第9話 青き姫(1)



『テリー様がいなくなって二週間が経ちました。今もなお、捜索中です』


 テレビから声が聞こえて、あたしとニクスはテレビに振り向いた。


『ハロルドさん、どう思いますか?』

『やあ、どうも。みんなの大好きハロルドです。僕の知り合いの女の子にもね、テリー様に似ている子がいるんだ。もう見れば見るほど瓜二つさ。だけどテリー様じゃない。テリー様は三姉妹だけど、その子はお姉ちゃんではなく、お兄ちゃんと仲良しでね。時々、ラジオ局にも遊びに来てくれるんだけど、まあ、その話はさておいて、テリー様、どうやら手紙が見つかったそうじゃないか』

『ええ。枕元にこんなメッセージの手紙があったそうです』


 ――しばらく旅に出ます。さがさないでください。テリー。


『マリッジブルーで悩む女性は数多くいます。テリー様も、おそらくその一人。大丈夫。きっと景色のいい所でベーコンチーズパンでも食べたら、すぐ戻ってくるだろうさ』

「……まさか……」


 キッドファンのリンダが、皿にパンを落とした。


「キッド様とテリー様、新婚旅行に行ってるんじゃ……!」

「ありえる!」

「それな!」

「実は家出と見せかけて、キッド様と旅行に行ってるんだわ!」

「そうよ! そうに違いないわ!」

「私達のキッド様をたぶらかしたに違いないわ!」

「なんて女なの!」

「最低!」

「ニクスとロザリーもそう思うでしょ!?」


 リンダに振り向かれ、あたし達は静かに頷いた。


「ほら! みんなそう思ってる!」

「全部、テリーって女のせいだわ!」

「キッド様を返して!」

「ロザリー、今日のサラダ、美味しいね」

「……ん」


 ゆっくりと頷き、隣にいるアナトラを見る。


「……サラダ、いる?」

「え? ロザリー食べないの?」

「なんか、……食欲失せた」

「あら、体調でも悪いの? 大丈夫?」

「……大丈夫」

「分かってる。キッド様ショックでしょ。みんなテレビを見てはため息を吐くの。いいわ。私、部屋で踊ってお腹空いてるの。ぜひちょうだい」

「……ありがとう」


 コネッドが大きな欠伸をした。


「リオン様ファンのオラには全く関係ねえ。はあ。眠い眠い」


 コネッドがステーキをかじりながら、あたし達を見た。


「今日は予定を変更して洗濯係の手伝いするべさ。昨日頼まれちゃって」

「分かったよ」

「ん」

「シーツがたんまりあるぞ。洗濯物は重くってかなわねえ」

「コネッド、私達の班も手伝おうか?」

「ありがとう。アナトラ。でも大丈夫だ。何も無ければ三人で終わるから」


 コネッドがまたステーキを美味しそうに食べた。この時にアナトラに手伝いをお願いしていたら、余計なことにはならなかったのかもしれない。



(*'ω'*)



 物干し場は庭に設置されている。大きな竿にかけて、洗濯物を干して、乾かしていく。これが終わったらアイロン作業。とんだ体力仕事だ。


(……小型飛行機が飛んでる……)


 シーツを干しながら、あたしは空を仰いだ。向こうでぺスカが指を差した。


「おい、見ろよ! 飛行機だぜ!」

「テリー様を捜してるんだろうな」

「もう国内にはいねえんじゃねえ?」

「僕もそう思う」

「いいねえ。海外か」


 ぺスカがチラッとニクスを見て、シーツを干しているゴールドの目を盗み、鼻歌を歌いながら忍び足で近づき、ニクスの後ろについた。


「なあ、ニクスはどこの国の旅行に行きたい?」

「国からは出たくないな。怖いじゃない」

「色んなものがあると思うぜ。なんだったら、俺が連れて行ってやっても……」

「コネッド、洗濯ばさみ足りなくなっちゃった!」


 ニクスがコネッドに向かって歩く。


「ある?」

「いっぱいあるぞ。その籠から取っていけ」

「ありがとう」

「はーあ! 腰が痛いべさー!」


 ぐっとコネッドが伸びをすると、強い風が吹いた。その風に盗まれて、コネッドが干したばかりのシーツの布が、ふわりと飛んでいく。


「あんら! いっけね! シーツが!!」


 風でふわふわと飛んでいく。


「ちょっと! やだわー! 風とかまじでワヤすぎるわー! 地面に落ちたら、また洗わないと!」


 コネッドが追いかける。


「待て待て! 追いかけっこなんてこりごりだべさ!」


 コネッドが走った。シーツがふわふわ飛んでいく。


「あ」


 コネッドが顔を引き攣らせた。風に飛ばされた先に、マーガレットとセーラがいたのだ。


「はぶ!」


 セーラにシーツが飛びついた。


「な、何よ! これ!」

「ぎゃあああ!! ごめんなさーーーい!!」


 コネッドが慌ててセーラからシーツを剥がした。


「ごめんなさい! セーラ様。お怪我はございませんでしたか!」

「何するのよ!」


 セーラが怒りの顔をコネッドに向けた。


「私達、歌の練習をしていたのに、あなたのせいで台無しよ!」

「ああ、さようでしたか。そいつはごめんなさい。どうか暖かい太陽の光に免じて許してもらえませんか?」

「私、太陽は嫌いなの! あっつくって仕方ないわ! あなたのせいで時間が台無しになったじゃない! どうしてくれるの!?」

「そんな怒らないでくださいよー」

「……あ」


 マーガレットがニクスを見つけて、笑顔になった。


「ニクス!」


 大きく手を振る。ニクスが笑顔で手を振り返すと、セーラがマーガレットの靴を見た。


「まあ、大変! マーガレットのお靴が汚れちゃってる!」

「え?」


 マーガレットが足元を見た。


「別に、汚れてないよ?」

「きっと洗濯物のせいだわ! どうしてくれるのよ!」

「汚れてないじゃないですか」

「汚れてるもん!」

「はいはい。そうですね。マーガレット様、失礼しますよだ」


 コネッドが跪いてエプロンでマーガレットの靴を拭った。マーガレットはきょとんとした顔でセーラを見ている。


「ほら、これで綺麗になった。ぴっかぴかですよ。これでよろしいですか?」

「もっと汚れた気がする! 妹の靴に、何してくれるのよ!」

「セーラ、わたしのお靴、何も汚れてないよ?」

「汚れてるもん!」

「……なんだか、騒ぎになってないか?」


 ラメールが怪訝な顔でシーツから覗いた。


「ゴールドさん、ちょっと行ってきます」

「どうした」

「向こうで、セーラ様がコネッドに」

「うむ?」


 ゴールドもシーツの間から出てくる。セーラのコネッドに対する怒りはヒートアップしている。


「クビよ! あなたみたいなそばかすだらけの人、クビになればいいんだわ!」

「そう仰らないでくださいよ。ほらほら、オラの素敵な笑顔に免じて」

「何よ! その笑顔! ぶっさいくな笑顔ね!」

「セーラ、その辺に……」

「マーガレットは黙ってて!」

「……」


 マーガレットが物干し場に走ってきた。ニクスを見上げる。


「ニクス、セーラがわがまま言ってるの」

「ちょっと様子を見に行きましょうね」

「うん!」


 マーガレットと手を取って、ニクスがマーガレットの歩幅に合わせて歩いていく。その後ろを、ラメールとぺスカとゴールドも歩いていく。あたしは黙々と洗濯物を干す。


「そばかすがある顔は、みんなブスなのよ! ブスのくせに許してもらおうだなんて、甚だしいわ!」

「はいはい。そうですねー」

「ちょっと! なによ、その言い方! あなたね、声が気持ち悪いのよ!」

「やめなよ! セーラ!」


 マーガレットがニクスの手を握りながらセーラをなだめた。


「洗濯物が飛んできただけでしょ? どうしてそんなに怒ってるの?」

「だいたい、マーガレットがいけないのよ! 歌が下手くそだから、わたしの演奏も上手くいかないんだわ!」

「だから練習してるんじゃない。人のせいにしないでよ!」

「洗濯物が飛んで来たら、集中力が切れちゃったわ! どうしてくれるのよ!」


 ふと、セーラがヴァイオリンを見た。


「あ!」


 コネッドにヴァイオリンを突きだす。


「ヴァイオリンが傷ついてる! あーー! どうしてくれるのよ! お前なんかと喋ってるから、わたしの大切なヴァイオリンに傷がついたじゃない!」

「それ、昨日セーラが落としたからでしょ」

「楽器は傷ついたら音が変わるのよ! 弁償よ! 賠償金よ!」

「セーラ、もうやめて」

「うるさい! マーガレットは黙ってて!」

「まあまあ。セーラ様」

「セーラ様、僕の亀を見ますか?」

「ちょっと! 胸ポケットに何入れてるのよ! 気持ち悪い! そんなもの見せないでよ!」

「おい、ラメール、しまえって」

「大丈夫。ジョディ、お前はかっこいいよ」

「セーラ様、俺と一緒に鬼退治でも行きませんか? お団子をあげますから」

「お団子なんて大嫌い! もちもちしてて食べづらいじゃない!」

「美味いのに」

「とにかく! この責任取ってよね!」

「はあ、オラはどの責任を取ればいいんですか?」

「クビにしてやるからね! お前なんてね、お母様に言いつけたら一発なんだからね!」

「はいはい。そうですか」

「セーラ様、部屋に戻りましょう。私が送っていきます」

「ごついおっさんがわたしに触らないで! わたしを誰だと思ってるの!? 公爵令嬢の、セーラよ!!」

「どうしたの。セーラ。大声なんか出して、はしたない」


 凛とした声に、みんなが振り向いた。柱の間から背の高い女が現れる。彼女こそ、ロゼッタ公爵夫人。グレゴリー様の妻であり、あそこで喚いているセーラとマーガレットの母親だ。


(あの人、確か、ママと同じタイプの人間だったはず。ヒステリーなのよね。メイドの状態で関わりたくないわ)


 あたしは黙って洗濯物を片付けていく。セーラがロゼッタ様を見上げ、強気に瞳を輝かせた。


「お母様! この使用人達、みんな最低なの!」

「お母様、違うわ。またセーラがわがまま言ってるの」

「わがままじゃないもん!」

「何があったの」

「申し訳ございません。ロゼッタ様」


 コネッドが頭を下げた。


「風の悪戯で、干していたシーツが飛んでいってしまいまして、オラがシーツを捕まえる前に、シーツがセーラ様を抱きしめてしまったんです」

「わたし、マーガレットとお歌の練習してたのよ! なのに、このメイドが!」

「シーツが当たっただけ?」

「はいですだ」

「くだらないことを」

「申し訳ございません」

「今後、娘達の近くで洗濯はおやめなさい」

「かしこまりました」

「セーラ、今後は洗濯物に近付いてはなりません」

「……」


 セーラが不満そうに頬を膨らませた。


「それだけ?」

「お母様は忙しいの。時間を取らせないで」

「でも、見て! わたしのヴァイオリンに傷が!」

「そんなもの、新しいのを買えばいいでしょ」

「……」


 セーラが息を呑んだ。ロゼッタ様が使用人達に手を振った。


「仕事に戻りなさい」

「失礼致します」

「お母様! あいつらクビにしてよ!」

「メイドの買収の次はクビ? いい加減におし」

「メイドを買いたいって言ったのは、マーガレッ……」


 ロゼッタ様がセーラの頬を叩いた。ニクスが目を見開き、マーガレットがニクスのエプロンに顔を埋めた。コネッド達は黙って頭を下げ続ける。ロゼッタ様が鋭い目をセーラに向けた。


「お黙りなさい。はしたない」

「……」


 セーラが頬を押さえた。


「あなたは王族の従妹という自覚を持ちなさい。そんなことで大騒ぎして、もしもスノウ様の耳に入ったらどうするの! 恥ずかしくて仕方ない!」

「……」

「ヴァイオリンなら買ってあげるから。それでいいでしょう?」

「……」

「わかったらなんて言うの」

「……でも、メイドが……」

「っ!」


 ママもそうだった。言うこと聞かないとぶつのよ。それで、自分の考え方はこうなの。だから、お前達もそうしなさいって言うの。だからあたしはそれを善だと思ってた。メニーに頼んだら何でもしてくれるのも、これも当然なんだって。城下町の人達が自分達よりは格下だから、どんな無礼を働いても許される。あたしはそう思ってた。それが正しいと思ってた。悪と善の見分けが出来なかった。だって、教えてもらえなかったんだもの。そしたらみんなに嫌われた。裁判で嘘をつかれて、罪が重くなって、たくさんの人々から罵倒を受け、なぜあたしがこんな目に遭わなければいけないのと、不思議に思った。でも、今ならわかる。


 セーラは、悪と善がわかってない。だから、なぜ自分が叱られているかわかってない。だから戸惑ってる。叩かれた頬が痛くて、罪悪感では無く、お母様に殴られないようにという恐怖心が支配していく。そして、悪という悪がわからない人間になっていく。あたしのように。


 ――テリー、されてどんな気持ちになるか、自分が一番よくわかってるはずでしょ? 人にも同じことするの?


 ニクスに言われた。


 ――それを経験したから、君は同じことをされてる人を見た時、その人の気持ちがわかるようになった。一番守ってあげられる立場になれたんだ。それってすごいことじゃない?


 あたしには、彼女の痛いほどわかる。


 ――そんなことしたらいけないよってちゃんと教えてあげないと、人に酷いことしてるってわからないまま、大人になっちゃう。それが一番よくない。


 あたしには、ニクスもアリスも、クロシェ先生もいなかった。誰も教えてくれなかった。


 ――そしたら、テリーみたいに傷つく人が減るかもしれないよ?






 誰も、味方なんていなかった。






「ヴァイオリンなら買ってあげるから。それでいいでしょう?」

「……」

「わかったらなんて言うの」

「……でも、メイドが……」

「っ!」


 ロゼッタ様が勢いのまま、再び手を上げた。セーラが目を瞑って、肩に力を入れた。ロゼッタ様の手が振り下りる前に――シーツがロゼッタ様を覆った。


「きゃあ!!」


 ロゼッタ様が急いでシーツを自分から引きはがした。


「も、ちょっと! 一体、何なの!?」

「申し訳ございません」


 あたしはぺこりと頭を下げた。


「風がシーツを盗んでしまいまして、ロゼッタ様を抱きしめてしまいました」

「気を付けなさい!!」

「申し訳ございませんでした」

「全く!」


 ロゼッタ様があたしの上にシーツを投げた。あたしの頭がシーツで覆われる。


「くだらないことで騒ぐんじゃありませんよ! セーラ!」

「……はい……」

「ふん!」


 ロゼッタ様が歩き出した。あたしはシーツを腕に巻き付け、頭から剥がす。姿勢を上げると視線を感じて、ちらっと目を向ければ、ニクスが口パクで言った。


 ――ナイス。テリー。


 あたしはため息を吐き、セーラを見下ろした。セーラがむくれたまま俯き、ヴァイオリンを握り締めていた。


「……セーラ様、そのヴァイオリン、傷なんてどこにあります?」

「……」

「どこですか?」

「……」


 セーラがヴァイオリンを突き出した。あたしはそれを見て、またため息を吐いた。


「それは元々ついているものではないですか? 触ってみてください。その傷の上にやすりがつけられた跡があるはずです」

「……」


 セーラが眉をひそめて触ってみた。


「それと、曲の練習をする時に、マーガレット様の歌に合わせず、テンポをゆっくりにして一人で練習してみてください。指が追いついてないなら慣れるまでやるのが練習です」


 セーラが眉をひそめたままあたしを見た。


「一つ一つの音を奏でればちゃんと音が出るのだから、ちゃんと奏でてあげてください」


 セーラがあたしの後ろを見た。


(……ん?)


 全員があたしの後ろを見た。


(ん?)


 マーガレットが青い顔になってニクスの背中に隠れた。ぺスカとラメールの表情が固まった。ゴールドが唾を飲んだ。コネッドが目を見開いた。ニクスが眉をひそめた。


 ――なんだか、様子がおかしい。


 あたしも後ろを振り向くと、ロゼッタ様が青い顔で後ずさってこっちに戻ってきた。


「……どうして、あなたが、ここに?」


 ロゼッタ様の声が引き攣っている。


「お部屋にいるのでは?」

「今日はよく晴れているだろう?」


 柱の奥から、天使のような声が響く。


「とても気分が清々しいの」


 ヒールの音が聞こえる。


「ば、バドルフから、許可は?」

「どうせ許してくれまい。でも、あたくし、どうしてもお外に出たかったの。だから、目を盗んで抜け出してきたんだ」

「ば、ば、バドルフに、叱られるわよ! 早く、お部屋に戻りなさいな!」

「おば様、そんな酷いこと言わないで? こんな天気のいい日に、お散歩一つも出来ないなんて、それこそ気が触れてしまう」


 コネッドとゴールドがあたしの前に立った。見上げると、ゴールドにひそめられた声で言われる。


 ――そこから動くな。


 コネッドが目だけをあたしに向け、小さく頷き、そして、青い顔で前を見た。柱の影から、影がうごめく。


「なにやら、誰かの頬が叩かれた音が聞こえた。おば様、一体、どうしたの?」

「い、いや、その、ほら、あなたの、大切な従妹であるセーラがね、うふふ、あの、ちょっと、大騒ぎしちゃって!」

「大騒ぎ?」


 柱の手前で影が止まった。


「セーラ、またいたずらをしたのか?」

「っ」


 セーラの血の気が一気に下がった。青い顔で、首を振る。


「どんな面白いことをして、みんなを困らせたの?」


 足が柱から出てくる。素敵なガラスの靴を履いている。


「あたくしに教えてよ」


 青いドレスが出てくる。胸元につけられた大きな青薔薇のコサージュ。


「おや、素敵なヴァイオリンを持ってるな」


 青くて長い髪の毛が、風に揺られて、ふわりと揺れた。


「そういえば、セーラはヴァイオリンが弾けるんだったな」


 太陽の光に当たったその人物を見て、あたしは目を見開いた。





「一曲、お聴かせ願おうか」





 キッドの双子の姉、クレア姫が、セーラに天使の笑みを浮かべていた。





「……っ」


 途端に、セーラが蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。手をぶるぶる震わせて、怯えた目をクレアに向ける。クレアはにこにこ微笑んでいるだけ。横からすかさずロゼッタ様がセーラの肩を叩いた。


「ほら、セーラ」

「え?」

「練習した曲があるでしょう? クレアに聴かせてあげなさい」

「……」


 セーラが首を振った。


「お母様、でも、わたし……」

「早く弾きなさい! さあ!」

「え、えっと……」


 セーラがマーガレットを見た。


「う、歌なら……マーガレットが……歌が……上手で……」

「っ!」


 マーガレットはニクスに掴まってぶるぶる震えている。しかし、クレアはセーラから視線を逸らさない。


「あたくしは、ヴァイオリンの音を聴きたいと言っている」

「あ……で、でも……」

「早く聴かせてくれないか? 曲は何でもいいよ」


 クレアがにこりと笑えば笑うほど、セーラの顔が青くなっていく。


「あ、あの、わ、わたし……」

「ああ、そうだ。ほら、リオンの誕生日会の時にやった曲があるだろう?」

「……」

「あれをぜひ聴きたいな。弾いてくれないか?」


 クレアの青い目が薄くなる。


「いいだろう?」

「もちろんだわ」


 ロゼッタ様がセーラの背中を叩いた。


「ほら、セーラ」

「は、はい……」


 セーラがヴァイオリンを構える。手が異常に見えるほど震えている。そして、そのままセーラの手が動かない。震えたまま固まる。ロゼッタ様が背中を叩くが、セーラは動かない。たぶん、動くことが出来ないでいる。クレアが眉を下げて、首を傾げた。


「どうしたの? どうして弾いてくれないの?」


 セーラとロゼッタ様がびくりと体を揺らした。


「あたくしは聴きたいって言ってるだけなのに」


 クレアの青い瞳が二人を見つめる。


「あたくしの願いを聞いてくれないの?」


 クレアが笑った。


「あ、そうか。緊張してるんだな? うふふっ。何も緊張することなんかないぞ。従妹同士じゃないか」


 セーラが俯いてしまう。


「あれ、どうしたの? セーラ」


 セーラの上からクレアが見下ろす。


「早く弾いてごらん?」


 クレアがセーラを見つめる。


「早く」


 クレアの声が低くなってくる。


「早く」


 セーラは動けない。


「早く」


 クレアの声が低くなる。


「早く、弾け」


 ――あたしの手がセーラからヴァイオリンを奪った。セーラが驚いたように目を丸くして、手をヴァイオリンから離す。ロゼッタ様が口を押さえた。クレアの目が移動した。あたしはヴァイオリンを構えた。リオンの誕生日会で聴いた、『ナターシャの庭園』を弾く。セーラがぽかんとした。あたしは弓を引く。ヴァイオリンの質がいいのだろう。とても良い音色が流れる。


 

 ナターシャ。ナターシャ。私の思い出。

 君は走り回る可愛い子。

 私は君を追いかけてばかり。

 君は可愛いナターシャ。私の思い出。

 初恋の女の子。

 ナターシャ。ナターシャ。私の好きだった子。

 君を忘れてしまう私を許して。



 作曲者が、初恋の女の子を忘れないために作った歌。ナターシャの庭園。淡い想いを乗せた歌。ゆっくりと弓を引けば、曲が終わる。


「名曲、『ナターシャの庭園』です」


 クレアに目を向ける。


「セーラ様くらいの年頃の方には難しい曲でございます。譜面も無しに弾かせるなんて、可哀想だとは思いませんか?」


 クレアが黙った。


「……」


 クレアが腕を組んで、人差し指を唇の下に当て、眉を下げて、複雑そうな顔をした。


「……」


 首を傾げてみせる。


「あたくし、怖い顔の女の子は嫌いだ。あたくしに意見をする女の子も嫌いだ。あたくしを睨んでくる女の子も嫌いだ。あたくしの目を見てくる女の子も嫌いだ。あたくしの前に立ちふさがって、強気な目であたくしを見てくる女の子はもっと嫌い」


 クレアが口角を下げて、冷ややかな目をあたしに向けた。


「お前、不愉快だ」


 クレアが指をパチンと弾いた、と共に、あたしの髪を丸く結んだリボンがほどけた。


(えっ)


 ロゼッタ様が小さな悲鳴をあげた。


(なに?)


 今、何した?


「あたくしはとても不愉快になった」


 すぐ目の前で、クレアが見下ろしてくる。


「お前のせいだ」


(……なに?)


 空気が重くなる。風が強くなる。異様な雰囲気を感じる。


「ひい!」


 セーラが腰を抜かしてその場に座り込んだ。あたしはセーラの前でクレアを睨む。クレアは静かに手を伸ばし、あたしの髪の毛を掴み――乱暴に引っ張った。


「ぎゃっ!」


 思わずヴァイオリンを離して、地面に落としてしまう。だけど、拾う暇は無い。クレアがあたしの髪の毛を引っ張り、柱の間に歩いていく。


「な、ちょっ! 何するのよ!」

「姫様!」


 ゴールドが止めに入ると、クレアのドレスがなびいた。


(え?)


 太ももに厳重な装備。固定されたベルトから、クレアが銃を持って撃つのが見えた。しかし、その速さ、誰も追いつけない。風が吹く頃には、銃弾をかすったゴールドの耳たぶが火傷していた。ゴールドが思わず動きを止める。しかし、なんとかあたしを助けようとしたコネッドが口を開いた。


「ロザリー!」


 ――クレアの足が止まった。ゆっくりと振り向いて、細い目をコネッドに向ける。


「……今、ロザリーと言ったか?」

「あっ」


 コネッドの血の気が下がった。みるみる顔が青くなっていく。


「ご、ごめんなさい。オラ、つい……!」

「このメイドは、ロザリーというのか?」

「姫様! あのっ! その子は新人でして!」

「ロザリーという使用人が現れた時、ロザリー人形は動き出す。ロザリーを求めて」


 クレアがにんまりと笑った。


「つまり、このメイドを側に置いておけば、ロザリー人形が来るかもしれない。ロザリー人形って強いのかな? あたくしを殺せるほど強いなら、あたくしはぜひ対戦してみたい。そしたら、くくっ。とっても面白そうなことになりそうだ。このつまらない日常が少しは華やかになるかもしれない」


 クレアがロゼッタを見た。


「おば様、このメイドもらってもいい?」

「わ、わたくしには答えられないわ! そんな権限ないもの! そうだわ。バドルフに訊いてみたらどう?」

「わかった。訊いてみる。どうもありがとう」


 クレアが腰の抜けたセーラを見た。


「セーラ」


 セーラが震える目をクレアに向けた。


「また遊ぼうね」


 にっこり微笑んで、あたしの髪をぐいと引っ張って、クレアが歩き出す。あたしは引きずられて、悲鳴をあげる。頭が痛い。あたしの繊細で美しい髪の毛が抜けちゃう!


「ちょっと! 引っ張らないで! 痛いじゃない! 痛いってば!!」


 ニクスが追いかけようと一歩踏み込むと、マーガレットがそれを止めた。


「だめ。ニクス。追いかけたら殺されちゃう!」

「でも、ロザリーが」

「……相手が悪いべさ。ニクス」


 体を震わせるコネッドがニクスに振り向いた。


「雇用契約書に書いてあっただろ? この城で見たものは誰にも公言しない。つまり、ここには見てはいけないものがある。外に知られてはいけないものが存在するんだ。……驚いただろ? キッド様と瓜二つの双子の姫様」


 でも、全然違う。


「彼女はクレア姫様」


 あの方には絶対に逆らってはいけない。なぜなら彼女は、


「呪われた姫君だからだ」


 青い薔薇が、風に揺られた。


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