第2話


 目が覚めると部屋は薄明るくて、窓の外、薮の隙間から朝日がかすかに色のある透明になって射し込んでいた。

 ぼやぼやした頭で携帯を見ると、時刻は午前六時半。まだ早い。

 隣を見ると、卓巳はいなかった。

 多分お風呂にでも行ったんやろなぁ。てか、昨日あんな汗だくで寝て、風邪引いてへんのやろか。

 私は布団の中、寝返りをうった。

 もっかい携帯を見る。夜の間にメールが二通来ていた。

 一通は友達からで、どうでもいい話で、もう一通は広告で、これはもっとどうでもいい内容やった。それで返事もせず、そのまま何となくネットを見ていたら、いつの間にか眠気は煙のように身体から消えていて、頭は覚醒していた。

 私もお風呂に行くことにした。

 大浴場は昨日と男女が入れ替わっていた。とは言ってもバリエーションは同じで、レイアウトが若干違うだけであったが。まだ早いのにちらほらと人がいた。

 朝風呂は気持ちが良い。

「いい天気だねぇ。」

 露天風呂に浸かっていたら、急に隣にいた女の子に話しかけられた。驚いた。

「あ、そうね。」

 女の子はニコニコ笑っていて、多分、幼稚園の年中くらいかと思われる年齢で(職業柄、そういうのは割と当たる)、濡れた髪がぺったりと頬に付いていて、髪先から雫が滴っていて、その様が可愛らしかった。

「お姉ちゃん、一人?」

「うん。今は一人。お友達が男湯におるけどね。多分。」

「ふぅん。」

「あなたは?」

「お母さんがいるよ。今中で頭洗ってる。」

「そう。」

「今日はね、アドベンチャーワールド行くの。」

「あー、あのパンダの?」

「うん。私が見たいのはイルカだけどね。」

 女の子はそう言ってニッと笑った。

「良いやん。天気もいいしね。」

 その時、露天風呂の入り口で「メグミー。」なんて誰かが私を呼んでいる声が聞こえた。

 こんなとこで誰が私を呼ぶ? と驚き、やがて現れた声の主を見てみるも、まったく知らない顔の女の人やった。

 混乱していると隣の女の子が、

「お母さん!」

 とその女の人に手を振る。

「あ、メグミ。ここにいたの。そろそろ上がるわよ。早めにご飯食べに行きましょ。」

「うん。分かった。」

 それで女の子、もといメグミちゃんはばっと湯船から上がり、私に軽く手を振って足早に露天風呂から出て行った。

 私は呆気に取られて、「私もメグミなんだよ。」なんて教える暇もなかった。あんなに急いで、よっぽどアドベンチャーワールドが楽しみなんやろうなぁ。

 お風呂から出て部屋に戻ると、卓巳ももう戻っていた。頭からバスタオルを被って、布団の上、テレビを見ていた。

 私が戻って来たのに気付くと、

「女湯混んでた?」

 なんて欠伸をしながら聞く。

「まぁ、まぁかな。メグミちゃんに会ったよ。」

「誰やねん。」

「知らない女の子。露天風呂でちょっとしゃべってん。」

「ふぅん。メグミ同士ね。」

「うん。私も恵海やってこと、メグミちゃんには言いそびれちゃったんやけどな。」

「なんやそれ。」

 卓巳は笑う。


 朝食もバイキングで、また昨日と同じレストランへ行った。

 私はこういうホテルの朝食が大好きやった。

 ウインナーとか、玉子とか、ポテトとか、味海苔とか、そんなのばかりをごろごろと皿に取る。私の朝食は本当に子供っぽい。隣のテーブルの奥方なんかは牛スジ煮込みやフレンチサラダなんかを綺麗に皿に盛り付けているのに。

 ぐびっとアサイージュース飲む。

 周りを見渡すも、レストランにメグミちゃんの姿はなかった。もうアドベンチャーワールドへ行ってしまったんやろうか。いや、でもまだ八時になったところやん。さすがにまだ開いてないと思うんやけど、どうなんやろか? やっぱこの辺では人気の観光スポットやから開園前から並ばなあかんのやろか。

 そんなことを考えていると、

「今日、どうしよか。」

 向かいに座る卓巳が言った。

「せやなぁ。何も考えてなかった。」

「特に行きたいとこないん?」

「んー。」

「……ないんやな。その感じ。」

「漠然と海を見たいって思ってただけやからなぁ。」

 私は笑う。

 卓巳は納豆ご飯を食べて、少し考えている様子。

「まぁ、とりあえず海行こか。」

 しばらくして言った。

「うん。」

 海に出た頃には少し雲が出てきていて、早朝にお風呂で見た晴天に覆いかぶさっていた。だからその景観の印象は昨日同様に白。

「よし。全然寒ない。」

 私はガッツポーズをした。

「厚着したんか?」

「うん。昨日の反省を生かして。」

「靴は?」

「あ、乾いてた。すごいね、新聞紙。」

「やろ。」

 それで二人、砂浜に腰掛けて海を眺める。

 今日も私達の他には誰もいなかった。レストランにはあんなに人がいたのに、意外とみんな来ないもんなんやなぁ、と思った。じゃ、みんなどこへ行っているのか? やはりアドベンチャーワールドか? そういえば空、曇ってきたが、メグミちゃん、雨にならなければいいが。

「天気、大丈夫かな?」

 卓巳は空を見て、

「大丈夫やろ。あの雲は雨にはならん。」

 と言った。

「ならええけど。」

「暇やなぁ。」

 卓巳は大きな欠伸をして言ったが、私はそれに対しては何も言わなかった。

「なぁ、恵海。」

「何?」

「ちょっとはその、何と言うか、楽になってきてんのか?」

「何よ、楽にって。」

 笑う。

 卓巳はたどたどしくて、おそらくかなり言葉を選んで話しているのやろう。

「いや、なんて言うん? その、心の傷的なものは。」

「そんな簡単に癒えへんよー。」

「そっか。」

「だって四年半やで。」

「長いよな。」

「長いわ。それがでもな、この話、友達にしたら『たった一回オリンピックが終わっただけやん。早く忘れ。』なんて言われて。忘れられるかっての。まぁ、慰めてくれてるってことも分かってるけど。」

 海から来た潮風が頬を撫でて走っていく。

「こんなに誰かと一緒にいたの、初めてやってんもん。」

「うん。」

「そんな簡単に消えないよ。いろんなこと。」

 卓巳はしばらく私の表情を見てた。隣から横目で盗み見るって感じで。私はそれに気づいていたが、気づかないフリをした。

「そりゃそうやんな。」

「うん。」

 すると卓巳は立ち上がり、

「よし、今日は自由行動にしよう。」

 なんて言って砂を払う。

「はぁ? 自由行動?」

「そう。バラバラで過ごして、夕方にでも落ち合おう。」

「何よ、急に。」

 私はキョトンとした。

「いや、まぁ、うん。そういうわけで。」

 それで卓巳は片手をしゅびっと上げてホテルの方へ戻って行った。別に怒っている様子ではなさそうやった。

 仕方がないからその背中を見送る。

 携帯を見ると、十一時。

 私は一人残ってまだ海を眺めた。

 誰もいない砂浜。

 寄せては返す波を見ていると、考えたくなくても、どうしても祐也との四年半を思い出してしまう。四年半。私にとっては大恋愛やった。

 それはもちろん、単調な日々ではなくて、良い時も、悪い時もあった。

 喧嘩したり、そういうのも多かった。でも多分、笑った時間の方がずっと多かったから、変わらず一緒にいれた。安心感もあったと思う。崩れてみればそれは砂の城ではあったんやけど、当時は宮殿にでも住んでいるような気持ちやった。ずっと続いていくと、疑いもしなかった。それは私が幼かったからか。

 終わってしまった理由なんて、おそらく一つではない。確かに二人、合っている部分は多くとも、あかん部分というのも必ずあって、それは誰と誰でも必ずある。あとはそれを許したり、勢いで誤魔化したり、やり方なんやと思う。そしてそれができなかった。それだけと言ってしまえばそれだけ。

 恋愛と言うのはつまりは押したり引いたり、この波のようやな。なんて。違うのはそれがとめどなくは続かないということ。

 私、幸せになれるんやろか。この先生きてても、なんもええことない気がする。今、それくらい目の前は真っ暗やった。

「死んだらもう、それ以上先の選択肢はないぞ。きっとない。」

 頭の中で卓巳が言う。

 うるせーよ。分かってるわ、そんなこと。

 歳を取ると切なくて、こうやって死んでしまいたくなる時も確かにある。でも、同じだけそんな自分を引き止めるものも多くなるのも事実で、例えば、友達と笑った時間とか、今も実家に暮らす両親の顔やとか。そうやすやすと自分を粗末にすることもできない。

 だからこういう時はもう、ただひたすらに落ちるしかないんやと思う。

 しばらくそうして一人海を眺めていたら、ずっと向こうから河岸沿いをこちらに歩いてくる人影を見つけた。

 男女二人。だんだんと近づいて来る姿を見ると、昨日チェックインの時に一つ前に並んでいたカップルやった。

 二人は揃いのピンクのマフラーを巻き、笑い合って何か話していた。私の前を通る時、女の方だけがチラっと私を見て目が合ったが、もちろんお互い何も言わなかった。

 通り過ぎて行くその後ろ姿を目で追う。

 ええなぁ。仲睦まじ気で。

 しかし、あのマフラーのドぎついピンク。セレッソ大阪みたいな。ああいうピンク、私はあまり好きじゃないなぁ。なんて。可愛い色なんやけど。まぁ、ピンクは愛のある生活の象徴。愛し合ってるんやろな。ケバケバしいくらいにも。

 大事よ、そういうの! なんて背中へエールを送りつつ、なんやか虚しくなってきて私もホテルへ戻った。

 ホテルの駐車場に卓巳の車はなかった。

 だから多分車でどこかへ行ったんやろう。

 私は溜息をつく。

 まったく、自由行動なんて言って自分は車があるからいいが、車のない私はどうしろというのだ。見渡す限り、徒歩で行けるスポットなんて海しかない。もう十三時前であったが朝をしっかり食べていたのでまったくお腹も空かなかった。

 まったく、一人になるのが嫌だっつってんのに。しかしまぁ、さすがにここに帰って来ないということはなくて、最低限、帰ってくるという保証はあるので、それはまぁ、まだマシやけど。

 やることのない私は仕方がないのでまたお風呂に行く。

 湯船に浸かりながら、これはこの旅行でいったい何回目のお風呂やねん、と自問自答。で、答えは四。正解。露天風呂から見える空はやはり白けていて、雲は厚く、これは今日はもう太陽は見れないやろなぁ、なんて思った。

 しかしまぁ、心の方はともかく、身体は確かに休息できている気がする。こんなにのんびりするのはいつぶりやろう。

 思えば普段はお湯を溜めて浸かることもあまりしない。めんどくさくて、それならばささっとシャワーを浴びて済ませたい、というのが私の考え。この季節は寒いが、何とかまぁ、大丈夫である。

 保育園の仕事は肉体労働だ。保育園児なんて皆、程度の違いこそあれどブレーキの壊れた車のようで、私の仕事はそれを追いかけること。終わったら毎日めちゃくちゃ眠い。

 アレをまた来週からやるのかー、と思うと気が重かった。もちろん園児達は可愛いんやけど、やっぱそれだけでは済まん。仕事とは、それほど甘ない。

 ほんまの日常、祐也のいない日常。この休みに入る前の少しの間は、とりあえず休みまでは……という気持ちで何とか乗り切ったのやけど、それが終わるともう先の目標もなくなり、これは正直、マジでどうしましょうという感じ。

 フィールソーロンリー。しかし、まぁ、どんな方向へ行っても愛情というものはドロドロとしてしまうなぁ。なんて。十一月の空の色、灰。


 部屋に戻るもやはり卓巳はまだ戻っていなかった。

 窓の外は相変わらず藪で、昼間やのにやや薄暗い。藪は小刻みに風に揺れていた。

 詩人や小説家ならこの風景から何かを感じとり、独自のフィルターを通して芸術に変えるのかもやけど、あいにく私はどちらもやらない。

 暇やからテレビを付けてみるも、まったく面白い番組をやっていなかった。

 十四時半。とりあえず目に付いたミステリードラマを観てみる。映像の画質や出演者の服装なんかから見て、おそらくかなり古いドラマの再放送のようで、知っている出演者が二人ほどいたが、二人とも若かった。

 時代錯誤と言うか、いや私は普段ミステリードラマは観ないからよく分からないが、よくある昔ながらの展開で、明らかに怪しい男がやや煤けたうだつの上がらなさそうな中年刑事に現場? で見つかって、追いかけられて、ぜいぜい言いながら捕まって、「違うんだよぉ。俺はただ頼まれただけなんだよぉ。」なんて、さっきまでの怪しげやった表情をくしゃくしゃにして言う。そして当然その頼まれた相手のことを知らない。手掛かりなし。なんて、こんな展開最近はもうないんちゃうの? ツッコミどころ満載やわぁ、なんて昼下がりのおばちゃん主婦みたいに思う。

 それでラストはもちろん崖やった。思った通り犯人は気弱そうなお手伝いさんで、楽に十メートルはあるのではないかという白波の立つ崖に立って「来ないでぇ。」なんて叫んでる。中年刑事はその相棒のこれまた時代錯誤のカッコをしたオバさん婦警と二人、距離を置いて「早まるなぁ。」なんて真剣な顔をして言う。

 もちろんお手伝いさんは崖から飛び降りたりせず、中年刑事の感動話に涙して、無事お縄に付いた。めでたしめでたし。エンディングの歌は中年刑事役の俳優さんが歌っていた。それでお終い。ほんまに教科書通りのミステリードラマやった。

 私は溜息をつき、またチャンネルを変える。

 するといきなりエッチな映像になった。

 あれま。

 これはもしや、噂のペイチャンネルというやつですか。初めて観た。画質があまり良くないなぁ。おっぱいの大きな女の人が二、三人の男にやられてる。やられてるって言っても別に嫌な感じではなく、女の人の方も満更ではない、といった様子やった。

 ほぇー。なんて呆気に取られていたら、しばらくしたら画面が消えた。「サンプル映像終了。これ以降の視聴は別途料金が必要になります。」やって。なるほどねぇー。さすがにお金をかけてまでこれ以上見ようという気にはなれなかった。

 でも少し、身体が火照っていた。

 祐也と別れてから、私は一度もしていない。

 そんな気分になれなかったし、そんな相手もいなかった。

 恥ずかしながら股間に手をやると、なんやもう、臨戦態勢という感じ。顔が赤くなるのが分かる。

 で、してしまった。

 なんだか夢中になって。それで久しぶりやったからか終わったらどっと疲れてしまって、畳の上、ぐでーんとなった。昼下がり。そのまま寝てしまった。


 夢の中で誰かが呼んでる。

 誰やろか? なんて考える。聞いたことがあるような、ないような女の声。

 ホテルの窓の向こう、私を呼んでいる。

 あれ? そこには藪があったはずじゃ、なんて思うも、藪はもうそこにはなく、あるのはただ白、真っ白な世界。海辺で見た白よりもずっと、ずっと白く、純度百パーの白。そこに立っているのは他でもない私自身やった。

 私は起き上がって窓辺に行く。

「やっと起きた。」

 白の中に立つ向こうの私は私に馴れ馴れしい笑みを浮かべる。

「誰よ、あんた。」

「分かってるくせに、私はあんたよ。」

 そう言ってバカにしたように笑う。

 まぁ、私にしても、確かに分かっていたんやけど。分かっていて聞いたんやけど。

 自分の声を録音したものを聞く時と同じ感覚で、なんだか思っていたような私の声ではなかった。

「そんなとこで何してんのよ。」

「何って別になんも。」

「藪は?」

「藪? 知らないわよそんなん。」

「そこにあったやろ?」

「だから知らんて。」

「あ、そう。」

 私は溜息をついた。

「暗い顔しちゃって。」

 向こうの私がまた少し笑って言う。

「そりゃ、まぁ、そうよね。この状況。あんたは妙に明るいね。腹立つわー。」

 どうせ夢やからと言いたいことをそのまま言う。

「うっさいわね。私やってあんたみたいな暗い奴嫌いやわ。あんた、今自分が世界一不幸な女やと思ってるやろ?」

「世界一ってのはちょっとオーバーやろー。でも、まぁ、だいぶ上位ランカーやとは思ってるよ。」

「甘い。甘い。」

 私は私を指差して笑った。思いっきり笑った。

「なんやねん。ほんま腹立つわー。」

「あんたなんて全然よ。南米の恵まれない少年少女を見なさい。」

「あ、何? そういう話?」

「それはまぁ、一例やけど。」

「何が言いたいんよ。」

「質問変えるけど、今が自分史上最大の不幸やとも思ってるやろ? この先こんな不幸は無いんちゃうかとも。」

「うん。それはそう思ってる。」

「甘いわー。」

「そう?」

「人生山あり谷ありよ。しかもあんた、別に今、谷、どん底の谷ってわけでもないやん。あんないい男が傷心旅行に付き合ってくれてるんやから。」

「いい男? 卓巳のこと?」

「いや、名前は知らんねんけど。」

 まったく、こいつどこまでが私なんだか。

「卓巳はただの幼馴染やで。」

「ぼんまにぃ? 二人でこんなところまで来て。」

「まぁ、それは私もちょっと思ったけど。」

「何かあいつも悩んでるっぽかったやん。就職? 仕事辞めたやとかなんやとか。チャンスやん。」

「何よ、チャンスて。」

「やっちゃえ、やっちゃえ。」

「品がないなぁ。」

 別に自分が上品やとは思っていなかったが、ここまで下品なことは言わない。

「そんなことせんよ。」

「何で? ええやん別に。寂しいんやから寄りかかりや。悪いことちゃうやん。」

 何やねんこいつ。やたら勧めてくるやん。

 なんて一瞬思ったら、

「あ、今考えた。」

 なんて突っ込んでくる。

「ちゃうて。あんたの言いたいことも分かるけどさぁ」

「やろ? やろ?」

 向こうの私は嬉しそうに笑った。

「いや、でもな。」

 その時、急に部屋のドアが開いた。そこに立っていたのは卓巳。なぜか漫画みたいなバカでかいハンマーを持っていた。

「あ、卓巳。」

 私は普通に言ったが、向こうの私は卓巳の姿を見るとさっきまでの軽薄な様子はどこへやら、めちゃくちゃに焦り出した。

 卓巳はゆっくりと窓に近づいていく。

「待って! ごめん、ごめん。悪ふざけやってんよ。ごめん! 謝るからさ。ごめん!」

 向こうの私は窓に手をつけて、懇願って感じで謝る。何やねんもう、なんて思っていた次の瞬間、卓巳は持っていたハンマーを思いっきり窓に向けて振り切った。

 がっしゃーん、とすごい音がする。

「わっ!」

 これには私も驚いた。

 卓巳はなおも、

「成敗!」

 なんて言ってハンマーを何度も窓に打ち付ける。向こうの私はひび割れていく窓の向こうで、

「ごめん、ごめんって!」

 なんて叫んでいたが、やがてその声も聞こえなくなった。

「ちょっと、ちょっと、卓巳。怒られるよ、そんなことしたら。」

 なんて私は卓巳の肩を掴むも卓巳はハンマーを打ち付けるのを止めず、窓はどんどんひび割れていく。しかしひび割れていくだけでなかなか割れない。だんだんとひびが濃くなっていき、窓が白くなっていく。なんやねんこれ、なんて思った時、卓巳の一振りがついに窓を破る。

 その瞬間、世界は全部が真っ白になり、色を失った。てか、床とか壁とかそういうのも全部なくなった。ふわっと身体が浮く、振り返る卓巳と目が合う。

「腹減ったなぁ。恵海。」

 卓巳は真顔で言った。

 それで捩れたそのよく分からん世界は完全に消えた。


 はっと目が覚めたら部屋で、畳の上で、パンツをずり下ろしたままの状態で、卓巳が部屋に戻って来ているのではないかとめちゃくちゃ焦った。

 でも卓巳はいなかった。

 窓の外は藪やし、窓も割れてないし、テレビはついてるしで、眠りに落ちる前の状態そのままやった。とりあえず起き上がってパンツをちゃんと履く。

 時間を見るともう十六時を過ぎていた。お腹が鳴る。そういえば朝ご飯以来何も食べていなかった。夢の中で卓巳が言った通り、さすがにお腹が空いていた。

 鞄の中からお菓子を出して食べるも、まったく足しにならない。夕飯まではあと二、三時間というところ。どう考えても我慢できそうになかった。

 何か食べようと思ってフロントに行く。

 しかしお土産とかそんな類のものはたくさんあるんやけど、すぐ食べられそうな、私の求めるようなものは何もなかった。仕方ないからロビーに座って近隣の観光情報を見た。

 和歌山。

 やはりまずは海。まぁ、和歌山と言えば海よね。白良浜、片男波、磯ノ浦。他は、あぁ、高野山。あ、てか那智の滝って和歌山やったんや。へぇ。グルメは? グルメ、グルメ。マグロ、しらす丼、あー、やっぱ海鮮系なんやなぁ。そりゃそうやんな。あとは、めはり寿司。んー、どうなんやろ。他、お! 和歌山ラーメン! 良いね。聞いたことはあるけど食べたことないわ。ええなぁ。和歌山ラーメン食べたいなぁ。

 なんて思い調べてみると、若干遠くはあるが、何とか歩いて行けそうなところにラーメン屋が一軒あった。

 よし。

 行くか。

 観光情報を元あった場所に置いて立ち上がる。

 まぁ、どうせ夕飯まで時間あるし、卓巳は帰って来ないし。でも車があればなー。歩かんで済むのに。徒歩十五分くらい。まぁ、しゃなあないか。歩いて行こう。

 それで外に歩いて行くと、ロビーから外に出たところ、自動ドアで卓巳とばったり鉢合わせた。

「おっ。」

「あら。」

 驚いた。

「卓巳、どこ行ってたん。」

「いや、てか、お前こそどこ行くんよ。」

「そりゃ、あんた、和歌山ラーメンよ。」

「おぉ。」

「ほんまマジどこ行ってたんよー。こんな長い時間一人置いてけぼりにして。まぁ、もういいや。ね、車出してや。」

「はぁ? 和歌山ラーメン行くん?」

「そう。」

「だって、もうちょいで夕飯やぞ。」

「私、昼食べてないんよ。」

「はぁ?」

 それでけっきょく、車に乗って近くの和歌山ラーメンまで行った。車で行ったら早い、早い。

 たどり着いた和歌山ラーメンは聞いていた通りの豚骨醤油味で、濃厚で、空腹に非常に沁みた。美味い。卓巳も隣でラーメンをすする。

「何もバイキングの直前にラーメンなんて食べへんでもええのに。」

 なんてちょい不機嫌気味な顔で愚痴をこぼす。

「ええやん。美味しいし。」

「まぁ、美味いけど。」

「けどなんよ。」

「だからバイキングがって。」

「バイキングなんて別にええやん。どうせ食べ放題なんやからツマミ程度で。」

「ふむ。」

 ラーメンからは白い湯気。

 お腹いっぱい。

 からのバイキング。案の定、私はあまり食べられへんかった。あんまり、と言うよりほとんどと言った方がいいくらいに。

「ほぅら、言わんこっちゃない。」

 卓巳は向かいで小籠包を食べながら嫌味っぽく言う。

「ええの。お酒飲むわ。」

 今日も二人ともハイボールを飲んでいた。

 私はお腹はいっぱいやったけど、なぜかお酒は入った。

 ぐだぐだと話しながら飲んでいたら、今日もけっきょく深酒をしてしまった。レストランを出ると二十一時過ぎで、お風呂にも行きたかったが、とりあえず二人、部屋へ戻った。

「どうでもいい話なんやけどなぁ。」

 酔いどれで布団に横になって、隣の布団の卓巳に話しかける。

「うん。」

「前に病院行った時な、私は予約してた時間通りに行ったんやけど、祝日明けの火曜で病院が混んどって、診察が始まる時間がめちゃ遅れたことがあってんよ。」

「うん。」

「私、ずっと待合室で待たされててんな。まぁ、それはええんやけど、引っかかったのは支払いのことで、私、何も遅刻もしてへん、ただ単に待たされてただけやのに時間外料金取られてん。これ、どう思う?」

 卓巳は少し考えて、

「どうせ保険で下りるんやろ。病院側もそう思ってやってんねんて。」

 と言った。

「それはそうなんやけどさぁ、その一方では医療費削減、医療費削減とかニュースで言うてんねんで。それって何か矛盾してへん? あほらしない?」

「そういう小狡いやり口が経済を回すんだよ。」

「そういうもんか。」

 私は溜息をつく。

「うん。」

「この世界は汚いなぁー。」

 それに対して卓巳は何も言わなかった。私に背を向けて布団に寝転がっている。

「なぁ、てかほんまに今日、何してたん?」

 聞いてみるも卓巳は無視。背を向けているから顔も見えない。しかし何となく、寝ているようには思えなかった。

「おーい。無視かよ。」

 そう言って小突いてみた。

「うるせぇな。」

 卓巳はめんどくさそうな顔でこちらを向く。少し酔っている感じやった。

「何よ。聞いてるだけやん。」

「恵海は何してたん?」

「私は……。」

 海見てお風呂入って、ミステリードラマ見て、一人でして、寝てたけど。なんて素直にはもちろん言えない。

「私はまぁ、適当にしてたわよ。」

「すまんかったな。一人にして。」

 卓巳は仰向けになって顔に手を当てた。

「せやでー。まったく。」

「何してたか、聞いて引かへん?」

「何よ。別に引かへんって。てか、引くって何よ。何してたんよ?」

「風俗行ってた。」

「は?」

 これには驚いた。

「風俗ってあの風俗?」

「うん。多分、その風俗。」

「はぁ? なんでそんなとこ行ってるんよ?」

 私は呆れ声で言った。意外な回答に一気に酔いも覚めた。

「だって、何か海での恵海見てたらさ。落ち込んでるし。ちょっとなー。」

「何? どう言う意味?」

「どう言う意味って。」

 卓巳は起き上がり、横で寝転がった私を見る。

「俺やって男やぞ。何か間違いがあったらあかんやろ。」

 真剣な顔やった。

 それで私は、「あ、卓巳もそういうこと考えてたんや。」と思った。

「や、間違いって言葉、なんかあかんな。訂正。いや、つまりまぁ、今は良くなくて、弱ってる時にとか、感傷っていうか、勢いとか、そういうんはほんまに嫌やったから。しかも恵海やし。だからな……」

「だから、風俗行って来たって?」

「そう。だから今、賢者タイム。安全やろ?」

 私はつい吹き出してしまった。

「笑うなよ。」

 卓巳は少し怒った顔をする。

 そういえば、夢の中で窓を割った卓巳もこんな顔をしていたような気がする。ちょっと怒っていた気がする。

「あんた、やっぱええ奴やな。」

「うるせー。」

「大好きやで、卓巳。」

「だからうるせーっての。」

 頭を叩かれた。


 それで今日も二人、卓球をしに行った。

 私は昨日以上にムキになって、ぶんぶんとラケットを振るも、攻めるも、賢者タイムやからか卓巳はいたって冷静で、普通に返してくる。

「でも恵海、昨日よりは上手くなったよ。」

 その上から目線の発言にまたカチンとくる。

 浴衣を振り乱して汗をかく。ラケットを振る。ピンポン玉を打つ。決める。決められる。笑う。なんて、それは何やか、生きている実感。

 けっきょく今日も一回も勝てなかった。

 昨日と同じく汗だくでお風呂へ行く。

 今日は卓巳も行った。

 女湯を出るとお風呂の前の休憩スペースで先に上がっていた卓巳がアイスを食べていた。

「それ、ええなー。」

「そこの自販機。」

 卓巳はそう言ってアイスの自販機を指差す。

 私もアイスを買ってきて並んで食べる。休憩スペースの窓、大きな窓で、そこから海が見えた。暗くて、真っ黒な海。その上、ずっと向こうの水平線には月。だらしなく海に溶け出していた。

「自由な旅やったなぁ。」

「うん。まぁでも旅行ってのは本来そういうもんやろ。」

「いっこも観光してへんな。」

 卓巳が笑う。

「一番贅沢な旅行は旅行先で観光とかしないで、日常をだらだらと過ごすことやと、何かで聞いたことがあるよ。」

「なるほど。一理ある。」

 私が買ったのは苺のアイスで、ほんのりピンクで、こういうピンクは、私は好きや。それで食べる。海を見ながら。

 しばらくすると卓巳が唐突に、

「帰ったら仕事探そうかなぁ。」

 なんて呟いた。

「おっ、やりたいこと見つかった?」

「いや、それはまだ見つかってへんけど、この旅行でなんか少し気晴れたし、とりあえず何か動いてみようかなぁ、って。」

「そういうの大事よ。」

「恵海はどうするん?」

 卓巳はアイスを齧りながら聞く。

「どうするって。私はー、部屋の掃除でもしようかな。とりあえず。」

「彼氏の荷物とか、まだあるんか?」

 聞かんでええやん、そんなこと。思った。

「まぁ、多少は。」

「そっか。でもな、恵海、そいつはさ、いつかきっと後悔するよ。」

「え?」

「いや、彼氏。あ、元彼氏か。そいつはいつかきっと恵海とそんなふうに別れたことを後悔する。」

「そうかなぁ。」

「そうや。どういう事情であれ、誰かを傷つけたんやから。強引にな。例え幸せに暮らしてたとしても、それは絶対に消えないことやから。いずれどっかで顔を出すよ。」

「ほんま優しくなったな、卓巳は。」

「そうか?」

「うん。昔はそんなに優しくなかったよ。」

「ふぅん。」

 卓巳は気のなさそうな返事をする。

「なぁ、帰ったら髪、こういう色に染めようかな。」

 そう言って食べていた苺のアイスを見せる。

「何? ピンク?」

「そ、千日前線みたいな。」

「止めとけ、止めとけ。そんなん職場で怒られるぞ。」

「そうかなぁ、ええ色やと思うんやけど。ピンク。」

「まぁ。」

「ピンクとは愛のある生活の主張。」

「愛のある生活ねぇ。」

 卓巳は大口をあけて欠伸をする。

「いつかは辿り着きたいもんですな。」

 笑う。

 窓の外は海。黒く揺れていた。

 いつかは明けてくる、あの朝を待つように。

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11月のピンク @hitsuji

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