02 雨の日

 僕とキズナが住むアパートを出て、三十分ほど歩くと伯父の家に着く。そこは垣根までよく手入れのされた一軒家で、表札の上には『便利屋・久世』と書かれたピカピカの看板が貼り付けられている。

 伯父はいわゆる便利屋を営んでおり、部屋の掃除からペットの世話、引越しの手伝いまでなんでも受け付けているのだ。といってもそこまで沢山の仕事が入ってくるわけでもなく、実際に従業員は伯父と僕の二人しかいない。基本的にはいつも利用してくれる固定客がいて、定期的に犬の散歩や庭の手入れなどをこなすのが日課になっている。


 今請け負っている仕事は、普段の仕事に比べてそれなりに大変な部類に入るものだ。オフィスの引越しを二人だけでこなさなければならない。

 オフィス自体は小規模なのだけど、伯父と相談して、昨日と今日の二日がかりでやるということなった。机やイスなどの大きなものは昨日すでに運んであるから、今日は書類の詰まったダンボールを運んだり、廃棄物の処理をしたりする予定になっている。


 合鍵で玄関を開けてリビングへと入る。


「あら、智くん。今日はずいぶんと早いのね」


 二人分のマグカップにコーヒーを入れながら、伯母がこちらを見る。どうやら朝食の最中らしい。伯父は片手で新聞を読みながら食パンをかじっている。こんがりと焼けた食パンの匂いが、僕の鼻を刺激した。


「もう朝飯は済ませたのか?」


 伯父は新聞から目を離すとこちらを向く。


「はい、さっき」


 あれこれと言われるのも面倒だったので嘘をつく。僕は朝に弱く、朝食は基本的にとらない。まだこの家で暮らしていた頃は、伯父に無理やりにでも食べさせられていた。しかし成人して、一人暮らしをするようになってからは一日二食ですっかり定着してしまった。


「そうか、しっかり栄養のあるものを取らないとダメだぞ。バランスも考えなくちゃいかん。若い頃から健康に気を使っておかないと、年をとってから必ずガタがくるからな」


 僕は空いている椅子に腰掛けると、朝食を摂る伯父の姿を見るともなしに眺める。

 最近急にシワが増えたんじゃないか? なんというか、すごく老けて見える。頬がたるんで、しみも多い。いつも何気なく見ていて、意識していなかったからだろうか。僕の記憶の中の伯父は、もっと若くて活発な男性だった。

 生まれたときから片親だった僕は、母が病死すると一人になった。当時の僕はまだ中学に入ったばかりで、独力では生きてゆけない。親族での話し合いの結果、母の兄である伯父が僕を引き取ることに決まった。伯父夫婦は子供に恵まれず、年齢的にも諦めかけていた時期だったから、僕は彼らの子供役として歓迎された。

 伯父は大学時代に起業して成功したエリートだったが、僕の高校卒業が近づくと会社経営を他人に任せ、この『便利屋・久世』を運営し始めた。いつか聞いた話では、地元に根ざし、直接人の役に立って感謝されるような仕事をすることが、伯父の子供の頃からの夢だったという。

 一方の僕は、中学・高校と不登校を繰り返し、勉強もせず、まったくの親不孝物だった。あの頃は、部屋にこもってネットゲームばかりしていた。そんなどうしようもない僕を、一緒に働かないかと誘ってくれたのも伯父だった。

 感謝してもしきれない人だから、できるだけ長生きをして、幸せに暮らしてほしいと心から思う。


****


 オフィスの引越しを順調に終わらせ、帰路についた頃にはすでに日が暮れ始めている。二日がかりの引越し作業はなかなかの重労働で、伸びをすると腰の辺りが鈍く痛んだ。

 帰り際、伯父に夕食を誘われたが、用事があるからと断った。久しぶりに伯母の手料理を味わいたかったけれど、部屋で待っているキズナのことを考えるとそうもいかない。キズナはいつも、置いてある僕の財布から勝手にお金を抜き取り勝手に食事をとっている。けれど、夕飯だけは一緒に食べるというのが僕たちの暗黙のルールとなっていた。


 伯父の家を出てしばらく歩いてから、ふと顔を上げる。

 そこに、キズナが立っていた。


「散歩してたの。来ちゃった」


 心臓が大きくドクンと鳴ったのがわかった。冷たい汗が背筋を流れる。僕は後ろを振り返り、辺りに人がいないことを急いで確認するが、幸いなことに誰にも見られてはいないようだった。

 これまで僕は、キズナのことが伯父に知られないように細心の注意を払ってきた。それはキズナも知っているはずなのに、どうしてこんな所まで来たのだろう? そもそもキズナには詳しい住所を教えていない。もし、伯父と付き合いのある人にでも見られて、僕とキズナの関係がバレたらどうなると思っているんだ?

 今すぐ問いただしたかったけど、目の前の少女は純粋な笑顔を振りまいて、僕の手を握ろうとしてくる。本人は、ただ僕を迎えに来たつもりなのだろう。


「あはは、久世さん。すごい顔してるよ」

「どうしてここがわかったんだい?」


 僕が少し強めの語気で問うと、


「さっき部屋の中でね、久世さんが仕事で使ってる封筒を見つけたの。そこに地図が書いてあったから、驚かせようと思って」


 そう言ってニヤリと笑う。キズナに腹を立てていた僕は、そんな言葉だけで、なんだかうれしくなってしまう。まったく僕という人間は、単純な生き物なのだ。


「本当にびっくりしたよ。心臓が止まりそうだった」

「えへへ」


 キズナは無邪気な笑みを浮かべ、僕に体を寄せてくる。

 それから二人でしばらく歩く。


 アパートの少し前まで来て、突然キズナが立ち止まった。


「ここ、覚えてる?」


 キズナは僕の手からするりと離れると、道の端に立っている電柱に寄りかかる。


「わたしと久世さんが、はじめてあった場所だよ」


 日暮れ時、僕はオレンジ色に染められたキズナの顔をじっと見つめる。

キズナもまたこちらを見ているが、僕がすぐに答えないので少し戸惑っているようだ。

 少女の顔に、二ヶ月前に出会った孤独な少女の顔が重なった。


――ザアアアアア


 その日は一日中雨が降っていた。いつもどおり伯父の家から帰ってくる途中で、電柱によりかかる君の姿を見つけた。

 高校生くらいの外見。触れれば折れてしまいそうな弱々しい体躯と、雨で濡れた美しい黒髪が印象的だった。

 ビー球のように透き通った瞳が僕を見つめる。ふと目が合った。僕はなんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、すぐに目をそらす。

 急いでその場を立ち去ろうとするけれど、頭の中には、たった今見た君の、寂しそうな表情が焼きついている。


「そんなところに立っていたら、濡れちゃうよ……」


 震える声で、君に話しかける。


「……」


 君は一人ぼっちで、うつむいて、途方にくれているようだった。電柱に力なくよりかかり、雨に濡れるのすら気にはしていない。そんな君を見ていると、なぜだか僕の心はズキズキと痛み出した。胸が苦しく、呼吸は荒く。落ち込んでいる様子の君の前で、僕は金縛りにあったように動けなくなる。


 雨は相変わらずやむ気配を見せず、ザアザアと振り続けている。


「傘、いるかい……」

「……」


 君は答えない

 雨は相変わらずやむ気配を見せず、ザアザアと振り続けている。


「そこで何をしてるの……?」

「……行く当てがないの」


 よく通る可憐な声が僕の耳に届いた。君の声はしっかりとした輪郭を持っていて、それなのにどこか寂しそうだった。それで、僕はますます君という少女に惹かれはじめた。


 何か、僕にできることはあるだろうか?

 僕は、君の力になれるだろうか?

 君は、僕を求めてくれるだろうか?


 雨は相変わらずやむ気配を見せず、ザアザアと振り続けている。


「それなら……」


 雨は相変わらずやむ気配を見せず、ザアザアと振り続けている。


「うちに来たらどうだろう……」


――ザアアアアア


 雨の音だけが、僕たちを取り囲んでいる。君と僕は世界に二人きり、冷たく取り残されていた。君は一人ぼっちで途方にくれていた。僕はそんな君を見て、何とかしてあげたいと思った。だから僕たちは一緒にいなくちゃいけなかったし、これからだってずっと一緒にいるべきなんだろう。

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