第2話

コーヒーショップで少し話したあと、連絡先を交換した。それから二度食事に行った。三度目の食事のあとでホテルに行き身体を重ねた。

 裸で抱き合いながら、彼は私に、どうしてあのとき声をかけてきたのかを尋ねてきた。

「コーヒーカップを片付けたから」

「どういう意味?」

「隣の人が置きっぱなしにしたカップを片付けたでしょう。それを見たとき、ああ、わかるなあって、思ったの」

「それだけで?」

「重要なことなの。誰かが忘れたカップを、迷惑になるからって考えて片付ける人はもしかしたら少なくないのかもしれない。でも私は、自分以外でそんなことをする人を初めて見た。それでじゅうぶん」

 彼は、え、と言ったあと、笑いながら私の髪の撫でた。

「僕は君と確かに似ているけど、完璧に重なるわけじゃない。僕はあのとき店の迷惑になるからなんて少しも考えてなかったよ」

 今度は私が、え、と声を上げる番だった。

「なら、どうして」

「もっと単純だよ。邪魔だったから」

「そんな理由で?」

「カップを置いたままだと、テーブルにひじをつこうとすると当たって邪魔だったんだ。もっと外側に置こうかと思ったけど、それだと席が埋まっているように勘違いさせちゃうしね」

「じゃあ内側に置けばよかったんじゃ」

「他人が飲んだカップを? やだな、気持ち悪いよ」

 新鮮な驚きを覚えた。私が思いもよらないようなことを、この人は軽やかに、ダンスのステップみたいにできる。それは私にとってひどく眩しいことだった。

こみ上げてくる気持ちをごまかすように両腕を彼の背中にまわして強く抱きつくと、彼はどうしたのと笑いながら私にキスをしてきた。薄い唇が冷たい。その温度にどきりとする。

 セックスにはその人間性が現れると思う。彼はとにかく私に優しく触れる。絹の糸で包むように繊細な手つきで、髪を、頬を、肩を、首を、胸を、腕を、腹を、腰を、腿を、脚を、つま先を撫で、口づけをし、ゆっくりと舌を這わせる。いたわっているのだとわかる。セックスのときでさえ彼は自分より相手を気遣っている。それは奉仕にも似ている。そのことに彼は無自覚的だ。私の足の間に顔をうずもれさせている彼が、どうしようもなくいとおしく感じられた。

「予感が、なんとなくだけど、してた」

 体の位置を交換して、私が彼の上になったとき、彼はそんなことを言った。

「カップを片づけたっていうことだけで君が僕に声をかけたように、僕は君が読んでいた本が星の王子様だったから安心できたんだ。そのときからこうなるんじゃないかって」

 私は彼の薄い身体を撫でた。薄くても男性の身体をしていた。

「サリンジャーを読んでいたらきっと警戒を解かなかった。煙に巻くような書き方がすきじゃない」と、冗談めかして続けた。

彼が私の中に入ってきたとき、これまで感じたことのない快感が全身を駆け抜けた。それは彼も同じだったようで、苦しげに上擦った声をあげた。それがまた私を特別に興奮させた。

 彼と視線が合った。その瞬間私たちの間に火花がはしったのがわかった。私だけではなく彼もそれを認識したのがはっきりと伝わってきた。彼自身が大きく反応したから。彼は一変して激しく腰を動かし始めた。余裕のなくなった彼の顔は私にとって喜ばしいことだった。

 解放されていた。なにもかもから。なにひとつとして過不足がなく、全てがかみ合っていた。完璧な調和というと私はある写真を思い出す。ある写真家の撮った海の写真だ。図書館で見つけた水がテーマの写真集、その一枚。無数の星が空に浮かび、その下には深い深い青が広がっている。それらが遠く、水平線で交わっている。一目で心を奪われ、ほかの写真のことは少しも覚えていない。圧倒されてしばらくの間眺めていた。その場所がどこかも、撮影者も知らない。次に探したときにはその写真集を見つけることはできなかった。ただ私の脳裏には鮮明に記憶されている。

 裸で抱き合うということがこれほど安らげるものだとは知らなかった。人の身体がこんなにもあたたかいものだということも。他人の温度というものを私は初めて理解できたような気がした。

 あの写真の場所へ二人で行けたのなら、私はもうこの世のすべてを手に入れたのも同然だ。

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