11月のピンク
@hitsuji
第1話
明日からしばらく旅行に行こう、なんて急で、半ば常識外れなお誘いではあったんやけど、翌日の昼前、卓巳はちゃんと車でやってきた。
空の高い、十一月。
薄手のコートに身を包んだ私はマンションの下で手を振る。車を迎える。
「おはよ。」
「おはよ、ってもう昼やけどな。」
運転席の卓巳は笑顔こそ見せないが、機嫌が悪いわけではないようやった。しばらく見ないうちに少し髪が伸びていた。私が助手席のドアを開けると、置いていた鞄を後部座に放り投げて、
「で、どこに行きたいって?」
と欠伸をしながら聞く。
「海。」
「ざっくりしてんなぁ。」
「確かに。」
笑ってしまう。
「恵海は昔からずっとそうだよ。」
そう言って卓巳はゆっくりと車を出した。
ぐぐぐっと車輪が路面を捉える感じ。車は大通りへ向かう。
卓巳は私の幼馴染で、出会いを振り返ると、あれはおそらく二歳か三歳。スイミングスクール。同じ柄の水着を着て、ぱんぱんに空気の入ったアームリングを腕に付けて並んでバシャバシャやっていた。
当時の卓巳は手のつけられないくらいやんちゃで、嫌やと言っているのに、か弱い私に何度も何度も頭からジョウロで水をかけて泣かせた。それで先生に死ぬほど怒られていた。あまりに言うことを聞かないから、卓巳だけいつまでも「カニ組」に上がれなかった。私を含めて同級生は皆とっくに上がっていってしまっていたのに。「カニ組」じゃなくて「メダカ組」やったっけ? もう忘れたけど。
そんな卓巳だったが、成長するにつれてだんだんと大人しい性格になっていった。別に家庭環境がどうかとか、そんなややこしいことは何もなかったんやけど。
代わりに私はどんどん活発になっていき、小五くらいを境に二人の関係は逆転した。
さすがにその頃には私はもうお姉さんやったから頭から水をかけたりはしなかったけど。廊下を歩く卓巳の背中を「おーい。」なんて言って叩いて走り抜けたりとか、笑って、そんなことはしていた気がする。
小、中は同じ学校やったけど、高校、大学はそれぞれ別のところに行って、それでも何だかんだと関係は続き、遊んだり、いつのまにか飲んだりするようになって、二十六になった今もたまに会っていた。
でも今回はさすがに来ないかもなぁ、なんて、実を言うとちょっと思っていた。
いくら卓巳が先月に仕事を辞めて時間的制約がなかったとしても、「しばらく旅行に行こう。」なんて、ざっくりした話やし、急やし。
でも私やって普段はそんな非常識なお願いはしない。私にも、まぁ、理由があったのだ。
しばらく道を行くと卓巳は独り言のように、
「白浜かなぁ、やっぱり。」
と指示器をカチカチと出しながら呟いた。
「白浜。」
「和歌山ね。」
「知ってるわよ、白浜くらい。」
「良くない? 海あるし。」
「ええよ。」
「よし。」
高速に乗る。
平日だからか空いていて、卓巳の車は快調に道を飛ばした。カーステレオからは外国のフュージョンバンドが歌う。車窓の外には景色が流れていて、防音壁の向こうにちょこ、ちょこと背の高いビルや看板の頭が見え、すぐに置き去りになっていった。高速道路はこのままどこまでも続いているようだった。
防音壁はところどころくすんでいるも基本は白で、それは日常と私達を隔てる壁としては十分で、あの壁の外の世界は、日常はもはや異世界で、私は今、そういった一切合切から背を向けているんやなぁ、なんて思っていると、「逃避行」なんて日常離れした言葉がフイに頭を過ぎった。
逃避行。
紛れも無い。確かにこれは逃避行。現実とか日常とか、私は今、ちょっと嫌やった。
「これ、アース・ウインドなんたら? あのセプテンバーの人?」
私は隣、無言でハンドルを切る卓巳に聞いてみた。
「いや、シカゴやん、これ。」
「誰? 全然知らん。」
「アメリカのバンド。」
「昔の人?」
「んー、昔っちゃ、昔やけど。今もやってるけど。」
「はぁ。」
その音楽は、嫌いな感じではなかった。
「それはええんやけどさ。」
「うん?」
「うん、ちゃうわ。何があってん、突然。何かあったから急に旅行なんて言い出したんやろ?」
来たか。
まぁ、そろそろ聞いてくるやろうなぁ、という頃やと思っていた。
「実は別れたんよ。」
私はじっと前を見据えて言う。
「はぁ? あの彼氏と?」
卓巳は驚いて大きな声を出した。
「そう。」
「だって、もう四年くらい付き合ってたんちゃうん? てか結婚するって言うてへんかったっけ?」
「正しくは四年半。そんな話も出てたんは事実よ。」
そうだ。
確かに私と祐也はお互いを両親に紹介し合っていて、ここ最近は、来年には、再来年には、みたいな話をしていた。嘘じゃない。私の勘違いでもない。
そこからの、青天の霹靂。
「それがまたなんで急に?」
「こっちが聞きたいわ。」
「いきなり捨てられたん?」
卓巳は驚いてまた大きな声を出す。でも私がうつむくのを見ると、「あ、ごめん。」とめっちゃ小声で謝った。
ジョウロで頭から水をかけて私を泣かせていたあの少年は、二十何年間かをかけてすっかり優しい男になったようで、泣きそう。
「それはちょっとなぁ。」
卓巳は苦い顔で呟く。
「酷いやろ?」
「まぁ、せやなぁ。何か特別なきっかけがあったん?」
「んー、いや喧嘩は普段から多かったかもやけど、そんな特別な事件があったわけではなくて、ほんま急に。」
「なんて言われたん?」
「もう別れようって。」
「うわ、シンプルやな。」
「うん。」
気を遣ってか、それ以降卓巳は何も聞いてこなかった。車はずっと和歌山を目指していて、カーステレオからはシカゴ(名前は覚えた)がずっと流れていた。
途中、高速を降りて黒潮市場に寄った。
私はどこにも寄らずにまっすぐ白浜まで行くつもりだったので停車した車内、
「なんで停まるん?」
なんて不平を言った。
「だって昼食べてないんやろ?」
卓巳がサイドブレーキを引いてそう言った時、同じようなタイミングで私のお腹が鳴った。
ほんまは、こんな時にお腹なんか空くかい! って言ってやりたいところやのに。何をしていたって、どうしていたって、ちゃんと私のお腹は空くのだった。
黒潮市場は平日にも関わらずたくさんの人がいて、そのほとんどが大学生か海外からの旅行者のようだった。
たくさんのお寿司やお刺身が並んでいて、パックに入って並べられたその様は一見するとスーパーの鮮魚コーナーのようなのだが、よく見るとその一つ一つのクオリティが全然違った。身が引き締まっていて美味しそう。
目移りしていると卓巳が、
「やっぱここは丼ですかね。」
と奥の方に見える丼コーナーの看板を指差して言う。
「おぉ、丼ですか。」
と言って私が目を輝かせると卓巳は、
「恵海は昔から丼好きやんな。」
なんてにまにました笑みを浮かべた。
小学四年の時の学級文集、私は「自分の好きな食べ物」というコーナーに「カツ丼」と女子らしくない回答をしてクラスでめちゃくちゃからかわれたという過去があった。
周りのみんなはケーキとかアイスとか可愛いことを書いていた。私はほんまにカツ丼が好きやったんやけど、しまったーと心から思ったのを今でもよく覚えている。卓巳はそれを未だに小馬鹿にしているのだ。
それで卓巳の肩にグーパンチを入れる。
でもけっきょく、私は丼コーナーでサーモンいくら親子丼を頼んだ。卓巳も丼で、漬けマグロ丼。
いいよー、と言ったのに支払いは卓巳がしてくれた。ここだけやぞ、なんて言って。私はお礼を言い、セルフの水を二人分用意して卓巳の会計が終わるのを待った。
食べるスペースは外で、漁港っぽい海も近く、少し肌寒かった。かすかに潮風。コートを着たまま親子丼を食べる。新鮮で、文句なしに美味しかった。
「てか、ほんまに泊まりで行くん?」
向かいに座る卓巳が漬けマグロ丼を食べながら聞いてくる。
「えっ、行こうや。てか白浜な時点で日帰りは無理やろ。」
「まぁ、せやけどさ。お前、仕事は?」
「遅れてきた夏休み。今週は一週間まるまる休みやねん。」
「はぁ? 夏休みって、もう冬やん。なに、保育園ってそんなにブラックなん?」
「まぁ、なんやかんやバタバタしてて休めんかってんよ。」
「そういうのが一番ブラックやねんて。」
卓巳はそう言って溜息をつく。
確かに言われてみればそうなんかもしれない。二十歳で短大を出て、それから六年間、ずっと毎日務めているあの保育園がブラックかどうかなんて、改めて考えたこともなかった。
卓巳はそういうことをちゃんと考えられる人だ。たとえ何年続けていても、半ば惰性になっていても、ダメなことはダメだって言える人。だから仕事を辞めたんやろうなぁ、なんて漠然と思っていた。
「でも俺、そんなおられへんで。二泊三日が限界。」
「はぁ? あんた無職やねんから暇やろ。もっとおろうや。なぁ」
「あかん。仕事してなくたって用事はあんの」
「ケチ。幼馴染がピンチやのに。」
「だからちゃんと二泊三日はおるって。てか宿取らなあかん。希望は? 何かあんの?」
「海の見えるホテル。」
「ふむ。」
そう言って卓巳はマグロ丼を食べながら携帯でホテルを検索し始めた。卓巳はやはり、マメで、良い奴だ。そう思って私も親子丼の続きを食べた。
しばらくすると卓巳はどこかに電話をかけた。多分ホテルのことやろう。
しばらくは席に座って話していたが、後ろに座る大学生グループの声がうるさかったようで、顔をしかめて席を立って行ってしまった。
一人になると周りのがやがやとした声がやたらと耳についた。向かいには空になった卓巳の漬けマグロ丼のお碗。
それで観光客に紛れて親子丼を食べている自分、という今の存在がぐっと浮き上がってきて、これは昨日までは想像もしなかった未来、そこに私はいる。
同時に昨日までいつもの保育園で子供達の相手をしていた自分、もうちょっと前、祐也と一緒にいた頃の自分が遠い過去のような、まるきし別物になったかのような感覚に陥って、あぁ、逃避してんねんなぁ、私、と改めて実感をした。
どこからともなく煙草の匂いがする。潮の匂いも。
それでしばらくして卓巳が戻ってきて、
「あのさぁ。」
なんて何とも言えない、浮かない顔をしている。
「どしたん?」
「一応宿は取れたんやけど。」
「なんよ。」
「一部屋なんよね。どうも。」
「はぁ?」
「まぁ、ダブルベッドとかちゃうくて布団で、あ、和室やねんけど、やから一応離れて寝るのは大丈夫らしいんやけど。シングルがなー、どこも取れんかった。」
「そんなことある? 十一月の平日やで。」
「俺に言われても知らんわ。何か中国の祝日とか、そんなんちゃうんか。」
そういうのには、私も詳しくない。
「まぁ、いいけど。しゃあないしな。二泊?」
「うん。同じ宿の、同じ部屋で」
「ええんちゃう、それで」
白浜までの道のりはまだ半分近く残っていた。
私は駐車場横の自販機で缶コーヒーを買って卓巳に投げる。
「おっ。」
ノーコンな私の投球をやや変な体勢だが卓巳はしっかり取った。
「ナイスキャッチ。」
「サンキュ。」
早速缶を開けてコーヒーに口を付ける。
「あと一時間半、二時間弱くらいかなぁ」
「そっか、そっか」
卓巳はそう言う私の顔をじっと見る。
「恵海、お前ちょっと眠いんやろ?」
「あ、バレた?」
笑う。
「バレるわ。アホ。」
私はサーモンいくら親子丼でお腹いっぱい。眠かった。それで自分が今から眠るという罪悪感を少しでも軽減しようと缶コーヒーを買ったのだ。そんなことも卓巳にはちゃんとバレていた。
それで再び出発した車内、暖房がうっすらついていて、暖かくて、案の定、私はすぐに目を瞑る。
眠りは暖かくて、なんだか安全地帯のようだった。何にかは分からないが、許されたような気がした。心地よい車の揺れ。
そうだ、思えば私は最近、ちゃんと眠れていなかった。眠ろうとしても毎晩何かが私の肩を掴んで、それは多分後悔とか哀しみとか、そういった類のマイナス的な存在達で、振り切っても振り切っても身体や心に纏わり付いてきて。
でも今は違った。なぜだか安心して眠れる。
「あ、寝よった。」
と言う卓巳の声が聞こえた気がしたけど、私は目を開けなかった。
目が覚めたら、と言っても自分で目覚めたわけではなく、卓巳に起こされたんやけど。
車はホテルの駐車場に停まっていた。
私は一瞬、状況が読み込めなくて、
「ここ、どこ?」
なんて周りを見渡した。
「どこって、白浜。」
きょろきょろしている私をヨソに卓巳は冷静やった。
「あ、そっか、そっか。」
「ホテル、ここな。」
そう言って卓巳は運転席側の窓から見える白い建物を指差した。割と綺麗な感じやった。
「おぉ。ええやん。」
「うん。」
それで卓巳は大口を開けて欠伸をした。
「卓巳、あれからずっと運転してたん?」
「うん。」
「眠ならんかった?」
「途中、ちょっと眠かった。」
「そやんな。昼食べたあとやったし」
「恵海、ぐーすか寝てるし、途中停まるのもなんか微妙やったから、しゃあないからずっと歌ってたわ。」
「うそ、歌っとったん?」
笑ってしまった。
「うん。もう熱唱ってレベルで。」
「マジで? 全然気付かんかったわ。聴きたかったぁ」
時計を見ると十六時ちょっと前。
もうチェックインできる時間やった。
フロントへ行くと、何組かの宿泊客が並んでいた。多分、そういう時間帯なんやろう。私と卓巳は列の一番後ろに並ぶ。
一つ前にはまだ大学生くらい、揃いのスウェット生地のアディダスのジャージを着たカップルが並んでいた。
二人は半端なくイチャイチャしとって、フロント前にも関わらず乳繰り合っとって、こいつら間違いなく今夜がんがんセックスするんやろなぁ、なんて私は思った。それでちょっと冷めた目をしてしまう。卓巳はなるべくそのカップルを見ないようにしているようで、携帯で天気予報を見たりしていた。
しかしまぁ、人前でどうのこうのということを別にすると、彼らは何も、悪いことをしているわけではない。ただ、愛情に素直なだけ。愛のある生活とでも言うのか。恋愛ってそういうもので、てか、私がちょっと卑屈になっているだけなのだ。
私も昔、祐也とこんなふうに旅行に行ったりした。昔っていうか、今年の夏も行った。
毎年夏に旅行するのが何となくの二人の決まりになっていて、車や電車でいろいろと出かけていた。今年の夏。ちょっと足を伸ばして九州までモツ鍋を食べに行った。夏やのに。暑いのに。でも美味しかった。楽しかった。
そういえば白浜にも来たことがあるぞ。
あれは何年前の夏やろか。すぐには出てこなかったが、思い出そうと思えば思い出せた。でもやめておいた。
「申し訳ございません。ちょっとこちらの手違いで海側ではなく山側のお部屋へのご案内になってしまいまして……。よろしいでしょうか?」
フロントのお姉さんはこれ以上はない、というくらいに申し訳なさそうな顔でそう言った。
「海側は……空いていませんか?」
卓巳が聞いてみる。
「申し訳ございません」
お姉さんは表情を崩さず頭を下げた。
「恵海、ええやろ、もう。歩いてすぐに海出れるし、別に部屋から見えんくても。」
卓巳がそう言うと、お姉さんもチラリと私を見た。これはとてもノーと言える状況ではない。
「……いいですよ。」
「ありがとうございます。」
私は少し不服ではあったが、お姉さんは私のイエスで緊張が緩まったようで、少しだけ笑顔を見せた。
それでけっきょく、案内された部屋は、海の見える旅館のはずが窓の外は雑木林みたいな藪やった。
「海が良かったのにー。」
部屋に入り荷物を置くなり私は不平をぶちまけた。テーブルにぐてーっとなる。
「しゃあないやん。もう。」
「嫌やわ。こんな景観。なんでこんな方向に部屋作っとんねん。思わん?」
「そりゃいろいろあるんやろ。」
卓巳はそう言って温かいお茶を飲み、窓の外を改めて眺めた。雑木林、薮。
「まぁ、こう見ると風流っちゃ風流ちゃう?」
「どこが!」
私は目くじらを立てる。
「行こか、海。暗くなるで。」
「行く。」
手ぶらのままホテルを出て二人、五分ほど歩くと坂の下に砂浜、その向こうには広大な海が見えた。風が冷たかった。
「寒っ。」
砂浜まで降りて私はコートの前を締める。
「誰もいねぇ。」
卓巳も寒そうやった。
そして卓巳の言う通り、砂浜には見渡す限り誰もいなかった。
だるそうにうねる海。波音。曇り空も相まって、その景色は、とりあえず全体的に白。そんな印象やった。
「こんな季節に海なんて来る奴はアホやな。」
私はそう言って波打ち際のぎりぎりまで歩いて行った。スニーカーが濡れないよう、波に気を付けて立ち、そっと手を広げてみる。
「靴濡れんぞー。」
少し後ろから卓巳が言った。
「大丈夫、大丈夫。」
少し目を閉じてみる。コートの裾が潮風に鳴いていた。
「なぁ。死ぬなよ、恵海。」
「は?」
私は驚いて振り向いた。
卓巳は砂の上にあぐらをかいて、部屋から持ってきたペットボトルの水を飲んでた。
「いや、だから、死ぬなよって。」
「それは聞こえてたけど。何よ、急に。」
「死んだらもう、それ以上先の選択肢はないぞ。きっとない。」
「そんな哲学的な。」
「ほんまやって。」
「分かってるわよ。てか、そんなことは考えてないから安心して。」
「それならええけど。」
「死にそうに見える?」
「いや、そこまでは言わんけど。まぁ、やっぱり辛そうには見える。」
「なぁ、もしさ、別れるんなら死んでまうぞ、とか私が言ってたら何か変わったんかな?」
「いや、どうやろ。」
そう言って卓巳はうつむいて、白い、さらさらな砂を手ですくう。どうやろ、なんて。ほんまは分かってるはず。繫ぎ止めるなんて、実際意味の無いことやし、どうあっても不可能なことなのだ。
「あんまいろいろ考え過ぎんなよ。」
「いつになく優しいなぁ、卓巳」
「そりゃ、まぁ」
その時、大きな波が私の足を攫った。
「わっ。」
波は瞬く間に私の足の間をすり抜けていった。不意を突かれた。まるでダルマさんが転んだで背中をタッチされるかのような。バランスを崩し、転びはしなかったが、スニーカーは一瞬で海に浸った。
「うわ、うわ。」
引き返す波にまた慌てふためく私を見て卓巳は笑っていた。
「ちょっとー。卓巳が変なこと言うからやん。」
八つ当たりをする。
「知るか。」
そんなことを言っていたら、なおももう一回波が来る。
「きゃーっ。」
波は再び私の足元を濡らし、それで必死で逃げた。私のお気に入りのニューバランスのスニーカーは呆気なくびしょ濡れになってしまった。
「あーあ、これ一足しか持ってきてないのに。」
「だから濡れるぞって言うたやん。」
「てか冷た。」
「十一月やもん。」
「ぐっしょぐしょや。」
「コートは?」
「ん、コートは大丈夫。」
「靴だけなら新聞紙詰め込んで一晩置いとけば明日にはなんとかなるやろ。」
「えっ、そんなん効くん?」
「効く、効く。新聞紙ナメとったらあかんで。」
「ふぅん。」
正直、半信半疑やった。
それでホテルに戻って各々大浴場へ行った。
大浴場も比較的綺麗で、露天風呂やサウナ、あと電気風呂なんてのもあって、バリエーションも豊富やった。もともと私はこういう大浴場が大好きで、早くも明日の朝もまた来ようなんて考えていた。
露天風呂に浸かって暮れ始めた頭上の空、橙、少し朱赤っぽくもあるそれを見ていたら、あぁ、ほんまに遠くまで逃げてきたんやなぁ、と急に実感が湧いた。
卓巳にも言わなかったことが一つある。
言わなかったというか、言えなかったというか。
本当はただ、シンプルに別れたいと言われたわけではなかった。他に好きな人ができたから別れたいと言われたのだ。
いや、最初は本当にシンプルに言われた。祐也もそれで止めるつもりやったんやと思う。でも納得のできない私が何度も何度も理由を聞くから、多分全てを話したんやろう。
「他に好きな人ができたから別れたい。」
それは、本当に聞きたくない言葉やった。
この染みは多分、一生消えないと思う。
今となれば、理由なんて聞かないで素直に別れていれば良かったなぁ、なんて思う。あの時の祐也の顔。話し合ってもどうせダメなことはもう分かっていた。それならばせめて苦しむことなく終われれば良かった。
好きな人って何よ。
それは私やったんちゃうんかい。
私やから来年とか、再来年とか、もうずっと一緒におる前提での話をしとったんちゃうの? てか、他に好きな人って、それ立派な浮気やん。もっと強い言葉を使ったら婚約破棄やぞ、ボケ。
なんて冷静になれば思うが、頭にくるが、実際は怒り狂う気にもなれず、ただただ茫然としてしまってけっきょく何も言えなかった。
私は祐也を失いたくなかった。けっきょく何を言ったってそれだけなのだ。祐也のこと、好きやったから。
イカンイカン。
私は湯船でがばっと顔を洗い、頭をリセットする。
大浴場から出て髪を乾かす。今から夕食なので、薄く化粧をした。
部屋に戻ると卓巳ももう戻っていて、畳に寝転がってテレビを観ていた。ホテルの浴衣を着ていた。
「あっ、浴衣ええなぁ。」
「恵海の分も棚にあるよ。」
卓巳はそう言って襖仕立ての棚を指差す。
「旅行と言えば浴衣やろ。」
「まぁね。私も着替えよかな。」
「うん。」
「卓巳、こっち見んとってや。」
「見るか。バーカ。」
卓巳はテレビを観ながらだるそうに言った。
私は棚から浴衣を出してテレビとは反対に立ち、着ていた服を脱いだ。下着姿。どっかに写ってへんやろか、と思って周りを見渡すが、特に大丈夫そうやった。目の前に卓巳がいるのにこんな格好をしている自分ということがすごく不自然で、なんだか変な感じやった。
そこで思った。私と卓巳は昔から仲は良かったが、こんなふうに二人で泊りがけでどこかに行くなんてことはこれが初めてやった。しかも同じ部屋やなんて。
若い男女。そして傷心。
あれ、これって?
いや、いや、いや。
あまり考えずに誘ったけど、それって一応、どうなんやろか?
まぁ、無いと思うけど。卓巳はそんなこと、微塵も考えてへんやろし。
「着替えた?」
「あ、うん。」
急に話し出すから少し驚いた。
「飯行こか。」
卓巳が身体を起こして言う。
「せやな。」
夕食はバイキング形式で、私達が行った頃にはレストランにはもう既にけっこうな人がいた。
空いている席に座る。
「やっぱ何かあるんかなぁ? 人多ない?」
「多いなぁ。てか料理取りに行こうや。お腹空いたぁ。」
料理は値段の割には意外と豪華で驚いた。海が近いから刺身とか海鮮系、あとはローストビーフみたいな洒落たやつもあり、もっと安っぽいバイキングを想像していた私は、これにはちょっと驚いた。
席に戻ると卓巳は料理だけをテーブルに置いたままいなくて、周りを見渡すと、向こうの方からジョッキのビールを二つ持って歩いてきた。
「あら。」
「せっかくやから飲み放題も付けた。」
「おっ、ええね。」
卓巳も私もお酒は好きで、それなりに飲める。
乾杯。
ビールは身体に染みた。
「久しぶりにビール飲んだわぁ。」
私は中ジョッキの半分くらいを一気に飲んで言った。
「え、そうなん?」
「うん。最近はビールちゃうかった。」
「ほな、何飲んでたん?」
「カルディで買ったシードルかなぁ。生ハムとフランスパンと。これが美味しいんよ。」
「はぁ、何やねんそれ。恵海のクセして。」
「恵海のクセって何や。でも、なんかキャリアウーマンぽいやろ?」
「いや、ぽいけど。お前、自分で言うな。お洒落過ぎるわ。恵海のクセして生意気な。」
「言っとけ。」
「てか高いんちゃうん、そんなん。」
「やー、そうでもないで。まぁ、そりゃ普通にビールとか飲むよりは少し高いやろけど。」
「独身貴族め。」
冗談っぽくそう言ったあと、卓巳はすぐにハッとして、
「あ、ごめん。」
気まずそうに謝った。
私はそんな卓巳をじろっと見てビールを飲み干す。
「おかわり。」
「はい、喜んで。」
卓巳は苦笑いで新しいビールをすぐに持ってきた。
「ところで、卓巳はなんで仕事を辞めたん?」
「んー。まぁ、なぁ。」
マグロの刺身を食べながら気のなさそうな返事をする。
「何よ。仕事ついていけんかったん? 営業て大変そうやもんなぁ。」
「いや、そういうわけやないねん。俺、仕事は割とできたんやで。営業成績も良かった。自分で言うのもなんやけど。」
「へぇ。それならなんでなん。」
「何か限界を感じてんなー。自分のやってることに。」
「限界て、あんたまだ二十六やん。よう言うわ。」
「まぁ、せやけどさ。考えてみいや、営業ってな、例えば今期、売上目標が100やとするやん? で、頑張ってそれを超えて200とかできたら、来期は目標が300になるんよ。ほんでまたそれを400できたとしたら次は500や。」
卓巳はグッとビールを飲んで、
「キリがないわ。」
と呟いた。
「はぁ、大変やな。」
「この会社にいる限り、俺はこれからずっとこの倍々ゲームをやってくんか? って自問自答したら、まったく自信なくて。あ、無理やなぁ、って。」
「ふぅん。」
「それでも四十になっても五十になってもやってる人はやってるからな。何というか、営業向きの性格ちゃうかってんやろなぁ、俺。」
「そうなんかなぁ。うーん。ほな、あんたは何向きの性格なん?」
卓巳はしばらく考えている顔をした後、
「やっぱ分からん。」
と含み笑いで言った。
「それが分からんから今、ちょっとしんどいのよなぁ。要は次何しようって話で。合わん仕事やったらまた続かんかもなぁ、って。会社辞めてから毎日ずっと考えてたんやけど、全然答え出んくて、最近ちょっと何やりたいかとか、そういうこと考えんの一旦止めるようにしてたんよ。」
「逃避行は私だけちゃうかってんな。」
「まぁ、せやな。」
それでけっきょくその夜はけっこう飲んだ。
ホテルのレストランの飲み放題で、てかバイキングで、あんなに飲んで笑っている客も珍しい、というくらいに。
二人ともほろ酔いでレストランを出る。
「卓巳、卓球しよ。卓球。」
部屋までの道、ゲームコーナーの端に古びた卓球台を見つけた。いったいいつからここにあるのか、というような卓球台で、ハゲハゲで、やのになぜだかラケットだけは新品同様に綺麗やった。
「ええよ。」
それで卓球をしたのだが、これが意外と、卓巳が上手い。
ミスが少なく、際どい球もちゃんと返してくるのだ。私の知り得る限り卓球経験などないはずやのに。それで私は決めてやろう、決めてやろうととムキになってガンガン攻めていくから逆にしょうもないミスを連発してしまい、三ゲームやって、結果一ゲームも取れなかった。
「終わろか、そろそろ。」
「嫌や。勝てるまでやる。」
「無理、無理。勝てへんって。」
なんて卓巳は悦に入った表情で笑うから、私はさらにムキになって、その分また空回って、結果、どんどん悪くなってく。そこからさらに三ゲーム落とした。
「まだまだ。」
「スポ根はええけど、俺もう疲れた。あと一ゲームな。」
「あ、ズルい。」
「ズルないわ。」
それでまた打ち合う。
五分後、案の定負けた。
「はい、おしまい。」
「うー。」
でも私も疲れた。
「汗だくになってもうたわ。」
浴衣の下の下着まで汗で濡れていた。
「あつー。やり過ぎやわ。」
卓巳も暑そうに浴衣の前をぱたぱたする。額に汗が浮かんでいた。多分、三十分以上やっていたと思う。私達は部屋に向かって歩き出す。
「私、もっかいお風呂行ってくるわ。」
「あ、そう。」
「卓巳は行かんの?」
「うん。もう眠い。」
そう言った卓巳は本当に眠そうやった。
私は一人、もう一度大浴場へ行く。いつの間にかもう日付けを超えそうな時間帯で、私以外、誰もいなかった。ガラーンとした静寂、水音。何だか、ものすごく広い家のお風呂に入っているような気持ちになった。
部屋に戻ると二つ並んだ布団の一つ、卓巳は倒れこむように電気をつけたまま眠ってしまっていた。
私は電気を消し、卓巳に布団をかける。それで隣の布団に入り朝まで眠った。
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