04 さっき、誰かと話していたね?
見覚えのある遊園地に立っていた。
いつだったか、母さんと遊びに来た場所だ。すぐそばにはメリーゴーランドがあって、にぎやかな音楽と共にくるくると回転している。向こうの方には電飾が豪華に取り付けられた観覧車が見える。
休日なのだろうか、人通りは多い。どこかの親子連れが手をつなぎながら、僕のすぐ隣を通り過ぎていった。
人ごみの中、僕は立ち尽くしている。
どうして僕はこんな場所で一人きりになっているのだろう? 母さんはどこへ行ってしまったのか。さっきまで一緒にいたはずなのに、視界に入るのは見知らぬ人ばかり。
こうなってしまった理由を探そうと、記憶を遡ってみる。けれど頭の中は霧がかかったように霞んでいて、何一つ手がかりを得ることはできない。
ふと、人ごみの中に見知った後ろ姿を見つけた。小学校の頃に仲が良かった男の子だ。卒業してからはすっかり会う機会がなくなった。その背中は成人した男のものだったが、僕にはなぜか、それが間違いなく彼のものであることがわかった。
一人ぼっちで不安だった僕は、すぐにその後姿を追う。僕のことを知っている人と話せば、少しでも気がまぎれるだろうと思ったのだ。
背中に呼びかけると、彼はすぐに振り向く。少し雰囲気が変わってはいるが、その顔は確かに僕の知っている顔だった。
――ドスッ
突然、鈍い痛みが腹部を襲う。彼が右拳を、僕のミゾオチめがけて放ったのだ。僕は咄嗟のことに避けることができず、襲い来る痛みに悶えながらその場にひれ伏す。彼は何事もなかったかのように、僕を無視してどこかに行ってしまう。
どうして……。
激しい痛みのせいで、声は出ない。胃が痙攣し、内容物を地面へぶちまける。ようやく落ち着いた頃には、彼の姿は完全になくなっていた。
よく見ると、辺りの人間は皆、僕の見知った顔だ。
学生時代に仲の良かった人たち……。
クラスも全然違う、特に話したこともない人たち……。
皆僕のミゾオチを殴る。
彼らの拳は寸分たがわず急所へとめりこみ、僕は苦痛にうめく。こんなの全然へっちゃらだぞと、作り笑いを浮かべて見せても、彼らは僕が痛みで立ち上がれないのを見ると、何事もなかったかのように立ち去っていく。
そうして目が覚めると、どこかのホテルにいた。
ベッドから飛び起きると、隣のベッドには風呂上りの髪をドライヤーで乾かす母さん。室内に充満する懐かしい母の香り。あわてた様子の僕をみて、怖い夢でも見たのかと笑う。
そうなんです。とても恐ろしい夢をみたのです。
「大丈夫よ、夢なんだから」
ああ、優しかった母さん! いつだったか、僕の誕生日にクマのぬいぐるみをくれた。あれを僕はどうしただろう? 中学生くらいまではずっと、肌身離さず持ち歩いていたのを覚えている。あのときの僕にとって大切な友達だった。本当に、大切な友達だったんだ。母が死に、伯父に引き取られてからも、ずっと部屋の片隅においていた。
たしか、キズナに壊されてしまったんだっけな。キズナは無茶苦茶に暴れまわって、僕の宝物をズタズタにしてしまった。まったくひどいことをするものだ。彼女は最後まで、僕があれをどれだけ大切にしているのかを知らなかった。悪意のない悪意。そういえば、キズナは今どこにいるのだろう。
「キズナって、誰なの?」
母さんは知らないだろうけど、僕たちは一緒に暮らしているんです。彼女、家出をして行き場がないんですよ。今頃僕がいなくて泣いているかもしれない。彼女はそんなことないって否定するかもしれないけど、本当は一人ぼっちで寂しい子なんです。だから僕が傍にいてあげないと……。ねえ、母さん。彼女がどこにいるのか知りませんか? 僕が迎えに行ってあげないと……。
「それじゃあなたは、その家出少女をかくまっているのね。行き場がない少女の弱みにつけこんで、好き勝手にしているのね」
どうしたんですか、母さん……。
「つけ入る隙があるというのはいいものだわ。相手の弱っている部分、もっとも精神的に脆い部分を刺激してあげれば、簡単にこちらに振り向いてくれるんだもの。だけどね、そんなやり方じゃ上手くいくわけないってことに、あなたは気づいている。私はあなたのそういうところを心から愛しているわ」
何を言って……。
「他人に優しいようで、実は自分のことしか考えていないあなたが好き。孤独に怯えながらも、必死に自分を大きく見せようとするあなたが好き。うまくいかないと分かっているくせに、失敗して傷つくあなたが好き。いつか来る終わりにビクビクと震えている……、そんな、不憫で無様なあなたが好き」
……………………。
黙り込む僕の横で、母は満面の笑みを浮かべて、明日の予定を決めようと言う。そういえば、僕たちは二人で旅行に来ていたんだっけ。今日は遊園地の人ごみがすごすぎて、少し疲れてしまったよ。明日はもう少し人のいないところがいいな。
しかし母さんはパンフレットの先頭にのっている、いかにも混んでいそうな施設に行きたいという。母さんの無邪気な笑顔をみて、僕は同意せざるをえない。疲れてはいるけれど、母さんが楽しんでくれているのなら、それだけで僕は満足だ。
****
ひどい息苦しさで目が覚めた。
まるでずっと息を止めていたかのようだ。心臓は高鳴り、肺は新鮮な空気を求めて激しく動く。服は寝汗でぐっしょりと重たくなっていた。
とても恐ろしい夢を見た。
死んだはずの母さんが出てきて、僕を罵倒する夢だ。
朝日がカーテンの隙間から部屋全体を薄暗く照らしている。
体を起こし深呼吸をするが、どうも気持ちが昂ぶっており、精神がざわざわとして落ち着かない。
部屋にキズナはいないようだった。そういえば、今日はアカリさんと漫画喫茶に遊びに行くと言っていたっけ。この間僕が誘ったときには拒んだのに、アカリさんからの誘いは断らなかった。キズナは僕のことが嫌いなのだろうか。
怖い夢を見たせいで、とにかく誰かと話がしたかった。誰もいない部屋に一人ぽつんといると不安になる。最近はずっとキズナがいてくれたから、こんな嫌な気持ちにはならなかったというのに。
鉛のように重い体を引きずりながらキッチンへと向かい、冷やしていた水のペットボトルを一気に煽る。火照った体に冷たい水が心地よかった。
寝汗で張り付いたシャツを着替えようとしていると、テーブルの上に置いてある一冊の雑誌が目に入った。
ああ、また嫌なものを見てしまった。
僕は余計に気分が悪くなる。
先日いつも通り仕事から帰ってくると、マンションの前でキズナが見知らぬ女性と話していた。短く切りそろえられた黒髪、少しつり目気味の目にはメガネを掛けていて、黒いスーツを身につけている。女性は腕を組んで車に寄りかかりながら、キズナに何かを言っているようだ。
僕はゾッとしながら物陰に隠れてしばらく様子を見ていた。すると、女性はキズナに何かを渡した後、そそくさと車に乗り込んで帰って行ってしまう。
キズナが大人と会話しているとなれば、間違いなく事情を知った関係者だろう。まさか連れ戻しにきたのか。
おそるおそる部屋に戻ると、キズナはネットゲームをするためにパソコンを立ち上げていた。特にあわてた様子もなく、まるで何事もなかったかのようだ。その背中に声をかける。
「さっき、誰かと話していたね?」
さりげなく聞いたつもりが、問いただすような強い口調になってしまった。僕は自分が思っている以上にひどく動揺しているようだ。キズナは、僕の前からいなくなってしまうのだろうか……?
「久世さん見てたんだ。さっきの人、わたしの母親だよ」
それはある程度予想がついていた。キズナが携帯電話で、たまに誰かに連絡を取っていたのも知っている。まさか住所まで教えてしまうとは思わなかったけど、今はそんなことはどうでもいい。
「それ、で……?」
僕は、その先が知りたい。自分の母親と、自分の意志で接触した。キズナは家に帰るつもりなのだろうか。所詮、僕にはキズナを拘束することなどできない。キズナが帰りたいと言ったら、僕たちの関係はそれで終わりなのだ。
「家に……、帰るのかい」
僕には必要なのに。君の笑顔が、君の声が。口に出すことの出来ない苦しみを、何も言わずに分かち合えるシチュエーション、家出少女とその保護人という関係が、僕にはどうしても必要なのに。
「どうして? わたし久世さんとここで暮らすのすごく楽しいよ。アカリさんともリアルで友達になれたし。帰るのは嫌だな」
「じゃあ、どうして……」
「久しぶりに顔を見たいって言われたから、会ったんだ。これもらったよ」
キズナはテーブルに何かの雑誌を置くと、画面に目を向け、普段どおりの調子でネットゲームを始めてしまう。
ああ。本当に、真剣に悩んでいた自分がバカみたいだ。キズナが家に帰りたがるなんて、そんなことあるはずないじゃないか。まったく僕は心配性でいけないな。一気に緊張の糸が解けて、ニタニタと笑みが止まらない。
「久世さん、気持ち悪い顔してる」
ネットゲームをしながら、横目で僕を見やるキズナ。その顔も、心なしかうれしそうだった。一緒にいることを、喜んでくれている。僕たちは本当に、一緒に暮らすべくして暮らしているのだなあ。幸せだなあ。遂にうれしさは頂点に達し、今度は声に出してけらけらと笑う。
「ほんとにうるさい」
キズナに注意され、こぼれる笑みを必死にこらえながら、キズナが母親から受け取ったという雑誌を見てみることにした。
それはどこかで名前を聞いたことがあるような情報誌の特別号で、全体を通して通信高校の特集をしている。
それまでへらへらしていた僕は、その中身を確認して愕然とした。おそらくキズナの母親がやったのだろう。ところどころに付箋が貼られ、マーカーで線引きまでされている。
先ほど見たときは黒いスーツを着て、いかにも仕事人間という印象だった。だからあの女性は、キズナのことをそこまで大切にしてはいないのではないか。キズナを強引に連れ戻さないのは、自分の娘を嫌っているからではないか。そう思っていたのに、目の前の雑誌には、紛れもない娘への愛情がぎっしりと詰まっている。
僕は胸の奥のほうが、きつく締め付けられるのを感じた。ページのところどころにある書き込みが、さらに僕の精神を攻め立てる。
“この学校は雰囲気が大変良い”
“面接は気軽に済み、用意はいらない”
あの母親はこれを、キズナに読んでほしくて書いたのだろう。読んでもらえることを信じて、キズナのためを思って書いたのだろう。
目に溜まった涙をぬぐいながら、さらにページをめくる。すると、とあるページが目に留まった。
『不登校のあなたへ。通信高校の5つのメリット』というタイトルで、他のページと違いほぼ全文がマーカーで線引きされているが、これじゃあマーカーの意味がない。
マーカーというのは周りと比べて重要な部分を強調するためのものだ。全部重要だからといって、全部に線を引いていたら意味がない。
そういえば、僕の母さんにも同じような癖があったっけ。小さい頃、体の弱かった僕に、母さんは健康関係の新聞記事を切り抜いて読ませてくれた。いつも僕が読む前にマーカーだらけになっていて、母さんに文句を言ったのを覚えている。
「いいじゃない、全部大切なんだから」
はにかむ母さんの笑顔が印象的だった。
「泣いたり笑ったり、今日はなんだか忙しいね」
雑誌を読みながらむせび泣く僕の横で、キズナが呆れたように呟いた。
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