14 さよならが好きだから

 たくさん悪いことをしました。

 たくさん人を傷つけました。

 僕はもう、生きていたくないのです。

 死んでしまいたいのです。

 消えてなくなりたいのです。

 世の中に溢れる眩しいことは皆、僕にとって苦痛の種なのです。

 人生に対する淡い期待は、希望は、僕を絶望の淵から立ち上がれなくするのです。

 前向きな気持ちはいつも、ただ僕を苦しめただけでした。

 わずかにできたことと言えば、常に頭を空っぽにしておくことだけでした。

 意味を求めず、希望を求めず、つながりを求めない。それだけが僕のささやかな抵抗のつもりでした。それでも僕は耐えることができなかったのです。

 よく眠ることができた日の朝など、少しでも気持ちが軽くなると、僕は僕に意味を求め、役割を求め、目標を求めていました。気を緩めた瞬間に湧き出してくるそれらの思考は、僕をひどく苦しめました。希望の朝は、僕にとって絶望の朝でしかなかったのです。

 貴方と出会ってから、それは少しだけ変わりました。

 日々が少しだけ充実して、生活することに張り合いが持てるようになりました。

 出会って間もない頃、僕はあなたの寂しそうな姿に心引かれたのです。貴方が寂しそうにしていたから、僕はわかってあげられる気になって、安心して傍にいることができました。だけど貴方と楽しい日々を送るうちに、僕はどうしても貴方に幸せになってほしくなったのです。

 それが、それだけが僕の抱いた唯一の希望でした。だけどそれも叶いませんでした。

 僕はもう、生きていたくないのです。

 死んでしまいたいのです。

 消えてなくなりたいのです。

 僕が曖昧にしたかった僕の輪郭は、何もかもが暴き立てられてしまいました。

 まるで眩しい光がなんの悪意もなく、すべての物を白日の下に晒してしまうように。

 明日はきっと絶望の日になるでしょう。

 だから明日はもう……来ないよ。


 僕はそこで筆を止めた。気持ちの悪い文章だ。復元されないよう念入りに破って、ゴミ箱に押し込める。僕はもう何も残さなくていいのかもしれない。元々何かを表現するというのが好きじゃない。

 明り代わりに使っていた携帯電話を閉じると、辺りは暗闇に包まれた。目が暗闇に慣れるのを待ってから、足元につまずかないように慎重に窓辺に向かう。ここは二階だけれど、頭から行けば問題はないはずだ。

 窓から外の景色を眺める。住宅街は静まり返っていて、頭上にはまばらな星空が広がっていた。静かな夜だ。

 夜空を眺めていたら、懐かしい夢を思い出した。昔よく見た、空を飛ぶ夢。最近ついぞ見ることがなくなった。

 あの夢の中で僕は、軽く腕を動かすだけで蝶のように自由に空を飛びまわることができた。皆が寝静まった真夜中に、こっそりと部屋の窓から飛び出す。電線にぶつからない様に慎重に上昇することができたら、視界には無限に広がる空。自由自在、気の向くままに夜空を舞う。僕を束縛するものは何もなく、重力に逆らって、広大な空へ。

 頬を切る風の心地よさが、目の前に実感としてよみがえってくるようだ。今なら、飛べる気がする。


 僕は右足を大きく踏み出し、窓枠にかけた。

 さあ飛び立とう。

 そこで、思い切り力を入れた瞬間、ずるりと滑る僕の左足。

 僕は盛大に転んで額をしたたかに打つ。

 目の前にはキズナの顔があった。

 窓から差し込む月明かりに照らされて、その額が赤くなっているのがわかる。

 おそらく僕が、キズナに頭突きを食らわせたのだろう。暗かったせいで、キズナの存在に気が付かなかった。


「痛いよ……」


 寝ていたキズナが起き上がる。僕は予想外の事態に、黙り込むことしかできない。上手くごまかそうにも、どうすればいいのか。


「…………」

「…………」


 キズナは僕を責めない。まだ昨日のことを、引きずっているのだろうか。そういえばアパートに戻ってから、キズナの声を聞いたのは始めてだった気がする。ずっと塞ぎ込んで、何を話しかけても返事をしなかったから。

 彼女の苦しみは、彼女自身でないと理解できないのはわかっている。どんなに話を聞いて同情を重ねたって、他人のことを本当の意味で理解することなどできない。だけど僕は、少しでも彼女が人生に希望を持てるようになってほしかった。生きていて良かったと、思えるようになってほしかった。

 ああ、君の苦しみが生み出したその仕草は、確かに僕に届いているよ。僕は心の中で、静かにそう伝える。僕が君のためにしてやれることなど、それくらいしかないのだから。


「わたし帰るよ……。久世さんとも、もう会わない。ここにいるとつらい」

「……そうか」


 会話はそれだけだ。夜の静けさに囲まれて、僕たちの無言の時間は続く。


 最近良く思い描く空想があった。

 眠っていても、ほとんど毎日のように夢に出てくる。

 季節は春で、僕は足の悪くなった伯母の車椅子を引きながら、桜の花見に来ている。

 あの人はどこ? 伯母が問う。

 すぐそこのトイレだよ、もうすぐ戻ってくるんじゃないかな。僕が答える。

 桜の木はとても密集して咲いていて、枝は太陽光を求めて高く伸び、一般的な桜の木よりも広がりが少ない。伯母はそれが不満そうで、もっと枝を広く張った、立派な桜はないのかと愚痴をこぼす。

 けれど僕はその景色が、普通の桜の木よりも好きだと思った。頭上高くに密集して咲く花は、まるで桜のカーテンだ。

 そうして気分が良くなって、軽い足取りで伯母の車椅子を押す。すると道の反対側から、背の高い短髪の女性と、それより頭一つ分低い高校生くらいの女の子が歩いてくる。

 二人ともとても幸せそうに笑いあっていて、僕の方までなんだかうれしくなって、すれ違いざまに会釈をする。すると向こうも気づいて、二人仲良く挨拶を返してくれる。

 素晴らしい光景だと思った。

 だって、あれくらいの年齢で知り合った友達は、一生モノの、かけがえのない絆で結ばれるのだから。


 ふと、木々の隙間から空を見上げる。

 世界が広がっている。

 生きにくい世界だ。

 自由に選べない世界だ。

 つらい世界だ。

 だけど、彼女たちにとって、きっとこれから続いていく、無限に広がる可能性をはらんだ世界だ。


「君はいったい青春にどんな幻想を抱いているんだろうな?」

「こいつは現実を知らないロマンチストなのさ。いい大人のくせに中身は子供で、世の中にまだ淡い希望を抱いている」


 死んだはずのよく喋る男と、首が醜く破けたサブローが二人で会話をしている。


「もっともその中に、君が入れるとは思っていないんだろう。痛々しいなぁ。俺ならそんなつまらない人生、生きていたいとは思わないね」


 同感だ。


「きっと世の中に触れた瞬間、幻滅して死んでしまうさ。こいつが真っ当な人生を送っているところが、具体的に想像できない。世話になった伯父の葬儀に出なかったやつだぜ。現実を生きているくせに現実を見ない、それで他人を害する、自分勝手なロマンチスト。手に負えないよなぁ」


 同感だ。


「ナツキも可哀想に。君はあいつの精一杯の決意を踏みにじり、さらに残酷な決断をさせたんだ」


 同感だ。


「伯母さんは噂によると、お前のせいでうつ病を患っているらしいぜ」


 ああ。


「見てられないなぁ。俺はもう行くよ。こんなところで君の醜態を見ていたって、ちっとも面白くないからな。まぁ、せいぜい頑張ってくれよ」


 死んだはずの男は霧のように消えてなくなる。


「オレはずっとお前を見ているよ。お前の友達だからな。お前のことをわかってやれるのはオレだけだ」


 ああ、わかってる。

 サブローはどこかに行ってしまう。


 目の前では相変わらず、キズナが黙りこくってこちらを見ている。


 僕は彼女に、何を与えることができただろう? もっと上手くやれたはずだった。僕のせいで、キズナの青春時代の記憶に、醜い泥を塗ってしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。


「駄目なんだよ。僕は」


 自然と口から出てくる言葉は、僕の考えたものじゃない。

 僕の言葉じゃない。


「どうしても他人と仲良く出来ない。一人でいないと安心できない。君が、寂しそうにしてたから、僕はわかってやれる気になって、何かしてやれる気になって、でも駄目だった。君と過ごすうちに、僕は君を失うのが怖くなって、それしか頭になくなった。君を救ってやることが出来なかった。

 僕は僕自身でさえ、助けてやることができないんだ。むしろその状況を心の中では笑いながら楽しんでいて、どんどん悪くなればいいと願っている。いつもそうなんだ。もっと惨めに無様に這いつくばってみせろと。突然湧き出してくる妄想や、幸福なはずの夢の中ですら、自分の大切なものに罵倒され続ける。僕の悪癖なんだ。自分のことばかりで、いつだってそうやって失敗してきたのに、結局うまく行かないんだ」


 次から次へと溢れてくる僕の言葉は意味を持たない。ただひたすらに、すべてを吐き出してしまいたかった。何もかもを目の前の少女に受け止めてほしかった。これで最後なのだから、少しでも僕のことを覚えていてほしくて、僕と言う人間をわかってほしくて、下手糞な言葉は止まらない。


「君は帰るべきだ。そうして家族と暮らすべきなんだ。君にとっては幸せな家庭ではないのかもしれないけど、君を少しでも思ってくれるあの母親がいる。まだ思春期の君は、友達を作って、普通の、平凡な高校生活を送ることが出来るんだよ。僕には眩しくてとても手が届かないような青春だって、君はできるかもしれない。それだけが僕の望みなんだ。

 僕は君の幸せを、自分の喜びに変えることができるようになったんだよ。本当だ。それはとても、とても素晴らしいことでしょう。君にはずっと、生き生きとしていてほしい。こんな狭くてくらい部屋の中で僕と一緒に腐っていくことはないんだ。だから……」


 本当は……、君と別れたくなんてないけれど。

 ずっと僕と一緒にいてほしい。

 どんなときでも傍にいてほしい。

 悲しいときは一緒に泣いて、うれしいときは一緒に笑ってほしい。

 終わりがあるのは分かっているけれど、それでもずっと君と過ごしていたかった。

 終わりがあるなんてやだ。

 大人だからといっていろいろなことを諦めて生きるのはやだ。

 だけどもう、あの頃の楽しい時間には戻れない。

 わかってる。わかってるんだ、そんなことは!


 キズナが悲しそうな顔をしているのがわかった。だから僕は、涙を必死にこらえながら、強引に言葉を続ける。キズナは家に帰るべきだ。僕とはもう二度と会わないほうがいい。

 出ない言葉を振り絞る。


「いいんだ、僕はね、さよならが好きなんだ。どうにも人生が順風満帆に進んでしまうことが好きになれない」


 ついに我慢できなくなって、僕の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ始めたが、僕は必死に口をぱくぱくと動かして、さらに言葉を続けようとする。それ以上はただの嗚咽となって、意味のある言葉にはならなかった。キズナはそんな僕を強く抱きしめて、そうしてしばらく一緒に泣いた。キズナはずっと何も答えなかった。

 伝わっているだろうか。

 見透かされているだろうか。

 僕にはわからない。


 翌朝、泣き疲れて寝ていた僕が起きたときには、部屋の中にはもう誰もいない。

 床には僕がいつだったかキズナのために買ってきた、不細工なペンギンのストラップが落ちている。

 僕は誰もいなくなったその部屋で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 了

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キズナ行進曲 ころん @bokunina

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