05 邪魔者
朝起きると、キズナの長い髪が視界の半分ほどをふさいでいた。
髪の毛を払い、身を寄せるように隣で横になっているキズナを見やる。どうやらまた、知らないうちに眠ってしまったようだ。
キズナはかすかに寝息を立てながら、無防備な寝顔を僕に晒している。その顔に、出会ったばかりの頃の不安げな様子は微塵もない。思えば最近、突然暴れだすようなこともすっかりなくなった。それは、アカリさんと出会ってからのような気がする。彼女のおかげなのだろうか? だとしたら悲しいものだ。最初にキズナが暴れだしたときなど、僕はもうどうして良いのかわからず、部屋の中を無茶苦茶にする彼女をただ見守ることしかできなかった。それがアカリさんと出会って、すっかり止んでしまうとは。いったい、僕に何が足りなかったのだろう?
寝起きの陰鬱な頭で考え込んでいると、訪問者を知らせるベルが鳴った。時計を見るとまだ朝の八時で、しかも今日は休日である。
いったいこんな時間に誰だろう?
不審に思いながら廊下に出て、チェーンを掛けたまま玄関を開ける。
戸の隙間から、覗き込むように顔を覗かせてきたのはアカリさんだった。その目は充血しており、ひどく泣き腫らした様子だ。表情もこわばっていて、いったい何事かと驚く。
「キズナちゃんと今すぐ会いたいんです」
明らかに動揺しているようだったので、その理由を尋ねる。しかしアカリさんは、とにかくキズナと会いたいと言って聞かない。その様子から見て、恐らく何か特別な事情があるのだろう。
一方僕としても、せっかくの休日に、キズナと二人きりの時間を邪魔されるのは面白くない。ただでさえ最近、キズナと一緒に過ごす時間がめっきり減ってきている。それは、キズナがアカリさんばかりと遊ぶようになったからだ。
そのことに少なからず腹を立てていた僕は、ここで彼女を追い返すことを決心した。今日は予定通り、キズナと二人きりで穏やかに過ごすのだ。
「ごめんね。今ちょっと留守にしてるんだよ」
「そんな……、いったいどこに行ったんですか?」
アカリさんは青白く顔を変え、責め立てるように僕を睨む。
「それは秘密だよ。プライベートなことなんだ」
「それじゃあ、中で待たせてください」
そういうと、半開きだった玄関に手をかけ、あろうことか無理やり中に入ってこようとする。チェーンが張り詰めて、金属のこすれる嫌な音が響いた。
まさか、アカリさんがここまで強引な性格だったとは思わなかった。キズナがいないと分かればおとなしく帰ると思っていたのに、それほどまでキズナに会いたいのだろうか?
とにかくいないと言ってしまった以上、意地でも家に上げるわけには行かない。
「たぶん今日中には帰ってこないよ。だから、また出直してもらえる?」
「大丈夫です。ずっと待てますから」
アカリさんはチェーンの存在を気にも留めずに、強引に扉を開けようとする。まったく、いったいなんだっていうんだろう。どうしてそこまでキズナに会いたがるのか。そこでちらりと見えたのだが、アカリさんは扉の影に隠れて、なにやら大きな荷物を持っているようだった。
「まさかそのバッグ……」
「いいから、中に入れてください!」
最悪の予感が頭をよぎる。まさかアカリさんまで、家出をしてきたのか。冗談ではない。僕とキズナの穏やかな生活を、これ以上邪魔されてたまるものか!
僕は扉にかかったアカリさんの手を引き剥がし、強引に追い出そうと試みる。しかしアカリさんの握力はなかなかに強く、うまく引き剥がすことができない。ようやく引き剥がしたと思ったら、今度は反対の手が掴んでいる。
剥がし、剥がされ、再び掴む。しばらく僕たちの醜い争いは続いた。
「何の騒ぎ?」
突然、背後から寝起きのキズナの声がした。
「ってアカリさんじゃん。何してるの?」
「これはどういうことですか! 居ないって言いましたよね?」
恐ろしい表情で睨んでくるアカリさん。
不思議そうにこちらを見るキズナ。
僕は全身から血の気が引くのを感じながら、一連の醜悪な展開に、なすすべもなくその場に崩れ落ちた。
****
テレビではメガネをかけた中年の男性ゲストが、油ぎった顔で最近の若者を批判している。男性は先ほどから熱に浮かされたように喋り続けているが、その滑舌があまりにも悪く、肝心の内容はあまり頭に入ってこない。それでは彼がかわいそうなので、僕はせめて彼の主張を精一杯受け止めようと、食い入るように字幕を見つめる。
最近の若者は一番になりたがらない。わたしが若いころなどは、なんでも一位にならないと気がすまなかった。自分に自信が持てないから、たいした夢もなく、すぐに諦めてしまう。これじゃあ日本の未来はおしまいですよ。失敗を恐れちゃいけない。昔の若い人たちは怖いもの知らずで、無謀だと思うことにもチャレンジせずにはいられなかった。今の子たちには、欲がないんですな。
僕はそれらの事を一生懸命理解しようと努めるけれど、やはり彼の醜い容姿と滑舌があまりに滑稽で、意識がそちらに向いてしまう。うんうん唸りながらしばらく画面を眺めていると、カメラは街頭インタビューに切り替わり、サラリーマンが「今の若い人は何を考えてるのかよくわからないですね」と万遍の笑みで答えている。
このサラリーマンは恐らく、僕とほとんど同い年だろう。僕が子供だった頃は周りの大人の年齢などさっぱりわからなかったのに、今では世代ごとにおよその見当がつけられる様になってしまった。思えば僕もずいぶん、歳をとったものだ。
それにしても皆、自分の若い頃など覚えているものだろうか? 出来事としては覚えていても、それで昔の自分を理解できるとは到底思えない。それとも皆ちゃんと覚えていて、僕だけが忘れてしまっているのだろうか。
ところどころで記憶に残っている出来事はあるのだけど、それらと今の連続性がまったく感じられない。まるで他人のアルバムを見ているかのように、間の部分がすっぽりと抜け落ちてしまっている。そしてその失われてしまった部分にこそ、僕にとってより大切で、より本質的な部分があったようが気がしてならないのだ。
過去の僕はすでに失われてしまった。今の僕がどこに向かっているのかもわからない。ただ確かなことは、昔いた場所にはもう二度と戻れないということと、いずれこの僕自身もまた、跡形もなく失われてしまうということだ。
「難しい顔してどうしたの?」
物思いに耽っていた僕は、キズナの高い声で現実に引き戻される。
……別に。そう答えようとして、突然、自分の中にまるで場違いな嗜虐心が芽生えていることに気づいた。この純情な少女を、何かひどい言葉で痛めつけてやりたい。心を許した人間に罵られる、惨めな気持ちを味わってほしい。僕の前で、自尊心をズタズタにされて泣いてほしい。
さて、どんな悪口を言ってやろうか。目の前の少女はなんの疑いも抱かず、こちらの悪意に気づかぬまま、澄み切った瞳で僕の言葉を待っている。
「お前はウスノロだ!!」
「え……」
底知れぬ罪悪感に、腹の奥のほうがしくしくと痛む。でも僕は、彼女を傷つけずにはいられない。
それはつまり僕の生き方の問題だった。もっと素直に清潔に生きて、劣等感を抱かず、醜い感情はすべてからだの中から排除して、健全に成長しておくべきだった。だけど、そんなことできるはずがない。僕は彼女を傷つけることを運命付けて生まれてきたのだ。この醜い性格で、傷つけるべくして傷つけた。
「お前がウスノロじゃなくて、なんなんだ」
僕はキズナを、傷つけるべくして傷つける。
「どうして……ひどいよ……」
「だってそうなんだ。ウスノロなんだ。違うはずないんだ」
「あなたは頭がおかしいよ!」
「うるせえ! ウスノロ! ウスノロ! ウスノロ!」
僕はキズナを責め続けているうちにだんだん興奮してきてしまって、最後には狂ったように罵倒の言葉を浴びせながら、真っ赤になって頭を抱え込むキズナに蹴りを入れて虐待する。胸の奥に溜め込んでいたものが跡形もなく霧散するような、しびれるような快楽に身を震わせ、自分でも信じられないほどの金切り声で、口が張り裂けそうなほど大きく笑う。
僕はキズナを見下しながら、笑うべくして笑っているのだった。
「難しい顔してどうしたの?」
物思いに耽っていた僕は、キズナの高い声で現実に引き戻される。
「……別に」
「さっきのこと、まだ怒ってるの?」
先ほどキズナは、アカリさんをしばらくこの部屋に泊めてあげてほしいと、僕に懇願してきたのだった。普段の態度からは想像できないほど真面目な様子だったし、もとより僕には、キズナの頼みを断るだけの度胸などない。だから、二つ返事で了承した。
「いや、もういいんだ。キズナが一緒に暮らしたいっていうなら、僕は賛成だよ」
「えへへ」
キズナは僕に身を寄せてくる。僕もキズナの体を受け止めるが、アカリさんの視線を横に感じて、慌てて身を立て直す。
「ありがとうございますぅ」
アカリさんは缶ビールをいくつも開けて、完全に酔ってしまっているようだった。酔うと無口になるタイプのようで、先ほどから部屋は静寂で満たされていた。
「そういえば、さっきからアカリさんの携帯で何やってたの?」
問うと、キズナはアカリさんの携帯をよこしてくる。
「これ、アカリさんが昔やってたブログなんだって。すごいでしょ」
それはどうやら大手サービスを利用した匿名ブログのようだった。しかしほとんど文字はなく、かわりにぎっしりと食べ物の写真が貼り付けられている。特に、ケーキや果物などスイーツ類の写真が多いようだ。カテゴリ分けなどもされておらず、とても他人に見せるためのものとは思えない。
「どうしてこんなブログを?」
「わかんない。ねぇアカリさんどうして?」
テーブルに突っ伏していたアカリさんは鈍い動作で顔を上げ、虚ろな目で口を開く。
「それはぁ、記録なんですよぉ」
「記録って、食事の写真ばかりじゃないか。ダイエットでもしてたの?」
「いえ、親とか友達に頼んで撮らせてもらってたんですぅ。わたしが拒食症だったころですねぇ」
「拒食症って食べられなくなるやつだっけ?」
キズナは好機の眼差しで尋ねてくる。僕がどう答えるべきかと迷っていると、
「そうですよぉ。中学生くらいのときにそんな風になっちゃってぇ」
当の本人は、気にする様子もなく万遍の笑みで答える。
「すごいなぁ。ねえ久世さん、一緒に見ようよ!」
キズナはますます興味津々で、僕の目の前に携帯を広げ、過去の記事を漁り始める。こういうプライベートな問題はあまり触れないほうがいいのではないかと思ったけれど、アカリさんも見てほしそうに、期待の眼差しで僕を見ている。仕方なく、キズナと一緒に写真を眺めることにした。
誰かの手作りであろう料理や、豪華に盛り付けられたレストランのランチ、コンビニ弁当の中身までもが、無秩序に並べられている。その中でもやはりケーキや果物などスイーツの写真が目立っていた。その量もさることながら、他と違って様々な角度からの外観、ものによっては半分に切った断面の様子までもが載せられている。まるでプロのカメラマンのようで、思わず感嘆の声が漏れた。
キズナも気持ちは同じなようで、先ほどからすごいすごいとアカリさんを褒めたたえている。
「そういう写真を撮るのはぁ、わたしの趣味だったんですぅ」
アカリさんは缶ビールをさらに煽りながら、得意げな笑みを浮かべる。食べることができなかったのに、料理を撮るのが趣味だったとは面白い。いったい、どういう心理だったのだろう? 好奇心が湧き上がってくるが、さすがに堂々と聞くのは憚られる。
いつも空気を読まないキズナが同じ質問をしてくれることを期待したが、キズナは写真に対する感想ばかりを口にして、それ以上のことを気にしてはいないようだった。
「面白かったけど、しばらく更新されてないね」
過去記事をほとんど漁り尽くした頃、キズナがぽつりと呟いた。キズナの操作を覗き見るかたちだったので気づかなかったが、たしかに最新記事は2年ほど前の日付になっている。
「急に熱が冷めちゃったんです。うーん、わたしがネットゲームを始めた頃かなぁ。わたしもあんまり覚えてないんですけど、数年間欠かさず写真を撮ってたのが、今思うと嘘みたいですよぉ。かわいいから撮ってたような気がするんですが、わたしそんな几帳面じゃないですし……。ただあのときは本当に楽しかったんだと思いますよぉ……。うまく、思い出せませんけど」
そうしてアカリさんは倒れこむように机に突っ伏し、ぴくりとも動かなくなる。僕とキズナはしばらくその様子を見守っていたが、やがて穏やかな息づかいが聞こえ始め、眠ってしまったようだった。
キズナはすかさず立ち上がると、アカリさんの肩に毛布をかける。そうして、僕に向かってはにかむような笑みを浮かべるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます