第14話 10月28日(1)
( ˘ω˘ )
あたしはアルバムを開く。10月28日のページを開く。
「事件があったのは、人が多い時間だった」
そうだ。昼時だ。
「あたしはヴァイオリンの練習をしてた」
兵士から電話を受けたギルエドが突然、部屋に入ってきた。
「テリー様、今日は外出を控えてください」
あの時の時間は何時だった。ランチの後くらいだった。あたしは面白がって出歩いた。
「つまり、惨劇は昼時くらい」
「午前中にアリスは動き出す」
「事が起きる前に、アリスに会えれば、止めることが出来るかもしれない」
惨劇は起きる。
「起きるのよ。あたし」
あたしはアルバムを閉じる。
「起きるのよ」
あたしは立ち上がる。
「アリスに会いに行かなきゃ」
あたしは片足を上げる。
「アリーチェ、会いに行くわ」
あたしは一歩、踏み込んだ。
(*'ω'*)
肌寒い。そっと目を開ける。
雨の滴る音が聞こえてくる。今日も雨だ。部屋が薄暗い。
「……ん……」
掠れた声を漏らして、頭を掻いた。
「んん……」
あたしは起き上がる。
「ふわあ……」
欠伸をする。
(行かないと……)
10月28日。
(今日が過ぎれば)
全部終わる。
(何としてでも、アリスに会いに行かないと)
しかし、頭がぼうっとする。
(寝た気がしない……)
時計を見る。9時30分。
(……まだ時間は沢山ある)
少し寝ようかな。
(……いや、起きよう)
今日さえ過ぎれば、いくらだって安心して眠れるのだ。
(起きよう)
今日さえ過ぎてくれたらいいのだ。
(アリスに会いに行こう)
あたしはベッドから抜けて、クローゼットを開ける。
「んー……」
服に悩む。
(動きやすい服装の方がいいわね)
何かあった時に、いつでも逃げられる服。
(……いつも通りでいいか)
あたしはキッドのお下がりのパーカーを脱いで、パンツを脱いで、下着をつけて、スノウ様から買っていただいた服とパンツを身に着ける。痣は、どこにない。
(……)
首の包帯を解いてみた。手鏡を見て、うなじを確認する。
「……ん」
目立たないように薄くなってる。
「……これならいいわ」
キッドに噛まれた痕、ジャックの痣、もう気にする必要はない。
「素晴らしい」
包帯無しでアリスに会いに行ける。
(今日が山場よ)
(今日で終わらせるのよ)
あたしはニクスのピアスを光らせて、小指に指輪をはめて、扉を開ける。廊下を歩き、階段を下りてリビングに行けば、じいじがラジオをつけて、本を読んでいた。あたしに顔を向けて微笑む。
「おはよう。ニコラ」
「おはよう。じいじ」
「朝食は?」
「食べていく」
「座りなさい」
じいじが立ち、キッチンの方へ向かう。あたしもキッチンに行く。牛乳の用意をする。じいじは目玉焼きを作ってトーストの上に乗せた。あたしはテーブルで待つ。二枚のトーストの横にサラダを乗せて、じいじがあたしの前に皿を置いた。
「はい」
「ありがとう」
手を握る。
「我らが母の祈りに感謝して、いただきます」
トーストを頬張る。
(……美味しい)
久しぶりのじいじの朝食。
(……美味しい)
素直に感じる。
(美味しい)
これが最後のご飯になるかもしれない。
(惨劇が起きる)
あたしは味わって食べる。
(絶対止めてみせる)
よく噛んで、味わう。
(……)
「今日は何時に出かけるんじゃ?」
じいじが優しく訊いてくる。あたしは時計を見た。
「……これ食べたらもう行く」
「そうかい」
「じいじ」
「うん?」
「すごく美味しい」
「ほう」
じいじが微笑む。
「そうかい」
ソファーに座り、本を広げる。
「ゆっくりお食べ」
「ん」
あたしはトーストを噛む。
「夜ご飯までには、帰るから」
「あまり遅くならないようにな」
「分かってる」
あたしは帰ってくる。
絶対にここに帰ってくる。
「ちゃんと帰るわ」
門限よりも、ずっと前に。
「暗くなる前に、帰る」
言い聞かせるように呟いて、あたしはトーストを頬張った。
(*'ω'*)
11時。西区域。
エターナル・ティー・パーティーへ行くと店が閉まっていた。ベルを鳴らせば扉が開いた。カトレアが出てくる。
「あら、ニコラちゃん」
「こんにちは」
「こんにちは」
カトレアが美しい笑顔を浮かべる。
「アリス?」
「あの、昨日の夜、お爺ちゃんとマフィンを作ったんです。アリスと食べようと思って」
「そうだったの。……あのね」
マフィンの入った紙袋を差し出せば、カトレアが眉をへこませた。
「せっかくだけど、あの子、今、出かけてるのよ」
「え?」
「ダイアンのお使いに行ってて」
「お使い?」
「お店で待っててくれる? すぐに戻ってくると思うわ」
あたしは時計を見た。数字を示す針を見て、微笑み、マフィンをカトレアに渡す。
「アリスに会いたいから、あたし、追いかけます。どこにいます?」
「あら。うふふ!」
カトレアが無邪気な顔で微笑むあたしを見て笑った。
「アリスったら幸せ者ね。今頃、商店街の店を駆け回ってると思うわよ。ダイアンが体調を崩しちゃってね。仕事で必要なものがあるらしくて、私に電話してきて、それをメモしてたら、アリスに奪われちゃったの。多分、エメラルド通りじゃないかしら」
「エメラルド通りですね」
「ええ。照明器具の道具だったと思うから、あそこだと思う」
「分かりました」
あたしは頷いて、一歩下がる。
「いなかったら戻ってきます」
「ね、ニコラちゃん、雨が降ってるし、やっぱりお店で待ってたら?」
「今日遊ぶ約束してるんです。早く遊びたいから、行ってきます」
「そう。気を付けてね」
「はい!」
笑って返事をして、あたしは傘を掴んで、走り出す。
(商店街)
惨劇が起きる。
(エメラルド通り)
広場の近く。
(急ごう)
あたしは走る。乗合馬車を使おうか。
(駄目だ。雨で馬が足を滑らせて事故にあったらどうする)
時間をロスするわけにはいかない。
(急がば回れよ)
あたしは自分の足で走る。西区域から中央区域に急ぐ。
(アリス)
あたしは走る。時間は進む。
(アリス、どこ)
あたしは走る。時間は進む。
(急がないと)
あたしは走る。時間に追われる。
(時間が来る)
あたしは走る。時計の針はちくたく動く。
(時間がくる。大変だわ。時間がくる。大変だわ)
あたしは走る。雨の中を走る。
あたしは走る。時間の針に追われて走る。
あたしは走る。鎖時計が並ぶ時計屋の前を走る。
あたしは走る。アリスを追いかける。
(間に合わない。今なら間に合う)
あたしは走る。今までと同じように。
(今なら間に合う)
あたしは走る。
(アリス。待って)
アリスがいない。
(アリス、どこ)
アリスはいない。
(どこなの)
人が歩く。広場を歩く。雨でも歩く。開いてる店があった。いくつか開店していた。悪夢は終わった。皆は思い出した。買い物をするために歩く。笑い合っている人々。手を繋いで歩く人々。どこか安堵したような顔の人々。広場を歩く。あたしは走る。アリスを追いかける。悪夢はまだ終わっていない。事件は終わっていない。アリスがいない。あたしは探す。アリスを探す。エメラルド通りを走る。時計の針が進む。アリスがいない。ピナフォアを探す。アリスを探す。あたしは走る。長靴を動かす。
(アリス)
アリスはいない。
(アリーチェ)
アリスはいない。
乗合馬車が通る。馬車が通る。人々が歩く。女の子が歩く。
(ん?)
灰色の女の子が歩いている。
(ん?)
傘から長い髪の毛を覗かせている。
「アリス」
あたしは呼ぶ。
「アリス!!!!」
――アリスが振り向いた。
緑の目をあたしに向けた。
あたしはアリスに駆け寄った。
バスケットを持ったアリスが微笑んだ。
「ニコラ!」
アリスがあたしに歩み寄った。優しく微笑んで、歩み寄った。
11時40分。
「アリス」
11時41分。
「アリス、良かった。やっと見つけた」
あたしはアリスの手を握った。アリスは微笑んだ。
11時42分。
「ちょっとニコラってば、汗だらけじゃない。レディがそんなんじゃ駄目よ?」
「アリス、遊びましょう。遊ぶって言ったわ」
「それがごめんね。遊べなくなっちゃったのよ」
アリスが申し訳なさそうに言う。あたしはアリスの手を握りしめる。
11時43分。
「アリス、遊んでくれないの?」
「ごめんね。ダイアン兄さんに頼まれちゃって」
「おつかいでしょ」
「あら、ニコラ、よく知ってるわね」
「カトレアさんが言ってたわ。メモを奪われたって」
「違うの。言ったでしょ。裏でダイアン兄さんに頼まれたの」
絶対にカトレアに頼めないものも含まれてるんだ。アリス、お前しかいないんだ。ぐっ……。体調が……。ねえ、頼むよ……。
「悪夢も終わったってのに、兄さんってばドジね」
ふふっと、アリスが笑う。
「忘れてたことを思い出したのよ。ニコラもそうでしょう?」
11時44分。
「兄さんね、大事なもの忘れてたんだって。だから私が渡しに行かないと」
「じゃあ、あたしも行きたい」
「駄目よ。聞いてなかったの? ダイアン兄さんが人に見せたくないものもあるの」
「何それ。エロ本?」
「ちょっと、もー!」
「ねえ、いいでしょ? ダイアンさんのお使いなんてサボって、あたしと遊びましょうよ」
11時45分。
「ね? アリス、いいでしょう?」
「駄目よ。ニコラったら、どうしたの? 今日は特に甘えん坊だわ。あ、そうか。今日はデレ日なのね。ふふっ!」
「アリスと遊びたいの。ねえ、アリス」
「ごめんね。私、兄さんに届けに行かないと」
あたしはその手を離さない。
11時46分。
「駄目。あたしと遊ぶの」
「ふふ! どうしたの? ニコラ」
「あたしと遊んでくれるまでこの手を離さないわ」
「駄目って言ってるでしょ」
「やだ」
「もう、ニコラってば、しょうがないわね」
11時47分。
「アリス、昨日、お爺ちゃんが帰ってきたの」
「あら、そうなの?」
「仕事が終わったの。お兄ちゃんも帰ってきたわ」
「まあ! 良かったじゃない!」
「マフィンを作ったのよ。アリス、一緒に食べましょう。お茶を飲んで、何でもない平和な一日をお祝いして、二人だけでお茶会を開いて、トランプをするの。ね? アリス」
「ニコラ、私も遊びたいのだけど、兄さんが困ってるのよ。行ってあげたいの。今日一日お手伝いしなきゃいけないから、明日じゃ駄目?」
「明日はバイトが始まるじゃない」
「ああ、そうだった」
アリスが眉をへこませた。
11時48分。
「そっか。明日は、バイトか」
「そうよ」
「じゃあ、また違う日に」
「いつ?」
「え」
「いつ?」
「……それは……」
アリスは微笑む。
「そうね、いつがいい?」
「今日」
「困ったわね」
アリスが眉をへこませて、微笑む。あたしはアリスの腕を引っ張った。
「ねえ、遊ぼう? 遊んで?」
11時49分。
「ダイアンさん、そんなに大事?」
「大事よ」
「でも、ダイアンさんはアリスを見てくれないじゃない」
「ええ」
「そんな人のために、アリスが動く必要ないわよ。カトレアさんに任せればいいわ」
「でも」
「お使いなら、明日でもいいじゃない」
「明日じゃ、駄目なのよ」
「どうして?」
アリスが微笑む。
「ニコラ、あのね」
アリスがあたしの手を握る。
「私、今日、ニコラに会えて幸せよ」
アリスがあたしを見つめて、微笑む。
11時50分。
「ニコラ、これからも友達でいてくれる?」
「何言ってるの。当然でしょ」
「また遊んでくれる?」
「ええ」
「そう。良かった」
アリスがあたしの手を、あたしの元へ返した。
「ごめんね」
アリスがあたしの手を離した。
「私、いかなきゃ」
「ダイアンさんの所?」
「……ええ」
「一緒に行く」
「駄目」
アリスが微笑む。
11時51分。
「私一人でいくわ」
アリスが微笑む。11時52分。
「ついてきちゃ駄目よ」
アリスが手を振る。11時53分。
「だから、さようなら。ニコラ」
アリスが微笑んで、手を振る。11時54分。
「あたしも行きたい」
「駄目」
11時55分。
アリスはあたしの肩を押した。
「ほら、駄目よ。今日は遊べないの。もう帰って」
「……」
「帰って、ニコラ」
アリスはあたしが行くまで動かない。あたしは一歩後ろに下がる。
「ねえ、お店で待つならいい?」
「ニコラ」
アリスが笑った。
「今日は、もう帰って」
11時56分。
「もう遊べないの」
「そんなに時間かかるの?」
「ええ」
アリスが笑った。
11時57分。
「ニコラが待ってても、もう遊べないのよ」
アリスが申し訳なさそうに微笑む。
11時58分。
「だから、帰って」
「……一緒に行くのも駄目?」
「駄目よ。絶対ついてこないで」
「……」
あたしはまた一歩引いた。
「……分かった」
「ありがとう。ニコラ、大好き」
「……」
「さようなら」
アリスが手を振った。あたしはアリスを見ながら、足を後ろに向ける。後ろに体を向ける。歩き出す。そして、ちらりと振り向く。アリスはまだあたしを見てる。
(見られてる)
あたしは歩く。またちらりと振り向く。アリスは動かない。
(あたしがいなくなるまで、見てるんだ)
なんで?
11時59分。
あたしは歩く。歩く人々の中に隠れた。またちらりと振り向く。アリスは動かない。あたしの姿を見ている。
11時59分。
あたしは歩く。歩く人々の中に完全に隠れた。あたしは振り向く。アリスの姿を遠くから確認する。アリスがようやく歩き出した。あたしは歩き出す。アリスの背中を追いかける。
11時59分。
アリスは歩き出した。あたしはついていく。
11時59分。
――どこか、違和感を感じる。
11時59分。
アリスが歩く。あたしは歩く。
――ふと、アリスが止まった。
(ん?)
アリスが踏み込んだ。
「え?」
アリスが走り出した。
10。
「アリス」
9。
「アリス?」
8。
横から馬車が走ってくる。
7。
アリスが構わず走る。
6。
「アリス」
5。
アリスが走ってくる馬車の前に出る。
4。
「アリス」
3。
御者が気付いた。紐を引いた。馬が鳴いた。
2。
悲鳴があがった。あたしは手を伸ばした。
1。
「アリス」
12時00分。
アリスの背中を突き飛ばした。
アリスが派手に転んだ。あたしも派手に転んだ。傘が手から離れ、転がる。アリスの腕からバスケットが抜けた。物がバラバラになる。人々が悲鳴をあげる。御者が紐を引き、声を出し、驚いた馬を落ち着かせる。御者が大声をあげた。
「危ないじゃないか!!」
雨があたし達を打ち付ける。髪が濡れる。服が濡れる。片方、長靴が脱げていた。膝が痛い。肘が痛い。体が痛い。泥だらけ。でもそれよりも、あたしの体が異常なほど震えていた。心臓がばくばくと音を鳴らし、顔を上げる。
「……アリス?」
アリスがむくりと起き上がる。周りを見る。手を見る。アリスが黙って、襟のリボンを解いた。
「いける」
アリスがリボンを掴んだ。
「今なら逝ける」
アリスがリボンを首に巻き付けた。
「今ならいける」
アリスが呟く。
「今なら」
「アリス」
あたしは起き上がり、アリスの手を掴んだ。アリスの手は躊躇なく首に巻き付けたリボンを引っ張る。あたしはリボンを緩ませるために、アリスの手を押さえる。
「……やめて……」
「今ならいける」
「アリス、やめて」
「今ならいける」
「アリス、やめて」
「いける。今ならいける」
「アリス、やめて、アリス……」
あたしの手が震える。アリスの手を押さえる。うわごとのように、アリスが呟く。
「いけない」
「アリス」
「いけないじゃない」
「アリス」
「殺して」
「アリス」
「殺さないと」
「アリス」
「いけない」
「アリス」
あたしの声が震える。あたしの視界が揺れる。
「アリス、やめて」
「これでいける、今ならいける」
「アリス、やめて」
「今なら殺せる」
「やめて」
「今ならいける」
「やめて」
あたしはアリスの手を離した。
「いける」
――ぱちんと、音が響いた。
アリスの頬が叩かれた。
あたしの手が叩いた。
あたしの顔が雨で濡れる。アリスの顔が雨で濡れる。あたしが泥で濡れる。アリスが泥で濡れる。アリスが黙る。黙る。うなだれる。
「ああ」
アリスの目に雨が当たる。水が滴る。
あたしの目に雨が当たる。水が滴る。
「また、いけなかった」
ぽつりとアリスが言った。リボンがするりと、アリスの手から滑り落ちた。地面に落ちた。水たまりに沈んだ。濡れて、浮かんだ。
「アリス?」
馬車の窓から男が顔を覗かせた。ガットが、泥だらけのあたしとアリスを見た。
「何やってるんだ。二人とも」
「それが」
御者が窓に向かって顔を向けた。
「突然、彼女達が道の前に……」
「俺の知り合いだ」
ガットが馬車の扉を開けた。傘を差さずに馬車から下り、雨に濡れながらアリスとあたしに歩いてくる。
「酷い雨だ。さあ、中へ」
アリスは黙る。うなだれたまま黙る。
「アリス、行きましょう」
あたしは横からアリスの肩を抱く。
「さぁ、アリス、立って」
アリスは立たない。座ったまま、雨に打たれる。
「アリス、立って」
「……」
「アリス、お願い、立って」
「……」
「アリス、ねえ、アリス」
どんなに肩を揺らしても、アリスは反応しない。ひたすらうなだれる。あたしは肩を揺らす。視界が揺れる。唇を噛む。虚ろな目のアリスにガットが近づき、アリスの腕を掴んだ。
「アリス。……お友達を泣かせるものじゃない」
思いきり引っ張り、アリスを無理矢理立たせる。
「おいで」
「……」
アリスは黙る。ガットがあたしを見た。
「あんたもだ」
「……はい」
あたしは頷き、アリスの手を掴んだ。
「行こう。アリス」
「あ」
アリスが地面に手を伸ばした。
「おつかい」
あたしはアリスを引っ張った。
「そんなのいいから。中に入って」
「おつかいが」
「いいから、早く」
「おつかい」
「そんなのいいから……!」
あたしはアリスを無理矢理引っ張る。バスケットを地面に残したまま、力づくで馬車に乗せる。
「……あ……」
アリスを奥に入れ、出られないようにあたしが扉側に座る。ガットが散らばった物を見て、首を傾げ、空になったバスケットだけを拾う。道端でぽかんとしていた人々がガットを見る。ガットが顔を上げる。にやりと口角を上げ、紳士らしく帽子を外し、人々にぺこりとお辞儀をした。ガットの髪の毛が濡れる。しかし、気にせずガットは微笑む。姿勢を戻し、バスケットを揺らしながら馬車へ乗り込んだ。濡れる御者が扉の前に立つ。
「あの」
「エターナル・ティー・パーティーへ。そこの娘さんだ」
「ははっ」
「警察が来るぞ。急げ」
「はい」
扉が閉められた。アリスはうなだれる。あたしはアリスの手を握る。震えている。馬車がすぐに動き出す。アリスの体が揺れる。あたしの体が揺れる。ガットが濡れたスーツのジャケットを脱いだ。
「ああ、全く。こんな雨の日に水遊びかい? 色女だねえ? アリス」
ガットがアリスに微笑む。アリスは俯く。
「あんたが何を考えているか分かるよ。俺は偉さが違うからね」
ガットがアリスから目を逸らした。
「とりあえず、家まで送ろう。あんたのことは気に入ってるんだ」
ガットが微笑む。
「死なれたらつまらなくなるじゃないか。アリス」
アリスが瞼を閉じる。あたしの手を握り返す。あたしは手を握る。アリスの手を強く握り締める。アリスは黙る。あたしは黙る。馬車が動く。ガットが欠伸をした。
あたし達を揺らして、馬車が帽子屋へと向かって走り出した。バスケットはガットの横にある。中身は、なぜか拾わなかったらしい。
アリスは何を買ったのだろう。
(……どうでもいい)
あたしはアリスの手を握った。
(お使いなんて、どうでもいい)
アリスはあたしの手を握る。
(どうでもいい……)
アリスは、何も言わない。
(*'ω'*)
??時。
泥だらけのアリスを見て、あたしを見て、カトレアが顔を青ざめた。父親のマッドが息を呑んだ。
「アリス」
真っ青なカトレアが体を屈ませ、アリスの肩を掴んだ。
「何があったの」
アリスは黙る。カトレアが怒鳴った。
「言いなさい! あんた、何をしようとしたの!」
アリスがカトレアの手を払った。カトレアから抜け出す。
「アリス!」
アリスが奥へ駆け出す。
「アリス!!!」
カトレアが怒鳴る。アリスが階段を駆けのぼる。扉を思いきり閉める音が聞こえた。カトレアが目頭に涙を溜め、マッドに歩んだ。
「ああ、父さん。ああ……なんてこと……」
「カトレア、落ち着きなさい」
マッドがカトレアの背中を撫で、ガットに頭を下げた。
「ガットさん、娘を送っていただきありがとうございます」
「感謝ならば、この子に」
あたしに一瞬手を向け、ガットが帽子を被り直す。
「さて、久しぶりにアリスの顔も見られたところで、俺は行きますね。また来ます」
「はい。本当にありがとうございました」
「それでは」
ガットがあたしの顔を見た。
「アリスを頼んだよ。仲良く遊んであげて」
そう言ってウインクして、店から出ていく。扉が閉まる。雨が降る。カトレアが鼻をすすり、深呼吸し、マッドに言った。
「……ダイアンに電話してくるわ。しばらくアリスを休ませないと」
「そうしなさい」
「……しばらく外出させないわ」
「ああ。そうだな」
「……なんてこと……朝は、……そんな素振り見せなかったのに……」
声を震わせ、カトレアが店の奥に歩いていく。マッドがその背中を見送り、あたしに顔を向けた。親しげに声をかけられる。
「やあ、ニコラ」
「……」
「服を乾かそう。その間、アリスの部屋にいてくれるかい?」
「……」
「癖なんだよ」
マッドが肩をすくめた。
「ふとした時に、現実が嫌になるんだろうな。前からずっとこうなんだ」
「……」
「上着はこちらで乾かそう。寄こしなさい」
あたしはジャケットを脱いだ。マッドに渡す。マッドがハンガーにあたしの上着をかけた。
「日曜の夜にも同じようなことをしてね。未遂で終わったが、カトレアが酷く心配して、職場を休ませてしまったんだ。申し訳ない」
「……」
「火曜日に様子を見に来てくれたそうだね。……アリス、出てこなかっただろ?」
「……」
「なぜ掃除を始めたと思う?」
マッドが息を吐いた。
「部屋で輸血をしたんだ。今回は結構深いところまでやってしまって、病院に行かせるのが危なかったんだ。だから部屋で全て行ったもんで、道具も全て残ってしまってね」
誰にも会うわけにはいかなかった。見せるわけにはいかなかった。
アリスは隠した。掃除をした。全てを捨てた。証拠は一切残さないよう。誰が来ても見つからないように、全部、断捨離した。
「おや、膝をすりむいているぞ。良かったらアリスも一緒に手当てしてもらっていいかい?」
「……」
「はい」
マッドがあたしに救急箱を渡した。
「上へどうぞ」
あたしは黙って救急箱を受け取り、腕に抱いて店の奥に進んだ。廊下の奥からカトレアのすすり泣く声が聞こえる。雨が窓を打ち付ける音が響く。あたしは薄暗い階段を上がる。二番目の扉のドアノブをひねる。扉が簡単に開く。
部屋に服が脱ぎ捨てられていた。
アリスがキャミソールとぱんつのまま、膝を抱えてベッドに座り、窓を眺めていた。
アリスの二の腕に線のような痕が、ミミズ張りになって浮かんでいるのがいくつも見えた。あたしは部屋に入り、扉を閉める。
「擦り傷、手当てしておいでだって」
あたしは床に座り、救急箱を開けた。消毒液が入ってる。綿につけて、自分の膝につける。
(……痛い)
膝がじくじくする。
(痛い)
あたしは膝にガーゼを貼った。
「アリス、足伸ばして」
「いい」
ぼそりとアリスが小声を出して、首を振る。
「どこも痛くない」
「痕が残るから」
「いいのよ」
「駄目」
「意味ないわよ」
「駄目」
あたしはアリスを見上げる。
「手当てする」
アリスはあたしを見下ろす。その目に感情は無い。向日葵が枯れてしまったように無だ。
「足伸ばして。あたしがやるから」
消毒液を綿につけた。アリスが足を伸ばした。あたしは綿を傷口につけた。アリスが静かに呼吸した。あたしは黙ってアリスの膝に綿を付けた。消毒液をつけて、汚れを落とす。
雨が落ちる。窓が少し揺れた。雨の音が鳴り響く。冷たい音が響く。薄暗い外。
沈黙が続く。
アリスの唾を飲む音が響く。
あたしが鼻をすする音が響く。
お互いが黙る。
アリスが息を吸った。
あたしは息を吐いた。
アリスが息を吐いた。
あたしは息を吸った。
アリスが息を吸った。
「私」
アリスが言った。
「Aって文字が嫌い」
アリスが言った。
「Dって文字が嫌い」
アリスが言った。
「Hって文字が嫌い」
アリスが言った。
「Dって文字がやっぱり嫌い」
アリスが言った。
「私、不器用なの」
アリスが言った。
「すごく不器用なの。変なくらい不器用なの」
アリスが瞼を閉じた。
「なんでこんなに不器用なんだろうと思って、病院でテストを行ったら」
分かったの。
「そういうことなの」
薬が必要なの。
「でも分かった時には、少し手遅れで」
私は色んなものを抱えてしまっていた。
「常に緊張してて」
「いつでも不安で」
「ずっと眠くて、頭がふわふわしてて」
「イライラしてて」
「気持ちが沈んで」
「怖いの」
「全部怖いの」
私に出来ないことが皆には簡単に出来て、皆が出来ないことを私は簡単にやってしまう。
「それを人は天才と呼ぶ」
「才能だと言う」
「……どこが?」
アリスは訊く。
「どこが天才なの?」
アリスは自問自答する。
「どこが才能なの?」
社会で、何も役に立たないことが才能なの?
「脳が欲しいって言われたことがある」
「楽観的で楽しそうだからって」
「私ね、交換したかった」
「こんな不安だらけの脳あげたかった」
「帽子の絵が描けるなんて素敵ねって言われたことがある」
「でも作れないんじゃ意味ないじゃない」
「私、不器用なの。何も出来ないの」
「意味ないじゃない」
「交換してよ」
「こんな脳いらない」
薬が必要な脳なんていらない。
「だったら殺すしかないじゃない」
この脳を殺すしかないじゃない。
「私を殺すしかないじゃない」
発作が起きる。
衝動が起きる。
体を動かせと脳が命令する。
声を出せと脳が命令する。
集中出来ない。
ざわざわする。
説教されたら話の内容なんて頭に入ってこない。地面のごみが気になる。
珈琲を飲んだら集中できる。
お茶を飲んだら集中できる。
だから今日も紅茶を飲みましょう。
カフェインを摂取しすぎて倒れましょう。
眠い。眠すぎる。
夜は眠れない。目が冴える。
遅刻してごめんなさい。
朝寝坊してごめんなさい。
忘れ物してごめんなさい。
部屋の片付け出来なくてごめんなさい。
字が汚くてごめんなさい。
大雑把でごめんなさい。
ぼうっとしててごめんなさい。
人の声が聞こえても、言葉が聞き取れなくてごめんなさい。
何度も聞き返してごめんなさい。
お願い、そんなに怒らないで。
今日も空気が読めません。
今日も思ったことを口に出します。
忘れていた用事を思い出したら、すぐに終わらせないと気が済まない。
好きなことには時間を忘れるくらいのめりこんで。
勉強は嫌い。好きな教科は好き。
算数は8点。国語は100点。
死にたい死にたい死にたい死にたい。
羨ましい羨ましい羨ましい。
どうして私は不器用なの。
人が怖い。人の目が怖い。
失敗が怖い。手が動かない。
パニックになる。泣きわめく。
次の日になったらすっきりする。
朝になったら頭がもやもやする。
薬気持ち悪い。
脳を攻撃してくるみたい。
眠たい。眠たい。眠たい。
うるさいうるさいうるさい。
苦しい苦しい苦しい。
痛い痛い痛い痛い痛い。
いつでも器用な人が愛される。
いつでも器用な姉さんが愛される。
私は不思議ちゃんじゃない。
私は天然じゃない。
考えて物を言ってる。
考えてる。ずっと考えてる。
私は不思議ちゃんじゃない。
不器用な私はお飾りで、
器用な姉さんは輝いて、
不器用な私はコンプレックスの塊。
ダイアン兄さんも、男の子も、女の子も、父さんも、皆、器用な姉さんを愛した。
「友達がね」
アリスが微笑んだ。
「怖いものを、私に与えたの」
怖いものを見ると、なんだか落ち着いた。
「私の話、沢山聞いてくれた」
その友達は、心の弱い人が好きみたい。
「でも、もう来なくなっちゃった」
アリスが切なそうに微笑んだ。
「だから、今日で最後にしようと思ったの」
「最後の日にしようって」
「もう怖いものが見られない」
「衝動は収まらない」
「いきたい衝動がこみあげてきた時に」
「ダイアン兄さんに呼ばれたの」
「最後だもの。好きな人のために過ごしたかったのよ」
「でも、ニコラが会いに来て」
「最後の日だから、ほら、お別れしたでしょう?」
「もう遊べないって言ったでしょう?」
「絶対ついてきちゃ駄目って言ったでしょう?」
「もう、ニコラってば、隠れ上手」
「油断しちゃった」
「限界だったのよ」
「あの瞬間」
「ダイアン兄さんのこととか」
「これからのことととか」
「明日のこととか」
「一秒後のことさえ」
「なんか、何も考えられなくなって」
「そこだけに集中して」
何も見えなくなって。
「すごくいきたくなったから」
ちょうど馬車が来てたから、
「……ガットさんの馬車って分かってたら、近づかなかったのに」
アリスがため息を出した。再び、あたしを見下ろす。
「ニコラ、大好き」
アリスが微笑む。
「私のこと大切にしてくれて、大好き」
だから、
「見せたくなかったのに」
こんなみじめな姿。
「私、馬鹿でしょ?」
分かってる。
「馬鹿だって分かってるのよ」
馬鹿だからいきたくなったのよ。
「もう、それしか無いのよ」
アリスが部屋を見回す。
「ほら見て、紐だらけ」
リボンだらけ。
「これ見てるとね、落ち着くの」
首に巻けば、いつでも逝けるから。
「そうやって毎日を生きていくの」
「こうやって、毎日を生きていってたの」
アリスが微笑む。
「なんでこうなんだろう」
アリスが呟く。
「なんで私、こんな風に生まれてきたんだろう」
薄暗い部屋を、ぼうっと眺める。
「大好きな先生が言ってた。あのね、個性って、人に感動を与えたり、感心させるものだって」
でもね、
「人に迷惑をかけるのは、個性じゃない。それはただの自己満足だって」
私の体質は、人に迷惑をかける。社会に迷惑をかける。
「私、個性じゃないのよ」
アリスは二の腕の傷を掴んだ。
「私の体質は、個性じゃない」
アリスが俯いた。アリスの足にガーゼを貼る。手当てが終わる。アリスが手当てをされた足を見つめる。
「……私、今、なんで生きてるんだろう」
アリスがガーゼを見つめる。
「なんで、いけなかったんだろう」
アリスが見つめる。ずっと考えてる。
「いきたいって、毎日唱えてたはずなのに」
私はいけなかった。
「いけると思ったのに」
私はまたいけなかった。
「……アリス」
「ん?」
「入院したのって」
「うん」
アリスが微笑んで頷いた。
「そうよ。いけなかったの。その時も」
浴室で行った。気持ちいいことを行った。
アリスは気持ち良くなった。
浴室の床が赤く染まった。
カトレアが見つけた。
アリスは入院した。
一ヶ月、閉鎖された病棟に閉じ込められた。
「ねえ、それを望んで何が悪いの?」
私が消えれば誰かが生まれる。
「穴埋めは完了されるじゃない」
呆気ないものよ。
「なんで、それをしては駄目とか、そうなってしまった人の代わりに未来を生きろとか、何も知らない人が言うわけ?」
私の脳を持ったことないくせに。
「よくもそんな、血も涙もないこと言えるわよね」
アリスの目が冷たい。
「想いは抱くものよ。個人の勝手じゃない」
アリスは呟く。
「何が悪いの?」
アリスは自問自答する。
「分からない。ずっと考えてるけど分からない」
アリスはぼうっとする。
「何も分からない」
「アリス」
あたしは質問する。
「カウンセリングは?」
「先生に」
「病院の?」
「ええ」
「受けてるの?」
「ええ」
「カウンセリング、その、少しは、違うんじゃない?」
「話したところで、解決なんてしないわ」
もやもやは残るまま。
「これは病気じゃないの」
完治は不可能。
「ニコラ」
アリスが手を伸ばす。あたしの手を握る。
「……温かい」
アリスの手が冷たい。
「私の手、氷みたい」
アリスが体を屈ませた。あたしの手を、頬に触れさせる。
「温かい」
「アリス」
「ニコラ大好き」
「……」
「私、もう満足よ」
アリスが微笑む。
「いつでもいける」
「いかないで」
あたしは見上げる。アリスはあたしを見つめる。
「あたしを置いていくの?」
「ニコラにはお爺ちゃんがいるでしょう? お兄さんも」
「アリスにだって、カトレアさんやお父さんがいるじゃない」
「父さんには姉さんがいる。姉さんにはダイアン兄さんがいる」
穴埋めは完了されている。
「私はいつでもいけるの」
「いかないで」
「ニコラ」
「いかないで」
「ごめんね」
「いかないで」
「大丈夫。今は衝動収まってるの」
アリスが薄く微笑む。
「ほら、私生きてるでしょ?」
アリスがあたしの頬を撫でた。
「もう大丈夫よ」
手は冷たい。
「大丈夫よ」
目は冷たい。
「私、大丈夫だから」
生気を感じない。
「アリス」
「大丈夫」
「アリス」
「大好き、ニコラ」
「アリス」
「……」
「アリス」
「……」
「……」
「……」
アリスが黙る。
あたしが黙る。
アリスが微笑む。
あたしはアリスの手を握る。
アリスがあたしの頬を撫でる。
あたしはアリスの手をぎゅっと握った。
「アリス、あのね」
あたしは明るい声を出す。
「あたし、専門家を知ってるの」
アリスの口角が下がった。
「専門家?」
「そう」
あたしはアリスの手を握り締める。
「ねえ、ここに呼んでもいい?」
「……。……今?」
「そうよ」
「遠慮するわ。突然、相手にも悪いもの」
「大丈夫よ。暇人だから」
アリスの目がどんどん鋭くなっていく。
「呼んで、どうするの?」
低い声に、あたしは微笑む。
「その人、何を吐いても、何を言っても、全然大丈夫なの。……ね、どうせ、いつかいく気なんでしょ? いく前に話しても損はないわよ」
アリスは黙る。あたしはにこりと微笑む。
「アリス、呼んでいい? 暇だろうから、絶対来てくれるわ」
「……弱ったわね」
呆れたように、アリスが笑った。
「ニコラの知り合い?」
「うん」
「そうなんだ」
「うん」
「私でも話せる人?」
「ええ。何話しても大丈夫よ」
「そうなんだ」
「うん」
「そう」
「ええ」
「……。そう」
「会ってみる?」
「……いや、いい」
「すぐに呼ぶわ」
「……無理強いは駄目よ」
「大丈夫」
「……何も解決なんてしない」
「話すだけよ。専門家だから」
「専門家ね」
「ええ」
「……電話使う?」
「使っていい?」
アリスが下に指を差す。
「店のカウンターの電話、使って」
「分かった」
「うん」
「アリス」
あたしはアリスの手を握る。
「あたしが電話に行ってる間、いかないでね」
「言ってるでしょ。今は衝動、収まってるの。大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ」
「待ってて」
「分かった。私、ニコラを待ってるわ」
アリスが力なく、微笑む。
「着替えなきゃ」
「リボンはやめて」
「大丈夫。首に巻いたりしないから」
「信じるわよ」
「大丈夫よ。今は大丈夫」
「すぐに戻るから」
あたしはアリスの手を離す。アリスは微笑む。また窓を眺め始める。あたしは扉を開けたまま、廊下を歩き、階段を下りて、店の売り場のカウンターへ向かって歩く。売り場には誰もいなかった。酷く静かだった。奥から針の音が聞こえる。マッドが帽子を作ってる音だった。
あたしは受話器を手に持つ。番号を回す。戻って、また回す。受話器を耳に傾ける。ダイヤル音が鳴った。ぷるる、と鳴って、鳴って、がちゃりと、向こうの人が受話器を取った。
『はい』
「お爺ちゃん」
あたしは声を出した。
「お兄ちゃんいる?」
『ん? ……ああ。帰ってきてるよ』
「本当?」
『代わろうか?』
「お願い!」
お爺ちゃんがあたしのお兄ちゃんを呼んだ。お兄ちゃんの吐息が聞こえた。あたしは可愛い声を出した。
「お兄ちゃん、今、暇? 帽子屋に来てほしいの」
あたしは声を出す。
「ねえ、お願い。食器洗いの当番変わるから」
あたしは駄々をこねる。
「ねえ、お願い。帽子屋に来て」
あたしは我儘を言う。
「エターナル・ティー・パーティーっていう素敵なお店があるの。あたしの友達のお家でね」
あたしは声を出す。
「お願い。来て」
あたしは言う。
「早く来て」
あたしは言う。
「お願い。なるべく早く来て」
向こうが電話を切った。通話が切れた。あたしは受話器を置いた。早く戻らないと。上にはアリスがいる。ぼうっとしてあたしを待ってる。
でもあたしの足が動かない。
電話の前で、カウンターの前で、立ったまま、動くことが、出来ない。
動けない。
あたしも、見せるわけにはいかない。
落ち着くまで、ここにいよう。
大丈夫。アリスは待っててくれてるから。
落ち着くまで、深呼吸を繰り返す。
時計の針が動いた。時間は、13時になる前だった。
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