09 3人で遊園地
冷えぴたが好きだ。昔熱を出して寝込んでいるときによく嗅いだ匂いだから。
小さい頃、僕は体が弱くて、よく高熱を出しては母に看病されていた。昼間から寝室で寝るのは心細かったから、母に頼んでリビングに掛け布団を運んでもらい、ソファーの上で横になった。そうして食事の時間になると、母が普段は使わないプラスチックのお盆の上に食器を載せて持ってくる。
ソファーの横に膝をついて、おかずとご飯を交互に、食べやすいようにほぐしてから僕の口に運んでくれる。僕はその時母さんが見せる慈愛に満ちた顔がたまらなく好きだった。母さんの仕草と、母さんの香りが好きだった。そして僕のおでこには冷えぴたが張り付いている。
よく熱を出す僕のために、母さんはいつも冷蔵庫に冷えぴたを入れておいてくれた。僕の大切な思い出だ。
確かにいろいろな事に終わりは来るだろう。始まりがあれば、終わりがある。命あるものはいつか死ぬ。生きと生けるものはすべからく土に還る。けれど終わりばかり気にしていたら、大事なものは何一つ残らない。
子供時代の思い出が色濃く残るのは、終わりがないと信じきっていたからだ。
純粋に物が楽しめなくなるのは、いつか終わりがあると知っているからだ。
そんな中で、僕たちはかけがえのない思い出を積み重ねていかなければならない。
一度手に入れたら、決して失われないもの。
決して損なわれないもの。
一つ一つ丁寧に、僕たちの手で、思い出を作り続けるんだ。
僕は今朝、それらのことをキズナとアカリさんの前で熱弁した。僕の主張を、キズナもアカリさんも聞き流していたが、僕が最後に「遊園地へ行こう」と言うと、飛び跳ねるほど喜んで賛同してくれたのだった。
そうして僕たちは今、電車で30分ほどの場所にある遊園地に来ている。
何もない平日のはずだが、敷地内はそれなりに混んでいた。
家族連れよりも若いカップルが目に付く。
永遠の愛を誓い合った男女の目には、僕たちの姿はどう映っているのだろう? そんなことを思いながら三人で並んで歩く。
「わたし、遊園地ってはじめてきたなあ。なんだかアニメの世界みたい」
キズナは瞳をらんらんと輝かせながら、やせ細った腕を広げてくるくると回る。昨日もほとんど徹夜でネットゲームをしていたというのに元気なものだ。
「ねぇアカリさん、ジェットコースター乗ろうよ。ジェットコースター!」
「ちょっと引っ張らないでよ、キズナちゃん」
「早く並ばないとたくさん乗れないよ!」
キズナに袖を引っ張られ、アカリさんが二日酔いの頭を押さえながら後を追う。
一緒に暮らしているとつい忘れてしまうけれど、キズナは学校に通えば普通の女子高生である。本来なら、友達とこういった場所に来ることもあっただろう。甘く切ない青春時代において、遊園地は必要不可欠な舞台だ。
こういう時、アカリさんがいてくれて本当に良かったと思う。アカリさんは大学生だし、キズナともそれほど年齢は離れていない。年頃の少女同士、気兼ねなく接することができる。
もしもアカリさんがいなくて、僕とキズナ二人でここに来ていたら、気まずい空気になっただろう。そんな状態では楽しい思い出など作れるはずがない。僕にとっても、キズナにとっても。
「久世さーん。おいてっちゃうよー?」
キズナが少し離れた場所から僕を呼ぶ。通行人が多く、大きな声を出さないと届きそうにない。僕はここ数年の中で一番大きな声を張り上げて、それに答えた。
「ちょっと入り口のところにあった店を見てくるよ! 後で合流しよう!」
キズナが腕を突き上げてOKサインを出したのを確認し、僕は振り返る。そうして少し歩いてから、道端にあった木製のベンチに腰を掛けた。
一気に緊張が解け、蓄積された疲労が僕を襲う。
僕の熱はまだ下がりきっていなかった。それに最近よく見る悪夢のせいで、慢性的な睡眠不足になっている。何をしていても頭がぼんやりとして、現実感がない。
夢の中で僕は、いつもキズナやアカリさんと話をしていて、途中までは普通に会話ができているのだけれど、途中から二人に僕の声が届かなくなっていく。話が通じなくなっていく。まるで壊れた機械人形のように、僕に対する罵詈雑言を並べ立て僕を傷つける。僕を見下して笑う。汚く唾液を飛ばして笑う。
思うに僕は、自律神経が乱れている。ここのところ常に口の中はカラカラに乾いていて、いくら水分をとっても直らないし、目を開くと景色がギラついて見える。周囲の音が波打ち、心臓が弾む。赤、青、緑。何もないところに色を感じる。
僕の精神は非常に研ぎ澄まされていて、どんな世界の変化も見逃さない。
世界が違って見える。
世界が違って見えるのなら、なんであれ価値があるはずだ。
……ああ。それにしても、今日は特に気分が悪い。
今朝はそうでもなかったのだが、ここに来るまでの人ごみのせいかもしれない。
出かける前に、部屋にある栄養ドリンクをかたっぱしから飲んできたのがよくなかったのかもしれない。
あるいは一昨日くらいに飲んだ、怪しげな漢方薬がいけなかったのかもしれない。
いずれにしても、こんなところで挫けてはいられない。今日はキズナたちと楽しい時間を過ごすんだ。今のうちにできるだけ体を休めて、午後からはキズナたちと合流しよう。そうして今日という日のかけがえのない思い出を作るんだ。
「思い出は後で思い出すためのものだぜ、相棒」
サブローがこちらを見て、僕を笑っている。初めて幻覚を見たあの夜から、僕にはサブローを認識することができるようになっていた。今朝キズナとアカリさんに話をしているときにも傍にいた。遊園地に向かう電車の中でも足元にいた。ベンチでこうして休んでいる今、サブローは僕の目の前にいる。
「どれだけ素晴らしい思い出も、忘れちゃ意味がない。なくなっちゃ意味がない。そうだろう?」
どうせいつかは、忘れてしまうんだろう?
サブローがこちらを見て、僕を笑っている。初めて見たあの夜には無表情だった顔が、今では本当に笑っているようだ。僕を嘲笑っている。茶色い毛に覆われた全身で、身振り手振りを交えている。首のところは醜く破けて、中から真っ白な綿が飛び出している。
どうだろうか? 思い出が消えてしまったって、事実は消えたりしない。誰もが忘れても残り続ける。幸せな思い出を忘れてしまうことと、そもそも幸せを感じたことがないというのは全然違うことだ。忘れてしまって、それですべてが無駄になるなんて事あるはずがないよ。
僕はサブローに向かってそう言うのだけれど、サブローは答えない。何も反論せずに、僕の方をニヤニヤと見つめている。
きっと僕をからかってるんだ。そう分かって、僕はサブローから目をそらし、ぼんやりと地面のアスファルトを眺める。
アスファルトの上で、一匹の黒い蟻が何かをしていた。
顔を近づけてよく見ると、蟻と絡み合うようにして、尺取虫のような白い幼虫が必死にうねっている。蟻に襲われているのだろう。大きさは蟻と同程度で、細長く、手足もないから必死にうねっている。
僕は何やら見てはいけないものを見てしまったような気がしたが、不思議と目が離せない。
アスファルトの上には透明な液体の染みができていた。幼虫の体液だろう。やがて幼虫と蟻はどちらも動かなくなる。沈黙。数秒して蟻の方が動き出し、もう何の抵抗も示さない幼虫を運び始める。
虫には詳しくないけれど、蟻はこれを食べるのだろうか。それとも卵でも産み付けるのだろうか。
蟻は必死に運ぼうとするが、大きすぎてなかなか上手く運べないようだ。僕は固唾を呑んでそれを見守っている。
突然、死んだと思われていた幼虫が再び抵抗を始めた。
うねる。うねる。
蟻は必死に覆いかぶさり、アゴで噛み付き、息の根を止めにかかる。しばらくの取っ組み合いの末、再びアスファルトに透明な染みができて、また二匹とも動かない。
アスファルトの上で行われた残虐行為。
気味の悪い殺し合い。
生きるために必要な命のやり取り。
僕は結局、最後まで目を離すことができなかった。
蟻は白い肉塊を懸命に運んでいる。
****
僕は遊園地の入り口付近にある店が並ぶ通りを歩いている。先ほど入園したときに、この辺りにペンギンのストラップを見つけたのだ。
それはここのマスコットキャラクターの一つで、僕は一目見ただけで気に入った。
左右非対称の瞳と、醜く平たい鼻、晴れ上がった唇、どこか物憂げな表情。ひもの先に不細工なペンギンがついてるやつ。ぜひとも僕の携帯電話につけておきたいものだ。
そうして僕は通りを歩き回ったのだけれど、なかなか目当ての品を見つけることができない。先ほど入ってきたときには、特に意識せずとも目に入ったはずなのに。一度入り口付近に戻ってから、あのときの状況を再現してみても駄目だった。どうしても見つける事ができない。
まさか幻覚を見たなんて事はないだろう。いや、今の僕なら十分あり得るけれど。しかしあれは本当に、ちゃんと存在していたと思うんだけどなあ。なんというか幻覚の類とは、纏うオーラが違ったのだ。
途方にくれてウロウロしていると、やがてキズナたちとの待ち合わせの時間が近づく。
僕たちは先ほどメールで、園内にあるハンバーガーショップで昼食をとる約束をしたばかりだ。ここから少し離れた場所だから、もうそろそろ移動を始めなくてならない。
「なあ、君も見たろ?」
すがる気持ちで問うが、足元のサブローは答えない。聞こえているはずなのに、なんて奴だ。
仕方なく僕は探すのを諦め、ハンバーガーショップへ歩き出した。ストラップは帰り際に、キズナとアカリさんに手伝ってもらえばきっと見つかるだろう。
それよりも今日の本来の目的は思い出作りである。
入園早々キズナたちと別行動をとってしまったが、三人で楽しく昼食をとって、午後からは精一杯アトラクションを楽しもう。
ハンバーガーショップの前でキズナたちと合流し、レジで適当に注文してからテーブルに運ぶ。
「わたしお腹ペコペコだよ」
「キズナちゃん、ちゃんと手を拭かないと汚いよ」
アカリさんの忠告を無視して、キズナは手づかみでバーガーを頬張る。挟まれていたキャベツが隙間からこぼれ落ち、ケチャップがキズナの口の周りを汚す。キズナは気にせずに笑っている。アカリさんはしばらくその豪快な食べっぷりに目を丸くしてから、やがて釣られて笑い出す。
僕は……。僕は笑えない。
「久世さん、どうしたんですか?」
アカリさんが心配そうにこちらを見る。
「まだ熱下がってないの?」
キズナが珍しく気を使ってくれているようだ。
しかし僕は……。僕には……。
虫。虫だ。虫が見えている。白い尺取虫。細長い幼虫。
ハンバーガーの隙間から、何百もの幼虫が必死にうねり出そうとしている。
死にたくないと言っているようだ。
助けてくれと言っているようだ。
僕は不思議と目が離せない。キズナの口の周りは、透明な体液で汚れている。皿の上には体を切断され零れ落ちた白い肉塊が点々と蠢いている。
わかっている、これは僕の幻覚だ。あれはケチャップソースで、あれはただのキャベツだ。わかっているけれど、僕は目が離せない。
ピュルピュルピュル。ピュルピュルピュル。
白い尺取虫。細長い幼虫。一匹一匹が泣いている。数百もの幼虫が一斉にうねり、鳴く。
ピュルピュルピュル、食べないでくれ。
ピュルピュルピュル、死にたくない。
パンの隙間から半透明の白い体を必死うねらせ、逃げ出そうとするが逃げられない。
わかっている、これは僕の幻聴だ。あれはマスタードで、あれはただのピクルスだ。分かっているけれど、悲鳴は鳴り止まない。
ピュルピュルピュル。ピュルピュルピュル。
助けてくれよ、この声が届いているんだろう?
白い幼虫が、うねる、うねる。
「顔色がひどいです。体調が悪いなら、もう帰ったほうが」
「駄目だ!」
アカリさんの声を遮るように叫ぶ。思ったよりも大きな声が出てしまって、二人を驚かせてしまったが、僕は気にしない。
「なんともないんだ! 今、食べるから!」
僕たちは今日、かけがえのない思い出を作るんだ。この平和な日々が、いつまでも続くとは限らない。どれだけ頑張たって、必ず終わりはやってくる。それまでに残さなければならない楽しい思い出は、山のように残っているのだから。
こんなところで挫けている場合じゃない。こんなところで目の前にある幸せを諦めるなんてできない。今日は三人で楽しい時間を過ごすんだ。
ピュルピュルピュル。わかっている、これは僕の幻聴だ。
ハンバーガーの隙間をうねる、あの半透明の幼虫は僕の幻覚だ。食べてしまえばきっと普通のハンバーガーで、普通に美味しいに違いない。
美味しいものを食べれば楽しい気分になれるんだ。キズナとアカリさんと一緒に、美味しい物を食べて、楽しい時間を過ごすんだ。それがかけがえのない思い出となって、僕の人生の大切な記憶として、深く、深く胸に刻み込まれるんだ。この先ずっとの、宝物になるんだ。
口を大きく上げてハンバーガーにかぶりつく。ぶちぶちと虫を歯で押しつぶす感覚。体液が口内に溢れ出し、切断された幼虫が胃に流れ込む。僕はハンバーガーを租借する。
美味しいなぁ。僕は笑う。
キズナも笑う。
アカリさんも笑う。
「オ、オッエエエエエ……エエエエゥエッ……オッ……オオオオオ」
アカリさんが駆け寄ってくる。キズナが店員を呼びにいく。
「ヴォッエエッ……ハァハァッ……オッオオオオオ」
惨めに膝をつき、頭を垂れて、嗚咽を繰り返しながら子供のように泣く。
もう泣いているのか吐いているのか、区別はつかない。
僕の背中をなでるアカリさんがどんな顔をしているのか、店員を呼びに言ったキズナが何を思っているのか、僕にはわからない。
涙がボロボロと溢れて止まらなくて、恐怖に身震いが止まらなくて、涙と鼻水で窒息しそうになりながらひたすらに吐く。僕はただ、一緒に楽しい時間を過ごしたかっただけなのに。
ピュルピュルピュル。
吐瀉物からうごめく白い幼虫は、もう命乞いをしていない。ただひたすらに鳴いている。
わかってるんだ、これは僕の幻聴だって。わかってるんだ、これは僕の幻覚だって。全部わかってるんだ、全部僕が悪いってことくらい。
僕は生まれ変わりたいよ。
これ以上、生きていたくないよ。
ピュルピュルピュル。ピュルピュルピュル。
その鳴き声はいつまでも、無様な僕を笑っていた。
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