キズナ行進曲
ころん
01 キズナ
もうすぐ夏も終わりだというのに、この暑さはなんだろう? じっとりとした空気が身体に隙間なくへばりついて、ひどく居心地が悪い。スーツの襟元を緩めながら腕時計を確認すると夜九時をまわったところだった。いつもなら風呂に入り終わって、仕事の疲れを癒しながらキズナとテレビを見たり、くだらない会話に興じたりしているはずの時間だ。
僕はキズナと過ごす時間が好きだった。だから早く目の前の玄関を開けて、ただいまと彼女に言いたい。彼女の笑顔を見て、彼女の声を聞いて、そうして明日からの生活に必要な活力を蓄えるのだ。それは間違いなく僕の心の支えになっていて、だから日々の生活を円滑に進めていくために、彼女は必要不可欠な人間なんだ。先ほどから家の中で耳が痛くなるほどの奇声を発している当の本人には、その自覚があるのだろうか?
この世のものとは思えないほどの甲高い悲鳴がしたかと思うと、ビニール袋を掻きむしる音が聞こえてくる。位置的に、買い溜めておいたトイレットペーパーに手をかけているのだろう。続けさまに今度は、大量の物が崩れる音。これはきっと、クローゼットの中身をぶちまけているんだ。あそこには僕の幼少期のアルバムや、母の形見など、いろいろ大切なものを仕舞いこんでいたのだけど、果たして無事でいてくれるだろうか。
扉一枚向こう側で起きている惨劇に意識を向けるのをやめ、重いまぶたを閉じる。僕はすっかり参ってしまっていた。彼女はいったい何が不満なのだろう。
キズナと生活するようになって、かれこれ二ヶ月近くがたった。その間、同じようなことは何度かあったが、その中でも今日は特別にひどい。ひどすぎる。やはり彼女は精神的に不安定なのだろうか? 最初は彼女との信頼関係が築けていないだけだと思っていた。だから彼女と沢山話をして、お互いのことを分かり合えるようになったら、きっと暴れまわって部屋の中をメチャメチャにすることもなくなるだろうと信じていた。けれど、いくら彼女と親密になったつもりでいても、今日のようなことが起きてしまう。きっと彼女は、心の奥の方のどこかが、壊れてしまっているんだ。
とにかく、暴れまわる彼女の声を聞き続けるのはつらい。つらくて、悲しい。
『我に七難八苦を与えたまえ』
そう月に向かって願った武将の話を思い出す。
自分を鍛え上げようとするその精神は尊敬に値するし、人は困難に直面することで成長していくのだという考え方を間違っているとは思わない。けれど誰だって、本当に七難八苦を味わえば、たまったものではないでしょう。僕にはもはや、目の前で起きている惨劇を笑い飛ばせるだけの気力も活力も、残ってはいないのだ。ただでさえ一日の労働で疲れ切っている。なのに、その疲れを癒してくれるはずの大切な人は、気が違ってしまっている。
そろそろ待ち続けるのも嫌になってきた頃だ。キズナの存在を無視して、このまま風呂場に直行してしまおうか? そうしたらキズナは僕に無視されたと思って、きっと深く傷つくだろう。所詮彼女は家出少女で、僕はそれを口実に少女を家に連れ込んでいる二十代半ばのロクデナシにすぎない。関係が一度壊れてしまえば、修復することは難しい。
そう、だから僕はさっきからこんな場所で、こんな時間に、一人きりで事が収まるを待ち続けている! ああ、かわいそう。かわいそう。
――ジャリーン
目を閉じて壁に寄りかかり、疲れきった体を休ませていたら、ガラスの割れる音が聞こえてきた。いよいよ彼女は食器戸棚の中にまで侵攻を開始したようだ。次々と食器が割れていく音はとても派手で、部屋の外までハッキリと響く。
これはさすがに、まずいんじゃないか? ついさっき事情を説明して帰ってもらった隣室の住人も、いよいよ見過ごせなくなるだろう。警察を呼ばれたらおしまいなのだ。もしキズナに捜索願が出されていたら、僕たちの関係はそこで終わってしまう。それだけは絶対に阻止しなくてはならない。
今の彼女と顔を合わせるのは億劫だったが、こうなってしまえば仕方がない。意を決して立ち上がると、音を立てないように慎重に鍵を開ける。電気が消えて薄暗い部屋の中、散乱した物につまずかないよう気をつけながら、忍び足でキッチンの方に向かう。キズナはこちらに背を向け、食器戸棚の前で熱心に皿を床に叩きつけていた。すでに息が上がり、小柄な肩が上下にゆれている。彼女の苦しみ、悲しみが、背中越しに伝わってくるようだ。
結局、すぐ傍まで近づいてみても、彼女は僕の存在に気づかなかった。彼女は次に割る食器を棚から探している。そうしていざ割ろうと振り上げたその両手を後ろから捕まえた。
キズナは振り返って一瞬硬直し、僕はその隙を逃さずにその手から食器を奪う。
「……怪我はない?」
「…………」
彼女は息を荒げながら、ひどく居心地の悪そうな目で僕のほうを見ている。その瞳はビー玉のように透き通っていて、とても綺麗だと思った。
僕は彼女の手足や体を触り、切り傷やかすり傷がないかを確かめる。彼女は普段どおりの裸足だったが、足の裏にも傷はない。運よくガラス片を踏まなかったのだろう。どこにも怪我がないことを念入りに確認してから、僕はホッと胸をなでおろす。
「…………」
彼女は何も言わずに動かない。
彼女にどういった風に話しかければいいのかわからない。
「ほら、髪に埃が付いている。僕も小まめに掃除するほうじゃないし、君も家事なんてまったくしないからな。きっとあちこち埃だらけだったんだろうね」
「わたし……」
「怪我がなくてよかったよ」
僕は彼女を励まそうと、できるだけ明るい声で言う。
「この、君がまさに割ろうとしていたお皿、覚えているかい? 君と一緒に暮らすようになったばかりの頃に、食器が足りなくて買ったんだ。デザインは君が選んだんだよ。ほら、この平らなところに、有名なキャラクターが付いてるやつ。覚えてる?」
彼女が無言で頷くと、その頬を伝って涙が地面に落ちた。
「……ごめんなさい」
「いいんだ」
それは僕の本心だった。キズナが何を考えて犯行に及んだのかはわからない。もしかしたら僕を困らせるためにやったことなのかもしれない。精神的な不安定さを抱えているのかもしれない。
だけど、そんな君が僕は好きだ。弱さを抱えている君が、僕は好きだ。君と一緒にいられるなら、それだけで僕は何もいらない。
埃まみれのキズナが風呂に入っている間、僕はグチャグチャにかき回された室内を掃除することにした。幸いなことにパソコンやテレビなどの精密機器類は無事で、割れた食器を片付け、棚の中身を戻した頃にはほとんど元通りの状態になっている。
破損した物も当然あって、それだけでゴミ袋一杯分にはなったが、想像していたよりも被害は少ないようだった。駄目になった日用品はまた買いなおせばいい。あとはキズナが元気を取り戻してくれさえすれば、また今までどおりの生活を送ることができるだろう。
僕は軽くため息をつくと、まだ手をつけていないクローゼットの整理へと向かった。
クローゼットの前にも案の定、様々なものが散らばっている。中に入れてあったものの大半は、このアパートに越してくる時、叔父の家から持ち運んできたものだ。その中には僕にとって大切な物もあった。
僕が小さかった頃、母さんがまだ生きていた頃のなつかしい思い出たち。幼少期のアルバム、何かの懸賞でもらった絵本、母に頼み込んで買ってもらったキャラクター物の帽子。
それらに紛れて、床に転がるクマのヌイルグミをみつけた。にしめた感じの、茶色いクマのヌイグルミ。首のところが醜く破けて、中から真っ白な綿が飛び出している。
僕はそのヌイグルミに見覚えがあった。名前は『サブロー』。小さい頃に死んでしまった母さんが、僕の誕生に買ってくれたヌイグルミ。
手にとってよく見てみると、醜く破けた首は今にもとれてしまいそうだ。キズナが乱暴にしたせいで、劣化した部分がちぎれてしまっている。
しっぽの根元についたタグには、油性ペンでデフォルメされたクマのマークが書かれている。これは、母に書いてもらったものだ。母の書くデフォルメされた動物たちが、僕は大好きだった。だからこのときも、仕事で忙しい母に無理を言って書いてもらったんだ……。
――バタン
クローゼットの中身をあらかた元に戻したところで、キズナが風呂場から出てきた音がした。そういえば、夕食の時間はとっくにすぎているというのに、僕たちはまだ食事をとっていない。
キズナはお腹を空かせているだろうか? 僕は一連の出来事で疲れきっていて、ちっとも食欲がなかったが、暴れまわっていたキズナは空腹かもしれない。美味しいものをたくさん食べれば、きっと彼女も元気を出してくれるだろう。そうしたら、今日のことはキレイサッパリ忘れて、何か他の、もっと楽しい話がしたい。キズナが最近はまっているネットゲームの話でも良い。なんでもいいんだ。
ああ、キズナ。
早く体を拭いて髪を乾かして僕の前にあらわれてほしい。
君と過ごす時間が、心のそこから好きなんだ。
僕は首の裂けたヌイグルミをゴミ袋につめると、食事を作るためにキッチンへと向かった。
****
テレビを見ながらキズナとだらだら会話をしていたら、いつのまにかソファーで寝てしまっていたようだった。カーテンの奥はわずかに明るくなり始めているが、室内はまだ暗い。
机のほうを見ると、キズナはデスクトップパソコンの画面を凝視しながら、熱心にキーボードをタイプしている。起きたことを知らせようと上半身を起こすと、薄い毛布が滑り落ちた。おそらく、キズナが僕のためにかけてくれたのだろう。
薄暗い部屋の中、キズナのあぶらぎった長い髪は、ディスプレイの光でギラギラと輝いて見えた。肩までたれた美しい髪なのだから、もう少し衛生的にすればいいと思うのだけど、本人はなかなか風呂に入りたがらない。部屋の中をグチャグチャにして埃まみれになってから、すでに丸三日がたっているが、ひょっとして風呂に入ったのは、あのときが最後なんじゃないか?
彼女の瞳は、画面上で行われているネットゲームの戦闘に集中しており、僕の気配に気づく様子はない。こっそりと、その横顔を眺めてみる。それは僕の知っている彼女の顔だった。三日前のような恐ろしい顔ではない。
あの件について彼女は何も言わず、僕自身も特に問いただすつもりはなかったので、僕たちの間ではまるでなかったことのようになっている。これまで何度かあった彼女の暴走の理由についても、僕は一度も詮索したことがない。その話題を口にしたら最後、僕たちの関係はそこで終わってしまうような予感がしていたし、仮に話を聞いたところで、僕に解決できる程度の問題だとは思えないからだ。
二ヶ月間の経験則から、彼女は一度暴れまわると、その後しばらくは落ち着きを取り戻すことがわかっていた。だから、彼女と穏やかな日々を送ることができる今を、精一杯大切にしていきたい。どれだけ頑張ったって、永遠に一緒にいられるわけじゃないんだ。先のことばかり気にしても仕方ない。重要なのは、今だ。
部屋の電気をつけようと立ち上がる。変な体勢で寝ていたせいで背中の辺りが痛んだ。
「久世さん、起きたんだ」
キズナがディスプレイから目を離しこちらの方を向く。 寝間着の胸元がはだけていて、僕はついついそちらを見てしまう。しかし、キズナは気にする様子はないようだ。
「おはよう……。いつのまにか寝ちゃったみたいだ」
「あはは、びっくりしたよ。話をしてたら、いきなり寝息が聞こえてくるんだもん」
僕は昔から、眠気に襲われて気が付くと朝ということがよくあった。子供の頃はそれで風呂に入りそびれて、よく母さんに怒られたものだ。
「また徹夜でゲーム?」
「ネトゲは日が沈んでから昇るまでが本番なんだよ」
キズナはそう言ってクスクスと笑う。
彼女にネットゲームのやり方を教えたのは僕だった。出会って間もない頃、部屋にこもって退屈そうだった彼女に、僕が普段からやりこんでいるネットゲームを勧めたのだ。彼女はそれにすっかりハマりこんでしまって、僕が仕事で家を留守にしているときなど、ずっとパソコンの前に張り付いている。徹夜はさすがに体に良くないけれど、ネットゲームをはじめて、彼女には間違いなく笑顔が増えた。それは本当に喜ぶべきことで、だから彼女にネットゲームを勧めてよかったと思う。
「わたし71レベになったよ。さっきのクエストでレベルがあがったの」
キズナは誇らしそうに胸を張る。
そうか、もう71レベルか。はやいなぁ。あと数週間たてばカンストの75レベルに届くだろう。このネットゲームはサービス開始からしばらく経っていて、レベルがカンストしている人は大勢いる。そして、実は75レベルで入場できる大規模ダンジョンがこのネットゲームの一番のハマりどころなのだ。
僕は前々からそのダンジョンにキズナと一緒にもぐる計画を立ていて、キズナのレベルが上がるのを心待ちにしている。本当はレベリングにもう少し時間がかかると思ってたのだけど、このペースでいけば近いうちには夢が叶うだろう。
「ねえ見て。アカリさんがまた回復の順番間違えて、盾さんが死んじゃった」
ディスプレイを眺めながら、キズナは楽しそうに笑う。
キズナの話によく出てくるアカリさんというのはプレイヤーネーム『*akari* 』のことで、レベルが近く、よくパーティーを組んで一緒にクエストを消化しているらしい。
僕はゲーム内で友達を作るのにだいぶ苦労した記憶があるのだけど、キズナはあっという間にアカリさんと仲良くなってしまった。すごいことだと思う。僕には到底真似できない。
****
いつもならまだ寝ている時間だけれど、今請け負っている仕事がやや特殊なので、いつもより早めに家を出ることにした。キズナとネットゲームについて話をしながら、身なりを整え、出勤の準備をする。
玄関で靴をはいていると、キズナが廊下の方に出てきた。
「今日はいつぐらいに帰ってこれるの?」
「わからないけど、夕方までには帰ってくるよ……」
「そう」
玄関を開けるとすでに朝日が昇りきっており、薄暗くて分かりにくかったキズナの全身があらわになる。年頃の女の子らしくない華奢な体は、触れれば折れてしまいそうだ。あぶらぎった長い髪と不健康そうな肌の色が、やけに強調されて僕の目に映った。
キズナは眩しそうに手をかざすと、振り返り、部屋の方へと戻っていこうとする。おそらくこれから眠るのだろう。
「あのさ……」
その後姿に声をかけた。キズナは振り返る。
「なに?」
「……できるだけ早く帰ってくるよ」
キズナは無言でうなずくと、少し気だるそうに薄暗い部屋の中へと消えていった。
「……いってきます」
玄関に鍵をかけ、僕は出勤先である伯父の家に向かって歩き出した。
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