朝露が夜霧に消えた時
佐藤 いくら
第1話 雪蛍
一冊の本を掲げる。本と言うよりも紙の束と言うほうが近しいそれは、とある文献を私が一冊にまとめたものだ。
『雪蛍』。その伝説を追い求め、この名もない孤島にまで足を運んだのは私を除いて他にいないだろう。ホークが隣から顔を出し、本を覗いてくる。文字が読めないのだという彼に、私は声に出してその内容を読んでやった。
「雪蛍。かつてこの地を血の海に変えた大戦での出来事だ。荒廃した大地、雑草すら戦火で焼き払われ文字通りなにもなくなった世界。そんな中、ひとつの小さな光が浮かび上がった。光は白い輝きを放ち、天高く昇っていく。光は次から次へと大地から浮かび上がり、まるで風に舞う雪のごとく美しい景色となった。光は心身ともに傷ついた兵士たちの悲しい願いに嘆き、世界の混沌とともにこの世のどこかへと飛び去って行った……」
これが雪蛍の伝説だ。親から初めて聞かされたのはまだ幼い頃で、子供ながらに白い光の物悲しさに心を打たれたことを覚えている。
私が読み終えると、ホークは斜め上を見上げて目を閉じた。何をしているのかと尋ねると、どこかへ飛んで消えた雪蛍に想いを馳せているのだという。
「なぜその雪蛍は願いを叶えたんだろうね、クロエ?」
なぜ、か。それは当事者にしかわからない永遠の謎だろう。むしろ私はそれを知るためにこの島に来たと言ってもいい。この島は古くから伝えられる雪蛍伝説の舞台となっている島だ。地元民のホークの方が、この伝説について詳しいのではないか?
「いいや、その話は今日初めて聞いたよ。今君の口から語られなければ、俺はそんな伝説があるということすら知らなかっただろうね」
「え?じゃあ……」
「この島に雪蛍について詳しく知っている人はいない。残念だけどクロエが求める情報は手に入らなそうだ」
がっくし。力なくうなだれる。ホークは私の様子を見ながらくすくすと笑った。
ああ、なんのために地道にお金をためてこの島に来たのだろう。大陸中の雪蛍に関する文献は調べつくし、最後の希望を信じてここまで来たというのに。深くため息をつく私に、ホークはまあまあと慰めの言葉をかけた。
「せっかくこの島に来たんだし、少し羽を伸ばしていったら?俺が案内するよ。……と言っても観光地でもなんでもないただの島なんだけどね」
ホークの笑顔は太陽のように眩しい。いわゆる好青年だ。見切り発車でこの島にやってきて、右も左もわからずおろおろしていた私を見かね声をかけてくれた。優しくてとても人懐っこい人だ。そんな彼のことがひとりの人間として好きだし、尊敬している。
無償で家を貸してくれる彼の役に立ちたいと、思い切って料理をふるまってみた。食糧庫の中の食材は驚くほど少なく彼の普段の生活がうかがえる。不揃いな材料を使いなんとか作り上げるが、不格好でとてもおいしいとは言えない。だがホークはその失敗作を口に入れたとたん、瞳をキラキラと輝かせておいしいと叫んだ。大げさなリアクションに思わず吹き出してしまった。
木漏れ日のさす丘の上は私とホークの二人だけの学校だ。文字に興味を持ったホークに、私が書き方と読み方を教えている。丈の短い草の上は肌がちくちくするが風が気持ちいい。立ち上がってすこし背伸びすると、ずっと遠くに海が見えるのだ。もともとここはホークの秘密基地だったらしい。
「ねえクロエ、『雪蛍』はどうやって書くんだい?」
私のペンをくるくると回しながら子供のような無邪気な顔で見上げてくる。彼の腰に犬のしっぽが見えた気がしてふっと笑う。するとホークは突然笑われたことに対して不思議そうな顔をした。
私が島に来て一カ月経とうとしている。そろそろ帰る準備をしなくてはと思う反面、もう一つの選択肢にも悩んでいる。それは先日ホークが私に対して放った言葉だ。
「クロエがいてくれると毎日が楽しい。いっその事ここに住んでしまえばいいじゃないか。帰ってしまうだなんて寂しいよ……」
そんな風に思ってくれる人がいるなんて正直とても嬉しい。だが現実的にずっとここにいるわけにもいかないので、それはとても難しい問題だ。
今日はホークは昼間から村の手伝いに駆り出され、私は先に一人で丘に来ていた。ちくちくと肌をさす草をなでる。今日は少し風が強いと思った。二人でいるときは会話がなくとも楽しかったのに、一人だととても寂しい。いつもより静かだと感じた。
本でも読もうか。丘の上にそびえたつ樹木に腰かけ、鞄の中から雪蛍の文献を取り出す。この島に来ればなにかしらわかると思ったのに、とんだ無駄足になってしまったようだ。ページを一枚めくる。もう飽きるほど読み込んだものだ。もはや見なくても内容がわかるほどだ。
雪蛍……その実態は誰も知らない。様子の描写はどれもただ「白い光」と描かれているだけで、実態については何も描かれていない。それも想像をはかどらせる雪蛍の魅力のひとつだ。
どんな姿をしてるのだろう。なにを糧にしているのだろう。何が条件で現れ、何を目的としているのか。そしてなぜ……
いや、正確には「世界を救った」とは書かれていない。資料にはただ「混沌とともに飛び去った」としか書かれていないのだ。その後世界がどうなったかについても描かれていない。雪蛍は本当に世界を救ったのだろうか。
(なぜホークは真っ先に、雪蛍が願いを叶えたと思ったんだろう)
だって、文献には「悲しい願いに嘆き」としか……
そんなことを考えているその時、地面が大きく揺れた。揺れは次第に大きくなり、巨大な地響きと変わる。私は樹にしがみつくが揺れが激しい。と、足元が大きく隆起し、私の体は一瞬宙に舞った。
気を失っていたようで、私は地面に寝そべっていた。ずきずきと痛む頭をおさえながら起き上がる。いったい何が起こったのだろうか。
今は何時だろう。町の向こうはまだ明るいようだが……そう思いながら上を見上げると、空には無数の星が広がっていた。
夜、だろうか。しかし村の方角はとても明るくて……。嫌な予感がして立ち上がる。岩が崩れ山なりになった場所に上り、高いところから村の様子をうかがう。そこで私は目を疑う光景を見た。
村は赤い光に包まれていた。ごうごうと燃え盛る火の海に、数時間前まで私がいたはずの民家が見える。反対側では地面がばっくりと割れ、底なしに暗い闇がこちらを覗いていた。遠くに見える海は高波をあげて飛沫を砕く。やがて私の耳に届いたのは、逃げ場がなくただ苦しみ嘆く人々の叫び声。自然のものではない爆発音。遠くから近づいてくる、無数の羽音。それはまるで地獄そのものだった。
(なにが起こっているの?これはどういうことなの?)
今この瞬間、ひとりでいるのがとてつもなく怖い。あざ笑うかのようにチカチカと瞬く星空の下、私はただもだえ苦しむ声を聞いていた。
(ホークはどこ?)
ハッとしてホークのことを思い出す。彼は今朝から村の手伝いをさせられていたはずだ。ということはまさか、あの炎の渦の中にいる、のだろうか。
ああまさか。そんなことが……!手がぶるぶると震えだす。こんな悲惨な状況に巻き込まれていたとしたらひとたまりもない。間違いなく死んでしまう!
「うそ……うそ、うそよ、そんなことあるわけない……!」
額の前で指を組み、現実から目を背けるように瞼を閉じた。
どれだけ天に祈っても火は消えなかった。何度も自分を戒めても海は荒さを増すばかり。こんな小さな島ごとき海底に沈んでしまっても構わないという、神の心無い声さえも聞こえてきた気がした。
非常事態を前に、私は無力だ。今この状況を収める力などあるわけがなく、私はこんな時でさえただの研究者にすぎない。収めることができるとすれば、それは……
雪蛍しかいない。
空想上の生き物だ。そして雪蛍が世界を救ったのも物語だ。そんなことは私が一番よく分かっているのに、願わずにはいられなかった。
どうか苦しむ人々を救ってほしい。この地獄をもとの平和な島に戻してほしい。そして何より……もう一度、彼に会いたい。
「お願い……助けて…………!!」
「……わかった。」
背後で静かな声が、私の願いを肯定した。振り返るとそこにホークが立っている。悲し気な、それとも怒っているような、なんとも言えない顔で村を眺めていた。
なぜ彼がここに……?そんな疑問はすぐに消え去り、私は力なくその場にへたりこんだ。
生きてる。彼がここにいる。もう会えないかと思っていたのに。良かった、良かった……!
ホークは地面に座り込んだまま言葉の出ない私を抱きしめた。とても優しく、暖かい腕。とめどなくあふれ出る涙をぬぐうこともできず、私はただホークの肩に顔をうずめた。
「ずっと言いたかったことがあるんだ。」
私を抱きしめたままホークは囁く。その深い声に私の心は落ち着きを取り戻し、呼吸も正常に戻っていく。ホークの腕が少し強くなる。
「俺、君のこと好きだったんだと思うよ。雪蛍のことになると目の色が変わる君が、とても美しいと思った。その目で俺を見てほしいと思った。」
こんな時に何を言っているんだと笑う。顔を上げると、優し気にほほ笑んだホークと目が合った。
あれ。……目がおかしくなったんだろうか。ホークの体が、白く……光っている。
「でもその願いも今やっと叶う。そして君の願いも。」
ホークはそう言って私を突き放した。地面に手をつき、茫然としながらホークを見上げる。ホークは立ち上がると、両手を真横に伸ばした。気のせいかと思っていた白い輝きが、幻ではないとでも言うように強く放たれて目の奥を刺す。
これは夢だ。地獄のような光景も、ホークから放たれる白い輝きも、全ては夢なのだろう?重たい腕を伸ばすが届かない。
腰が抜け、立ち上がることもできない。ああ嘘だ。お願い、誰か嘘だと言って!
「最後に一つだけ教えてあげるよ。クロエ、雪蛍はあの日、世界を救ったんじゃあない。この戦争を終わらせてほしいという一人の戦士の願いを叶えたんだよ。俺たちは一つだけ、誰かの願いを叶えることができるんだ。」
ホークの体から小さな光の玉が生まれ出る。真っ白な雪のようなそれは宙に舞い、ふわふわと空に向かって漂っていく。ホークの体はその光に少しずつ削られて原形が崩れていく。暖かな光に包まれた手が私の頬に触れ、止まらない涙を拭った。
真っ白な光が、辺り一面に幻想的な景色を映し出す。季節外れの雪が降る丘の上で、彼は静かに笑った。
「ねえクロエ。伝説の雪蛍がなぜ願いを叶えたのか、今の俺にはわかるよ……」
一瞬、強い輝きに目をつぶる。
頬に触れる感触が、彼のぬくもりが、風に乗ってどこかへいってしまう。
嫌だ、彼が消えてしまう。待って。行かないで。
眩しくて開けられないまぶたの隙間から熱い雫が流れた。
私はさっきまで彼がいたはずの空を抱きしめ、地面に額を擦りつけながら泣き叫んだ―――
私は島を出た。
海が荒れ狂い、地面が割れ、真っ赤に燃えた空はまるで嘘のように消え、目の前には島歌を口ずさむ穏やかな人々が生活を送っているだけだ。
実は、嘘なのかもしれない。
私の目はどこを探しても彼の姿を見つけることができないのだ。そして誰に尋ねても、彼のことを覚えている人は一人もいなかった。
なにが本当でなにが嘘なのか……私は判断できないでいる。ただ、彼と過ごしたあの日々を嘘にはしたくないという強い想いが胸を締め付けた。
『雪蛍』の文献……私はあれに特に加筆するでもなく、そのまま棚に仕舞っている。あの文献に偽りはなかった。そして、あれ以上に詳しく調べられた文献はない。
あの日『雪蛍』は世界を救ったのではない。混沌と共に飛び去ったのだ。
たった一人の人間の願いを叶えるために。
私は大昔に空へと消えた雪蛍に想いを馳せた。
一人の兵士の願いを叶えた雪蛍は、どんな想いで光に消えていったのだろう。兵士の幸せを願い、涙を未来への調べとしていったのだろう。
私は見ず知らずの兵士と雪蛍のことを思い浮かべながら、あの日の彼との思い出を胸に生きている。
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