第2話 夜啼をして道徳
1
私は脳が壊れている。
こんなに沢山の人がいて、こんなに沢山の物があって。ある人は同じ物を求める。そうでない人は違う物を欲する。列を作って、隣に並んで。重いものを探す人と、軽いものを選ぶ人と。あっちに行った人はこっちに行った人のことを知らない。こっちに行った人はあっちに行った人を感じない。
でも私は止まるだけ。どこにも行けない。あの人が欲しいものは私は欲しくない。この人が求めるものは私は求めない。あっちに行こうがこっちに行こうがまったく同じ。うろうろしても等しく、きょろきょろしても変化なし。物より人のほうが多いのに。人より物のほうが軽いのに。
ずっとずっと具合が悪い。私の身体の中で痛くないところは脳だけ。
脳には痛覚がない。だから痛みを感じない。脳が痛い、というのは厳密には間違っている。だけど脳が痛い、と感じるのは脳。その場合、やはり脳は痛がっているのだろうか。脳が痛い。そう思うのは脳なのに。でも脳では痛みを感じることが出来ない。
つまり、私の脳が壊れているだけだった。脳が壊れているから何をやっても上手くいかない。学校に行くだけですごく時間がかかってしまう。
いま私がどこにいるのかわからなくなる。家を出てどっちが駅なのかわからない。駅とは何なのかわからない。電車に乗る方法がわからない。電車がどれかわからない。定期を探すのにすごく時間がかかる。定期がどのくらいの大きさだったかわからない。
そうしているとどんどん暗くなってくる。明るくしていたものがいなくなって、違う色のものが空に浮かぶ。あれは何だろう。気になって追いかける。でもあの黄色いものは私のことが嫌いみたいでちっとも止まってくれない。手を伸ばしても届かない。すごく遠い。あんなに大きいのに近くない。
哀しくなってくる。私のことを好いてくれない。誰も私のことを気にしてくれない。周りを見渡す。どこなのかわからない。とぼとぼ歩いてみても景色が変わらない。私に同じ景色を見せて迷わそうとしている。家に帰らせまいとしている。
だから私はまた哀しくなる。私がいけないのだ。私がいけないから独りぼっちにさせる。私を寂しくさせれば私がいなくなりたくなる。いなくなる?
どうすればいなくなれるのだろう。ずっと遠くまで歩いてみる。疲れても歩く。電車とかバスとかはどこにあるのかわからないからそれを探すだけでもっと遠くに行ける。
でもそこにも誰かいる。だからいなくなれない。駄目だ。歩いてもいなくなれない。
隠れてみる。私の部屋には押入れがある。その中のものを出して入ってみる。木が湿ったにおいと埃のにおい。気持ち悪くなってくる。両手で鼻を塞ぐ。代わりに口で息を吸う。すぐに疲れる。鼻と口の両方でしないと肺が苦しくなる。足りない。もっと欲しい。
また変なにおいがして襖を開けてしまう。隠れられない。いなくなれない。失敗だ。
それに私がここにいてもお姉ちゃんが捜しに来る。私がここにいると中に入っていたものが外に出て邪魔だから注意しに来る。これを仕舞って外に出ろ、と言う。怒ってはいない。呆れている。馬鹿な妹だと思っている。かくれんぼなんかする年ではない。片付けるのが面倒だから早く止めろ、と言う。
私は泣きたくなる。外に出るとお姉ちゃんはもういない。自分で片付けて、という声が遠くで聞こえる。私は泣いてしまう。お姉ちゃんに気づかれないようにタオルで顔を覆って泣く。タオルがぐちゃぐちゃになってもまだ泣き止めない。
哀しいのだ。お姉ちゃんは私のことなんかどうでもいい。だから私が泣いていても心配してくれない。理由を聞いてくれないし慰めてもくれない。私はすごく哀しい。
だから私は死ぬしかない。死にたい。はやく死んでしまいたい。死ねばいなくなれる。
どうすれば死ねるんだろう。呼吸を止める。心臓を動けなくする。脳に衝撃を与える。頭から血を流す。手首を切ってみる。
でもどれも怖い。出来ない。私は私を殺すことが出来ない。やり方はわかるのに、私は私を傷つけてはいけないような気がする。痛いのは厭だ。血を見ると気持ちが悪くなる。献血を呼びかける人の近くを通り過ぎるだけで頭がぐらぐらする。
自然に死ぬのを待ってみようか。でも何年待てば死ねるのかわからない。きっとずっとずっと待ってなければいけない。そんなに待っていたらまた哀しくなる。哀しくなるのは厭だ。だから寿命まで待てない。寿命になんか頼れない。
そうだ。いい方法がある。これなら絶対成功する。大丈夫。私はいなくなることが出来る。
誰か殺してくれないかな。
2
姉の鵺路せりあが夜中仕事で帰れない。そういうときは姉の婚約者のところに泊まらせてもらう。ひとりで家にいてもいいのだが姉が心配性なのでひとりでいることを許してくれない。姉の婚約者が婚約者になる前からずっとそういう決まりになっている。
姉が決めた。だから逆らえない。今日は帰れないから、という言葉が合図になる。その日の帰りは違う駅で降りる。
「いらっしゃい。入って」
「お邪魔します」
「散らかっててごめんね。あ、それはいつものことか」
「シカさん、あのこれ」
本当は
「わあ、ありがと。最近ハマってるんだ。さすがせりあだね」
ダイニングテーブルの上に夕食が準備されている。時間を告げてあったのでそれにあわせて作ってくれてあったのだ。嘉然は姉と違って料理が得意でそのレパートリィも並みではない。今日は中華のようだ。辛そうなにおいがするので韓国料理かもしれない。
「いつですか?」
「そう、それなんだけど。ううん」
「え、決まってないんですか」
「僕はいつでもいいんだよ。もちろんいますぐにだってオーケなんだけどせりあがね。あいつ、そういうの気にするタイプでいろいろ考えてるらしいんだよ。だからせりあの意に沿うとこ見つかるまではまだ先かな。決まり次第教えるよ」
婚約してだいぶ経つのになかなか結婚式をしないと思ったらそういう事情があったらしい。婚約したはいいが、という状況になっていなくて良かった。ただでさえ姉はドライで、終日婚約指輪をしているくせに嘉然と実際に会うのは週に数回だと聞く。
食事を終えて片づけを手伝う。嘉然は手伝わなくていいといつも言うのだが、作ってもらった感謝の気持ちを示したくてそれを跳ね除ける。食器を拭いて棚に仕舞う。何度もやっているのでどこに何があるのかわかってきた。
「先にお風呂入る?」
「はい。じゃあ」
「あ、そうだ。せりあが置いてったんだけど。こういうの好きかな」
嘉然はテレビの横にあった箱を持ってくる。オレンジ色のリボンが付いており、いったん解かれた包装紙がまた丁寧に戻されている。姉がそんな細かいことをするとは思えないので嘉然がやったのだろう。姉のものだから例え箱や包装紙であっても勝手に捨てられないと思ったのかもしれない。
「なんですか」
「入浴剤だよ。泡が出たりいいにおいがしたりするみたい。僕が試したわけじゃないからわからないけどよかったら」
「でも、お姉ちゃんのじゃ」
「それがね。こないだだったかな、せりあがどっかからもらったらしいんだけど、あんまり気に入らなかったみたい。文句言いながら風呂から出てきたよ」
箱の中には星型やハート型の入浴剤の塊が入っていた。色が何種類もある。それぞれにおいが違うのだろう。全部で十個以上あった。
「いいんですか?」
「僕は要らないからね、どうぞ。せりあももう忘れてるよ」
しばらく悩んだ末、黄色い星型のものを選ぶ。においはレモンで溶けていくときに小さな泡が出た。嘉然には言わなかったが姉が気に入らなかった理由はすぐにわかった。
お湯が濁るのだ。透明感を保ったままレモウイエロウになったなら、姉はきっと気に入っていただろう。これをプレゼントした相手がトラブル解消やお詫びのために渡した物品だったから、さらに怒りが爆発したのだと思う。
浴室と脱衣場を遮っているドアには曇りガラスが填まっている。嘉然が脱衣場にいる。おぼろげに輪郭が捉えられるのだ。脱衣場には、洗濯機も乾燥機も水道もあるのでそれは仕方がない。いくら覗けないとはいえドア一枚隔てたそこに誰かがいると落ち着かない。しかも嘉然は扉越しに話しかけてくる。
「そこにシャンプーあった?」
「あ、はい。新しいの買ったんですね」
「あはは、そう思う? そうじゃないんだ。実はせりあがね、そこにあったの気に入ったらしくて持ってちゃったんだよ。そういうことされると困るって言ったら、代わりに新しいの買ってきてくれたってわけ。どうだろう。それでいい?」
「特にこだわりはありませんので」
「よかった。僕のとこ泊まるたびにいちいちシャンプー持ってくるのも面倒だもんね。あ、入浴剤どう? せりあもさ、何がいけなかったんだろうね」
「あの、すみません。そこにいられると」
「ごめん。もう出る? いつも早いね。せりあなんか二時間とか平気で入ってるよ」
嘉然が脱衣場の外に出た音を聞いたあと、鵺路はバスタブから上がる。実はまだどこも洗えていなかった。
3
走って走ってやっと着いたのに授業が終わってしまっていた。せっかく楽しみにしている数学だったのに。教室に入るともう誰もいなかった。授業ごとに移動があるので、この部屋は次の時間が空き教室なのだ。
開始のチャイムが鳴った。次の時間なんかどうでもいい。数学のためだけに走ったのだから英語なんて。廊下に出るとプレートが目に入る。そこから誰かが出てきた。
「授業はどうした?」
担任の
「すみません。あの」
「サボるな。早く行け」
際居が階段を下りていく。せっかく会えたのに。もう少し話がしたいのに。もっと叱ってくれればいいのに。際居は順位が上位の者にしか興味がない。学年首席の丘槻には毎日話し掛けている。それが証拠だ。あとは可愛い子。可愛くないと話しかけてくれない。
際居が受け持つのは、数学成績の上位二十人までに限られる。二十番以内に入らないと際居の授業が受けられない。だから一生懸命勉強した。他の授業を犠牲にして数学だけやり続けた。わからないところを際居に聞きたかったがそれは叶わなかった。担任だから名前くらいは憶えてくれていたが、そういえばクラスにいたね、と言われただけだった。知らないも同然。際居の目に留まるには絶対に二十番以内に入らないといけない。それを思い知っただけだった。
塾に行きたかった。数学の点数を上げるためだったらどんな遠いところにでも通うつもりだった。お金がないなら学校をサボってでもバイトするつもりだった。姉に相談したらお金くらい出してあげるから学校をサボらないで、と言われた。塾も探してきてくれた。有名な数学講師がいる。彼女に教わればどんなに数学アレルギィでもたちどころに治るらしい。その塾は市内にあった。
綺麗な人だった。数学の魔女、と呼ばれていたから年老いたおばあさんを想像していたのだがすごく若かった。丁寧に優しく教えてくれたのですぐにその先生が好きになった。点数もどんどん上がっていった。通ってから半年で数学の上位二十人に入ることができた上に、他の科目も点数が上がった。特別勉強した憶えはないのに。数学しかやっていなかったのに。
おかげで際居に声をかけてもらえるようになった。でもどうしても学校に辿り着けない。せっかく際居の授業が受けられるようになっても意味がない。
テスト前日は嘉然に頼んで泊まらせてもらえるようになった。朝は寝坊しないように起こしてもらって学校まで送ってもらえた。だからテストの日だけは学校に行くことができた。でもさすがに毎日送ってもらうわけにはいかない。姉にも迷惑だし嘉然も呆れているに違いない。嘉然は優しいから笑ってくれるけど、絶対にもううんざりだと思っている。
嘉然に嫌われないようにしなければいけない。嘉然の言うことには何でも従わなければいけない。姉にも逆らえない。姉が塾を探してくれた。姉がお金を払ってくれるから際居のクラスにいることができるのだ。姉が嘉然の家に泊まりなさい、と言えばそうする。姉が嘉然にドーナツを買っていきなさい、と言えばそうする。
終わりのチャイムが聞こえる。研究室の前にいれば際居が帰ってくる。そう思ってずっと待っていた。階段を上がったり下がったりする人がたくさん見える。移動なのだ。次の時間は現国だったと思う。際居が女の子と一緒に階段を上がってくる。みんな可愛い子ばかり。つい隠れてしまう。女の子が際居から離れたのを見届けてから近づく。
「何してるんだ」
「あの、先生。私」
「早く行ったほうがいい。僕に話があるならそれが終わってから聞くよ。とにかく授業には出て」
「いま話があるんです。だめですか」
「急を要するのか」
「はい」
嘘ではない。ずっと言いたくていた。これを言うために今日は学校に来た。迷って迷って走って走って。
「じゃあ仕方ないな」
際居の後姿に見蕩れてしまう。すごく背が高い。髪質は太めだが硬くはなさそう。とにかくカッコいい。どきどきするくらい声が低く、日本人とは思えないくらい脚が長い。学校にいる教員の中では断然若い。
職員室と保健室の間に小さな部屋がある。名前のない部屋だが主に生徒に説教をするときに使われる。または個人的で入り組んだ相談をするときにも。誰にも聞かれないから正直に話しなさい、という意図が教員側にあるということを示してくれている。
それだけでうれしかった。際居とふたりっきりで。しかもカギをかけた。
長机二つと椅子が五つ。辺の長いほうをあわせて机が設置されており、向かい合う形で椅子が二つ。他の三つは壁に背もたれをつけて並んでいる。
際居は笑っても怒ってもいない。際居は何を考えているのかわからない。それを知りたいのに。それを教えてほしいのに。
丘槻と一緒にいるときは笑う。女の子と一緒にいるときは楽しそう。
「なんだって?」
「私、どうしても学校に来られないんです」
「それはどういう意味だ」
「いじめとかじゃないんです。朝も起きれます。学校に行きたくないわけでもないんです。学校に行こうと思って家から出るとどっちに行ったらいいかわからなくなっちゃうんです。玄関にいるときはわかってるんです。扉を開けたらこっちに曲るって。でも」
「ふざけてるのか」
「違います。私本気で」
際居が息を吐く。呆れられてしまった。
重い沈黙。どうしよう。何を言えば。
でもきっと信じてくれない。誰も信じてくれない。嘉然は婚約者の妹だからお情けで話を聞いてくれるだけ。姉は血が繋がっているから仕方なく話を聞いてくれるだけ。際居は担任だけど単に担任なだけ。
際居がテーブルをこんこんと叩く。ビックリした。
驚かそうとしたのだ。わけのわからない生徒を威嚇したのだ。
「僕はカウンセラじゃない。確かに君は学校に来ない。単に行きたくないだけじゃないのか。そっちのほうを探ったほうがいい」
「行きたくない理由ってことですか」
「あるんだろ。気づいてないだけで。ああ、でもテストの日は来てたな。授業がつまんないんだ。それだけのことだな」
つまらない?
「僕の数学にも出ないし。まあ、あれだけ点が取れれば必要ないだろうけどな」
出ない?
必要ない?
「ちょっと調子に乗ってないか。明日からでいい。その態度を改めないともう一度ここで、違う趣旨で呼び出さなければいけない。わかったな」
際居が席を立つ。
「あの、先生。もうひとつだけ」
「明日にしてくれないか。明日きちんと授業に出たら」
「好きな人っていますか」
際居が振り返る。カギを開けようとした手を止める。何を考えているのかわからない瞳が射る。
心臓が破裂しそうになる。鼓動がどくどくうるさい。それを注意されるかもしれない。お前の心臓がうるさいから止めろ、と言うかもしれない。
そうしたら止められるだろうか。際居のためなら止められるだろうか。
「いない。それが?」
「いえ、あの、すみません。ありがとうございます」
急いで頭を下げる。際居は廊下に出る。
「早く出ろ。閉じ込めるぞ」
閉じ込める?
先生が?
「いまなら間に合う。授業出て来い」
鵺路はお辞儀して廊下を走る。階段を駆け上がる。際居が出ろ言うなら出る。つまらない現国も出たくなる。
好きな人いないんだ。
やったあ。
4
本当にいた。
区立図書館の二階に通い詰めているらしい。そこで閉館ぎりぎりまで勉強をして帰るということだった。クラスの人が大声で話していたから聞こえてしまった。
羨ましい。学年首席になれば、きっと際居も笑って話しかけてくれる。でも絶対敵わない。誰も敵わないのだ。丘槻はいつもほぼ満点だから。
結構背が低い。並んだことはないけど鵺路よりも低い。クラスの人は栄養が全部脳にとられているから、とか言っていたけど、脳の栄養はブドウ糖だけだからブドウ糖しか採っていないのかもしれない。
それにいつも両手の手首に包帯をしている。勉強のしすぎだということをわざわざ見せ付けている、とクラスの人は言っていた。でもそれなら片方だけに巻けばいいと思う。きっと両手が手首から取れるのだ。取れないように包帯で押さえている。だからいつも巻いている。勉強をたくさんするには性能のいい手があったほうがいい。消耗したら取り替える。
丘槻はいつもひとりでいる。友だちといるところを見たことがない。お昼になるとさっさとどこかに行ってしまう。朝から夕までずっとひとり。
だからあまり声を聞いたことがない。際居と話すときだけ声を出す。席が一番前だから顔もよく見えない。いつも何かに怒っているような顔だったと思う。
あんなに頭がいいのに。これ以上求めるものがあるのだろうか。せっかく際居が話しかけても適当にあしらっているように見える。
羨ましい。話しかけてもらえるだけで満足なのに。際居だって笑っている。
丘槻なら際居のことを知っているかもしれない。どうすれば聞き出せるだろう。
簡単。友だちになればいい。友だちになれば話してくれる。丘槻はいつもひとりだから、ひとりくらい友だちがいても文句は言わないと思う。もしかしたら欲しいかもしれない。
そう思って区立図書館の二階に行ってみる。隣に座りたかったのだけど空いていなかった。空いていたのはすごく遠くの席。なんとか手元が見える位置。
丘槻は数学の問題を解いている。問題を見てすぐにノートに式を書いている。すごい。もうできた。これならテストの時間も余ってしまう。それでいつも暇そうなんだ。手持ち無沙汰なんだ。
隣に座っている人がちらちら見ている気がする。なんだか厭だ。向こうに座っている人も見ている。何かいけないことをしたのだろうか。ここに座ってはいけなかったのだろうか。誰かのために席だったのだろうか。
あの席は座ってはいけないのにね。どうして座ってるんだろうね。知らないんだろうね。
でも机にも椅子にもそんなこと書いてない。あっちの人も見ている。
どうしよう。ここにいたらいけないのだ。帰れということなのだ。英語の勉強をしているだけなのに。英語の問題集を見てほしい。決していけないことをしているわけではない。英語ができないから英語をやっているだけ。
数学は?
数学をやれということなのだ。数学の点数をもっと上げろといっている。そうしないと際居は視界に入れてくれない。無視される。いないということになる。
いないのだ。いない。いなくなりたい。いなくなりたいなら死ねばいい。そうだ。死にたい。死んでしまえばきっと面白い。
大きな音がした。
シャープペンがない。みんな見てる。
お前は数学の点数が低い。だから際居は好きになってくれない。不可能だ。諦めろ。無理だ。お前には際居に近づく資格もない。常に満点の丘槻だけが相応しい。
知ってる。わかってる。言わないで。
「やっ」
またみんなが。
お前は頭が悪い。脳がおかしい。壊れているから満点が取れない。塾の先生も教え甲斐がないと思っている。伸びないから。いくら数学の魔女といえども脳が壊れているお前には手の施しようがない。
駄目だ。駄目だ。帰れ。帰れ。いなくなれ。
数学を操る際居には、数学の魔女こそが相応しい。
5
塾を休んでしまった。姉に何と言えばいいんだろう。謝りたいけど今日は姉はいない。嘉然の家にいるから。嘉然の家に泊まらなければいけないから。
丘槻にも迷惑をかけてしまった。すごく厭そうな顔をしていた。友だちになれないかもしれない。
「大丈夫? あ、起きないほうが」
「ごめんなさい」
「気にしないで。せりあに行き先聞いてたんだ。よかったよ。とにかく休んで。それとも何か食べる?」
「私って迷惑ですよね」
「どうして?」
嘉然はすごく意外そうな顔と声だった。
優しい。同情してくれているのだ。
「迷惑なんかじゃないよ。僕はせひあちゃんが大事だから」
「お姉ちゃんと婚約してなかったらどうですか。私なんかどうでもいいんでしょう?」
嘉然は困った顔をしてくれた。
「何かあった? 僕でよければ話聞こうか」
「お姉ちゃんに黙っててくれますか」
「言わないよ。僕だって秘密の一つや二つある」
「そうなんですか?」
「勿論せりあだって知らない。せひあちゃんも知らないだろうけどね」
時計を見たら夜だった。倒れる前も暗かったかもしれない。よく思い出せない。
嘉然はニッコリ笑ってくれる。
「学校に行きたいんです」
「行ってないの?」
「そうじゃなくて、その、道が」
「ああそっか。送ってってほしいってこと?」
「駄目ですか」
「駄目じゃないよ。実は通り道なんだ。だから全然平気。テストのとき以外でも乗っけてってあげるよ」
「いいんですか?」
「その代わり寝坊しないこと。ってこれはもう出来てるか。僕もさすがに遅刻はまずい。テストのときくらいの時間でいい?」
「はい、おねがいします」
「学校に辿り着けないんだよね。それはどうしてだろうね」
授業がつまらないから。
「ごめんなさい、その」
「いいよ。道は車に乗りながら確認してけば憶えるよ。ちょっとごめんね」
嘉然が額を触ってくる。
嘉然の手は大きくてひんやりしていた。
「やっぱり熱があるみたいだね。風邪かな」
「寒いです」
「服を着替えたほうがいいよ。汗が冷えたんだ」
「でも着替えは」
「せりあのが着れるよ」
嘉然は箪笥の中から服を出してくれた。見覚えのない服。これを身に付けている姉を見たことがない。
嘉然が部屋を出たのを見届けてから服を替える。姉の服を着るのは初めてではない。むしろ姉からお下がりもらうことが多いのでほとんどは姉が袖を通している。
でもこれは姉の趣味の服ではない。姉の趣味はもっと。
「着れそう?」
「あ、はい」
嘉然はドアのすぐ向こう側にいるらしい。声が近い。
いそいで服を脱ぐ。急かされているみたいでうまく着れない。サイズが少し大きい。姉と同じサイズが着れるはずなのでなんだか変だ。姉が太ったのだろうか。
「いい?」
「どうぞ」
嘉然が入ってくる。薬と水を持ってきてくれた。
それを口に流し込む。頭がぼんやりする。やはり熱があるのだ。ふらふらする。
「洗っといてあげるね。明日には」
最後まで聞こえなかった。
すごく眠い。
次の日は熱があって駄目だったけど、その次の日からは夏休みまでずっと学校に行くことが出来た。
ぜんぶ嘉然のおかげだ。嘉然の家に泊まらない日でも朝に迎えに来てくれた。姉はすごく朝が早いので会えないことが多い。
真似して図書館に行くようになってから丘槻と仲良くなれていると思う。クラスの人には、学年首席と仲良くなって爪の垢でももらうのか、と言って笑われた。でも爪の垢をくれてもどうすればいのかわからない。
丘槻は際居に話しかけられた内容を教えてくれるようになった。相変わらずとてもつまらなそうに話す。際居のことが嫌いなのだ。
「計算間違いしといて誰にも指摘してもらえなかったから八つ当たり」
「え、間違いなんてあった?」
「大丈夫? テスト明日だけど」
「頑張る」
夏休み前最後のテストでは五位になれた。いつも十七位あたりを平均にうろうろしていたのでとてもうれしい。
丘槻がこの調子でやれば、と言ってくれた。クラスの人にカンニングを疑われたけど、そんなことしていないので気にならなかった。
順位を張り出された日の放課後に際居に呼ばれた。数学研究室ではなくてあの部屋だった。職員室と保健室の間の部屋。一緒に入る。
カギが閉められる。向かい合って座る。
「もう平気みたいだな」
嘉然に送ってもらえるから。
「あ、はい。ご心配をおかけしました」
「どこの塾行ってるんだ」
塾の名前と最寄り駅を答える。際居はふうん、と言って頬杖をつく。窓の外を見ているみたいだった。
「そこ、数学の先生がすごく有名な先生みたいで」
「その先生と僕とどっちがわかりやすい?」
「え」
際居が椅子から腰を浮かす。立ち去るわけではなくて窓の前に立っただけだった。窓の外に何かあるのだろうか。教職員用の駐車場が見えるだけなのに。
どうしよう。正直に言うと塾の先生だけど、これを言ったら嫌われるかもしれない。でも嘘をついたらもっと嫌われるかもしれない。
際居の後ろ姿が見える。
「あの」
「今日も塾か」
「あ、はい。日曜以外は毎日行ってます」
「この調子で頑張れよ。オカヅキを追い抜く勢いでやってくれるとうれしい」
「オカヅキ君をですか」
「あいつ、相当天狗だからな。そろそろ蹴落とさないと卒業しちまう」
際居が椅子に戻ってくる。長い脚を組む。口元が上がる。
笑顔だとわかるまでに時間がかかった。
「ヌエジさん。期待してるから」
「は、はい」
「あとオカヅキとあんまり仲良くしないほうがいい」
「え、あの、それは」
違うのだ。際居のことが知りたいから仲良くしていただけで。
もしかしたら際居は丘槻のことが好きでないのかもしれない。天狗とか蹴落とすとか、それはあまりいい言い方ではない。
どうしよう。せっかく仲良くなってきたのに。
際居が厭だと言うなら丘槻とは仲良くしないほうがいい?
際居はまた笑う。すごく優しい顔だった。見ていたいけど見ていられない。
心臓が破裂しそう。咽喉が苦しい。眼を逸らしてしまった。
視線はまだ感じる。手に何かが触れた。暖かくて大きな手。
際居の手だった。
「日曜あいてる?」
6
「はじめまして、カシカです。て知ってるかな」
全然イメージと違う。姉のタイプから考えて絶対に年上だと思っていたのに。目の前の男には余計なものをすべて削ぎ落として必要最低限の部分だけしかない。
過剰装飾ということばを身に纏っている姉にしてはおかしい。いままでだってこんな誠実を絵に描いたような大人しいタイプはいなかった。間逆と言ってもいい。軽いか重いかで言ったら断然軽いほうが好みだと。
「僕の顔に何かついてる?」
「お姉ちゃんより」
「三つかな。とにかく下です」
「でも」
「玉の輿のこと?」
「あ、えっと」
嘉然は柔和に微笑む。すごく若く見えた。いまここに姉はいないから、姉に向けて笑ったわけではない。
「僕から申し込ませてもらったんだ。だから」
「い、いえ、あのすみません」
「僕こそごめんね。お金持ちのお坊ちゃんとかじゃなくて」
部屋の奥から姉の声がする。早く入って来い、と急かしている。嘉然は靴をきれいに揃えてから上がる。あっちこっち行った姉のヒールまで揃えた。
「僕が主夫をしようかと思ってる」
「それがいいと思います。あの、お姉ちゃんは」
「わかってるよ。第一、せりあのほうが稼ぎがいい」
ちょっとビックリした。嘉然はせりあ、と呼び捨てにした。姉のほうが年上とかそういうことではなく。
「せひあちゃんは高校生?」
「この春三年に」
「朱雀なんだって? すごいなあ」
姉が呼んでいる。滅多にキッチンに立たないから鍋の場所も知らないのだ。嘉然が苦笑する。代わろうか、と言ったら姉は口を尖らせる。観念したようだった。
そしてワインを買いに行く、と慌ててまた出掛けた。
「いつもこう?」
「え、家は」
「残念だけどデートは外なんだ。家族の君にも会えたし、今日から解禁になってくれればありがたいんだけど」
嘉然はすごく手際がよかった。姉が帰ってくるまでにほぼ夕食は完成していた。
食事中ずっと姉が仕事の愚痴を言って嘉然がそれをうんうんと聞いていた。姉は少量で酔ってしまうのにたくさん飲むのが好きなのだ。そのままソファで爆睡して二日酔いに苦しむ、というお決まりの末路を忘れている。
今日もそれ。
「かけるものとかある?」
部屋からタオルケットを持ってくる。嘉然はベッドに運ぼうとしたがやはりうまくいかなかったようだ。体重の問題ではなく姉は抵抗する。実は眠っているふりかもしれない。
「デートは大変でしょう?」
「ううん、どうかな。もう慣れちゃったかな」
食事の片付けもあっという間だった。手伝おうとしたときにはすでにテーブルはきれいになっていた。この能力が目当てで姉が嘉然のプロポーズを受けたとしたら。
形だけ?
「勉強?」
「あ、でも」
「いいよ。前途有望な受験生の邪魔はしたくない」
嘉然はいそいそと帰る支度をする。姉に書置きをしているようだった。
「渡しておいてくれるかな」
「メールが」
「どうせ返事くれないからね。こっちのほうが」
「泊まっていかないんですか」
「君に迷惑だよ。初日はこのくらいで」
酔っていなかったのか、嘉然は車で帰った。書置きを何となく読んでしまった。
特に普通。むしろその普通さが怖かった。事務的すぎる。今夜は帰ることにした。ただそれだけ。姉が起きたときに眼に入る位置に置いておいた。
それ以上、その紙に触れていたくなかった。
7
土曜の夜は全然眠れなかった。寝坊するのよりはずっといい。
鏡で確認する。姉に最終チェックをしてもらって外に出る。ヒールが高くてうまく歩けない。駅の駐車場に際居が立っているのが見える。約束の時間よりだいぶ早いのに。
「すみません」
「可愛いね。誰かわからなかった」
際居はいつもよりさらにカッコいい。際居の車は二人しか乗れなかった。助手席に座るしかない。
緊張してシートベルトを忘れてしまったのを笑われた。でも全然厭ではなかった。
「行きたいところ決まった?」
「あの、先生は?」
「ヌエジさんが決めていいんだよ」
実は考えてある。ずっとずっとそれだけを考えていた。
ぼうっとしていることが多いことは知ってるけど、際居に呼び出されてからはさらにぼうっとしていたと思う。丘槻にも言われた。
「プラネタリウムがいいです」
「いいよ。どこかわかる?」
場所を説明した。地図が書けそうなくらいしっかり調べたのだ。車を運転する際居に見惚れてしまう。顔がにやけてしまう。
これはデートと思っていいのだろうか。
「星好き?」
「はい。星座が好きで」
「占いも?」
「それよりは星座の物語のほうが」
「へえ、知らないな。なんか話してよ」
思いつく限り話した。本当は際居の話を聞きたかったんだけどうまくかわされている気がする。もう少し仲良くならないと聞けないのかもしれない。
丘槻は顔に書いてあるといっていたけどその文字が見えない。じっと見ていたけど文字なんか浮かび上がらない。
「あの、好きな人のことなんですけど。オカヅキ君から聞いて」
「オカヅキとは関わらないほうがいいんだけどなあ」
「あ、ごめんなさい。でも好きな人がいるって」
「その話はしたくないな。いまはヌエジさんと一緒にいるから」
また誤魔化されてしまった。プラネタリウムは楽しかったけどそれが気になってあまり集中できなかった。
レストランに入る。薄暗いのですごく入りにくい。カップルしかいない。
「そんなに気になる?」
「いるんですよね?」
「オカヅキが何言ってたのかは知らないけど、それは言いがかりだな。ヌエジさんはオカヅキが好きなんじゃないの?」
「違います。私は」
「じゃあ僕のことを信じてよ。オカヅキなんかじゃなくて」
食べ方がわからなくて材料もよくわからないものがどんどん運ばれてくる。際居はすごく慣れている。
丘槻の言う通りだ。どうしても丘槻の方を信じてしまう。どうしてだろう。際居のほうが好きなのに。いまは際居と一緒にいるのに。
「夏休みは夏期講習?」
「はい。お姉ちゃんがいいって言ってくれたので」
「お姉さんいるんだ。どんな人?」
「婚約してます」
「そうなんだ。じゃあ働いてる?」
「お姉ちゃんは忙しいですので」
「違う違う。ヌエジさんの話を聞きたいから聞いてるだけだよ。嫉妬しないで」
「先生の話が聴きたいんです」
際居は透明な液体の入ったグラスを傾ける。どこを見ているのかわからない。どこも見ていないのかもしれない。
際居はいつも遠くを見ている。きっと好きな人は遠くにいるのだ。遠くを見れば好きな人が見えるから。
「私は先生が好きです」
「へえ、ありがと」
「茶化さないで下さい。本気です」
「本気ねえ」
最後に運ばれてきたものはようやくわかった。アイスクリーム。際居が要らないと言ったのでもらった。甘くて美味しい。
「どのくらい本気?」
「大学卒業したら付き合ってください」
「大学行きたいんだ」
「お姉ちゃんが行ったほうがいいって言ったんです」
「お姉さん大好きなんだ」
「先生のほうが好きです」
際居が息を漏らす。初めて見る顔だった。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
会計は際居がもってくれた。半分払わせてください、と言ったけど金額を見てビックリしてしまった。アイスクリームが高かったに違いない。だってあとのものは名前だってわからない材料。あんなものがこんなに高価なわけない。
際居の車に乗る。もうシートベルトは忘れない。
「どこ行こうか」
「先生の好きな人は遠くにいるんですね」
赤になった。眼の前の横断歩道を渡っていく女の子がこっちを見ている。際居がカッコいいからだ。
「その人のところに行きたいです」
「どうして?」
「先生が行きたそうです。さっき私の行きたいところへ行きました。だから次は先生の番です」
青になった。発進がワンテンポ遅れたせいで後ろの車から催促のクラクションが鳴らされた。
「そういうのさ、フツー言わないな」
「どこですか」
「さあねえ」
「いるんでしょう? 昔、気が狂うほど愛してた人がいてこっぴどく振られたんだけどそれでも諦められなくて、その傷を埋めるためだけに夜な夜な女の人をとっかえひっかえしてる。中学か高校のときにすでに惚れてた。先生のことだから年上。先生みたいなのはタイプじゃないから歯牙にもかけてくれなさそうな鉄壁な女の人。真面目だけが取り柄。でも真面目な子が好きなんじゃなくて好きだったのがたまたま真面目だったってだけ。中身じゃなくてまず外見ありき。それに先生は胸が大きいほうが好み」
際居が眉をひそめる。
この顔も知らない。返答も出来ない、という状態かもしれない。
どうしよう。返答をしてほしいから丘槻の受け売りで言ってみたのに。
しばらく無言だった。
どこに行くんだろう。知らない場所を走っている。
「それ、オカヅキが言ってた?」
「はい。顔に書いてあったそうです」
「なるほどねえ」
急に車が止まった。道の端ではなくて駐車場だった。地下の駐車場だからすごく暗い。
際居がステアリングを叩いている。こんこんという音がする。リズムを刻んでいるみたいだった。
シートベルトが外れる音。運転席のほうだ。よく見えない。
「今日どうしてヌエジさんをデートに誘ったかわかってる?」
「五位になったご褒美ですか」
際居が笑った。いつもの馬鹿にしたような笑い方。丘槻といるといつもこういう笑い方をする。楽しいのだ。
楽しい?
「教師は生徒とデートしてはいけません。そういう決まりになってるんだ。それはわかってる?」
「私は誰にも言いません。オカヅキ君にもお姉ちゃんにも」
「本当に誰にも言わない?」
「言いません。言いたくありません」
「言えばいいよ。僕はクビになるから。先生に無理矢理連れまわされたって言えば僕は教員免許剥奪になる。君は僕みたいなのに教師が務まると思う?」
「先生はいい先生です」
「どういうふうに?」
「スゴイです。数学が得意だし」
「数学が得意なだけじゃねえ。僕は中坊も高坊も大嫌いだね。誰が好き好んでこんなお坊ちゃんお嬢ちゃんのお守りなんか」
際居の横顔が見える。やっぱり遠くを見ている。
「先生ですか。先生の好きな人は先生だったんですね。だから」
「ヌエジせひあさん」
「はい」
「それ以上言うとお姉さんとっちゃうよ」
駅まで送ってもらったら夕方になっていた。
暗くはない。時計からそう判断した。
際居は特に何も言ってくれなかった。また遠くを見ている。運転するときは近くも見たほうがいいと思う。
嘉然の靴だけがあった。姉は突然仕事が入って飛び出して行ったらしい。この分だと深夜まで戻ってこない。姉は結婚しようが子どもが生まれようが仕事一筋で生きていくつもりなのだ。
「すごく大人っぽいね。初デートだったって聞いたよ」
「もう終わりです」
「そうなの? え、最近の子はそんなにすぐ?」
部屋に入って着替える。この格好がいけなかったのだ。いつもみたいにすればよかった。際居には誰かわからなかったのだから。
鏡で見たら姉みたいだった。姉に選んでもらった服だから姉の趣味がそのまま出ている。化粧もアクセサリィも全部。
踵が痛いと思ったら赤く腫れていた。慣れてない高さがいけなかった。
「なんだ、着替えちゃったんだ。可愛かったのに」
「靴ずれってどうすればいいですか」
「見せて」
リビングのソファに座る。嘉然が床に膝をついて足を点検してくれている。どこかから持ってきた消毒薬がすごく染みる。ガーゼをのせて包帯を巻いてくれた。
丘槻の手首みたいになった。両足首だからおそろいかもしれない。
「早く結婚してください」
「どうしたの?」
「なんでもないです。なんか、ちっとも」
「事実上は結婚みたいなもんだけどね。さっきやっと婚姻届書いてたんだ。せりあが書けたら出しに行くよ」
「結婚式は?」
「せりあの休みが取れればね。式場を探しにすらいけない」
「シカさんはお姉ちゃんのこと好きですよね?」
「好きだよ。心配してくれてるの?」
「もっと会ったほうがいいです。仕事にとられちゃいますよ」
「ううん、もう遅いかも」
夕食はあまり食べられなかった。嘉然が心配してくれたけど失恋したから、と言ったら料理を勧めるのをやめてくれた。
アイスクリームが食べたかった。何味でもいいからすごく甘いのが食べたかった。そう言ったら嘉然は買ってきてくれた。三つあったけど三人分ではなく全部くれた。そういえば姉は甘いものは控えている。
「好きな人に好きな人がいたら応援してあげるべきですか?」
「どうだろう。僕だったら、本当にその人が好きだったら遠慮しないけど」
「とっちゃうってことですか」
「とるんじゃないよ。好きな人はまだその好きな人と結ばれてないんだよね。だったらまだチャンスはあるんじゃないかな。もしかしてそうだったの?」
鵺路は頷く。
「そうか。それはツライね。せひあちゃんは優しいからそうしなかったんだ」
「脈なしなんです。脈どころか取っ掛かりすらなくて。もう絶対に無理です」
「僕には考えられないけどなあ。せひあちゃんこんなに可愛いのに。せひあちゃんの好きな人の見る眼がないだけだよ」
嘉然より先にシャワーを浴びた。
8
「あれ、せりあは? すれ違っちゃったかな」
なんだか慌てているようだった。いつも落ち着いて物事をこなす嘉然にしては珍しい。おそらく姉が今すぐ来い、と無理を言ったのだ。容易く思い浮かぶ。
「まだ帰ってきてませんよ」
「なんだ、フライングかあ」
「お姉ちゃんがわがままなだけです」
嘉然は苦笑する。持っていた大きなダンボールを床に下ろす。宅配便で届いたまま開けていないようだった。
「なんですか?」
「通販だよ。せりあが僕のパスワード使って注文したもんだから僕の家に届いたってわけ。二度手間だよね」
「会いにきてほしかったんじゃないですか」
嘉然が微笑む。
「それはいいね。そう思うことにする」
しかし夜になっても姉は帰ってこなかった。何度も電話したしメールもしたのだが駄目だった。前者は留守番電話。後者は無視。
仕事が長引いている?
いや違う。これはきっと。
「荷物開けてみようか」
「え、でも」
「大丈夫だよ。ただのランプなんだから」
「そうなんですか」
「僕だって中身を知る権利はある」
嘉然はダンボールのガムテープを剥がす。
本当にランプだった。カラフルなステンドグラス。アンティーク風でサイズは大きくもなく小さくもなく。ベッド脇に置いたらきっと素敵。
「電気消してくれるかな」
スイッチに触れる。
リビングの中央がぼんやり明るい。
「お姉ちゃんは帰ってくると思いますか」
「呼ばれたはずだったんだけどね。まあ、こういうことよくあるし」
「怒らないんですね」
「せりあにプロポーズしたくらいだからね。気は長いよ」
「どこで出会ったんですか?」
「聞きたい?」
ランプを買ったのもわざと。今日呼んだのもわざと。留守にしているのもわざと。電話に出ないのもわざと。メールを返さないのもわざと。
試している?
それとも。
「せひあちゃんは好きな人いる?」
「います」
「そっか。やっぱり学校の」
「はい」
嘉然がワインをグラスに移す。濃い赤紫色。
「どんな人?」
「すごくカッコいいです」
「へえ、会ってみたいなあ。付き合ってる?」
「いいえ」
「話しないほうがいい?」
「部屋に戻っていいですか」
「せりあ帰ってくるまでいるよ」
二時間勉強してシャワーを浴びた。
リビングをのぞいたら嘉然は小説を読んでいた。姉が買ったきりリビングに放置してある本のうちの一つ。ワインボトルが空になっている。
「帰ってこないね」
「帰ってこないと思います」
「無駄だったかな」
「本当は何しに来たんですか?」
嘉然が文庫本にしおりを挟む。それをテーブルに置く。
「なにか、君に嫌われるようなことしてる?」
「どうして今日持ってきたんですか」
「せりあに持って来いって言われたからね」
「本当に言われましたか」
「言われたよ」
「今日は泊まっていきますか」
「君が迷惑じゃないなら」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
歯を磨いて部屋に戻る。なかなか寝付けない。
ランプの明かりが眼に焼きついている。オレンジの淡い光がステンドグラスでいろんな色に変わる。ランプシェードは星の模様。
星が好きだったのは姉ではない。姉は花のほうが好き。
廊下に出る。リビングがほの明るい。ランプだけついている。
嘉然はそこにはいない。ソファは無人。
キッチンに行ってミネラルウォータをグラスに移す。一息で飲み干す。
冷たい。
水の音がする。キッチンでないならバス。
「あれ、まだ寝てなかったんだ」
「喉が渇いちゃって」
嘉然の髪から雫が滴る。
「お姉ちゃんの部屋は散らかってますよ」
「そうだよね。やっぱソファかな」
「もう一つ、部屋があります」
「服着ていいかな」
リビングが見える。オレンジの光に近づく。
星が壁に映る。いろんな色の星。
「いつわかったの?」
「これはお姉ちゃんの趣味じゃありません」
息が漏れる音。優しい吐息。
「じゃあどんなのがせりあの趣味かな」
「薔薇とか、とにかく華美なら喜びますよ」
「高いものも好きだよね。値が張れば張るほど喜んだふりしてくれる」
「これ、なんて言えばいいですか」
「なにも言わなくていいよ。フィアンセの妹とも友好な関係を築きたいって思うのはおかしいことかな」
嘉然がランプを部屋に運んでくれる。照明を落としてランプの明かりだけに頼る。何かに躓きそうになった。
数学の参考書だった。明日までにやらなければいけないがどうしても解けなかった。わからないものは仕方ない。塾の先生は優しいからそう言ってくれる。
「せりあって呼ばせてもらうの苦労したんだ。一応年下だし。僕は気が弱いけど、せりあは気が強い。上下関係だからね」
「お金使えば大抵のことは許してくれますよ」
「みたいだね。お坊ちゃんに生まれたかった」
「シカさんも浮気すればいいのに」
「出来ないな。最初から本気なんだから」
スイッチオフ。
星も消える。
「バレたらどうすればいいですか」
「心配しないで。バレるも何もないよ。そもそも」
9
際居が受けたほうがいい、と勧めてくれた模試の日になった。会場は通り道ではないので嘉然とは駅で別れた。一緒についてきてくれると言ったのだけど、ホームに丘槻がいたので断った。
「おはよう」
「あんたもか」
丘槻はまたつまらなそうな顔をしている。電車内に空席がなかったからかもしれない。今度は全国一位を狙っているのだと思う。
丘槻よりも頭がいい人がいるなんてすごく驚きだ。どんな人なんだろう。丘槻はその人に会ったらどうするだろうか。
際居からメールが来た。お昼頃会場に来てくれるらしい。デートの日に他の人には内緒で番号とアドレスを教えてもらっていた。学校の子は誰も知らない。掲示板に携帯電話の電源を切れ、という貼り紙があったのでそれに従う。
「ねえ、オカヅキ君の番号教えて」
「なんで」
友だちだから。
「明日も一緒に行きたいんだ。だめかな」
「同じ時間だし」
試験監督の人が入ってくるまでずっと粘ろうと思った。どうしても教えてほしかった。友だちだから、と言いたかったけどこれを言うともっと教えてくれなくなる気がした。
「先生は知ってる?」
「なんでキワイの話になってんの。誰にも教えてないし」
「誰にもかけないならケータイの意味がないよ」
「別に持ちたくて持ってるわけじゃない。たまたま余ってたから鞄に入ってるだけ」
「余ってた? オカヅキ君のとこはケータイの買い溜めをするの?」
丘槻が何言ってんの、みたいな顔をした。
変なことを言ったのかもしれない。気に触ることを言ったりすると丘槻は返答をしてくれなくなる。
「私のも教えるから。ね?」
「あんたの知っても別に」
「知ってると便利だと思うよ。会いたいときにすぐ」
「会いたくないんだけど」
「貸して」
丘槻の鉛筆を借りて机に番号を書いた。アドレスを書こうと思ったら丘槻が消しゴムを持ったのが見えた。
「こんなとこ書いたらカンニングになるんだけど」
「じゃあどうしよう」
丘槻がノートを取り出して一枚破った。
「これに書けば?」
「うん」
机の番号をきれいに消してから紙に書いた。字が汚いと言われないように丁寧に書くように気をつけた。読めなかったら意味がなくなる。
「アドレス帳に入れといてね」
「面倒だし」
「入れてあげようか?」
「もう戻れば?」
試験監督の人が部屋に入ってきた。
丘槻は周囲のことをよく見ている。車に轢かれそうになったときも信号が赤だったときも腕をつかんで教えてくれた。
ぼうっとしているのを叱ってくれればいいのに。そんなんじゃだめだ、と怒鳴ってくれればいいのに。丘槻はぼそぼそと小声で喋るから近くにいないと聞こえない。誰にも話しかけたくないのかもしれない。
午前中は数学だった。頑張りました、というメールを際居にしようと思ったらすでにメールが来ていた。話がある、ということだったから急いで階段を下りる。
なんだろう。まだ誰も知らない。いつも際居の周りにいる女子も知らない。それはちょっとうれしいけど。
建物の外に出たときにちょうど際居の車が停まった。運転席のウインドウが下りる。
「乗って」
「え」
「連絡が取れないってお姉さんから電話もらった。とにかく急いで。鞄は上?」
「どうしたんですか?」
「早く」
際居が急かすから模試を受けた教室にバックを取りに行った。丘槻に言っていくべきだったんだろうけど、ちょうど席を立っていていなかった。
助手席に乗り込んだ瞬間に発車した。シートベルトがまだなのに。
「何があったんですか?」
「お姉さんの婚約者が亡くなったそうだ」
嘉然が?
「彼と最後に会ったのはヌエジさんらしい。朝、駅まで送ってもらってそのあと」
死んだ?
「殺されたんですか?」
「わからない。お姉さんが彼のアパートに行ったらもう」
死んでた?
嘉然が?
なんで?
「え、でも朝は」
「だからよくわからない。お姉さんもだいぶ混乱してる。行ってあげたほうがいい」
「あの、模試は?」
「そんな場合じゃないと思うな。お節介で悪いが」
「どうして姉に連絡をもらったんですか」
「だから連絡がつかないって」
「そうじゃありません。どうして姉が先生のケータイ番号を知ってたのかってことです」
知っている。本当は知っている。
「いまは関係ない」
「お姉ちゃんをとったんでしょう?」
ぐわんと後ろに引っ張られた。
際居がアクセルを踏み込んだ。信号が赤になりそうだったのだ。際居はまた遠くを見ている。
「とったんですね」
「とってない」
「まだ、ってことですか」
「そうじゃない。勘違いしないでほしい」
「嘘つかないで下さい。先生と会った日を境にお姉ちゃんの服の趣味が変わりました。お姉ちゃんの香水が変わりました。お姉ちゃんの仕事量が増えました」
「根拠がない」
「道、こっちじゃありませんよ」
午後は何の科目だっただろう。国語、英語、理科、社会。もう始まっているだろうか。マークシートが配られて。鉛筆を持って。
車は渋滞に巻き込まれる。夏休みは道路が混雑しやすい。
「私を選んでください」
「正気じゃねえな」
「本気です」
ついに車が停まる。
のろのろと進む流れがどこかで塞き止められている。事故かもしれない。玉突きかもしれない。単に車の絶対量が多いだけかもしれない。
「数学の魔女って知ってますか」
「そりゃご大層な名じゃねえの」
「先生はどうして数学の先生になったんですか」
「しつけえな」
「諦めが悪いんです。先生だってそうでしょう」
車が荒々しく路地に逸れる。車一台がようやく通れる幅だった。砂利が塗装を剥いでいる音がする。木の枝がウィンドウを脅迫する。タイヤが鳴って本線に無理矢理割り込む。けたたましいクラクションが攻撃する。
「近道ですか。遠回りですか」
「オカヅキには俺が言っといてやるよ。模試どころじゃなかったって」
「私、先生が迎えに来てくれなかったら模試を受けてました」
「ひでえな。死んでんだぞ。ちったあ動揺しろや」
「お姉ちゃんはどんな感じでしたか」
「君と真逆。事情を理解するまでにだいぶかかった。何言ってんのかちっともわかんねえ」
「行かなくていいですよ。たぶん演技です」
「模試サボってるってこと忘れないように」
「勘違いしないで下さい。先生に無理矢理連れ出されたんです。私は被害者なので抵抗も空しく助手席に放り込まれました」
際居が声を上げて笑う。ステアリングをばしばし叩いている。
どうすれば笑ってくれるのかちょっとだけわかってきた気がする。丘槻みたいに喋ればいいのだ。出来るだけ感情を排して淡々と話す。皮肉はそのまま返して嫌味は受け流す。
「機嫌いいからちょっと構ってやるよ」
「お昼に先生が行くこと、オカヅキ君に言っちゃったんです。きちんとアリバイ作ってください」
際居が舌打ちする。これもあまり見ない行動。
「ったく、次からは余計なこと言うなよ」
姉のミュールはいつも通りあっちこっち行っていた。片方が曇りで片方が雨を示している。それを両方とも晴れにしてから姉の部屋をノックする。
返事がなかったので勝手に中に入る。誰もいなかった。
リビングをのぞく。ソファに姉が突っ伏している。いつも毛先まで完璧に整えられている髪が四方八方に散らばっている。
鵺路は、姉が話し掛けるまで床に座っていた。
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