからもう5年経つ。5年間、ずっと私は同じことを聞かされている。患者からしたら今初めて知った感覚なのだろうが、私はもうこの話を365日掛ける5年間聞かされていた。
今やこの患者の見舞いに来る者はいない。皆会う度に忘れる患者に愛想をつかし、病院にも寄り付かなくなった。妻でさえ患者のことを見限り、もうこの部屋に足を踏み入れることすらない。以前見舞いから帰る妻の姿を窓の外から見ていたことがある。妻は高級そうな車から出てきた男の腕に自分の腕をからませ、そのままどこかへ去っていった。次の日から、妻の姿は見えなくなった。
だが可哀想なことにこの患者は、元からそうだったかのように思い込んでいる。不憫だと思うのは最初だけだった。実際患者の容態が良くなる気配はなく、日に日に記憶を失くすとともに体の自由を蝕まれている。もう自分だけの力でベッドから立ち上がることも出来ない。
「その話、以前もしましたよ。あなたはただ忘れているだけです」
私は言い慣れたセリフを吐く。淡々とした言葉には一切の感情も込めない。患者は一瞬驚いた顔をし、それから少し考え……ため息をついた。
「そうか、僕はまた忘れていたのか」
ごめんねと言い、申し訳なさそうに笑う。私はいえ、と短く返した。
「参ったなぁ。どうしたら覚えていられるんだろう。何か目に見える形で記憶が残ればいいのに」
目に見える形……か。それなら、と提案する。
「手紙を書くのはいかがですか?未来の自分に宛てて、絶対に忘れたくないことを書くんです」
途端に患者はぱあっと顔を輝かせ、私の手を握った。
「なんて良い考えなんだ!そうしよう、早速紙と鉛筆を持ってきてくれ!」
言われた通り紙と鉛筆を用意すると、患者はすぐさま書き始め……ようとして、手を止めた。
「なにを……書けばいいんだろう」
うーんと唸り、結局その日紙は手付かずのままだった。
次の日も同じやり取りの後、患者は未来の自分宛の手紙に向かっていた。忘れたくないこと、大切なこと。何でもいいから書けばいいのに、そうはいかないらしい。
「あなたにとって忘れたくないことってなんですか?」
私は少し手助けするつもりで質問する。患者は腕を組み、それがねぇ、とため息混じりに呟いた。
「困ったことに、忘れたくないことを忘れちゃっているんだよ。これじゃあ書けることが無いや」
「それなら今から忘れたくないことを見つければいいんですよ」
「今から?」
患者はキョトンとした顔で私を見上げる。私はええ、と頷いた。
「今この瞬間、あなたが忘れたくないことはなんですか?」
患者は私の顔をじっと見て、真っ白な紙に目を落とし……それから紙に鉛筆を走らせ始めた。私は空になった点滴パックを持って部屋を出た。
ある日患者の容態が悪化した。病気が神経を侵食し、患者は激痛に悶え苦しむ日々が続いた。
患者の担当医が言った。患者の余命は、もうあと幾許もないと。
集中治療室の中から、患者は私を呼んだ。指先で近寄るようにジェスチャーする。私が酸素マスク越しの口元に耳を寄せると、患者はかすれ切った声で囁いた。
「僕の部屋の引き出しの中に、あの手紙が入っているんだけど……やっぱり要らないから捨ててくれないかな。どうせ忘れてしまうからさ」
胸を何かに弾かれたような痛みが走った。私は胸を押さえながら分かりましたと言った。患者の部屋に戻り、私は引き出しの中に入っていた二つ折りの手紙を手に取った。けれど、どうしても言われた通りに捨てることが出来ず、手紙は私のポケットの中で眠ることとなった。
患者はもう体を動かすことができなくなった。痛みももう感じないらしい。とてもいい気分だと、患者は言った。
「看護師さん。僕はここで暮らして何年経つんだい?」
「10年です」
私は包み隠さずはっきりと言い放った。患者はそっか、とだけ言い、特に気にする様子もなかった。
「10年もここにいるのに、君に会うのは初めてだね……。新人かい?」
屈託のない笑みで私を見るのだ。私はポケットの中で手をにぎりしめた。くしゃ、と軽い音がした。
取り出すと、それはいつか患者が書いていた手紙だ。患者は捨てていいと言っていた。だがどうしても捨てることは出来なかった。
私はそれを患者に渡した。患者は驚いた顔でそれを見つめる。
「お預かりしていた、あなた宛てのお手紙です」
「……僕に?」
心底不思議そうに手紙を指さす。私は手が震えるのを抑えるため全身に力を入れる。患者は手紙を受け取り、二つ折りの紙を開いた。
そして目を大きく見開いた。
「ああ……」
患者の目から涙が溢れた。大きな大きな雫が、次から次へと流れ落ちる。患者は手紙を眺めながら顔をくしゃくしゃにさせ……おそらく、笑っていた。
「ああ……誰がこんなことを書いてくれたんだろう。嬉しいなあ。嬉しい。僕は今、まごうこと無く幸せだ」
そして涙があふれる目を閉じ、ベッドに倒れ込むように身を委ねた。患者の手から手紙が滑り落ちた。
私はそれを拾いあげようと身をかがめる。と、手紙の内容が目に入る。
手紙には短くこう書かれていた。
『僕は君のことを忘れない』
「………これ、あなた宛ての手紙で合ってます、よね…………」
私は患者を振り返る。
患者は静かに眠っていた。
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