第10話 10月24日(2)


 14時。



 散々吐いて、散々休んで、散々水を飲ませてもらい、ゆっくりして、ようやく店から出た。出る際に、奥さんが店のチョコレートをくれた。


「これ、おまけのバイト代ね。皆には秘密だよ」


 そう言って渡され、あたしは奥さんに頭を下げた。そして、雨の中、あたしの目の前にあるのはエターナル・ティー・パーティーの扉。本日は17時で閉じますと書かれた紙が貼られていた。


 扉を開けようと手を伸ばすと、中から扉が開けられた。


(んっ)


 紫のしましま柄のスーツを着た男が出てくる。


「おや?」


 あたしを見て、男が声をあげた。


「あんた、確か、アリスのお友達のレディじゃないか?」

「……あ」


 アリスが猛烈に嫌がっていた客だ。いやらしい目を見て、一瞬で思い出す。


「こんにちは」

「こんにちは、レディ。アリスに会いに来たのかな?」

「はい」

「そいつは運が悪い。彼女は今、残念至極なことに体調を崩しているらしい」


 男がくすっと笑った。


「非常に不運な日だ。アリスがいなかったから今日は帽子を選べなかった」

「そうですか」

「なぁ、あんた、良かったらアリスに伝えてくれないか? 次に俺が来る時には、ハートの王様もお気に召すような素敵な帽子を選んでくれって」

「……会えたら伝えておきます」

「ああ。頼むよ。それでは失礼」


 男が傘を差して歩いていく。あたしは傘を閉じ、店内に入った。ソファーにカトレアがぼうっとして座っており、あたしを見て、あっと声をあげた。


「ニコラちゃん、いらっしゃい」

「こんにちは」

「今日はバイトじゃなかったの?」

「今日、午前で終わったんです」

「あら……。……あそこの商店街でも何かあったの?」

「元々従業員が、もうあたししか動ける人がいないみたいで……。……それに、精肉屋で火事が起きてしまって」

「……そう」

「月曜日まで中央区域の商店街が閉鎖されるそうです。だから、他の所も多分、そうなるかと思います。……食料とか、今のうちにどこかで買っておいた方がいいです」

「……また大変な時に来てくれたのね。どうもありがとう」


 カトレアが立ち上がり、あたしに歩いてきた。


「良かったらお茶でもいかが?」

「あの、だったらアリスと……」

「……あの子」


 カトレアがぼそっと、呟いた。


「まだ、部屋から出られそうにないのよ」

「……そうですか」

「……そうそう! ロールケーキ、喜んでたわ!」

「食べたんですね」

「ええ!」

「そうですか」

「……声だけでも、かけてみる?」

「……いいですか?」

「ええ。どうぞ」


 カトレアが頷き、あたしは歩き出す。店の奥まで行き、見覚えのある階段を上り、手前から二番目の扉に向かう。扉の前に立ち止まり、扉をノックした。


「アリス」


 あたしの声が響く。扉の奥から音はしない。


「……アリス」


 あたしはもう一度扉をノックした。


「アリス」


(出てこい)


 あたしは扉をノックした。


「アリス、体調どう?」


 あたしは扉を睨んだ。


(……どうして出てこないの?)


「アリス」


 あたしは優しく声をかけ続ける。


「今日、奥さんからチョコレートを貰ったの」


 あたしはチョコレートの包みを扉の前に置いた。


「ここに置いておくわ。部屋から出られるようになったら取って」


 あたしは優しい声で言った。


「アリス」


 あたしは声を出す。


「アリス」


 あたしは呼び続ける。


「アリス」


 あたしは微笑んだ。


「大丈夫?」


 アリスは出てこない。


「アリスに会えなくて寂しいわ」


 アリスは出てこない。


「早くアリスと遊びたい」


 14歳の少女のように、無邪気で、思いやりのある言葉を並べていく。


「早く元気になってね。あたし、明日も会いに来るから」


 ああ、それと、


「明日から月曜日まで商店街が閉鎖されるの。皆、悪夢にうなされて体調を崩してるから。だから、明日からまた連休よ」


 あたしは微笑む。


「ジャックは子供達の味方ね。何して遊ぼうかな」


 あたしは扉をノックした。


「……」


 あたしはドアノブを掴み、ゆっくりとひねってみる。


「……」


 動かない。昨日とは違う感じ。今日はちゃんと鍵がかかっているようだ。でも、誰も入れまいと、扉で部屋を守っているよう。耳を扉にくっつけてみる。音は全くしない。


「……」


 あたしの手がドアノブから離れる。


「アリス、今日はもう帰るわね」


 あたしは扉から離れた。


「じゃあね。また明日」


 あたしは階段を声をかけ、階段を下りた。


(今日も駄目ね)


 出てこない。


(中から音が全く聞こえない)


 アリスが部屋の中でじっとしているように、何も聞こえなかった。


(……じっとしてる、か)


 どうして?


(なんでじっとしてるの?)


 どうして?


(なんで部屋から出られないの?)

(なんで扉に鍵がかかってるの?)


 どうして?

 見られたくないものでもあるわけ?

 爆弾を作ってるわけでもないのに。


「……」


 あたしは売り場に戻る。カトレアが不安げな目で、あたしを見た。


「……どうだった?」

「寝てたみたいで、反応がありませんでした」

「……ごめんなさいね」


 カトレアがあたしに謝る。あたしは微笑んで首を振った。


「仕方ないですよ。あたしも、何度も来てしまってすみません」

「いいのよ。逆にお礼を言いたいくらいよ。本当にありがとう。アリスのこと、気にかけてくれて」

「また明日も来ていいですか? 明日なら会える気がするんです!」


 14歳の少女の可愛い笑顔を浮かべると、カトレアが切なそうに微笑み、頷いた。


「ええ。何度でも歓迎するわ。そうね。明日なら会えるかもしれないわね。急に元気が出て、ニコラちゃんと遊びたいって騒いでくるかも」

「じゃあ、明日もやっぱり来ますね」

「お茶でもいかが? 今日、お客さんがあまり来なくて」

「あたし、この後用があるので失礼します」

「……そう?」


 カトレアが窓から雨を見る。


「でも、こんなに雨が降ってるのに、用事があるの?」

「はい」


 16時になればレオが図書館にやってくる。一緒にジャックのことを調べて、この悪夢の日々を終わらせないと。


「失礼します」

「気を付けてね」


 あたしは店を出る。雨は降っている。


(……まだ止まないのかしら)


 あたしはエターナル・ティー・パーティーの建物ごと上を見上げた。――すると、二階の窓のカーテンが閉まった。


(うん?)


 カーテンが揺れている。


(……)


 あたしはカーテンをじっと見つめる。

 昨日のダイアンの言葉を思い出す。

 あたしはじっと見上げる。

 カーテンは揺れるだけ。


 アリスは現れない。


「……」


 あたしは窓を見つめる。


(……アリス、いるの?)


 あたしは窓を見つめる。


(そこにいるの?)


 あたしはじっと見つめる。


(どうして出てこないの?)


 アリーチェ・ラビッツ・クロック。

 彼女は活発で笑顔の素敵な女の子。


 アリーチェ・ラビッツ・クロック。

 彼女は少し、不器用な女の子。


 アリーチェ・ラビッツ・クロック。

 彼女は不毛な恋を胸に抱く女の子。


 アリーチェ・ラビッツ・クロック。

 彼女は病気ではない。


 アリーチェ・ラビッツ・クロック。

 彼女は殺人犯となる。




 彼 女 は 何 者 だ 。




「……」


 アリーチェは殺人犯。一人で何十人もの命を奪い、怪我を負わせ、広場を破壊する。めちゃくちゃにする。だから逮捕される。そしてジャックに殺される。


(ジャックはどうしてアリーチェを殺したの?)


 ジャックはお化け。

 アリーチェは殺人犯。

 接点はない。


(アリーチェがジャック?)


 違う。


(……)


 何か、違和感を感じる。


(ただ、アリーチェはジャックじゃない気がする)


 ジャックは誰だ。


(……早く見つけないと、大変なことになる気がする)


 一度目の世界よりも、酷いことになるかもしれない。


(嫌な予感がする)


 あたしの足が動く。


(図書館に行かないと)


 雨の中、図書館に向かって歩き出した。









 そっと、カーテンが開く。隙間から覗いてくる。薄暗い闇の中から、一つの濁った瞳が、去っていく赤い傘を見つめていた。









(*'ω'*)






 15時。中央図書館。



 いつもの待ち合わせの時間よりも早めに到着する。もちろん、ソフィアはいない。レオもいない。


 図書館の中は、いつもより人が多いように感じた。多くの店も閉まって、行くところがないのか親子が多い。隈だらけの母親が子供と綺麗な絵のついた本を微笑んで読んでいた。


 あたしは、都市伝説やオカルトのコーナーへと向かった。ジャックについての本は全て借りられている。


(……無い)


 ふう、と息を吐くと、近くを通りかかった司書に声をかけられる。


「あ、どうも。こんにちは」

「……あ」


 アリスと一緒に飴のバスケットを届けに来た時に、相手をしてくれた司書だった。確かサイモンと呼ばれていた。挨拶を返す。


「こんにちは。サイモンさん」

「ハロウィンの本をお探しかな?」

「はい。ジャックの……」

「丁度良かった。はい」


 サイモンが腕に挟んでいた本を一冊、あたしに渡す。本のタイトルには『ハロウィンのお化け、切り裂きジャック』と書かれていた。


「返却されたのを戻すところだったんだ。良かったらどうぞ」

「ありがとうございます」

「読みすぎて悪夢を見ないようにね」


 サイモンがそう言って、他の本を並べ始めた。あたしは本を持って近くの席に座った。


(さてと)


 本をめくる。タイトルと目次に目を通して、最初の前置き部分は読まず、さっそく本編に入る。


(だってこういう本の前置き部分って訳が分からないのに妙にこだわって字が並べられてて目が痛くなるんだもの。全部読んでから再度見る時にでも読めるでしょう?)


 あたしはさっそく本編に目を通す。



 切り裂きジャックは、お化けである。

 切り裂きジャックは、ハロウィンに現れる。

 切り裂きジャックは、お菓子が大好きである。

 切り裂きジャックは、子供である。

 切り裂きジャックは、性別が不明である。

 切り裂きジャックは、悪夢に彷徨う人を切り裂く。

 切り裂きジャックは、そのために悪夢を見せる。

 切り裂きジャックは、悪夢の中でお菓子を貰えないと記憶を消す。

 切り裂きジャックは、悪夢を見せる人をマークする。

 切り裂きジャックは、狙った人物に印をつけることによって、その人物を死まで追い詰める。

 切り裂きジャックは、切り裂きたい。

 切り裂きジャックは、恐怖を与えたい。

 切り裂きジャックは、甘いものが好きである。

 切り裂きジャックは、悪夢である。


 人々の恐怖が、悪夢が、怖いものが、概念が、切り裂きジャックである。




(ありがちな内容ね)


 あたしは息を吐いた。


(結局、ジャックはただの言い伝えのお化けであって、存在などしない)


 存在は、ただのあたし達のイメージであって、いるかどうかを決めるのはあたし達である。そんなオチ。


(これが切り裂きジャックの本?)


 子供騙しじゃない。


(こんな子供騙しが、三日連続で大騒ぎしてるってわけ?)


 切り裂きジャック。

 あたしの右足の痣がうずく。

 時計の針が16時を差した。


(……ん?)


 ふと、なんだか、さっきよりも寒くなった気がした。


(……)


 暖炉に火はついている。周りを見ると、皆、快適に本を読んでいる。


(上着着よう……)


 脱いでいたジャケットを着て、他に気になる箇所はないか字を辿る。


(……うん?)


 なんだか、さっきよりも寒くなった気がする。


(……え?)


 周りを見る。誰も寒がっていない。


(え?)


 あたしはすごく寒いのに。


(え?)


 鳥肌が立つ。


(え?)


 人々は本を静かに読む。


(え?)


 辺りを見回す。皆、温かそうだ。


(え?)


 あたしの体が震えあがる。


(何これ)


 寒い。非常に寒い。


(何これ)


 冷たい。非常に冷たい。


(寒い)


 あたしはうずくまる。寒すぎて、うずくまる。


(何これ)


 あたしは机に突っ伏した。


(寒い)


 うずくまる。


(寒い)


 がたがた体が震える。


(寒い)


 がちがち、歯がぶつかる。


(寒い)


 汗が出てくる。


(寒い)

(寒い)


 体が重い。


(寒い)



 寒い。



 さ  む  い  。



( ˘ω˘ )


 ちゅー。

 ジョニー。


(*'ω'*)


 ちゅー。

 ケビン。


(*'ω'*)


 ちゅー。

 ハンス。


(*'ω'*)


 ぺろぺろ。

 セーラ。


(*^ω^*)


 あたしは掠れた声を出す。


「もう終わりよ」


 鼠達はあたしを見守る。


「終わり」


 あたしは瞼を下ろす。


「この恐怖から解放される」


 あたしは口を動かす。


「死にたくない」


 あたしは口を震わす。


「あたしの人生、何だったの」


 あたしはうずくまる。


「寒い」


 あたしは凍える。


「冷たい」


 鼠達に寄り添う。


「死にたくない」

「死ぬぐらいなら幸せになってから」

「あたしが幸せになってから」

「それから死ぬなら、いくらでも」


 あたしの幸せは何だったの。


「あたしの人生、何だったの」


 どこから狂ったの。


「メニー」


 その名前を呼べば憎たらしい。


「リオン様」


 その名前を呼べば愛おしい。


「あたしは何を間違えたの」


 ママの元へ生まれたのが駄目だったの?


「パパ、助けて」


 あたしには誰もいない。


「パパ」


 あたしには誰もいない。


「ママ」


 ママは死んじゃった。


「アメリ」


 アメリアヌは死んじゃった。


「あたしも」


 死ぬのよ。


「嫌だ」

「死にたくない」

「ギロチンやだ」

「首を切られるのよ」

「嫌よ」

「死にたくない」

「嫌よ」

「死にたくない」

「死にたくない死にたくない」

「怖い」


 死ぬのが怖い。


「でも」


 もうたくさん苦しんだから、


「少しほっとしてる」


 死にたくないけど、


「ほっとしてる」


 あたしは何を間違えたの。


「笑顔を見せて」


 鼠達があたしに寄りそう。


「大好き」


 あたしは微笑む。


「大好き」


 鼠達に微笑む。


「最後の夜は一緒にいましょう」


 寒くて、冷たくて、硬い床だけど、


「温かい」


 彼らの体毛が温かい。


「温かい」


 ぬくもりが温かい。


「ありがとう」


 もう怖くない。


「ありがとう」


 死にたくない。


「ありがとう」


 死にたくない。


「あたしの人生、何だったの」


 死にたくない。


「死にたくない」


 死にたくない。


「あたしは」


 どこで、選択を間違えたの。


(*'ω'*)(*'ω'*)(*'ω'*)(*'ω'*)


 足音が聞こえた。鼠達が走ってきた。ジョニーとケビンとハンスとセーラが走ってきた鼠達の鳴き声を聞いて、穴に逃げた。


「あ」


 あたしは声を漏らす。


「待って」


 一緒にいて。


「一緒に寝て」


 一緒にいて。


「一人は嫌よ」


 最後の夜は、


「一緒にいてよ」


 あたしは手を伸ばす。


「一緒にいて」


 力が出ない手を伸ばす。


「一緒にいて」


 一人は嫌よ。


「誰か」


 手が震える。


「一緒にいて」


 口が震える。


「一緒に」

「テリー・ベックス」


 あたしはその声に、ゆっくりと、顔を上げると、










 微笑むリオンが、あたしの正面にいつの間にか座っていた。












「寒いの?」


 レオがあたしを見つめる。


「大丈夫?」

「……あんたは寒くないの?」

「何ともないよ」

「あたしは寒い」

「風邪引いたんだよ。雨も降ってるし。早めに終わらせて解散して、君は早く眠るんだ。お菓子を枕元に置くんだよ」

「……分かった」


 レオが本を手に取った。


「そうそう。これこれ。これが読みたかったんだ」

「気になるところがあったの」


 あたしはページをめくった。


『切り裂きジャックは、悪夢を見せる人をマークする』


「ジャックはターゲットに印をつけるんだって」


『切り裂きジャックは、狙った人物に印をつけることによって、その人物を死まで追い詰める』


「これって痣のことよね」

「ああ」

「っていうことは、夢を見た全員が切り裂かれるってこと?」

「全員? やめてくれよ。だとしたら全員死んで、国が崩壊するじゃないか」

「でも、今は全員にこの印がついてるわ」

「全員を殺すことなんか出来ないさ」


 切り裂きジャックは、切り裂きたい。


「切り裂きたいって」

「ニコラ、こっちを見てごらん」


 切り裂きジャックは、恐怖を与えたい。


「ジャックは恐怖が好きなんだ。恐怖を与えたいんだよ。お化けって皆そうだ。怖がらせたいんだ。人に驚かれるのって楽しいし、面白いだろ。だから悪い子は皆、悪戯っていう悪いことを思いつくんじゃないか。知ってるか? 貴族の屋敷がジャックに夜な夜な襲われているらしい。それも多分、ジャックの悪戯じゃないかな? 平民よりも、お偉いさんに悪戯した方がすごいし、面白いじゃないか」


 切り裂きジャックは、甘いものが好きである。


「お菓子を渡せば回避出来る。ほらね、言い伝え通りだ。ジャックは逃げ道として、お菓子を渡せば見逃してやるって条件の元で動いてる」

「でも、あたしの職場の人は、お菓子を渡しても悪夢を忘れてなかった」

「その通り。その件についてずっと考えていたんだ。だけど、これを見て理解出来た。ニコラ、この三日間連続で悪夢を見せてくるジャックにお菓子を渡しても、ジャックは許してくれない。さらに恐怖を与え続けているんだ」

「どうして?」

「ここに答えが載ってる」


 切り裂きジャックは、悪夢である。


「悪夢そのものがジャックだ。いいかい。皆は悪夢に怯えてる。ジャックに怯えてる。もう忘れることなんて出来ないんだ。お菓子を渡しても、既に恐怖は皆を支配してしまっている。皆が眠ると、頭の中には切り裂きジャックが常に入っている状態だ。そしてまた恐怖を与える。恐怖は残り、悪夢は覚えていて、幸せだった記憶だけが消されてしまう」

「記憶を消す理由が分からないわ」

「悪夢を見せた人達を混乱させるためだ。皆が覚えてるのに、自分だけが忘れてる。これってすごく怖いことじゃないか」

「……逆も怖いわよ」

「逆って?」

「皆は忘れてるのに、自分だけが覚えてる」

「ニコラ、君は頭がいいね。流石僕の妹だ。よしよし。良い子良い子」

「何よ。やめろ。頭に触るな。汚らわしい。気持ち悪い」

「だからさ、つまり、そういうことだ。それで恐怖を与えるんだ。見てる人も。見てない人も。覚えている人も、覚えてない人も」


 切り裂きジャックは恐怖が大好き! 甘いもの以上に恐怖が大好き!


「ジャックは喜んでるはずだよ。皆が不安がってるこの三日間。ジャックはきっとご満足してご満悦して笑っていることだろうね」

「……こんな心地の悪い日々を喜んでるっての?」

「雨も降ってじめじめしてる。お化けにとっては嬉しいことだろうね」


 その瞬間、雷が鳴った。


 ぱっと、照明が消える。図書館が暗くなる。あたしの視界が黒くなる。停電したようだ。あたしはぎょっとして小さな悲鳴をあげた。しかし、誰も悲鳴をあげない。あたしは息を呑む。暗い。黒い。冷たい手が震える。体を強張らせると、あたしの手が握られた。


「ニコラ」


 正面から、優しいレオの声が聞こえた。


「帽子」

「え?」

「僕の帽子を探してるんだ」

「帽子? 帽子ならあんた、被ってるじゃない」

「これはニコラの帽子だろ?」


 レオがくすっと笑った。


「ねえ、僕の帽子を探してきてよ」

「自分で探せばいいじゃない」

「お願いだよ。明日の待ち合わせまでに見つけてきて」

「イベントの時に、新しいの買ったじゃない」

「失くしたやつがいいんだ」

「あたしが探すの?」

「本店に同じのがあるかもしれない」


 あたしの手の中に、硬くて冷たいものが置かれた。また雷が鳴る。


「僕、明日は忙しいんだ。でも、待ち合わせには来るから、16時に、いつもの所で」

「あんた、停電してるのに、なんでそんなに冷静に話せるわけ?」

「ニコラ、僕の帽子はどこでなくなったっけ?」

「レオ?」

「本店に行けばあるかもしれない」

「……レオ?」

「明日も雨かな?」

「……レオ?」

「長靴を履いていくんだよ」

「レオ?」


 雷が鳴る。レオの声が響く。


「三匹の子豚を訪ねて」

「手無し娘に会いに行くんだ」

「僕の帽子は狼に食べられてしまったのかもしれない」

「だとしたら狼の胃袋には、石の代わりに帽子が入ってるわけだ」

「これは大変だ。早く取り出さないと狼が死んでしまう」

「長靴を履いた猫は二人を引き会わせないと」

「ジャックは与える」

「恐怖を与える」


 あたしは手を握る。


「……レオ……?」

「ニコラ」


 微笑んだレオの声が聞こえた。


「頼んだよ」

















 ――瞼を上げた。


 目を開けると、建物内は温かくて、シャンデリアの明るい図書館があって、あたしの枕代わりにジャックの本が敷かれていて、寒気はどこにもなくて、ゆっくりと頭を上げる。正面にレオはいない。


「……」


 あたしは握っていた手に違和感を感じた。


(うん?)


 開いてみると、金貨が一枚、本の上に落ちた。


「あ」


 帽子の金額には十分すぎる金貨がある。


「……」


 あたしはじっと見つめる。レオの金貨を見つめる。


「レオ?」


 あたしは辺りを見回す。周りを見る。見渡す。




 レオはどこにもいない。





(*'ω'*)




 21時。リビング。




 あたしは番号を回す。受話器から音が聞こえた。一コールで取られた。


『はい。ベックスでございます』

「テリーよ」

『お待ちしておりました』


 サリアがくすくすと笑った。


『貴女からお電話があると聞いて、ずっとわくわくしてました。お元気ですか?』

「お元気に感じる? この悪夢が続く中で」

『うふふ』


 サリアは楽しそうに笑っている。それが、あたしにはとても不思議に感じた。


「サリア」

『はい』

「楽しそうね」

『ええ。すごく』

「悪夢を見てないの?」

『見てますよ』

「痣は?」

『ありますよ』

「怖くないの?」

『うふふふ!』 


 サリアが笑う。楽しそうに笑う。あたしは眉をひそめる。


「サリア? どうしたの?」

『だって、テリー、楽しいんですもの』

「ギルエドから聞いたわ。この三日間、サリアだけが清々しく仕事してるって」

『ええ。すごく楽しくて』

「何が楽しいの?」

『楽しいことを考えるんです』

「ジャックが壊しに来るんじゃないの?」

『それすらを楽しいと思うんです』

「……どういうこと?」


 サリアがうっすらと笑った気がした。


『テリー、考えてみてください。切り裂きジャックはお化けなんですよ』


 お化けって、人を驚かすことが好きなんですよ?


『怖がった人を見て、ジャックが喜ぶなら、楽しめばいいんです』

『怖がらずに、ジャックを歓迎して、悪夢を見せてくれてありがとう。さあ、今日はどんなものを見せてくれるの? ジャック、愛してます。だってこんなにも怖いものを見せてくれるのだから。さあ、見せて。大好きジャック。貴方って優しくて親切なお化け』

『そう言ってみたら、案の定、ジャックの反応がつまらなさそうになり、私におかしな悪夢しか見せてくれなくなりました』

「おかしな悪夢?」

『例えば、可愛い飴のお化けに襲われるとか』


 あたしは顔をしかめる。


「それ、怖くないの?」

『冷静に分析して、これは夢だから痛いものも苦しいものも、全て幻だと考えるのです』


 私の手が切れた。じゃあ、再生出来るかしら。あら、再生されたわ。

 私の心臓が壊れた。じゃあ、心臓を再生できるかしら。あら、再生出来たわ。

 ねえねえ。ジャック。切り裂いてみて。じゃあ、再生出来るかしら。あら、皮膚が再生されたわ。え、じゃあ、他にどんなことが出来るの?


『切り裂きジャックに痛いものを要求するんです。怖いものを要求するんです。そしてそれはそれは怖い悪夢を見て、だったらこれは出来るかと考えるんです』


 だって、テリー、これは現実じゃない。


『夢なんですよ?』


 サリアは、冷静に言った。


『ただの夢』


 大人のサリアは、冷酷に言った。


『悪夢だろうが瑞夢ずいむだろうが、夢なんです』


 だったら、主導権は切り裂きジャックにはない。自分にある。


『怖い怖いと思うから全部怖くなるんです。刺された夢を見たなら、その凶器を自分で抜いて、傷口を再生させる想像をすれば、本当にそうなる』

『大切なテリーに殺される夢を見たのなら、憎いテリーを殺すイメージをすればいい。ああ、ストレス解消』

『ほらね、テリー』


 サリアが訊いてきた。


『どこが怖いの?』


 ジャックはきっと、今夜も悪夢を見せにくる。


『悪夢を見せられたら、私はその先を考えているのです』

『謎が深まれば深まるほど、私は分析してしまうのです。だから、もっと謎が欲しくて』

『不可解な恐怖が欲しくて』

『今夜もホラーな謎解きが楽しめそうですよ。テリー』


 あたしの片目が痙攣した。


「……それが、恐怖に打ち勝つ一つの方法?」

『テリーは夢が怖いですか?』

「怖い。……吐くほど怖いの」

『一緒にイメージトレーニングします?』

「……そうね。お願い」

『では……』


 テリーは自分のお部屋にいます。テリー以外、皆人食いの死人になって、テリーを追いかけ始めました。


「……げっ。……ゾンビってこと……? ……サリア、それは駄目。あたしの下宿先の家主が、帰ってきてないのよ。本当にゾンビになってたらどうしてくれるの」

『うふふ。だったらなおさら考えないと。どうしますか?』

「サリアだったらどう考える?」

『私だったら』


 サリアが答えた。


『私もゾンビであると考えます』


 皆の仲間。ゾンビになって、追いかけてきた皆に食らいつきます。それでも襲ってくるようなら、私は巨人のゾンビになって、皆に食らいつきます。それでも食らいつくようなら、巨人の私は分裂して、私が増えて、皆に襲い掛かります。これで世界の支配者は私です。


「……」

『テリーが沢山いたら、仕事が増えそうですね』

「……つまり、そういうのをずっと三日間やり続けてたら、ジャックに呆れられたってこと?」

『つまらなくなった、の方に近いかと』

「……」

『ジャックって、意外と子供っぽいんですよ。飽きたらすぐにどこかに行ってしまうんです』


 こいつは怖がらないからもういらない。いいや。と捨てるように、どこかに行ってしまう。


『ですから、テリー。悪夢を怖がるのではなくて、楽しみましょう』


 サリアが笑った。


『そうすれば、皆平和に暮らせます』


 サリアが言った。


『お化けとだって、お友達になれます』


(……キッドも同じことをしてた)


 悪夢を楽しんで、ジャックを追いかけた。


(ジャックは恐怖は好き)

(恐怖を与えるのが好き)


 もしも切り裂きジャックに襲われたら、


(それを楽しめってこと?)


「いや、無理」

『そうですね。テリーは特に怖がりですから』

「……別に怖がりじゃないけど?」


 受話器をぎゅっと握り締める。


「サリア」

『はい』

「……怖いわ」

『ええ』

「知恵を貸して。皆が怯えてるの」

『そうは言われましても、ジャックというものは、所詮、ただの概念の塊です。皆さんが怯えている対象。怖いという概念がジャックを作り出しているだけなのです。テリー、私は、この概念を形にした言葉をあまり言いたくありません』


 この言葉は、貴女に言いたくない。


『それでも魔法の言葉を聞きたいですか?』

「……それで、怖くなくなるなら」

『分かりました』


 それでは、


『よく聞いててくださいね?』


 サリアが魔法の言葉を言った。





『ジャックなんていません』


『そんなのはただの物語です』


『テリー』


『誰かの仕業です』


『全て、ジャックの仮装をした誰かの悪戯です』





 あたしは黙った。

 サリアが息を吸った。


『……ね? 夢が壊れたでしょう?』


 テリーはまだ子供だから。


『……言いたくなかったのに』


 純粋な夢を壊したくなかったのに。


『ですが、テリー。申し訳ございません。貴女が大人になるためには必要な事実なんです』


 サリアが夢を壊した。


『ジャックなんていないんですよ。本当は。全部、物語なんです。分かりました? ……メニーお嬢様に言ったら駄目ですよ。彼女はまだ子供ですから』


 大人のサリアが、事実を知ってしまった子供のあたしに念を押した。







( ˘ω˘ )









「ジャック、どうしたの?」

「まあ、素敵。こんなにお菓子を貰えたの?」

「じゃあ今日はお菓子パーティーね」

「私もお菓子を持ってきたの」

「ねえ、ジャック、パーティーをしましょうよ」

「お茶会をするの」

「パーティーはお好き?」

「お茶会はお好き?」

「今日は何の日?」

「へえ。今日はジャックのお誕生日じゃないのね」

「偶然ね。今日は、私も生まれた日じゃないの」

「二人のお誕生日じゃない日に乾杯しましょう!」

「うふふ!」

「ジャック!」

「ほら、踊りましょう!」

「ジャック!」

「ジャック!!」



 ふふふふふふふふふふふふふふふ!



「恐怖の日に乾杯!」



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