08 駄目の巣窟

 それにしてもここは駄目人間が駄目に集まる、駄目の巣窟だ。アカリさんは大学へ通うのをやめ、一日中アルコールを飲みながらへらへらと笑っているし、中卒のキズナはずっと部屋の中にこもり、目をギラギラさせながらネットゲームに耽っている。僕はといえば一日中ごろごろと寝転がり、たまにキズナと漫画を読みながらへらへらと笑う、社会にまったく必要とされていないニートである。家出少女と、アル中と、無職。これほど夢も希望もない取り合わせがあるのかと、自分でもおかしてくたまらない。そうして笑っていると、突然笑い出すのは気持ち悪いからやめろと、横になっている僕のわき腹を蹴るのはキズナである。うるさいな、頭の中でくらい好きなこと考えさせてくれよ! 世の中に身の置き場がないんだから、せめてここでくらい、自由に自分勝手にいさせてくれよ! そういったもろもろの不服を申し立てるため、僕はキズナに背を向けるようにして寝返りを打つ。すると今度は、ビールの空き缶に埋もれながら幸せそうにこちらを見るアカリさんと目が合った。

 昨日だって二日酔いで吐きまくっていたのに、よくもまあ次々と飲むものだ。人はいったいどれくらいまでアルコールを摂取したら死ぬのだろう? あまりにも飲みすぎて救急車を呼ばないといけなくなったら、この地獄のようなボロアパートに、救急隊員を呼ばなくてはならない。そこで彼らは僕たちの泥沼のような生活を見て、何を思うだろう。他人の役に立つためという夢を持ち、訓練を重ねた好青年であっても、僕たちを軽蔑するのだろうか。どんなに見下したところで結局、彼らは仕事なのだから、この場所に足を踏み入れないわけには行かないのだ。彼らは僕らを真っ当な人間として扱わないといけなくなり、僕は恥ずかしくて死にたくなる。そんな未来が容易に想像できた。


 一日中寝転がっているせいで、何もしていないのにひどく疲れる。キズナはネットゲームのレベルがカンストしたらしく、一緒にダンジョンへもぐりに行こうとしきりに誘ってくるが、しかし僕はネットゲームなんぞをする気分ではない。ひどい、約束したのに嘘つき! 僕の方を睨んでくるキズナに対し、そういえば確かに、昔そんな約束をしていたこともあったなあと他人事のように言うと、今度はわんわんと泣き始める。千鳥足のアカリさんが近づいていき、私と一緒にやろう、とキズナを慰めるが、キズナは泣きやまず、僕は居心地が悪くなる。仕方なくその場を離れるため、起き上がろうと手を突いたところで、ぬるっとした感触。うわ、おい! 誰だこんなところにカップラーメンのゴミを置きっぱなしにしたやつは! 汁がこぼれ、床に散乱した洗濯物の束に茶色いシミを作っている。ただでさえ服が少ないのに僕は明日から何を着ればいいのだろう?

 そう思いながら部屋を良く見渡すと、あちこちに弁当のプラスチック容器や、いつ飲んだのか分からないようなペットボトル、ビールの空き缶などが散乱している。気づかなかった。

 きっとひどい悪臭のはずなのに、何も臭わないのはどういうことだろう。僕の鼻がおかしくなってしまったのか? そう思ってキズナとアカリさんに聞くけれど、二人とも何も臭わないと真顔で答える。それがどうにもおかしくって、僕たちは顔を合わせてげらげらと笑う。


 カップラーメンの残り汁で汚れた手を洗うのと、ベタベタとした寝汗を流すため、僕は風呂場へ向かった。風呂場の窓が開いていて、生暖かい風が僕の頬を撫る。

 いつのまにかクリスマスから数ヶ月がたち、季節は春になっていた。外に出るのは食料の買出しくらいだが、一度にたくさん買い溜めをしているので、ほとんど毎日部屋にこもりっぱなしだ。そのせいで世間の流れに取り残されたような気になっていたけど、こうして春風を感じると、ちゃんと外の世界と繋がっているような気がして、妙にうれしい。

 伯母からの電話は驚くほどパタリと止んだ。一度気まぐれで電話に出たときに、伯母はわあわあと泣きながら僕を捲くし立てるものだから、僕の方もだんだんと腹が立ってきて、僕には他にもっとやるべきことがあるのです、そう言ってキズナとアカリさんのことを怒りながら暴露した挙句、伯母の反応を待たずに電話を切ってやったのだった。それ以来何の連絡もないし、このアパートにやってくることもないので、僕たち三人の平和な日常は続いている。


――ザアアアアア

 僕は全裸でシャワーを浴びている。 


 僕には確固とした信念、あるいは人間性というものが根本的に欠けている気がする。それは生まれつき片親だったせいだとか、母さんが僕を置いて病死してしまったせいだとかじゃない。もっと内面的な、誰にも見せることが出来ないような部分に宿る、どうにもできない欠陥だ。

 例えば小学生だった頃の僕にとって、友達というのはクラス全員のことだった。一言でも話したことがある人は皆が友達だと、ごく自然にそう考えていたからだ。

 それが間違いだと気づいたときにはもう遅く、僕は孤立していた。

 休日に遊びに誘われても断っていたのは、単に彼らと過ごす時間が息苦しいと感じたからであって、別に彼らが嫌いなわけではなかった。断られ、無視される側の気持ちなど、思いも寄らないことだった。

 あるいは中学で不登校になる直前、僕にはよく話をする子が一人いた。その子に誘われてネットゲームをはじめ、放課後はネット上で待ち合わせをし、一緒にクエストをこなす日々。

 そんなある日、その子がへまをしてパーティーメンバーが全滅してしまうという事態が起きた。僕はその時妙にイライラしていて、へまをしたことをチャットで散々罵倒し、その場で接続を切ってしまった。

 翌日僕は普段どおりに話しかけ、謝ろうと思ったが、その子はあからさまな態度で僕を無視する。それから卒業までその子が口を利いてくれることはなかった。

 僕はその事について驚くほど何も感じなかった。

 僕の心の中にはいつも何も詰まっておらず、心が痛みを感じないせいで、他人を平気で傷つける。

 そういう人間なのだ僕は。

 根本的に、人と仲良くすることができない。

 皆と同じように楽しくおしゃべりすることができない。

 笑い合う事ができない。

 歩調を合わせることができない。

 適切な距離を保つことが出来ない。

 人を思いやることができない。

 人を許してやることができない。

 未来を見据えて行動することができない。

 過去のあやまちを反省することができない。

 キズナのためを思ってやることができない。

 キズナの幸せを願ってやることができない。

 キズナの友達を認めてやることができない。

 結婚。ドレス。幸せ。永遠の愛。明るさの象徴。

 僕はその輪に入ることができない。

 できない。できない子。僕だ。

 …………。


――ザアアアアア

 僕は全裸でシャワーを浴びている。


 自分の中に溜まり込んだひどく汚いものが流れ落ちていく。

 シャワーが好きだ。こうしてぬくもりに包まれていると安心できる。どんなに疲れている時も、どんなに気分が落ち込んでいる時も、変わらず僕を優しく癒してくれる存在。愛である。

 果たして、これほど実用性を兼ね備えた愛が、この世界にどれほどあるだろう?

 この世界に、どれほどあるだろう?

 蛇口を回し続ける限り、永遠のぬくもりが僕を包み込む。

 僕の中の醜いものが流れ落ちていく……。

 …………。


――ザアアアアア

 僕は全裸でシャワーを浴びている。


 母さんが死んで落ち込んでいた頃、僕は部屋にこもって本ばかり読んでいた。本には色々な人の生き様や信念、思想がぎっしりと詰まっていて、まだ外の世界をよく知らなかった僕をすぐさま虜にした。当時の僕は、他人の書いた文章にひたる事で、まるでその人になったかのように、世の中のいろいろな事を理解したような気になっていた。

 思えば、今の僕を支えている意識はあの頃に読み耽っていた書物の写しなのかもしれない。だから、自分の生に実感が持てない。それはどこかで見聞きしたものを、勝手に自分が生み出したものだと勘違いしているからだ。僕は紛い物、見せかけの感情で、喜んだり、泣いたり、笑ったりしているのかもしれない。僕は自身の人生において、取り返しのつかない過ちを犯し続けているのかもしれない……。

 …………。


――ザアアアアア

 僕は全裸でシャワーを浴びている。

 

「久世さん、大丈夫ですか?」


 アカリさんが少し慌てた声で浴室の戸をノックしている。


「シャワーを浴びてるだけだよ」

「いえ、もうかれこれ一時間以上も入ってるじゃないですか……」

「もう出る」


――ザアアアアア

 僕は全裸でシャワーを浴びている。


 どんなに楽しいことをしても、終わりがくる。

 どんなに幸せになっても、いつか終わりはやってくる。

 僕たちはどこを目指せばいいのだろう?

 心を満たすものが必要だ。

 一度手に入れれば、決して失われることのない不可逆性。

 僕の命が尽きるその瞬間まで、確かに心の中で輝き続けるもの。


 たとえばそれは、なんだ?


****


 強烈な息苦しさに襲われて目が覚めた。

 喉はカラカラに渇ききっており、頭はグラグラと揺さぶられている。吐いた息が熱く、自分がとんでもない高熱を出していることはすぐにわかった。


 ひどく気分が悪い。全身の震えが止まらない。


 とにかく何か水分が欲しかった。立ち上がろうにもうまく力が入らないので、這うようにしてキッチンへ向かう。チラリと窓の方を見ると外はまだ真っ暗闇で、今はどうやら真夜中らしい。だというのに部屋には僕だけしかいない。

 こんなひどい体調の僕を置いて、キズナとアカリさんはどこへ行ったのだろう? 今が深夜だということは、先ほどまで僕と一緒に夜食のカップラーメンをすすっていたはずだ。僕が寝てから、二人してどこかへ遊びに行ってしまったのだろうか。

 壁に体重を預けながら、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して煽る。相変わらずひどい目眩と頭痛で、視界は常にチカチカしている。そして、僕の傍には誰もいない。一人で勝手に、高熱で死にそうになっている。


 もしこのまま死んでしまったら、どうだろう。キズナとアカリさんはやがて僕のことなど忘れてしまって、世界の誰も僕のことを覚えていない。今まで死んでいった数え切れない屍と共に、すっかり生者たちに取り残されてしまう。

 それは、僕の全然知らないところでは日常的に起こっていることなのだろうけど、いざ自分の番となると耐えられない。

 僕を忘れないでくれ。永遠に覚えていてくれ。


 僕は鉛のように重い体を引きずりながら、できるだけ部屋を明るくしようと試みる。


 トイレの電気をつけて、扉を開け放つ。

 他の照明も全部つける。

 懐中電灯を並べ、パソコンも起動する。

 雑誌を広げ、テレビをつける。

 CDプレイヤーの電源を入れると、キズナがセットしていたアニメソングが流れ出した。


 こうして誰もいない部屋に一人ぽつんといると不安になる。不安になると、暗いことばかり考えてしまう。けれど、頭は霧がかかったみたいにボンヤリとしていて、どうすればこの状況から抜け出せるのか冷静に考えることができない。不安で不安で死にそうだ。

 ふと、ポケットの中に携帯電話を入れていたことを思い出した。その場に座り込み、ズボンをまさぐると確かにある。

 助かった、とりあえずこれでキズナに連絡を取ろう。そう思って携帯電話を開くと、こんなときに限って充電が切れている。ここのところずっと、キズナもアカリさんもそばにいて携帯を使う必要がなかったし、充電するという習慣がなくなっていたせいだ。


 充電器はどこだっけ……。


 部屋をボンヤリ見回していると、おかしなものが視界に入った。クローゼットの前あたりに、サッカーボールほどの大きさをした、茶色い塊が落ちている。

 さっきまではなかったはずなのにおかしいな。そう思ってよく見ると、どうやらその茶色い物体には目があって、僕の方を凝視しているようだった。

 サブロー。茶色いクマのヌイグルミ。

 熱で震える体を押さえながら、這うようにしてその物体に近づく。愛らしい寸胴。プラスチックの瞳。ふさふさの茶色い毛皮。間違いなくサブローだった。

 小さい頃に死んでしまった母さんが、僕の誕生日に買ってくれたヌイグルミ。

 いつだったか、キズナが暴れて壊したヌイグルミ。


「やぁ」


 話しかけられた。


「苦しそうだな? おい」


 茶色い毛に覆われた手足はピクりとも動かないし、顔も無表情のままだ。だというのに、サブローは気さくに話しかけてくる。

 その首は半分くらいしかつながっておらず、切れ目からは真っ白な綿が飛び出していた。


「首、裂けてるよ」

「そんなことはどうだっていいんだ」


 サブローの口調は依然として明るい。しかし、いくら明るい声で話しかけられても、その顔が無表情のままピクリとも動かないのはどこか不気味だった。


「また昔みたいに、オレのことを抱いてくれよ」


 僕はうなずきを返し、その体を抱きかかえてみる。

 なつかしい感触。昔、こうすると安心することができた。母が死んで、顔も知らない伯父に引き取られて孤独だった時、よくこうして、気持ちが落ち着くまで一緒にいたんだ。

 そのぬくもりは、子供の自分にはどうすることもできなかった不安や寂しさを、すっかり包み込んでくれた。それがどれだけ、当時の僕の心の支えになっていたことか。

 大人になるにつれ、次第に昔のような安らぎは得られなくなっていったけど、それでもなんだか捨てられなくて、ずっと大切に仕舞っていたんだ。

 なつかしい感情がこみ上げてきて、両腕で抱きしめるにはすっかり小さくなってしまったサブローを、僕は胸に強く抱く。


「またお前にあえてうれしいよ」


 両腕の中で、サブローのうれしそうな声が聞こえてくる。

 母からの誕生日プレゼント。小さい頃はずっと肌身はなさず持ち歩いていた、僕の友達。

 首が取れそうな、僕の友達。僕の友達だ。


「変な顔して、どうしたの?」


 突然頭上からキズナの声がした。慌てて見上げると、キズナとアカリさんが二人ならんで、座り込んだ僕を見下ろしている。


「びっくりしたよ。戻ってきたらあちこち電気はついてるし、私のCDがおっきな音で流れてるし」

「いったい何をしてたんですか?」


 面白がって笑うキズナ。不信感をあらわにするアカリさん。そうして二人で向かい合って、何かを話している。


 しかし、僕はどうも夢を見ているような気がして、その会話の内容を理解することができない。目の前の光景に、現実感がない。地に足がついていない。不思議な感覚だった。


 どこに行ってたんだ?


「冷えぴた買ってきましたよ」


 どこか遠い場所で、アカリさんが呟く。

 僕をおいて?


「久世さんが熱でしんどい、しんどいっていうから、わたしとアカリさんで買いに行くって言ったじゃん。忘れちゃったの?」


 そんな話は聞いてないな。


「顔色が悪いですよ。少し触らせてください。うわ、ひどい熱です! 早く横にならないと」

「えへへ。私がひえぴた貼ってあげるよ」


 いや、待ってよ。ひどい汗なんだ。


「久世さんの汗なら別にいいよ。 ほら、じっとして」


 そうじゃなくて、汗を拭かないと、すぐに剥がれてしまうでしょう。そんなことくらい常識だよ。ちょっと洗ってくるから、待っててくれ。


「それなら私が、タオルを絞ってきます。本当にひどい汗ですし、体も拭いてあげますよ。きっと気持ちがいいですよ」


 ああ、本当にありがとう。助かるよ。


「それで、さっきはどうして電気をつけっぱなしにしてたの? 怖かったの?」


 違うよキズナ。いや、少しは当たってるんだけど。


「どう違うの……?」


 僕は光が好きなんだ。だって暗いと、自分がどこに立っているのかも分からなくなってしまうでしょう? どっちを向いているのかわからなくなるのが嫌なんだ。不安になる。暗闇は漠然としているけど、光は明確な方向を持っていて、かならずどこかにたどり着くことがわかってる。だから好きだ。


「ふうん。よくわかんないな」

「なんだか虫みたいですね」


 虫? アカリさん、それはどういう意味だい。僕が虫だって。


「だって、明るい方へガムシャラに向かっていくなんて、虫のすることじゃないですカァ?」


 ガハハハ。グハハハ。ゲハハハ。


 キズナとアカリさんは唾を飛ばし合いながら、この世のものとは思えないほど下品に笑う。


 そこで僕の意識は落ちた。

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