海に落ちる(長編)

進藤翼

第1話

幸福は苦手。ていうのは、私にはその幸福というものがどういうものなのか、本当のところわからないから。

 私を生んですぐ、母は病気で亡くなった。残された父は懸命に私を育ててくれた(らしい)けれど、無理がたたって身体を壊し、やはりそのまま帰らぬ人となった。私が小学二年生のときだ。その後私は、どういった経緯があったのかは知らないけど母の妹と暮らすことになった。その人は朱未さんといって、当時二十七歳(だったはず)。朱未さんは定職に就かず、ずっとフリーターとして生活していた。旅行が趣味で、複数のアルバイトを掛け持ちしお金が貯まり次第すぐ国の外へ飛び出すようなそんな人。悪い人じゃなかった。特別いい人ってわけでもなかったけど。私の年齢が一桁のときまでは、よく世話をしてくれていた。旅行で家を空けることも少なかったし、食事もレトルトだけど用意してくれた。でもそれはしなければならない仕事を最低限こなしているといったもので、善意や好意からのものではないことは幼いながらに感じていた。

「私は一人がすきなの」

 朱未さんはよく口にしていた。

「あなたのことはきらいじゃない。むしろ同情しているくらい。こうなったのはあなたのせいじゃないし、理解もしている。狭い部屋だから二人だと少し窮屈だなとは思うけど、あなたを邪魔だとも思わない。でも私は、一人がすきなの」

 その頃の私は、どうすれば迷惑をかけずに生活できるか、ということばかり考えていた。そのことしか考えられなかった。私がいるせいで、間違いなく朱未さんに負担をかけている。私にはそれが申し訳なくてたまらなかった。罪悪感でいっぱいになった。小さいなりに色々考えて部屋を掃除してみたり簡単な料理をしてみたりしたけれど、朱未さんの反応は悪かった。

「余計なことはしなくていいんだよ」

「でも」

「わかったこうしよっか。私はあなたになにもしない。だからあなたも私になにもしないで」

 その言葉は、今も私の胸に刺さっている。

高学年になると、いよいよ朱未さんは頻繁に旅行に行くようになった。数か月ほとんど休みなしで働いて、ある程度まとまったお金が手に入ると、すぐに旅行鞄を抱えて家を飛び出した。会話もほとんどなかった。朱未さんはたいてい家にいなかったし、いたとしても寝ていたから。もう一人でもじゅうぶんでしょう、なんて言っていたのを覚えている。私はなにも言えなかった。もしかしたら、うんとかはいとか言ったかもしれないけど、でも、その程度のことしか反応を示せなかった。なにもしないことしかできなかった。

朱未さんは月の頭に、私の口座に数万円を振り込んだ。これですきにしなさい、と言った。私はお金の使い方というものをよく知らなかった。だから必要最低限のもの――トイレットペーパーとか歯磨き粉とか――しか購入しなかった。食材もたまに買っていたけれど、ほとんどはレトルト食品だった。料理をすると、また朱未さんになにか言われそうで怖かった。

学校は楽しかった。両親がいないということを知っても、腫れもの扱いせず、ただ、普通の、対等な、一人の人間として、友達は接してくれた。でも私はその子たちに対して、完全に心を開いていたわけじゃなかった。常にその子たちの視線や纏っている雰囲気に気を配っていた。迷惑をかけないように。こんな私と仲良くしてくれているんだから、機嫌を損ねないように。私は顔は笑っていても、いつも内心びくびくしていた。いつか私から離れてしまうのではないかと思うと、気が気でなかった。友達はきっと微塵の悪意もなく、心から私と接してくれていた。でも私はその差し伸べられていた手を握ることができなかった。

高校を卒業するとき、朱未さんは私に言った。

「向こうで結婚することになったから、ここにはもう帰らない。この部屋はあんたにあげる。あるものはすきに使っていい。二十歳になるまではお金は振り込む。でもその先、私になんの期待もしないで」

 一人がすきだと言っていた朱未さんは、いつの間にか二人で暮らすことになっていた。

じゃあねと言ってドアの向こうに消えて以来、彼女とは会っていない。

 私は自宅近くの会社で事務員として働き始めた。全部で五十人くらいの輸入雑貨の卸売りをする会社だ。

 データを入力するだけの簡単な作業。人と話さず、黙々と画面に向かっているだけなのがよかった。会話と言えば、仕事上のことだけ。気楽だった。誰かと仲良くなるのが怖かったし、嫌われるのも怖かったから。私は入社してすぐにぼんやりとした存在になった。

 私の席はオフィスの隅のほうにある。日の当たりにくい、いつも蛍光灯がついている席だった。私にとってそれはまったくマイナスではなかった。暗いほうが落ち着くし、目立たずに済む。私にうってつけの席だった。パソコンをタイプするときのカタカタという音は、私を安心させた。私は自分の仕事がすきだった。そこには誰もいないから。数字や文字をどれほど打ち込んだところで、書類上のどこにも「私」は存在しない。

 自宅と会社は駅で三つ離れている。会社帰りのある日のことだ。滑り込んできた電車のドアが開くと、ちょうど向かい側の座席が一つ空いたので、そこに腰を下ろした。ふうと一息ついたら、ほかの乗客に混じって同僚が二人乗り込んできた。どうやら電車待ちのとき、後ろに並んでいたらしい。私はとっさにうつむいた。私の存在を気づかれたくなかった。座席の埋まった車内で、同僚たちは私の前に立った。つり革を掴んでいるのだろう。そのまま彼女たちは様々なことを話した。新しい服を買ったこと、週末イベントに参加すること、化粧品のこと、人気のカフェの新作メニューのこと、最近出てきた若い俳優のこと、その俳優が出る映画のこと、会社の悪口。会社の同僚の悪口。私のこと。

「ああ、あの子。暗いよね」

 そんなことを言って、彼女たちは次の話題に移った。私は降りる駅を通り過ぎても、彼女たちが降りるまで、顔を上げず下を向いていた。色んな靴が視界に入った。それらをずっと見ていた。



 静けさについて。

 心地の良い静けさというものがある。ある人が以前テレビでこんなことを言っていた。

「ライブの始まる前の、あの静けさがすきなんです。まさに嵐の前の、というやつで、その瞬間が訪れるのをずっと待っているあの感じは、たまらないですね」

 私はライブというものに参加したことがないけれど、それはきっと夏祭りのようなものなんだろうと思った。花火が上がる前の、あのザワザワとした息遣い。みなが期待を込めて空を見上げている。そういった思いが、気配として外にあふれ出す。私にはそれは、すきになれそうなものではなかった。

 私が好むのは図書館の静けさだ。おのおの自分の読みたいもの見たいものに没頭し、ひたすら息をひそめて文字や絵に沈む。たまに聞こえる音といえば、控えめな足音、ページをめくる紙の音だけ。そこで満たされている沈黙は、ひどく穏やかで敵意のないものだ。その静謐さが、私の性に合っていた。

 小学校の頃は学校が終わると毎日のように足を運んだ。いくつも並ぶ背の高い本棚。隅から隅まで詰め込まれた数々の書物。私は圧倒された。一生かかっても読み切れないほどの本がそこにはあった。私は夢中になって、あらゆる本を手に取った。読めようが読めなかろうが関係なく、気になった全てのものを。彼らはひとつひとつ表情が違う。それが面白かった。古ぼけた本、分厚い本、鳥の写真集、児童書、外国語で書かれた本、身近にいる生き物の図鑑、科学の専門書、新しく入荷した本、この街の地図、水彩画の入門書……。

本はいいものだ。決して責めず追い立てず、いつでも読み手を受け入れる。誰も必要ではないのだ。そこに書かれた言葉が、雄弁に語りかけてくる。私は取りつかれたように本を読んだ。そこに書かれている声を聞きたかった。

小学校からずっと、私はそうやって過ごしてきた。中学高校となっても、その習慣は衰えなかった。



 九月。

 会社の休みの日。私は駅の近くにあるコーヒーショップにいた。このお店にはよく来ていた。図書館ほどの静けさはないけど、うるさくない程度の賑やかさが気に入っていた。BGMのジャズもいい。ジャズは全く詳しくない。カフェにはジャズがふさわしいなんていうつもりもない。だけどこのお店の雰囲気にはピッタリだと思う。今流れているのは、どこかで聞いたことのあるような曲だった。ホットラテを注文して、カウンター席に座っていた。横に長いテーブルが壁にくっつくようにあって、丸いイスが並んでいるタイプのものだ。文庫本を取り出して、それを開く。「星の王子様」。もう何度読んだのかわからない。

 昼過ぎのお店は賑わっていた。四十席ほどあるうちの半分以上は埋まっているように思えた。カウンター席は通路側に面している。ガラス張りの窓からは、左右から人々が途切れることなく流れてくるのが見える。

その人がやってきたのは私が座って少ししてからだった。私の右側の席に一つ空けて腰を下ろした。彼はスーツを身にまとっていた。背中を丸め、注文したらしいアイスコーヒーにガムシロップを二つ注ぎ、氷をかちゃかちゃいわせながらストローでその中身をかき混ぜていた。

 彼はコーヒーをすすりながらなにをするでもなく、正面のガラス窓から店の外を眺めているだけだった。ときおり思い出したようにまた中身をかき混ぜて、そのたびに氷が音を立てた。

 私は文庫本を読むふりをしながら、彼のほうに目をやった。

 ずいぶんくたびれているような印象を受けた。コーヒーをすするその顔は無表情だった。瞳がよどんでいて、クマがここからでもわかるほどくっきりと浮かんでいる。頬がこけ、あごの下にはつぶつぶとしたひげが生えている。ああ、この人は疲れているのだなと、誰が見ても明らかだった。それは、似合っていた。くたびれているその見た目をふくめて、彼が完成しているような気がした。

 彼はときおり息をついた。少し肩をふくらませるほど大きく、そしてゆっくりと息を吸い込み、そして同じようにゆっくりと、ふうううと吐き出した。彼の息遣いが聞こえたような気がした。その、口。薄い唇。血色が悪く、うすい紫になっている。私はどうしてだか、その唇に動揺した。

 彼は周囲の人々と、違う空気をまとっていた。それはそう、目の前にいるのにも関わらずそこにいないような、手を伸ばしたら触れずにそのまますり抜けてしまいそうな、そんな非現実感があった。ひどく、存在感の薄い人だった。

 空いていた彼の右隣の席に大柄な客がどっしりと腰を下ろすと、彼はそそくさと散らばっていたガムシロップの容器やおしぼりを自分のほうに寄せ、丸まっていた背中をさらに丸めた。できるだけ小さくなろうとしているように見えた。

 大柄な客はそのことに気づきもせず、大きく肘を広げてカバンから取り出した書類を眺め始めた。その男は腹がでっぷりと出ていて、髪を短く刈りあげている。焼けているのか肌が黒かった。

 私には彼の気持ちがよく分かった。

 優しさと臆病さは似ている。気を遣うのは、相手のことを思うように見せかけて、実は自分のことを考えている。こうしたらきっと、相手は助かるだろう、私を嫌わないでいてくれるだろう、そう思って、行動する。相手からしたら私は優しい人に映るだろうけど、私は自分がそうじゃないことを知っている。結局自分が相手にどう思われるかどうかにおびえているに過ぎない。私はずっと臆病者のままだ。人に、人生に、あらゆるものに。だから息を潜め、ぼやけた存在に徹する。

 彼はきっと、私に似ているんだ。あるいは、私はきっと、彼に似ているんだ。

 男はそのままパソコンを広げ、大げさにキーを叩き、かかってきた電話にその場で出たかと思うと、大きな声で話を始めた。その口調は粗暴で、威圧感が強かった。

大柄な客の一連の行動を、私はうらやましくも思う。自分にはどうしたってそんなことできない。もちろんこんなことをしたいとは思わない。でも周囲のことを少しも構わず、自分の思うように行動をするというのは、私にとって眩しいことだった。

 男はそのまま十分ほど話を続けると、悪態をついて電話を切り、舌打ちをしながら店を出ていった。コーヒーカップは席に置いたままだった。この店では返却口にカップを返すことになっているけど、男はそれを知らなかったのだろうか。……きっと知っていたと思う。でも、自分を優先させたんだ、と思う。

彼はしばらくそのカップを黙って見ていた。やがてふうと息をつきながらそのカップを手に取ると、返却口にコトンと置いて戻ってきた。そしてまた、ストローでコーヒーをかき混ぜた。氷はほとんど溶けてしまっていたようで、小さいそれらがしゃらしゃらとした音を鳴らした。

 そのまま放っておけばいいものを、どうして彼はそんなことをしたのか。それは想像に難くない。迷惑がかかるからだ。たとえばカップがその場に残っていると、あとから来たお客はその席が埋まっていると思ってしまうだろうし、店の人にしても、そこを片付ける手間が増える。なにより不愉快な気分になる。

もしカップが私のところにあれば、私も彼と同じように返しに行った。私がそのカップを返せば、誰もそんないやな気持ちにならない。吹けば飛びそうな、他人からすれば小さいこと。でも私はそんな小さなことさえ無視できない。そして彼も。

私には彼のことが、手に取るようにわかる気がした。片割れ、半身、鏡の向こう側。探していたものに、ようやく会えたような感覚だった。

私は彼が気になって、気になって、気になって、文庫本どころではなくなっていた。さっきからずっと、同じページを開いたままだ。この、湧き上がる気持ちの正体は、その感情の名前は、いったいなんというのだろう。

なにもしないから、なにもしないで。

私は他人に対して必要以上に距離を縮めることができなかった。できないというよりは、わからないのほうが正しいかもしれない。一定の距離を保つように常に生活していたせいで、その縮め方が私にはわからなくなってしまっていた。

 だから私は他人と会話をするのが苦手だ。誤って相手の懐に入るのが恐ろしかった。いつも波風の立てないように言葉をつなぐのが精いっぱいだった。話しかけられるのももちろん、自分から言葉をかけるなんて、もってのほかだった。

 けれど。けれど今の私は自然に、それも極めて自然に、恐れもなくためらいもなく、彼に話しかけていた。それは衝動的な行動だった。あとで振り返ったら、なんて無茶なことをしたのだろうとふさぎ込むに違いなかった。だけれどそのときは、なにかに導かれていた。彼が持つ引力に引き寄せられたようだった。

「こんにちは」

 彼は最初、自分に声をかけられたとは思わなかったらしい。正面のガラス窓の向こう側を見るでもなく見ているだけだった。

「こんにちは」

 もう一度声をかけたところで、彼はようやく気づいた。一度私のほうを見て目が合ったかと思うと、そのまま右側に顔を向けて、誰もいないことを確かめてから、再び私のほうを向いた。今度は視線が合わなかった。彼は少しうつむき気味だった。

「僕ですか」

 低い声。でも威圧感はなかった。どうして自分になんか声をかけたのかわからない、といったような感じだった。

「あの、今流れているBGMの曲名、知ってますか」

 口が勝手に動いて、言葉をつくった。

「え、ああ、あー」

 私の突然の質問に戸惑いながらも、彼は顔を上げて視線を上に向け、音楽を聞こうとしていた。コーヒーの入ったグラスを持つその指が、細くそして長かった。手の甲には骨が浮き出ている。爪は先端のほうがぎざぎざとしていた。噛む癖があるんだろう。

 上げていた顔をまた下にして、自信なさげに私を見ながら彼は答えた。

「タイトルは知りませんけど、去年公開された映画のテーマ曲に使われていた曲、かな。その映画がヒットしたからどこかで耳にしていたんだと、思います」

「ああ、道理で。ありがとうございます」

「いえ」

「誰が出ていましたっけ、その映画」

「え、ああ、あー、……すみません、わかりません。この曲もCMでなんとなく聞いたことある、くらいで」

 彼は言葉の語尾が小さくなり、聞き取りにくくなるしゃべり方をする。朱未さんとしゃべっていた頃のかつての私のようだった。会社の人に話しかけられた今の私のようだった。相手に対して委縮して、緊張しているときのしゃべり方。

「あ」

 彼は突然声をあげた。それ、と言って指をさすその先にあるのは、テーブルの上に置かれた「星の王子様」だった。それに気づくと、彼はとたんに様子が変わったように聞いてきた。

「読みましたか? 読んでいる途中ですか?」

肩に入れていた力が抜けるのが雰囲気からわかった。

「何回も、読んでます。すきで」

「僕のいちばんすきな本なんです。あなたは優しい人なんですね」

 声の調子が明るいものになって、朗らかな表情で私に笑いかけてきた。素敵な表情だった。

彼がグラスの中身をかき混ぜてもなにも音が鳴らなかった。氷は溶けてしまったようだ。

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