13 君の友達

 札幌から青森まで移動した頃には終電の時間になっていて、駅近くのネットカフェで夜を明かすことにした。個室に入り、しばらくネットサーフィンをしていたのだが、ちっとも眠くならない。そういえばしばらくシャワーを浴びていなかったな、そう思い立ってシャワールームに向かう。

 フケだらけの髪の毛をシャンプーで洗い流し、汚らしい無精ひげを剃って鏡を見る。目の前には全体的に不潔な印象を与える成人男性が立っていた。

 気色の悪い顔だ。

 目の前の男の姿が、挙動が、表情が、何もかもが癇に障る。正視に堪えない。


「自分を肯定できなくなったらおしまいだよなぁ」


 シャワールームの扉の外から、サブローの声が聞こえてくる。黙れ。


 そうして夜の時間を消費し、始発に乗ってアパートに戻ってきた頃にはすでに昼前だ。雲一つない快晴で、頭上にはギラギラとした太陽が浮かんでいる。

 鍵が開いていたので、僕はできるだけ音を立てないように慎重に玄関を開ける。

 すると、中に入ってすぐのところにキズナがいた。廊下の壁に寄りかかり、猫のように丸くなって眠っている。

 ついさっきまで泣いていたのだろうか。頬には涙の伝ったあとがまだくっきりと残っていて、その寝顔は疲れきっている。僕がキズナをひとりぼっちで置いていったせいだ。


 僕はその場に腰を下ろして、キズナの寝顔を観察しながら、考える。

 アカリさんのことを、伝えるべきだろうか。キズナはもう一度会いたいだろうか。アカリさんは受け入れてくれるだろうか。キズナをさらに傷つけてしまうのではないか。もしキズナを大喜びさせてしまって、心弾んで北海道まで行って、そうしてひどい現実を突きつけられてしまったら。

 考えれば考えるほど、どうするべきか分からなくなる。胸が締め付けられるように痛んで、息が苦しくなる。目を閉じて自分の体を抱くようにしてみても、どうにもできない。耐えられない。


「あんなに楽しかったのに」


 突然、透き通るようにやさしい声が響いた。陽光が差し込む廊下で、ビー玉のような瞳が僕を見ている。心臓が大きくドクンと鳴ったのが分かった。

 その悲しそうな瞳が、僕は大好きだったんだ。会った時からずっと、その綺麗な瞳に惹かれていた。


「 アカリさんがいなくなっちゃって、久世さんまで帰ってこなかったらどうしようって」


 キズナの目にたまった大粒の涙が、ボロボロとこぼれ始める。


 キズナはきっと会いたがるだろう。ずっと寂しがっているから。アカリさんは僕たちとの関係をすべて断ち切ろうとしているようだけど、ほんの少しだけでいいから、受け入れてはくれないだろうか。たまに連絡を取り合って、たまに一緒に買い物をして、たまに二人で美味しいものを食べに行く。それだけでいいんだ。それだけがきっと、今のキズナにとって大切なことなんだ。


 僕は勇気を出して言う。


「聞いてほしいことがあるんだけど……」


 キズナを心の底から笑顔にしてあげることができるのは、僕じゃない。


 僕はキズナに、ここ一ヵ月半ほどの間に僕が何を考えて、何をしてきたのかをすべて告げた。何一つ包み隠さずに。すべてを話している間、キズナは黙って聞いていた。そしてアカリさんともう一度会うことができると告げたら、また泣き始めた。


「アカリさんは嫌がるかもしれない。それでも会いたい?」


 キズナは僕の服にしがみ付きながら、必死に何度も頷く。


 嫌われてもいいから、

 もう一度だけでいいから、会いたいよ。

 会って、話がしたいよ。

 わたしのことどう思ってるのか、ちゃんと聞きたい。

 そうしたら、ちゃんとお別れするから……。

 キズナは僕の腕の中でわあわあと泣く。僕はそれをしっかりと抱きとめて、落ち着くのを待った。こういうときに気の効いたセリフで慰めてやれればいいんだけど、何を言うべきなのか僕にはわからない。


 どれくらいかたって、キズナが僕の腕を離れて、立ち上がる。


「さっそく会いに行こう」


 しかしキズナは少し恥ずかしそうな顔をして、待ってほしいと引き止める。


「わたし、ずっとお風呂入ってなかったから、これじゃあ余計に嫌われちゃうよ」


 そういえば君は風呂嫌いだったな、僕がいなかったから入らなかったんだろ? 冗談めかしてそう言うと、キズナは苦く笑う。


「久世さんも、なんだかピザ臭いよ」


****


 僕たちは二人でアパートを出て、駅前のショッピングモールに入った。風呂上り、同じ服を着ようとしているキズナに対して、新しい服を買うことを勧めたのだ。僕の提案に、キズナは少し考えてから、「ありがとう」と申し訳なさそうに微笑んだ。

 僕は店の外で待ち、キズナがぎこちない様子で服を選ぶのを待つ。しばらくして持ってきたのは、鮮やかな青色をした無地のワンピースだった。トイレで着替えてきたキズナを見て言う。

「すごく良く似合ってるよ、見違えたみたいだ。普段の生活からはまったく想像できないくらい、可憐な少女って感じがする」


 僕が真面目にそう感想を述べると、キズナは少し複雑そうな顔で笑った。


 電車での移動中、僕たちはここ一ヶ月ちょっとの出来事について話をした。

 僕が食卓に置いておいた食費は十分すぎて、いつもよりも豪華なコンビニ弁当が食べられただとか、ネットゲーム内でアカリさんを探そうと思ったら、フレンドを切られていて悲しい気持ちになっただとか。そしていくらメールをしても電話をしても、僕は何も反応をよこさない。まさか自殺したのではないかと思いながら、ずっと僕の帰りを待っていた。あの時は悲しかったけど、今思い返してみたら、案外気楽で良かったかもしれない。一人暮らしって初めてだったけど、わたし向いてるのかな。

 キズナは明るく笑う。一方、僕の方は今朝ほとんど話してしまって、何も伝えるべきことがなかった。

 そういえばアカリさんを探しているとき、最初の数週間はピザしか食べてなかったな。思い出したようにそう言うと、キズナは妙に納得したような顔をする。


「それだよ。久世さんの体臭。本当になんか、ピザ臭いんだもん」


 再び札幌駅に到着したのは夜中で、僕とキズナは二人でネットカフェに泊まった。個室の中で、青いワンピース姿のキズナをついつい見てしまう。

 僕の視線に気づいたのか、キズナは調子に乗ってくるくると回りだす。本当に見違えるようで、僕は思わず感嘆の声を漏らした。


 正午の駅前は人通りが多い。ランチタイムのサラリーマンや学生と思われる集団が忙しなく行き交う交差点は混沌としていて、見ているだけで疲れてくる。

 そこから少し離れた場所で、僕とキズナは白いフェンスに寄りかかり、目の前にあるパン屋の様子を眺めていた。

 今朝、アカリさんの実家の駄菓子屋に行くと、アカリさんはすでにいなかった。店内には立派な白い髭を蓄えたお爺さんが店番をしていて、キズナが「ナツキさんの友達です」と言うと、パン屋のバイトに向かったことを快く教えてくれたのだった。

 アカリさんの本名がナツキだということはあらかじめキズナに伝えていたけれど、実際にキズナの口から聞くのは初めてで、僕はひどい違和感を覚えた。

 お爺さんからバイト先の詳しい住所と、午前中いっぱいのシフトだということを聞いて、僕たちはこうしてパン屋の前でアカリさんを待ち構えている。


 目の前をサラリーマンやOLが通り過ぎて行く。駅前の人通りの中、立ち止まっているのは僕たち二人だけだ。皆、社会に与えられた自分の役割を一生懸命果たしている。皆、他人に対して責任を負っている。つらいことがあっても挫けずに、自分にとって幸せな未来を懸命に掴もうとしている。

 僕は自分がひどく場違いな場所に来てしまったことを後悔した。隣のキズナは人ごみを気にも留めず、先ほどから緊張した面持ちで目の前のパン屋を凝視している。

 光の加減で中は良く見えないけれど、きっともうすぐシフトの終わったアカリさんが出てくるのだろう。キズナが待ち望む、とても大切な瞬間だ。緊張するのも無理はない。

 僕の手の中にはポン菓子がある。オレンジと緑のビニールで人参のように見せかけた袋の中に、圧力をかけて膨らませた米粒が入っている。先ほど駄菓子屋で、いろいろと教えてもらったお礼として僕が購入したものだ。

 少しつまむとサクサクとしたシリアルのような食感で、とても懐かしい味がする。子供の頃よく、母さんに頼み込んで買ってもらった。


「僕は少し離れた場所から見てるよ」

「久世さん言っちゃうの……?」


 キズナが不安そうにこちらを見る。


「いてほしいっていうならいるけど。でも君と一対一の方が、アカリさんも気負わずに話してくれるんじゃないかな」

「……わかった」

「大丈夫さ。ちゃんと見てる」


 僕はキズナの立っている場所がしっかり見えるくらいの距離を置いて、目立たないように電柱の陰に隠れる。するとちょうど、パン屋の自動ドアをくぐり、クリーム色のトートバッグを肩にかけたアカリさんが出てきた。


 キズナは少し挙動不審になりながらも、意を決したようにアカリさんの目の前に立ちはだかる。

 勇気を振り絞って、何か話しかけたようだ。

 アカリさんは反応を示さない。

 聞こえていないのだろうか。

 気づいていないのだろうか。

 そんなはずはない。部分的に人ごみは晴れていて、アカリさんとキズナの間を遮るものは何もない。キズナの声だってしっかりと届いているはずだ。そんなバカな……。


 なぁ、君の目の前で、恐怖に怯えながら勇気を出して話しかける君の友達を見ろよ!

 どうして言葉を返してやらないんだ?

 どうして答えてやらないんだ?

 どうして見なかったことにできる?


 わからない。僕にはわからない。

 二人の距離はみるみる縮まり、やがてすれ違った。


 まるで何事もなかったかのように。

 まるで何も見なかったかのように。

 まるで、赤の他人とすれ違ったかのように。


 アカリさんは振り返らない。

 キズナも振り返らない。


 まるで、友達なんかじゃ、少しもなかったかのように。


 キズナはしばらく立ち尽くしてからこちらに歩み寄ってくる。僕のせいだ。

 爽やかな青色のワンピースが風に揺れる。僕のせいだ。

 キズナは力なく微笑んでいるように見える。僕のせいだ。

 涙をこらえながら必死に強がっているように見える。僕のせいだ。

 胸の中にぽっかりと開いた穴を懸命に覆い隠そうとしているように見える。僕のせいだ。

「えへへ、無視されちゃった」そう言って儚げな笑みを浮かべる。僕のせいだ。

 僕だ。

 この僕が、

 君を傷つけた。

 僕のせいだ。

 うまくいかないんだ。

 何をしたって……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る