10 離別

 僕はシャワーを浴びている。

 僕はシャワーを浴びているようだ。

 どうして僕はシャワーなど浴びているのだろう?

 

 ボンヤリとした頭が意識を取り戻したときには、僕は石鹸をつけたタオルでゴシゴシと体を洗っているところだった。

 どうも意識が混濁している。ここは風呂場だが、さっきまで何をしていたのか思い出せない。

 ブラインドの隙間から見える景色は真っ暗で、今がどうやら夜だということがわかる。

 僕はどうしてしまったんだろう。必死にこれまでの経緯を思い起こそうとしても、頭の内側に膜が張ったように、何一つ思い出すことができない。


 シャワーを止め、風呂場を出る。

 かごの中に着替えは用意されていなかったので、仕方なく脱ぎ散らかされていた服を着る。

 

 部屋に戻るとキズナが床に突っ伏して泣いていた。

 膝を折り、頭を抱えながら、まるでこの世の終わりみたいにわあわあと泣いている。悲痛な叫びを上げながら、嗚咽を繰り返している。普段日焼けしていない肌がさらに蒼白になっていて、袖のところはびしょびしょに濡れている。青ざめた顔は人形のようだ。

 キズナさん、僕はどうしてシャワーを浴びていたのでしょう? なんてとても聞ける雰囲気じゃない。

 僕はしばらく様子を伺うことにした。


 こうしてキズナが泣く姿を見ていると、アカリさんと出会う前、部屋で暴れまわっていた頃の姿を思い出す。せっかくいい方向に進んでいたのに、どうして元に戻ってしまったのだろう。

 ああ、ああ。なんとなく、おぼろげながら思い出してきたぞ。確か、アカリさんが家に帰ると言い出したのだっけ? 僕たちとはもう会わないと言い出したのだっけ? それでキズナは泣き喚き、僕はシャワーを浴びていた。

 アカリさんは部屋にいないようだ。まだ荷物は残っているから、何も考えずに飛び出していったんだろう。探さなくては。


****


 見上げると、頭上には星空が広がっている。


 月明かりが照らす中、僕は当てもなく住宅街をさまよう。角をいくつも曲がったところで、靴をはき忘れていたことに気づいた。

 頭はぼんやりと熱を帯びていて、全身がしびれているような感覚がある。普段あまり運動しないせいで筋肉が悲鳴を上げている。それでも僕はアカリさんを見つけるため、ただでたらめに歩き回る。


「見つかるわけない。きっともう会えないよ」


 足元で、サブローが僕をからかう。まったくいつもこれだ。適当なことを言っていい気になっている。一生懸命にやってるんだから、放っておいてくれ。助けてくれないのなら、僕に話しかけないでくれ。


 靴をはき忘れたせいで、足の裏が切れたようだ。電柱の灯りに照らして確認すると醜く腫れ上がっていた。辺りは真っ暗で、人通りはない。こんな夜中にひとりきり、僕は無力だ。

 アパートを何時に出たのかも、今が何時なのかもわからないが、体感的にはもう二時間近く歩き回っている。これ以上探しても見つからない。そう思い、僕はアカリさんの捜索を断念することを決めた。


 しかし帰り道、アカリさんは拍子抜けするくらい簡単に見つかった。ちょうどアパートの向かい側、ブロック塀に寄りかかり、うつむいて立っている。きっと僕が歩き回っている間に、自分で戻ってきたのだろう。

 どう話しかけていいのかわからず僕が戸惑っていると、アカリさんもこちらに気づいたようで、苦い笑みを浮かべた。


「待っててくれ」


 アカリさんにそう言い残し、アパートに戻る。


 部屋の中では相変わらずキズナが泣いていた。僕は少し迷ったけれど、結局キズナには何も言わずに、その横を通って戸棚へ向かう。戸棚の中には、買い置きの花火がぎっしりと詰まっている。

 前に三人でやった花火が楽しかったから、またいつでもできるように買い溜めていたのだ。パッケージを開けて中から線香花火だけを取り出すと、今度はちゃんと靴をはいて、アカリさんの待つ場所へ戻る。


 夏がすぐそこまで近づいているといっても夜はまだ肌寒い。

 僕らは身を寄せ合うようにしてブロック塀によりかかり、線香花火をしていた。今回は大家さんの許可を取っていないが仕方がない。

 ただ僕はもう一度、アカリさんと一緒に花火がしたかった。


 僕の隣でアカリさんは、先ほどから何も話さない。目の前の火の玉をぼんやりと見つめている。何を考えて、何を感じているのだろう。真っ暗闇の中、線香花火の僅かな明りだけでは、細かい表情まで読み取ることはできない。


「わたし、帰ろうと思います」


 ぽつりと呟いたその声は聞きなれない、とても冷めた響きがあった。ここのところずっと酒ばかり飲んでいたから、酔ったとき特有の、熱に浮かされたような声ばかりが印象に残っていたけれど、これがアカリさん本来のものなのだろう。出会って間もない頃はそういえばそうだったと、今更ながら思い出す。


「ここにはもういられません」

「……どうして」


 線香花火が燃え尽き、火の玉が地面に落ちる。


「さっきも話しましたけど……」


 次の線香花火を袋から取り出しながら、アカリさんは続ける。


「前々から考えていたことなんです。実家の駄菓子屋を継ごうと思って。もともと私は、普通に就職がしたくて、だから一人暮らしを始めて大学に通っていたんですよ。だけど結局、うまくいきませんでした。ここでの生活はとても楽しかったし、久世さんにも感謝をしていますが、そろそろ踏ん切りをつける時期のような気がします。

 三人での暮らしは、キズナちゃんと久世さんと過ごす時間は、本当に楽しかったです。もちろん、お酒ばっかり飲んで、二人にたくさん迷惑をかけましたけど……。ここだけの話、私今までお酒って、あんまり好きじゃなかったんです。笑わないでください。本当ですよ? ずいぶん羽目を外しましたけど、それでも私にとっては、今まで付き合ってきたどの友人と過ごすよりも、暖かい時間でした。

 だからこそ、いい思い出のままで終わりたいんです。これ以上いたら、私は将来きっと後悔します。ここでの出来事がつらい記憶になるのは嫌なんですよ。そろそろ、頃合いでしょう」


 明るい所で見れば、僕はきっとひどい顔をしているだろう。暗闇の中でもそれが伝わったのか、アカリさんは少し困ったような笑みを浮かべて、


「私がここで暮らすこと、最初はあんなに嫌がってたじゃないですか」


 確かにそうだ。アカリさんが押しかけてきたあの日、僕はキズナと二人きりの穏やかな生活を邪魔されるのが嫌で、必死に追い返そうとした。その場面をキズナに見られなければ、僕はきっと本当にアカリさんを追い出していただろう。


 だけど……。


「キズナはどうするんだ……。部屋で泣いているよ」

「さっきは喧嘩みたいになって、勢いで飛び出してしまいましたけど」


 アカリさんは目を伏せて続ける。


「これでいいんです。キズナちゃんともここでお別れです。私は北海道に帰って、もう連絡はとりません」

「……そうか」


 僕はそれしか言えない。そうか。アカリさんはここでの出来事をなかったことにしたいのだろう。そうして、自分にとって有意義な、新しい道を歩み始めたいのだろう。だとすれば僕に止める権利はないのだ。納得はできないけれど、仕方のないことだ。


 部屋で泣いているキズナ。かわいそうなキズナ。

 君は捨てられたんだよと言ったら、どんな顔をするだろう。


「彼氏ともさっき、別れました」


 彼氏。アカリさんの彼氏。いつだったかアカリさんの携帯を見たときに、二人で笑いあう写真が待ち受け画面になっていたのを思い出す。SNSで出会って、一時はアカリさんと同棲までしていたという男。暴力をふるって、アカリさんの背中に青痣を作った張本人。


「まだ付き合ってたのか」

「はい、メールだけですけど。さっき事情を話したら、本人も別れることに同意してくれました。それで少しだけ久世さんのことも話したんですよ。どうやら彼、久世さんに会いたがっているみたいです。それでこれはお願いというわけでもないんですが、もし気が向いたら会ってみて下さい。なんとなくなんですけど、久世さんとは馬が合うような気がするんです」


 その言葉を最後に、アカリさんは僕とキズナの前から姿を消した。

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