第9話 青き姫(1)
『テリー様がいなくなって二週間が経ちました。今もなお、捜索中です』
テレビから声が聞こえて、あたしとニクスはテレビに振り向いた。
『ハロルドさん、どう思いますか?』
『やあ、どうも。みんなの大好きハロルドです。僕の知り合いの女の子にもね、テリー様に似ている子がいるんだ。もう見れば見るほど瓜二つさ。だけどテリー様じゃない。テリー様は三姉妹だけど、その子はお姉ちゃんではなく、お兄ちゃんと仲良しでね。時々、ラジオ局にも遊びに来てくれるんだけど、まあ、その話はさておいて、テリー様、どうやら手紙が見つかったそうじゃないか』
『ええ。枕元にこんなメッセージの手紙があったそうです』
――しばらく旅に出ます。さがさないでください。テリー。
『マリッジブルーで悩む女性は数多くいます。テリー様も、おそらくその一人。大丈夫。きっと景色のいい所でベーコンチーズパンでも食べたら、すぐ戻ってくるだろうさ』
「……まさか……」
キッドファンのリンダが、皿にパンを落とした。
「キッド様とテリー様、新婚旅行に行ってるんじゃ……!」
「ありえる!」
「それな!」
「実は家出と見せかけて、キッド様と旅行に行ってるんだわ!」
「そうよ! そうに違いないわ!」
「私達のキッド様をたぶらかしたに違いないわ!」
「なんて女なの!」
「最低!」
「ニクスとロザリーもそう思うでしょ!?」
リンダに振り向かれ、あたし達は静かに頷いた。
「ほら! みんなそう思ってる!」
「全部、テリーって女のせいだわ!」
「キッド様を返して!」
「ロザリー、今日のサラダ、美味しいね」
「……ん」
ゆっくりと頷き、隣にいるアナトラを見る。
「……サラダ、いる?」
「え? ロザリー食べないの?」
「なんか、……食欲失せた」
「あら、体調でも悪いの? 大丈夫?」
「……大丈夫」
「分かってる。キッド様ショックでしょ。みんなテレビを見てはため息を吐くの。いいわ。私、部屋で踊ってお腹空いてるの。ぜひちょうだい」
「……ありがとう」
コネッドが大きな欠伸をした。
「リオン様ファンのオラには全く関係ねえ。はあ。眠い眠い」
コネッドがステーキをかじりながら、あたし達を見た。
「今日は予定を変更して洗濯係の手伝いするべさ。昨日頼まれちゃって」
「分かったよ」
「ん」
「シーツがたんまりあるぞ。洗濯物は重くってかなわねえ」
「コネッド、私達の班も手伝おうか?」
「ありがとう。アナトラ。でも大丈夫だ。何も無ければ三人で終わるから」
コネッドがまたステーキを美味しそうに食べた。この時にアナトラに手伝いをお願いしていたら、余計なことにはならなかったのかもしれない。
(*'ω'*)
物干し場は庭に設置されている。大きな竿にかけて、洗濯物を干して、乾かしていく。これが終わったらアイロン作業。とんだ体力仕事だ。
(……小型飛行機が飛んでる……)
シーツを干しながら、あたしは空を仰いだ。向こうでぺスカが指を差した。
「おい、見ろよ! 飛行機だぜ!」
「テリー様を捜してるんだろうな」
「もう国内にはいねえんじゃねえ?」
「僕もそう思う」
「いいねえ。海外か」
ぺスカがチラッとニクスを見て、シーツを干しているゴールドの目を盗み、鼻歌を歌いながら忍び足で近づき、ニクスの後ろについた。
「なあ、ニクスはどこの国の旅行に行きたい?」
「国からは出たくないな。怖いじゃない」
「色んなものがあると思うぜ。なんだったら、俺が連れて行ってやっても……」
「コネッド、洗濯ばさみ足りなくなっちゃった!」
ニクスがコネッドに向かって歩く。
「ある?」
「いっぱいあるぞ。その籠から取っていけ」
「ありがとう」
「はーあ! 腰が痛いべさー!」
ぐっとコネッドが伸びをすると、強い風が吹いた。その風に盗まれて、コネッドが干したばかりのシーツの布が、ふわりと飛んでいく。
「あんら! いっけね! シーツが!!」
風でふわふわと飛んでいく。
「ちょっと! やだわー! 風とかまじでワヤすぎるわー! 地面に落ちたら、また洗わないと!」
コネッドが追いかける。
「待て待て! 追いかけっこなんてこりごりだべさ!」
コネッドが走った。シーツがふわふわ飛んでいく。
「あ」
コネッドが顔を引き攣らせた。風に飛ばされた先に、マーガレットとセーラがいたのだ。
「はぶ!」
セーラにシーツが飛びついた。
「な、何よ! これ!」
「ぎゃあああ!! ごめんなさーーーい!!」
コネッドが慌ててセーラからシーツを剥がした。
「ごめんなさい! セーラ様。お怪我はございませんでしたか!」
「何するのよ!」
セーラが怒りの顔をコネッドに向けた。
「私達、歌の練習をしていたのに、あなたのせいで台無しよ!」
「ああ、さようでしたか。そいつはごめんなさい。どうか暖かい太陽の光に免じて許してもらえませんか?」
「私、太陽は嫌いなの! あっつくって仕方ないわ! あなたのせいで時間が台無しになったじゃない! どうしてくれるの!?」
「そんな怒らないでくださいよー」
「……あ」
マーガレットがニクスを見つけて、笑顔になった。
「ニクス!」
大きく手を振る。ニクスが笑顔で手を振り返すと、セーラがマーガレットの靴を見た。
「まあ、大変! マーガレットのお靴が汚れちゃってる!」
「え?」
マーガレットが足元を見た。
「別に、汚れてないよ?」
「きっと洗濯物のせいだわ! どうしてくれるのよ!」
「汚れてないじゃないですか」
「汚れてるもん!」
「はいはい。そうですね。マーガレット様、失礼しますよだ」
コネッドが跪いてエプロンでマーガレットの靴を拭った。マーガレットはきょとんとした顔でセーラを見ている。
「ほら、これで綺麗になった。ぴっかぴかですよ。これでよろしいですか?」
「もっと汚れた気がする! 妹の靴に、何してくれるのよ!」
「セーラ、わたしのお靴、何も汚れてないよ?」
「汚れてるもん!」
「……なんだか、騒ぎになってないか?」
ラメールが怪訝な顔でシーツから覗いた。
「ゴールドさん、ちょっと行ってきます」
「どうした」
「向こうで、セーラ様がコネッドに」
「うむ?」
ゴールドもシーツの間から出てくる。セーラのコネッドに対する怒りはヒートアップしている。
「クビよ! あなたみたいなそばかすだらけの人、クビになればいいんだわ!」
「そう仰らないでくださいよ。ほらほら、オラの素敵な笑顔に免じて」
「何よ! その笑顔! ぶっさいくな笑顔ね!」
「セーラ、その辺に……」
「マーガレットは黙ってて!」
「……」
マーガレットが物干し場に走ってきた。ニクスを見上げる。
「ニクス、セーラがわがまま言ってるの」
「ちょっと様子を見に行きましょうね」
「うん!」
マーガレットと手を取って、ニクスがマーガレットの歩幅に合わせて歩いていく。その後ろを、ラメールとぺスカとゴールドも歩いていく。あたしは黙々と洗濯物を干す。
「そばかすがある顔は、みんなブスなのよ! ブスのくせに許してもらおうだなんて、甚だしいわ!」
「はいはい。そうですねー」
「ちょっと! なによ、その言い方! あなたね、声が気持ち悪いのよ!」
「やめなよ! セーラ!」
マーガレットがニクスの手を握りながらセーラをなだめた。
「洗濯物が飛んできただけでしょ? どうしてそんなに怒ってるの?」
「だいたい、マーガレットがいけないのよ! 歌が下手くそだから、わたしの演奏も上手くいかないんだわ!」
「だから練習してるんじゃない。人のせいにしないでよ!」
「洗濯物が飛んで来たら、集中力が切れちゃったわ! どうしてくれるのよ!」
ふと、セーラがヴァイオリンを見た。
「あ!」
コネッドにヴァイオリンを突きだす。
「ヴァイオリンが傷ついてる! あーー! どうしてくれるのよ! お前なんかと喋ってるから、わたしの大切なヴァイオリンに傷がついたじゃない!」
「それ、昨日セーラが落としたからでしょ」
「楽器は傷ついたら音が変わるのよ! 弁償よ! 賠償金よ!」
「セーラ、もうやめて」
「うるさい! マーガレットは黙ってて!」
「まあまあ。セーラ様」
「セーラ様、僕の亀を見ますか?」
「ちょっと! 胸ポケットに何入れてるのよ! 気持ち悪い! そんなもの見せないでよ!」
「おい、ラメール、しまえって」
「大丈夫。ジョディ、お前はかっこいいよ」
「セーラ様、俺と一緒に鬼退治でも行きませんか? お団子をあげますから」
「お団子なんて大嫌い! もちもちしてて食べづらいじゃない!」
「美味いのに」
「とにかく! この責任取ってよね!」
「はあ、オラはどの責任を取ればいいんですか?」
「クビにしてやるからね! お前なんてね、お母様に言いつけたら一発なんだからね!」
「はいはい。そうですか」
「セーラ様、部屋に戻りましょう。私が送っていきます」
「ごついおっさんがわたしに触らないで! わたしを誰だと思ってるの!? 公爵令嬢の、セーラよ!!」
「どうしたの。セーラ。大声なんか出して、はしたない」
凛とした声に、みんなが振り向いた。柱の間から背の高い女が現れる。彼女こそ、ロゼッタ公爵夫人。グレゴリー様の妻であり、あそこで喚いているセーラとマーガレットの母親だ。
(あの人、確か、ママと同じタイプの人間だったはず。ヒステリーなのよね。メイドの状態で関わりたくないわ)
あたしは黙って洗濯物を片付けていく。セーラがロゼッタ様を見上げ、強気に瞳を輝かせた。
「お母様! この使用人達、みんな最低なの!」
「お母様、違うわ。またセーラがわがまま言ってるの」
「わがままじゃないもん!」
「何があったの」
「申し訳ございません。ロゼッタ様」
コネッドが頭を下げた。
「風の悪戯で、干していたシーツが飛んでいってしまいまして、オラがシーツを捕まえる前に、シーツがセーラ様を抱きしめてしまったんです」
「わたし、マーガレットとお歌の練習してたのよ! なのに、このメイドが!」
「シーツが当たっただけ?」
「はいですだ」
「くだらないことを」
「申し訳ございません」
「今後、娘達の近くで洗濯はおやめなさい」
「かしこまりました」
「セーラ、今後は洗濯物に近付いてはなりません」
「……」
セーラが不満そうに頬を膨らませた。
「それだけ?」
「お母様は忙しいの。時間を取らせないで」
「でも、見て! わたしのヴァイオリンに傷が!」
「そんなもの、新しいのを買えばいいでしょ」
「……」
セーラが息を呑んだ。ロゼッタ様が使用人達に手を振った。
「仕事に戻りなさい」
「失礼致します」
「お母様! あいつらクビにしてよ!」
「メイドの買収の次はクビ? いい加減におし」
「メイドを買いたいって言ったのは、マーガレッ……」
ロゼッタ様がセーラの頬を叩いた。ニクスが目を見開き、マーガレットがニクスのエプロンに顔を埋めた。コネッド達は黙って頭を下げ続ける。ロゼッタ様が鋭い目をセーラに向けた。
「お黙りなさい。はしたない」
「……」
セーラが頬を押さえた。
「あなたは王族の従妹という自覚を持ちなさい。そんなことで大騒ぎして、もしもスノウ様の耳に入ったらどうするの! 恥ずかしくて仕方ない!」
「……」
「ヴァイオリンなら買ってあげるから。それでいいでしょう?」
「……」
「わかったらなんて言うの」
「……でも、メイドが……」
「っ!」
ママもそうだった。言うこと聞かないとぶつのよ。それで、自分の考え方はこうなの。だから、お前達もそうしなさいって言うの。だからあたしはそれを善だと思ってた。メニーに頼んだら何でもしてくれるのも、これも当然なんだって。城下町の人達が自分達よりは格下だから、どんな無礼を働いても許される。あたしはそう思ってた。それが正しいと思ってた。悪と善の見分けが出来なかった。だって、教えてもらえなかったんだもの。そしたらみんなに嫌われた。裁判で嘘をつかれて、罪が重くなって、たくさんの人々から罵倒を受け、なぜあたしがこんな目に遭わなければいけないのと、不思議に思った。でも、今ならわかる。
セーラは、悪と善がわかってない。だから、なぜ自分が叱られているかわかってない。だから戸惑ってる。叩かれた頬が痛くて、罪悪感では無く、お母様に殴られないようにという恐怖心が支配していく。そして、悪という悪がわからない人間になっていく。あたしのように。
――テリー、されてどんな気持ちになるか、自分が一番よくわかってるはずでしょ? 人にも同じことするの?
ニクスに言われた。
――それを経験したから、君は同じことをされてる人を見た時、その人の気持ちがわかるようになった。一番守ってあげられる立場になれたんだ。それってすごいことじゃない?
あたしには、彼女の痛いほどわかる。
――そんなことしたらいけないよってちゃんと教えてあげないと、人に酷いことしてるってわからないまま、大人になっちゃう。それが一番よくない。
あたしには、ニクスもアリスも、クロシェ先生もいなかった。誰も教えてくれなかった。
――そしたら、テリーみたいに傷つく人が減るかもしれないよ?
誰も、味方なんていなかった。
「ヴァイオリンなら買ってあげるから。それでいいでしょう?」
「……」
「わかったらなんて言うの」
「……でも、メイドが……」
「っ!」
ロゼッタ様が勢いのまま、再び手を上げた。セーラが目を瞑って、肩に力を入れた。ロゼッタ様の手が振り下りる前に――シーツがロゼッタ様を覆った。
「きゃあ!!」
ロゼッタ様が急いでシーツを自分から引きはがした。
「も、ちょっと! 一体、何なの!?」
「申し訳ございません」
あたしはぺこりと頭を下げた。
「風がシーツを盗んでしまいまして、ロゼッタ様を抱きしめてしまいました」
「気を付けなさい!!」
「申し訳ございませんでした」
「全く!」
ロゼッタ様があたしの上にシーツを投げた。あたしの頭がシーツで覆われる。
「くだらないことで騒ぐんじゃありませんよ! セーラ!」
「……はい……」
「ふん!」
ロゼッタ様が歩き出した。あたしはシーツを腕に巻き付け、頭から剥がす。姿勢を上げると視線を感じて、ちらっと目を向ければ、ニクスが口パクで言った。
――ナイス。テリー。
あたしはため息を吐き、セーラを見下ろした。セーラがむくれたまま俯き、ヴァイオリンを握り締めていた。
「……セーラ様、そのヴァイオリン、傷なんてどこにあります?」
「……」
「どこですか?」
「……」
セーラがヴァイオリンを突き出した。あたしはそれを見て、またため息を吐いた。
「それは元々ついているものではないですか? 触ってみてください。その傷の上にやすりがつけられた跡があるはずです」
「……」
セーラが眉をひそめて触ってみた。
「それと、曲の練習をする時に、マーガレット様の歌に合わせず、テンポをゆっくりにして一人で練習してみてください。指が追いついてないなら慣れるまでやるのが練習です」
セーラが眉をひそめたままあたしを見た。
「一つ一つの音を奏でればちゃんと音が出るのだから、ちゃんと奏でてあげてください」
セーラがあたしの後ろを見た。
(……ん?)
全員があたしの後ろを見た。
(ん?)
マーガレットが青い顔になってニクスの背中に隠れた。ぺスカとラメールの表情が固まった。ゴールドが唾を飲んだ。コネッドが目を見開いた。ニクスが眉をひそめた。
――なんだか、様子がおかしい。
あたしも後ろを振り向くと、ロゼッタ様が青い顔で後ずさってこっちに戻ってきた。
「……どうして、あなたが、ここに?」
ロゼッタ様の声が引き攣っている。
「お部屋にいるのでは?」
「今日はよく晴れているだろう?」
柱の奥から、天使のような声が響く。
「とても気分が清々しいの」
ヒールの音が聞こえる。
「ば、バドルフから、許可は?」
「どうせ許してくれまい。でも、あたくし、どうしてもお外に出たかったの。だから、目を盗んで抜け出してきたんだ」
「ば、ば、バドルフに、叱られるわよ! 早く、お部屋に戻りなさいな!」
「おば様、そんな酷いこと言わないで? こんな天気のいい日に、お散歩一つも出来ないなんて、それこそ気が触れてしまう」
コネッドとゴールドがあたしの前に立った。見上げると、ゴールドにひそめられた声で言われる。
――そこから動くな。
コネッドが目だけをあたしに向け、小さく頷き、そして、青い顔で前を見た。柱の影から、影がうごめく。
「なにやら、誰かの頬が叩かれた音が聞こえた。おば様、一体、どうしたの?」
「い、いや、その、ほら、あなたの、大切な従妹であるセーラがね、うふふ、あの、ちょっと、大騒ぎしちゃって!」
「大騒ぎ?」
柱の手前で影が止まった。
「セーラ、またいたずらをしたのか?」
「っ」
セーラの血の気が一気に下がった。青い顔で、首を振る。
「どんな面白いことをして、みんなを困らせたの?」
足が柱から出てくる。素敵なガラスの靴を履いている。
「あたくしに教えてよ」
青いドレスが出てくる。胸元につけられた大きな青薔薇のコサージュ。
「おや、素敵なヴァイオリンを持ってるな」
青くて長い髪の毛が、風に揺られて、ふわりと揺れた。
「そういえば、セーラはヴァイオリンが弾けるんだったな」
太陽の光に当たったその人物を見て、あたしは目を見開いた。
「一曲、お聴かせ願おうか」
キッドの双子の姉、クレア姫が、セーラに天使の笑みを浮かべていた。
「……っ」
途端に、セーラが蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。手をぶるぶる震わせて、怯えた目をクレアに向ける。クレアはにこにこ微笑んでいるだけ。横からすかさずロゼッタ様がセーラの肩を叩いた。
「ほら、セーラ」
「え?」
「練習した曲があるでしょう? クレアに聴かせてあげなさい」
「……」
セーラが首を振った。
「お母様、でも、わたし……」
「早く弾きなさい! さあ!」
「え、えっと……」
セーラがマーガレットを見た。
「う、歌なら……マーガレットが……歌が……上手で……」
「っ!」
マーガレットはニクスに掴まってぶるぶる震えている。しかし、クレアはセーラから視線を逸らさない。
「あたくしは、ヴァイオリンの音を聴きたいと言っている」
「あ……で、でも……」
「早く聴かせてくれないか? 曲は何でもいいよ」
クレアがにこりと笑えば笑うほど、セーラの顔が青くなっていく。
「あ、あの、わ、わたし……」
「ああ、そうだ。ほら、リオンの誕生日会の時にやった曲があるだろう?」
「……」
「あれをぜひ聴きたいな。弾いてくれないか?」
クレアの青い目が薄くなる。
「いいだろう?」
「もちろんだわ」
ロゼッタ様がセーラの背中を叩いた。
「ほら、セーラ」
「は、はい……」
セーラがヴァイオリンを構える。手が異常に見えるほど震えている。そして、そのままセーラの手が動かない。震えたまま固まる。ロゼッタ様が背中を叩くが、セーラは動かない。たぶん、動くことが出来ないでいる。クレアが眉を下げて、首を傾げた。
「どうしたの? どうして弾いてくれないの?」
セーラとロゼッタ様がびくりと体を揺らした。
「あたくしは聴きたいって言ってるだけなのに」
クレアの青い瞳が二人を見つめる。
「あたくしの願いを聞いてくれないの?」
クレアが笑った。
「あ、そうか。緊張してるんだな? うふふっ。何も緊張することなんかないぞ。従妹同士じゃないか」
セーラが俯いてしまう。
「あれ、どうしたの? セーラ」
セーラの上からクレアが見下ろす。
「早く弾いてごらん?」
クレアがセーラを見つめる。
「早く」
クレアの声が低くなってくる。
「早く」
セーラは動けない。
「早く」
クレアの声が低くなる。
「早く、弾け」
――あたしの手がセーラからヴァイオリンを奪った。セーラが驚いたように目を丸くして、手をヴァイオリンから離す。ロゼッタ様が口を押さえた。クレアの目が移動した。あたしはヴァイオリンを構えた。リオンの誕生日会で聴いた、『ナターシャの庭園』を弾く。セーラがぽかんとした。あたしは弓を引く。ヴァイオリンの質がいいのだろう。とても良い音色が流れる。
ナターシャ。ナターシャ。私の思い出。
君は走り回る可愛い子。
私は君を追いかけてばかり。
君は可愛いナターシャ。私の思い出。
初恋の女の子。
ナターシャ。ナターシャ。私の好きだった子。
君を忘れてしまう私を許して。
作曲者が、初恋の女の子を忘れないために作った歌。ナターシャの庭園。淡い想いを乗せた歌。ゆっくりと弓を引けば、曲が終わる。
「名曲、『ナターシャの庭園』です」
クレアに目を向ける。
「セーラ様くらいの年頃の方には難しい曲でございます。譜面も無しに弾かせるなんて、可哀想だとは思いませんか?」
クレアが黙った。
「……」
クレアが腕を組んで、人差し指を唇の下に当て、眉を下げて、複雑そうな顔をした。
「……」
首を傾げてみせる。
「あたくし、怖い顔の女の子は嫌いだ。あたくしに意見をする女の子も嫌いだ。あたくしを睨んでくる女の子も嫌いだ。あたくしの目を見てくる女の子も嫌いだ。あたくしの前に立ちふさがって、強気な目であたくしを見てくる女の子はもっと嫌い」
クレアが口角を下げて、冷ややかな目をあたしに向けた。
「お前、不愉快だ」
クレアが指をパチンと弾いた、と共に、あたしの髪を丸く結んだリボンがほどけた。
(えっ)
ロゼッタ様が小さな悲鳴をあげた。
(なに?)
今、何した?
「あたくしはとても不愉快になった」
すぐ目の前で、クレアが見下ろしてくる。
「お前のせいだ」
(……なに?)
空気が重くなる。風が強くなる。異様な雰囲気を感じる。
「ひい!」
セーラが腰を抜かしてその場に座り込んだ。あたしはセーラの前でクレアを睨む。クレアは静かに手を伸ばし、あたしの髪の毛を掴み――乱暴に引っ張った。
「ぎゃっ!」
思わずヴァイオリンを離して、地面に落としてしまう。だけど、拾う暇は無い。クレアがあたしの髪の毛を引っ張り、柱の間に歩いていく。
「な、ちょっ! 何するのよ!」
「姫様!」
ゴールドが止めに入ると、クレアのドレスがなびいた。
(え?)
太ももに厳重な装備。固定されたベルトから、クレアが銃を持って撃つのが見えた。しかし、その速さ、誰も追いつけない。風が吹く頃には、銃弾をかすったゴールドの耳たぶが火傷していた。ゴールドが思わず動きを止める。しかし、なんとかあたしを助けようとしたコネッドが口を開いた。
「ロザリー!」
――クレアの足が止まった。ゆっくりと振り向いて、細い目をコネッドに向ける。
「……今、ロザリーと言ったか?」
「あっ」
コネッドの血の気が下がった。みるみる顔が青くなっていく。
「ご、ごめんなさい。オラ、つい……!」
「このメイドは、ロザリーというのか?」
「姫様! あのっ! その子は新人でして!」
「ロザリーという使用人が現れた時、ロザリー人形は動き出す。ロザリーを求めて」
クレアがにんまりと笑った。
「つまり、このメイドを側に置いておけば、ロザリー人形が来るかもしれない。ロザリー人形って強いのかな? あたくしを殺せるほど強いなら、あたくしはぜひ対戦してみたい。そしたら、くくっ。とっても面白そうなことになりそうだ。このつまらない日常が少しは華やかになるかもしれない」
クレアがロゼッタを見た。
「おば様、このメイドもらってもいい?」
「わ、わたくしには答えられないわ! そんな権限ないもの! そうだわ。バドルフに訊いてみたらどう?」
「わかった。訊いてみる。どうもありがとう」
クレアが腰の抜けたセーラを見た。
「セーラ」
セーラが震える目をクレアに向けた。
「また遊ぼうね」
にっこり微笑んで、あたしの髪をぐいと引っ張って、クレアが歩き出す。あたしは引きずられて、悲鳴をあげる。頭が痛い。あたしの繊細で美しい髪の毛が抜けちゃう!
「ちょっと! 引っ張らないで! 痛いじゃない! 痛いってば!!」
ニクスが追いかけようと一歩踏み込むと、マーガレットがそれを止めた。
「だめ。ニクス。追いかけたら殺されちゃう!」
「でも、ロザリーが」
「……相手が悪いべさ。ニクス」
体を震わせるコネッドがニクスに振り向いた。
「雇用契約書に書いてあっただろ? この城で見たものは誰にも公言しない。つまり、ここには見てはいけないものがある。外に知られてはいけないものが存在するんだ。……驚いただろ? キッド様と瓜二つの双子の姫様」
でも、全然違う。
「彼女はクレア姫様」
あの方には絶対に逆らってはいけない。なぜなら彼女は、
「呪われた姫君だからだ」
青い薔薇が、風に揺られた。
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