第3話

置き去りにされたことがあるんだ。

 彼はそう言った。二つの湯呑にお茶を注ぎながら。それはとてもきれいな所作だった。交互に少しずつ足していって、最後の一滴が落ちるまでそれを繰り返した。急須を持つ彼の手はやたら大きい。それでいて指が長く見えた。

 彼の家に招待されたのは先週のことだった。行かない理由なんてどこにも見当たらなかった。私は誘われた次の瞬間には行くと答えていた。背の低いマンションの、二階の角部屋が彼の部屋だった。間取りはワンルーム。どこにでもありそうな物件。だけれどその部屋からは彼のにおいがした。

 家賃と駅からの距離、それから日当たり以外特にこだわりはなく、それを聞いた不動産屋は四件ほど紹介してきたらしい。ここは南向きでなおかつ周辺に背の高い建物がなかった。以前住んでいたところは一階で、しかも向かい側に大きなビルがあったせいでほとんど日が差し込まず、それがいやでしかたなかったという。

 彼はテーブルに私のぶんの湯呑をこつんと置くと、隣に腰を下ろした。窮屈なソファ。だって一人用だ。でもその窮屈さがむしろ心地よかった。

「大型の家電量販店でさ。おもちゃに夢中になっていたら、母親が消えていた」

 湯呑は石川県に旅行したときに買ったものだった。九谷焼きの、ちょっといいやつだそうだ。北斎の絵が描かれている。二つでワンセットのもので、今まで一つしか使っていなかったが、私が初めてもう片方を使った人になった。

「生まれたときから父はいなかった。母は誰にでもすぐに身体を許す人間だったみたいでね。僕は望まれた存在じゃなかった。母はとことん僕を疎んだし、僕も幼いころからそれは感じていた」

 彼はお茶をすすった。唇は薄紫ではなかった。以前より少しだけ血色がよくなっているようだった。だけどクマと無精ひげ、そしてくたびれた雰囲気はいまだ健在だった。

「置き去りにされたとき、僕は直観で、瞬間的にわかったんだ。糸が切れたって」

「糸?」

「縁を結ぶとか、言うでしょ。だからそういう縁っていうのは糸状のものなんだよ。そのときまでわずかばかり繋がっていたものが、切れたんだ」

「それからどうなったの?」

「我に返ったのか母は戻ってきたよ。二時間後くらいかな。ゴールデンウィークで人がごった返して、やかましい音楽があちこちから聞こえてさ。その二時間、僕は怖くて動くことができなかった。泣くことも騒ぐこともできず、ただそのとき手に持っていたおもちゃの剣をずっと握っていた。母は何事もなかったかのように振る舞っていた。僕はそれから母のことを他人と思うようになったよ」

 その後彼は「点」で過ごすようになったという。糸で誰かと繋がれば、いずれどこかで切れるときが来るに違いないのだから、なら初めから繋がらなければいいと考えるようになった。

「他人と会話することは苦手じゃない。表面上はうまく付き合える。僕はコンパスの針だ。その、一点でいたい。そこから円を描いて、その内側に他人を入り込ませないようにする」

 彼は積極的な孤独者なんだと思った。会話が苦手で避け気味な私とは違う。私はたぶん、誰かと繋がりたかった。長い間。差し出された手を素直につかめるような、躊躇なく話しかけられるような相手を欲していた。彼は孤高の人だ。私なんかよりよほど高い位置に立っている。彼にそんなつもりなんて毛頭ないだろうに、私は勝手に突き放されたような気分になる。

「私は、あなたのそばにいていいのかわからない」

 そうやってズブズブと沈んでいく私を、彼はいとも簡単にすくい上げてみせる。

「なに言っているんだ。君はすでに僕の内側にいるじゃないか。こんなに近くに、隣に」

 今までひた隠しにしていた罪悪感の塊が溶けていくように思えた。私は私自身を必要とされたかった。朱美さんに許されたかった。なにもしないからなにもしないでなんて言わないで、私たちはもっとぶつかり合うべきだった。お互いの感情をさらけ出すべきだった。

 ああ、朱美さん。海の向こうにいる朱美さん。今なら私、朱美さんと、もうちょっとうまくできるような気がするよ。

「あれ、なんか泣きそうになってる? え、どうして?」

「なんでもない。お茶が熱すぎただけ」

 私は彼にとって許された存在なんだ。それは誇っていい特別なことだ。この気持ちを幸福と呼ぶのなら、私は今幸せに触れている。

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