第5話 10月19日(1)




 とても居心地が良くて、

 とても気持ちが良くて、

 とても温かくて、

 もっと感じたくて、


 あたしは、そのぬくもりに体を寄せた。


(……あったかい……)


 程よいぬくもり。


(良い匂いがする……)


 すり、と体を寄せると、ぬくもりがあたしの頭を撫でる。肩を撫でて、背中を撫でてくる。


(あ、これ気持ちいい……)


 口元が緩む。背中をとんとんと、程良くあやされる。


(わぁあ……)


 何も考えられない。気持ちいいだけ。


(ばあば……)


 ばあばの手を思い出す。ばあばの皺だらけの、大きくて、温かい手を。


(ばあば……)


 ……。


(ん?)


 あたしの眉間に皺が寄る。


(なんで背中とんとんされてるの?)


 そんなことを考えていると、前からクスクスと笑い声が聞こえた。少女が笑うような、可愛らしい、小さくひそめられた笑い声。さらに頬を指の腹で優しくふにふに触られる。


(……なんであたしのほっぺが、ふにふにされてるの……?)


 誰かいる。


(誰よ)


 ゆっくり瞼を上げると、目の前には、天使のように微笑み、あたしを見つめるキッド。目が合うと、キッドがふにゃりと頬を緩ませた。


(……なんだ。キッドか)


 また瞼を下ろす。


(寝よう)


 キッドの手が頭を優しくぽんぽんとあやしてきて、最高の二度寝環境。あたしはキッドの胸に頭を寄せて、息を大きく吸って、おやすみなさい。すやぁ。


「……」


(ん?)


 ぱっと目を開ける。


(うん?)


 キッドの胸板。


(うん?)


 目の前にキッド。


(うん?)


 下は穿いてるものの、上はタンクトップだけ。


(……え?)


 あたしも下は穿いてるものの、上はキャミソールだけ。


「……」


(え?)


「くくっ」


 きゅっと、優しく抱きしめられる。


「起きた?」


 キッドが柔らかく、少女のように微笑み、うっとりとあたしに微笑み、少し掠れた声をひそめながら、小声でくすくす笑いながら、あたしに囁く。


「おはよう。……もう少し寝てていいよ」


 また背中をとんとん、あやされる。


「せっかくの休日の朝だ。ゆっくりしよう」


(……ああ、そうか。今日から三連休だ)


 ……。


(なんでキッドがいるの?)


 眉間に皺が増えていく。キッドは幸せそうな笑顔で、あたしの頭にキスをした。


「テリー、昨日はよくも先に寝てくれたな。気持ちよくなって眠っちゃうなんて、許されないぞ。このねぼすけめ」

「……」

「ちゅ」


 また頭にキス。


「くくっ。可愛い」


 すり。


「可愛い」


 すりすり。


「あ、テリー。俺、またドキドキしてきた……」


 背中をなでなで。


「どこまでときめかせればいいの? 王子様を魅了するなんて、罪な奴め」


 ちゅ。と額にキス。


「好き。テリー……」


 きゅっと、抱きしめられる。


「もう、好き。……好き」


 すりすり。


「じいや、結局帰ってこなくてさ。お前は寝ちゃうし、俺、一人でご飯食べたんだぞ」


 でも、


「足りなくて」


 寝る前に戻ってきちゃった。


「もう悪夢は見てない?」


 キッドがあたしの背中をとんとん。


「大丈夫だった?」

「これが悪夢よ」


 あたしはじろりとキッドを睨み、体をぐっと押す。


「出てけ」


 キッドがあたしの腰を掴む。引き寄せる。


「何? 照れてるの?」


 あたしはキッドの体をぐっと押す。


「離れろ。エロガキ」


 キッドがあたしの腰を掴む。引き寄せる。


「俺がこうしてくっつくのは、お前だけだよ」


 あたしはキッドの体をぐっと押す。


「いらない。お前に添い寝されても何も嬉しくない。出てけ」


 キッドがあたしの腰を掴む。引き寄せる。


「またそうやって悪態つくんだから。分かってるよ。お前恥ずかしいんだろ」

「恥ずかしいのはお前の存在よ」

「テリー、素直に甘えていいよ。からかったりしないから」

「てめえから来てるくせによく言うわよ……」

「なぁに? どうしたの? くくっ。照れないで。テリー。かわいくないぞ」


 くすくす笑いながら、キッドが幸せそうにあたしを撫でる。あたしはその手を払う。


「気持ち悪い。何にやにやしてるのよ。朝からお前の顔を見てすごく不愉快よ。さっさとどっか行って」

「……うん?」


 キッドがきょとんとした。胸元に引き寄せたあたしを少し離して、見下ろす。


「……」


 キッドの顔が近づいて、あたしの顔を覗いてきた。


「テリー」

「近い」

「昨日」

「ん?」

「覚えてる?」

「何が」

「昨日、俺と、お前、どんな楽しいことを、したでしょうか?」


 ……。


「……楽しいこと?」


 顔をしかめて、考える。


「……」


 あたしは黙って記憶をたどる。

 昨日は朝からメニーの面倒を見て、一日中、ハロウィン祭の準備をして、キッドが襲来して、レオと逃げて、キッドに魅了された人たちを介護して、レオと手柄探しに出かけて、


(ハードスケジュールの末に)


 ベッドにばたーん!

 ベッドにすやぁ!

 ベッドにすりすり!


「はあ! あたし! ベッドと結婚する! キッドとご飯食べるならちょっと休憩するわ! すやぁ」

「……何言ってるの。あたし昨日は帰ってきてさっさと寝たわ」


 ご飯も食べてない。


「あ、やだ。あたし、お風呂にも入ってないじゃない」


 最悪。


「……あれ、あたし着替えたっけ……?」


 きっと疲れて何も覚えてないんだわ。


「ああ、あたし可哀想。もっと自分を大切にしてあげなきゃ。おら、退け。シャワーだけでも浴びてくる」


 キッドを見上げる。

 キッドがにこにこ微笑んでいる。

 キッドの口角が下がる。

 キッドが無表情になる。


(え)


 キッドがベッドの下に片腕を伸ばし、剣を取り出す。


(え)


 ドス、と音が聞こえて、状況を確認する。

 剣が壁に刺さり、あたしの首に刃があてがわれていた。


(ぎゃああああああああああああああ!!)


 刃の切れる部分があたしの首の上で、きらーん!


「まままままままままままま!!!」

「……」

「おまっ! ちょ! これは、ちょ!」

「……」

「おまあああああああああ! 剣! あたしに、刃を向けるなんて! お前! テリーには酷いことしないって言ったくせに! お前! お前!!」

「……。……。……。……釈明の余地をあげよう」


 キッドの低い声が部屋に響く。


「もう一度訊く」


 キッドがあたしの顔を覗き込む。


「テリー? 昨日のこと覚えてる?」

「な、何!? 何のこと!?」

「俺としたこと覚えてる?」

「したこと……!?」


 あたしは考える。必死に頭の中で考える。


(これが答えられないとギロチン刑じゃない。剣でこのクソガキに首を落とされる!! やるのよ、テリー! あたしになら出来るわ! 冷静に! 昨日のことを思い出すのよ!!)


「……」


 何も思い出せない。

 頭が真っ白だ。昨日このベッドに倒れたこと以外、何も、覚えていない。


「……」


 冷や汗が出てくる。キッドは無表情で見つめてくる。

 血の気が下がっていく。キッドは無表情で見つめてくる。

 どんどん顔が青くなっていく。キッドは無表情で見つめてくる。


 あたしは笑顔を浮かべた。


「にこっ!」

「ああ」


 キッドもにっこりと微笑み、剣を強く握った。


「分かった。こうなった以上、お前を殺して俺も死ぬ」

「考え直せ! その歪んだ心を改めろ!!」

「お前が改めろ!! なんで俺が覚えててお前が覚えてないんだよ!!」

「知るか!!」

「許さないよ。テリー……。たとえお前でも許さない……」


 壁から剣を抜き、ふらりとキッドが起き上がった。殺気立った目でベッドの毛布に身を隠すあたしに剣を構える。


「俺との一夜の夢を忘れるなんて、お前は重罪だ……。こうなったらお前の手足を切り取って、俺の奴隷にして、一生隔離された部屋の中に閉じ込めてやる! 俺だけとしか口を聞いちゃいけないよ! いいね! さあ、覚悟は出来たか!」

「ふざけるな! やめろ! このサイコパス!! 変態! 変人! 狂人! 人狼! 2000人分の狂気め! あたしが何したってのよ!」


 慌てて起き上がり枕を盾にして叫ぶと、キッドがあたしを睨み――何かを見て、はっと目を見開いた。


「あ」

「え?」


 即座にキッドが剣を下ろして、あたしに手を伸ばした。キッドの手があたしの首に触れる。


「ぎゃっ! おま、ちょ、何……」

「そうだ。お前、首って言ってた」

「は?」


 キッドが目を伏せた。


「ああ……なるほど」


 キッドが離れた。


「そういうことか」


 剣をベッドの下に置いた。

 そして、眉をへこませて、あたしを抱きしめてくる。


「むふっ!」

「ごめん。テリー……」


 キッドの筋肉質で少し膨らんだ胸に閉じ込められ、手をばたつかせる。


「むーーーーー! むーーーーー!!」

「お前は何も悪くないよ。信じてあげられなくてごめん。有罪は俺だった」

「むうううううう!! むーーーーー!!」

「可哀想に。怖い悪夢を見ただけなのに。それじゃあ怒ってもしょうがない。お前には何も落ち度がないんだから。大丈夫。怖くないよ。俺がお前を守る。何も怖くないよ」

「むがっ……が……。……」

「……あれ、呼吸が止まった。あ、しまった」


 キッドがあたしを離す。あたしは即座にベッドの端に逃げ込み、小さくなって呼吸をした。


「ぜえはあぜえはあぜえはあぜえはあぜえはあ!!!」

「お前に何が起きたか説明してやろう。テリー、耳をかっぽじって俺の美声を聞くがいい!」

「くぅぅうううう……! 朝から何なのよ! 何様なのよ! 王子様なのよ! お前むかつくのよ! イラっとするのよ! 何なのよ!!」


 ぎりぎりと睨むと、キッドが腕を組み、にんまりと口角を上げ、人差し指を天井に向けて立てた。


「お前はジャックに襲われた」

「は?」


 あたしの眉が吊り上がった。


「何言ってるの? そんなわけないじゃない」

「なんで?」

「襲われたら、悪夢を覚えてるでしょ」


 キッドだって覚えてた。アリスだって覚えてた。サリアだって覚えてた。アメリは覚えてないみたいだったけど。


「へえ。ってことは、お前は覚えてないパターンか」

「え?」

「お前ジャックに襲われてるよ」

「なんであんたが分かるのよ」

「首」


 キッドが微笑んで、あたしに指を差した。


「お前の首の、痣」

「……」


(え?)


 あたしはそっと首に触れた。


「昨日、帰ってきたら声が聞こえた。普通の声じゃない。悲鳴だ。お前のね。扉を開ければ、お前がベッドで大暴れ」


 あたしは覚えていない。


「必死に自分の首を探してた。本当に死に物狂いで、死んでも、生きてても、お前は死を恐れ、生を掴もうと抗ってた」


 あたしは覚えていない。


「そっか。覚えてないのか」


 キッドがあたしを見た。


「……そっか」


 あたしから目を逸らす。


「……」


 再びあたしを見て、微笑んだ。


「なんで悪夢まで覚えてないんだろうな?」

「……分からない」


 ジャックが来たのに悪夢を覚えてないなんて。


(なんで?)


「整理しよう」


 キッドが話の整理を始めた。


「まず、お前の消された記憶は、昨日のことで間違いないだろう」

「昨日の、キッドが部屋に来たって部分?」

「そう。だって俺、お前のことわざわざ起こしたんだよ」

「そんなしょぼい一部分だけ消す必要ある?」

「全くだ。俺はジャックに怒りしか感じない」


 キッドが不満そうに眉をひそめた。


「今考えられるのは、二つ。一つはお前の悪夢と現実の記憶を消すことによって、混乱を招く」

「混乱って?」

「悪夢を覚えてないのに変な痣が首に浮かんでいる。しかも何かに切られたような痕。そしてその合間のことを俺が覚えてるのにお前は覚えてない。不気味じゃない?」

「不気味だけど、大したことないわ。お化け様がそんな小さな恐怖で満足するの?」

「小さな恐怖を植え付けて、どんどん大きくさせる。ホラー小説だってそうだろ? 最初は軽い恐怖から、膨張してどんどん大きくなっていく」

「……なるほど」


(アメリの場合でも考えられる説ね)


 悪夢も覚えてない。現実の記憶も覚えてない。ジャックに会ったのかさえ分からない。けれど痣がどこかについている。


(……アメリの痣について、今度メニーに詳しく聞いた方がいいかも……)


「そして二つ目」


 これが二つ目の説。


「都合の悪いことがあったのかもしれない」

「都合の悪いこと?」

「例えば、ジャックになっている人物がお前の近しい間柄の人間で、お前が一目見ればジャックの正体が分かってしまうほどの知り合いで、知られるのを恐れたジャックが、お前の記憶、悪夢を消した」

「だったら、わざわざあたしに悪夢なんて見せにくる?」

「見せに来るさ」

「なんでよ」

「悪戯」


 きょとんとする。キッドは微笑む。


「だってそうだろ? 悪夢を見せるのはジャックの悪戯だ」


 だったら、


「近しい人間だろうが、そうでない人間だろうが、可愛い悪戯をしに来る」


 つまり、


「ジャックは人を困らせるのが好きなんだ。大暴れすればするほど困るから」


 例えば、貴族の屋敷とか、富豪の屋敷とか、普段何も不自由なく過ごす傲慢な人々に悪戯をしたらどうだろう? ジャックのことだ。とても楽しくて、気持ちいいと思っているだろうね。


「さて、テリー、どっちの説が正しいと思う?」


(……いいところを突いてるかもしれない)


 どっちも、間違えていない気がする。


(確かに悪戯なら、近しい人間にもするだろうし)


 むしろ、近しい人間から行くだろう。それから知らない人。国に帰ってきた王子様。街の人達。富豪、貴族、ベックス家。使用人達。令嬢。街の人。その中にあたしもいる。


 夢の中で驚かせれば悪戯は成功する。ジャックはあたしを驚かせに来た。


(夢の内容は覚えてないけど)


 首を探してたとか、首を落とされた夢となると。


(……一つだけしか、思いつかない)


 死刑の夢。


「最悪」

「ああ、最悪の朝だ」


 キッドがぐっと上に伸びた。


「せっかくお前とイチャイチャ出来る朝が来ると思ったらこれだ」


 キッドが壁を睨む。


「……絶対許さない。ジャック」


 低く呟いて、あたしの手を握り、また優しく微笑む。


「テリー、こっち」

「あ?」

「こっち来て」


 手を引っ張られ、体が前に引き寄せられる。再びキッドの胸に閉じ込められる。


「むふっ」

「覚えてないことは許してあげるよ」


 ジャックのせいで、お前は悪くない。


「今日は三連休の始まりだ。許す代わりに俺と過ごしてよ。この三日間でデートしまくろう。大丈夫。バレないように変装するから」

「……そうよ。今日は三連休よ」


 あたしは思い出して、キッドの胸を押した。


「忘れてた」


 記憶を思い出す。


「あたし、リトルルビィと約束してるんだった」


 キッドの手がぴくりと動いた。


「……は?」


 途端に、ぴろりろりろりん、と間抜けな音が目覚まし時計の横から聞こえてくる。二人で振り返る。GPSが鳴っている。


 キッドの腕が腰に巻き付いたまま、あたしは腕を伸ばしGPSを掴む。キッドの腕の中でぽちぽちボタンを触ると、上からキッドが見てくる。メッセージが100件以上来ている。あたしとキッドが同時に眉間に皺を寄せた。

 100件以上、全て、リトルルビィから。

 時間を見れば、昨日の夜から、立て続けに送られていた。


『テリー! 明日13時に噴水前で待ち合わせね! テリー大好き!』

『テリー、返信ないけど見てる?』

『テリー? 大丈夫?』

『テリー、返信してくれたら嬉しいな』

『テリー、分かった! 寝てるのね! 起きたらメッセージ見てね!』

『テリー、もし遅れるようなら連絡してね。あ、別に怒らないから!』

『テリー、大好き。テリーを想って寝るね!』 

『テリー、明日楽しみで眠れないの!』

『テリー、大好き……』

『テリー、朝になったら連絡ちょうだいね? 大好き!』

『テリー、ランチはどうする?』

『テリー、ディナーは食べる?』

『テリー、お泊りする?』

『テリー、お揃いのパジャマ一応買っておいたの!』

『テリー、お泊りするならお風呂一緒に入ろうね!』

『テリー、あのね、お揃いの下着も……』

『テリー、キスしてほしい……』

『テリー、頭撫でてほしいの』

『テリー……』


(あばばばばばばばばばばばばば!!) 


 あたしは慌てて返信する。


『今起きた。13時。支度する』

「ちょっと待って」


 返信ボタンを押すとキッドが声をあげる。顔を上げると、すごく不機嫌なキッドの顔がそこにあった。じいっとあたしを睨んで睨んで見つめて睨んで見つめてくる。


「何? 婚約者の前で平気で浮気するわけ?」

「浮気? 何言ってるの? リトルルビィよ」

「ねえ、あいつがお前にどんな淡い想いを抱いてるか、そろそろ自覚したら?」

「あんたの悪いところを教えてあげる。小さい子に大人げないところよ」

「俺だってリトルルビィじゃなければ許したよ。でも、あいつは違うだろ」

「ルビィのことを悪く言うなら許さないわよ。可愛いじゃない。あんたよりもずっと可愛い」

「……はあ。分かった。……あくまで、お前の数少ないお友達だもんな。……許可する」


 キッドがにっと笑った。


「明日こそ一緒にデートしよう。それで手を打つ」

「明日は既に予定が入ってる」


 メッセージを探せば、やはり来ていた。


『こんばんは。20日、興味深い展示会があるからそれに行こう。12時に私の部屋においで。ランチを食べよう。美味しいの作ってあげる』

『12時。分かった』

「ちょっと待って」


 ソフィアに返信ボタンを押すとキッドが声をあげる。顔を上げると、めちゃくちゃ不機嫌なキッドの顔がそこにあった。じいっとあたしを睨んで見つめてくる。


「ソフィアは違うだろ。お前、それは浮気だよ?」

「女二人で出かけるだけよ」

「お前、ソフィアは分かるだろ。あいつは違うだろ」

「展示会だって。あいつとゆっくり話す機会だし、展示されてるものを盗まないか見張りも出来る」

「……見張りねえ?」


 キッドが不満そうに呟き、しばらく黙り、――急に微笑んだ。


「明日か。うん。分かった、いいよ。遊んでおいで」

「ん」

「でも、お前、もしもソフィアに予定が入って駄目になったりしたら、俺と遊んでくれる?」

「ま、仕事とかで無理なようならね」


(あたしも、そこまであいつと出かけたいわけじゃないし)


 キッドはにこにこ微笑む。


「うん。明日ね」


 キッドが微笑む。


「明日、そうか。ソフィアとね……。……」


 微笑み、黙り、また微笑む。


「ま、今日と明日は仕方ない。だったら最終日こそ二人で過ごそう。城下町から少し離れた所まで行くんだ。素敵なレストランを貸し切りにして、景色のいい所に行って、また夜景でも眺めながら、ロマンチックな一日にしよう」

「21日も約束してる。無理」


 キッドが微笑む。


「誰と」

「あんたに関係ないでしょ」

「アリス?」

「馬鹿。アリスは忙しいの」

「……へえ。ってことは」


 キッドが訊いた。


「リオン?」


 あたしは目を逸らし、キッドの胸を押した。


「……支度するから退いて。出てって」

「リオン?」


 キッドの腕が強くなる。あたしは目を逸らし続ける。


「着替えないと。早く退いて」

「リオンか?」


 キッドの腕が強くなる。あたしは目を逸らし続ける。


「リトルルビィを待たせちゃいけないわ。楽しみにしてるっぽいもの」

「俺とのデートは断って、リオンと出かけるって?」

「あー、あたしわくわくしてきたー。そのままリトルルビィの家に泊まっちゃおうかなー」

「テリー、男と女が出かけるのは違うだろ? それは違うだろ?」

「あたし着替えないと」

「テリー、浮気するの?」

「着替えるから」

「テリー、浮気するの?」

「退いて」

「テリー」


 キッドの目が暗くなる。


「浮気は許さないって言ったよな?」


(え)


 キッドがあたしをベッドに押し倒した。


(え)


 うつ伏せにされる。


「ふごっ」


 ベッドに顔を押し付けられる。


「ちょ! 痛い!」


 キッドがあたしの両腕を素早く背中でまとめ、押さえた。


「痛い痛い痛い! お前! DV! DV! このDV王子!!」


 キッドの手があたしの髪の毛を退けた。


「痛いってば!! キッド!!」


 キッドが体を倒した。


「いっ……」


 キッドが口を開く音が聞こえた。


(え)


 ――がぶ!!!!!!!!


「っっっっっっ」


 あたしの息が止まった。

 痛みに、目を見開く。

 ぐううううううううううううううっと歯を押し付けられる。

 歯で挟まれる。

 首を噛まれる。

 うなじを噛まれる。


(な、な、な、な、な、な、)


 体を強張らせ、手に力が入って、体中が力んで、痛みが脳に伝わって、手が震える。離れろと叫びたいけど、痛みで、唇が震えて、声が出ない。暴れる。キッドが押さえる。強く押さえられて体が全く動かない。痛い。キッドの歯が、あたしの首に食い込む。涙がどんどん溜まっていく。痛い。目が潤んでいく。痛い。痛い。ひたすら痛くて、痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。


「いったいってば!! 離れろ!!!!」


 ようやく悲鳴に近い声が大きく出ると、キッドの歯があたしの首から離れた。


(痛い痛い痛い!)


 噛まれたところを押さえたいが、両手はキッドの手で押さえられている。


(痛い痛い痛い!)


 あたしはギッ! とキッドを睨んだ。


「離してよ!! 痛いって言ってるでしょ!! 最低!!」

「くくっ」


 涼しい笑顔で、キッドが笑った。


「あーあ、酷い痕」


 キッドが笑いながらあたしの耳に囁いた。


「とても醜い噛み痕だよ。テリー」


 ――ちゅ。


「んっ」


 肩を揺らすと、キッドの低い笑い声と吐息が、耳にかけられる。


「ねえ、テリー」

「……っ」

「本当に行くの?」

「……浮気、じゃないもの。行って、何が悪いの……?」

「悪い子め」


 あたしのうなじに、ぴたりと何かがくっついた。


(ひっ)


 つーーーーとなぞられる。


(っ)


 噛まれたところを、キッドの舌が舐めてくる。


「……っ」


 じっとりと、ねったりと、執着的に、その部分だけを這う。


「やめ」


 声を出せば、


「かぷ」

「ん」


 噛んだ箇所を甘噛みされる。


「やだ」

「駄目」


 ――ぺとり。


「っ」


 ――つう。


(あ)


 ぴくりと、体が揺れる。


 ――つーーー。


(あ)


 ぞわぞわと、鳥肌が立つ。


(痛い)


 噛まれたところが痛い。


 ――ぺろぺろ。


「……んっ……!」


 猫のように、犬のように、噛んだところを優しく舐めてくる。


(お前はリトルルビィか!!)


 吸血鬼の唾液で傷口を塞ぐリトルルビィを思い出し、足をばたつかせてみせる。


「はな、離せ! あたしはっ、でかけ……!」


 ぺろ。


「~~~~~~っっっ」


 ぺちゃぺちゃ。


「やめ……やめ……」


 ぺちゃぺちゃ。


「……」


 ふー、はー、と、はしたない息が漏れる。肩が揺れる。体が熱くなってくる。うなじがひりひりして痛いのに、背中はぞくぞくする。鳥肌が立ってるのに、心臓は揺れてて震える。


「ちょ、ほ、本当に……」


 キッドが舐めてくる。


「あの、ちょ」


 舐めてくる。


「っっっっっっ」


 あたしは怒鳴った。


「やめんか! こるぁああああああああ!!!!!!」

「はいはい」


 笑いながらキッドがぱっと手を離す。あたしは解放された手をぎゅっと胸の前に置いた。


(ぐううううううう!! よく戻ってきたわ。あたしの両手ちゃん!!)


 しかし、キッドの腕があたしの腰に伸び、巻きつかれる。


(今度は何よ!)


 ぎろりと後ろを睨めば、


 ――ちゅ。


「ひゃっ」

「ここも」


 ――ちゅ。


「あ、ちょ」

「ここも」


 ――ちゅ。


「キッド」

「駄目」


 ――ちゅ。


「もうおしまいに……」

「まだ」


 ――ちゅ。


「もう出かけ……」

「まだ時間あるよ」


 ――ちゅ。


「しつこいっ……」

「お前が悪い」


 ――ちゅ。


「やめ、そこ、キスっ……」

「お前ここ好きだよね」


 ――ちゅ。


「やめ……やめ……やめ……」

「ここか」


 ――ちゅ。


「あっ」


 ――ちゅ。


「やだ、そこ……」


 ――ちゅ。


「キッド……!」


 ―――ちゅ。


「そこ、やだってば……」


 ――ちゅ。


「き、キッド、ごめ、やめ……あの、だから、あの……!」


 ――ちゅ。ぢゅ。ぢゅううううう。


「ちょっと待って…!」


 ――ちゅう。


「あ、そんな……はしたな……」


 ――ちゅっ。


「だ、だ……だめぇ……」












「はーあ。すっきりした」










 キッドがぐっと体を伸ばした。


「満足、満足」


 あたしの背中をぽんぽんと撫でて、微笑む。


「テリー、ランチは家で食べるだろ? 一緒に食べよう」


 キッドがあたしの耳元で囁く。


「でも、その前に手当した方がいいね。怒った猫に噛まれた酷い痕が、すごく目立ってるから」


 くすっと笑って、体を離して、あたしの頭を撫でた。


「どうぞ、今日は楽しんでおいで」


 キッドがのんびりと欠伸をした。


「ふああ……。ねむ……」


 キッドが立ち上がり、ベッドから抜ける。スリッパを履いて、ぺたぺた歩いていき、扉を開ける。あたしの部屋から出ていく前に、もう一度、あたしに振り向いて、にこりと素敵な王子様スマイル。


「テリー、落ち着いたら、下りておいで」


 にんまりと、腹黒い笑顔。


「俺が包帯巻いてあげる」


 ぱたんと扉を閉められる。

 ベッドでうずくまり、息を切らして、体を震わせて、顔を真っ赤に染めたあたしは腕を伸ばす。座るぬいぐるみのケビンを胸に抱き、締め付けた。


(くそくそくそくそくそ……!!)


 憎しみこめて、ぎゅううううううううううううううう!!


(ちくしょう……!! あんの、エロガキぃぃいいいいいいい!)


 あんなところにもそんなところにもこんなところにも、あんなはしたないキスをしやがってからに!!


「……くたばれっ……!」


 部屋にあたしのか細い声が、空しく響いた。




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