第20話 10月15日(5)






 目を閉じれば、拍手の嵐を思い出す。




 耳元で、拍手の音が聞こえてくるようだ。

 ぱちぱちぱちぱちと、あの手を叩いて鳴らす音。

 大量の手を叩くあの音。

 何も思ってないくせに、ブラボーと言ってくる誰か。

 あたし達を貴族の血筋としてしか見ていない人の目。

 大人が拍手をする。

 子供のあたしは固まる。

 大人が拍手をする。

 子供のあたしは動けなくなる。

 広場に歩く人々が拍手した。

 大人のあたしは固まった。


 思い出して、恐怖して、動けなくなった。


「キッド」


 体は揺れる。足はぶらんぶらん揺れる。


「まだ?」


 手が震える。


「もう少しだよ」


 黒い景色の中、キッドの声が聞こえる。あたしの体が揺れる。


「まだ?」

「もう少し」

「まだ?」

「もう少し」

「ねえ、まだなの?」

「もう少し」

「キッド、もういい?」

「まだ駄目」

「キッド」


 あたしの体が震える。


「まだ?」

「もういいよ」


 瞼を上げると、微笑むキッドと目が合った。

 目の前には、馬車がある。ソーラダンスを練習する集団に囲まれ、外からキッドとあたしの様子を見ることが出来ない形になっていた。


「乗って」


 言われた通り、目の前の馬車に乗る。カーテン付きの、少し広めの馬車。


「いいよ。ありがとう」


 キッドが外で踊る部下達に言って、自分も馬車に乗って、扉を閉めた。キッドがあたしの横に座り、カーテン越しから窓をこんこんと鳴らした。


 馬車が静かに動き出す。体が揺れる。お互いの肩がぶつかる。あたしは馬車の隅でうずくまるように小さくなる。


「……」


 俯いて、膝の上に拳を握って、じっと、自分の両手を見つめる。

 左手についてる小指の王冠の指輪を見つめる。

 その指輪を見つめる。

 じっと見つめる。

 指輪を見つめる。


(……綺麗)


 玩具みたいな指輪なのに、


(綺麗)


 キラキラしてる。


(綺麗)


 いつ見ても、可愛いデザイン。


(王冠の指輪)


 がたんと、馬車が揺れた。


「っ」


 息を呑んで、体を強張らせると、キッドの手があたしの腰を掴んだ。そして、あたしを引き寄せる。手が頭に上ってきて、あたしの頭に優しく触れると、自分の肩に、あたしの頭を乗せた。手がその場でぽんぽんと、動き出す。あたしの頭を撫でる。


 去年の仮面舞踏会を思い出す。


「……」


 あたしは黙る。

 キッドも黙る。

 馬車は揺れる。

 静寂が馬車を包む。

 車輪の音が鳴っている。

 馬の足音が聞こえる。

 体が揺れる。

 頭を撫でられる。

 あたしはぼそりと、呟いた。


「……バイト」

「早退」


 キッドが答えた。あたしはまた呟いた。


「……リュック」

「優秀なお手伝いさんが回収した」


 キッドが答えた。あたしはまた呟いた。


「……メニー」

「リトルルビィと共に、テリーは俺にさらわれたって伝えられた」


 キッドが答えた。あたしは黙った。

 何も言うことはない。

 何も言葉が出ない。

 何も話したくない。

 あたしは黙る。

 キッドの手があたしの頭をぽんぽんと撫でてくる。

 あたしは黙る。キッドも何も言わない。あたしは黙る。キッドも黙る。黙っていると、キッドの胸から、電波の音が聞こえた。


『キッド様、手配が整いました』

「結構」


 キッドが無線機を取り出して返事をする。スーツジャケットの内ポケットに無線機をしまい、またあたしの頭を撫でる。

 あたしは黙る。

 キッドも黙る。

 馬車が揺れる。

 馬車が止まった。キッドがあたしから手を離す。扉の方向を見る。しばらくして扉が開けられる。


 どでかいぬいぐるみが、入ってきた。


(………うん?)


 大きな鼠のぬいぐるみが、ぎゅーーーーう! と押し付けられ、キッドが受け取る。


「閉めます!」


 扉が閉められた。キッドが鼠のぬいぐるみをあたしの上に置く。


「持って」

「えっ」


 あたしの膝の上に、巨大な鼠のぬいぐるみが置かれる。あたしの座るスペースが鼠ちゃんに占拠される。


(むぎゅ!)


 あたしは鼠のぬいぐるみに押し潰される。


(ふへ……!?)


 見上げれば、天井が狭く、仕方なく頭を俯かせる切ない鼠の顔があたしを見下ろしている。


(……大きな……鼠……ちゃん?)


 あたしを抱きしめるような形で座る、巨大な鼠のぬいぐるみ。


(可愛い!)


 あたしは思わず抱きしめる。


(どうしたの? これどうしたの? ねえ、このぬいぐるみどうしたの?)


 キッドを見ると、再び扉が開けられた。またぬいぐるみが入ってきた。


(な、なんですって!?)


 今度は腕に抱えるサイズの鼠のぬいぐるみが入ってきた。


(はっ)


 この顔、見覚えがある。


(ケビン!?)


 キッドが受け取ると、扉が閉められる。キッドがまたあたしの膝の上にぬいぐるみを置く。


「持って」

「持つ」


 巨大な鼠ちゃんを正面の席に座らせてから、手を差し出し、鼠のぬいぐるみを腕に抱く。


(……なんてこと)


 牢屋の中にいた一番きりっとした顔つきのハンサムな鼠。あろうことか、このぬいぐるみそっくり。


(いいか? 今日からお前はケビンだぞ)


 ああ、きらきらあたしを見つめているわ。


(可愛い……)


 じぃっとケビン似のぬいぐるみを見つめる。


(……可愛い……)


 しばらくして、また馬車が動き始めた。あたしは気にせずケビンの頭をなでなでと撫でると、再び馬車が止まった。ばたばたと走ってくる音。声が聞こえる。


「それはあちらの馬車へ!」


(……ん?)


 少しだけカーテンをちらっと開けて見てみると、プレゼント用に包まれた箱がキッドの部下達によって、近くの馬車へ大量に運ばれている。


(うん?)


 ぱちぱちと瞬きすると、くつくつ笑うキッドの声が聞こえた。カーテンを閉じて振り向くと、笑うキッドと目が合う。


「あとからのお楽しみ」

「誰のプレゼント?」

「お前のだよ」

「……あたし? なんで?」

「演奏に感動した、俺からの贈り物」


 その瞬間、あたしは顔をしかめた。キッドから視線を外す。


「……別に、もっと上手い人いるでしょ」


 馬車が動き出す。あたしはケビンを抱きしめる。


「何? そのためにあたしは連れ出されたわけ?」

「それはお前が一番よく分かってるんじゃないか?」

「何が?」

「テリー・ベックス、手鏡を持参しておくことをお勧めしよう」


 キッドがあたしの顎を指ですくう。


「なんて顔してるの」


 真剣な表情のキッドと目が合う。


「去年の仮面舞踏会を思い出した。待ってって言ってるのに、お前が逃げるんだ」


 手を伸ばしても手を伸ばしても、テリーは逃げる。

 走っても走っても、テリーは逃げる。

 テリーはパニックだ。


「逃げる動物を油断させる方法を知ってるか?」


 罠を張るんだ。


「好きなものを沢山与えて、油断したところを」


 キッドの手が、あたしの顎から左手に移る。


「捕まえる」


 あたしの左手を握った。

 キッドと目が合う。

 キッドがあたしを見る。

 キッドが微笑む。


「ほら、こっちおいで」


 優しい声で手を引っ張った。あたしの体が自然とキッドに倒れる。

 ケビンを抱きしめるあたしを、キッドが抱きしめる。ケビンが圧迫される。あたしが圧迫される。キッドの腕が強い。


「痛い」


 呟けば、


「痛くしてるんだよ」


 キッドがさらに腕に力を入れた。


「逃がさないよ。テリー」


 馬車が動き出した。

 体が揺れる。キッドがあたしをより抱きしめる。


「……苦しい」

「浮気した報いだ」

「……浮気って何の話よ」

「そうだね。積もる話がある。どこから手をつけていいか、分からないほど。まずはその話をしようか」


 キッドの手が強まる。


「レオ君」


 いいや?


「リオン?」


 少し投げやりに、弟の名前を呟く。


「弟に浮気とは、俺は悲しいよ。テリー?」


 キッドの手があたしの顔に伸び、むに、と頬を優しくつねられる。あたしはケビンの頭を撫でて、キッドを見上げる。


「何が浮気よ。恋人でもないくせに」

「ねえ、妹って何? 二人で何やってたの?」

「関係ないでしょ」

「言わないんだ?」

「……リオンに訊けばいいじゃない」

「お前の口から聞きたい」

「悪いことはしてない」

「悪いことって?」

「悪戯したり、誰かを傷つけたり、そういうことは一切してない」

「婚約者がいるのに、他の男と遊ぶこと自体いけないことだよ。テリー」


 あたしは眉をひそめる。


「……あのね、前から思ってたけど」


 あたしが顔を上げる。


「あたしのする行動に、いちいちケチをつけな……」


 キッドが頭を下ろした。


(あ)


 角度を変えて、近づいた。


(あ)


 キッドがあたしの左手を掴んだ。あたしの右手はケビンを抱っこして塞がれている。


(あ)


 キッドと唇が重なる。


「っ」


 ケビンを離してキッドの体を押すと、その手を掴まれた。


「っ」


 顔を逸らして嫌がると、キッドがあたしの顎を掴んだ。


「やっ」


 また唇を重ねてくる。


「~~~~~っ!」


 首をすくめ、キッドの胸を押すと、キッドの手がケビンを掴んだ。


(あ、ケビン)


 ぽーいと投げられる。


(ああああああ! あたしの可愛いケビンが!! お前よくも!)


「んっ」


 キッドが唇を重ねる。口を離す。


「キッ」


 唇を重ねてくる。口を離す。


「ちょ」


 唇を重ねてくる。口を離す。


「キッ!」


 角度を変えて、また、重ねてくる。


(このクソガキ! 少しはあたしの話を聞かんかい!!)


 ぐうううううっと、体を押しても、キッドが噛みつくように、飲み込むように、あたしから離れない。


(このっ、この……!)


 いつも以上にあたしに執着する。


(ふわっ!?)


 唇をぺろりと舐められた。


「んっ!」


 キッドがあたしの唇を舐める。


(は、入らせるものか!)


 歯をがっちり噛む。


(絶対入らせてなるものか!)


 なんか嫌なのよ。あのくちゃくちゃした感じとか舌が中で気持ち悪く動き回るのとか。


(早く離れろ! 離れろ! はーなーれーろー!)


 キッドの胸をぐうううううっと前に押すと、馬車が少し大きく揺れた。一瞬、キッドと唇が離れる。


「はっ……」


 息を吸うと、あたしの歯が緩んで、上と下に離れる。その隙を見たのか、キッドが速やかにあたしの顎を掴んだまま、再び角度を変えて、あたしと唇を合わせる。


(ひっ!)


 舌も入ってくる。


(ぎゃああああああああああああ!!)


「んっ! んっ……!」


 キッドの舌が動く。


「んぅ!」


 キッドの舌があたしの舌に絡みつく。


「っ……」


(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!)


「っ……」


 舌が絡まる。熱い舌があたしの中で絡みつく。逃がさないと言われた通り、まるで蛇のように絡みつく。


(……っ)


 舌が動く。


(っ)


 舌が絡まる。


(っ)


 なぞられる。


「っ!」


 体をすくませると、キッドが抱きしめる。あたしの頭を押さえて、背中を押さえて、あたしと唇を合わせる。


「……っ」


 力んで震える手が、キッドの胸を押す。


(力出ない……)


 それでも押す。


(離れて)


 押しても離れない。


(キッド)


 瞼を上げる。


(キッドってば)


 リオンがいる。





(え?)






「やっ!」


 その体を突き飛ばす。

 キッドを突き飛ばす。

 あたしは呆然とする。

 震える手で、口を押さえる。

 目の前には、突き飛ばされて、ぽかんとするキッドがいる。


(キッドだ)


 リオンじゃない。


(キッドだ)


 リオンじゃない。


「……」


 分からない。

 なぜか胸がモヤモヤする。

 なぜか胸騒ぎが起きる。

 キッドだ。確かにキッドだ。リオンとそっくりでもない。ただ、面影があるだけ、

 胸がドキドキする。

 呼吸が荒い。

 キスのせいだ。


 キッドが、こんな乱暴なキスをするからだ。


「……」


 あたしは投げられたケビンを拾って、腕に抱き、馬車の端で縮こまる。ケビンの頭を優しく撫でた後、震える手で再びぎゅっと抱きしめた。


(嫌い)


 目を瞑る。


(キッド、嫌い)


「……テリー」


 キッドの手が、そっとあたしの背中に伸びる。びくっ、と体が揺れて、ケビンに顔を埋める。ケビンがあたしを隠す。


 ようやく隠れられた。あたしの隠れ場所。


「……テリー」


 キッドが横からあたしを抱きしめる。馬車は揺れる。それでも、カーテンに閉められて、密封された馬車の中で、あたしを閉じ込め、世界から隠すように、キッドがあたしを抱きしめた。


「ごめんね。……怖かった?」

「………別に、怖くないけど………」

「じゃあ、なんで手が震えてるのかな? 可憐なレディ」


 キッドがあたしの手に触れる。もう一つの手はあたしの肩を抱いて、頭にキスをしてきた。


「んっ」


 ぎゅう、とケビンが圧迫され、可哀想な顔になってくる。キッドがあたしに囁いた。


「ほら、そんなに抱きしめたら、そのぬいぐるみも形が崩れてしまうよ?」

「……ぬいぐるみじゃないわ。この子はケビンよ」

「……名前つけたの?」

「……今、子供みたいって思ったでしょ」

「お前も子供なんだなって思っただけさ」


 ケビンの頭をキッドが撫でた。そして、またあたしを抱きしめ直す。


「テリー」


 キッドの頭が、あたしの頭にくっついた。


「ねえ、テリー」


 キッドがあたしの耳元で囁いた。


「人は本気で恋をすると、その人を手放したくなくて、何としてでも振り向かせたくなるらしい」


 こいつ、突然、何言ってるの。


「少なくとも、俺の中では、ちゃんとお前に恋をしているみたいだ」


 そんなの錯覚よ。


「本気だったよ」


 キッドからの視線を感じる。


「俺は、本気でリオンを刺そうとしたよ」


 キッドがとんでもないことを言った。


「だって、むかつくじゃん。テリーは俺のものなのに、なんでそこにリオンがいるわけ? 俺がテリーを追いかけて、怖くないよって慰めるはずだったのに、どうしてかリオンがいて、先にお前を慰めていて、あろうことか、お前を抱きしめてた。お前の手まで握って、見つめ合い始めて……」


 大丈夫。ニコラ。


「俺は大丈夫じゃない」


 僕が傍にいる。


「むかつく。本当にむかつく。心の底から俺はむかついてるよ」


 もやもやもやもやして、たまらないんだ。


「俺以外に、俺の目の前で触られるなんて、こんな失態、俺は許さない」


 不機嫌な声が聞こえる。


「テリーの馬鹿」


 拗ねた声が聞こえる。


「テリーの馬鹿」


 あたしを抱きしめる手が優しいキッドが文句を言う。


「馬鹿。テリーの馬鹿」


 慈しむように抱きしめるその手は、乱暴で、優しくて、温かい。


「……」


 あたしは顔を上げる。ちらっと上にいるキッドを見上げる。キッドが見下ろした。あたしと目が合う。拗ねた顔であたしを見る。


「……俺に言うことは?」

「……特にないけど……」

「ごめんなさいは?」

「なんで謝らないといけないの?」

「謝れ。王子命令だ」

「言ってるでしょ。悪いことなんてしてないわ」

「抱きしめられてた」

「……あたしがパニックになって、過呼吸になったのよ。それで整えてくれてただけ」

「手も握ってた」

「あたしが無理に動こうとするから、そうしないために掴んでたのよ」

「……。……。……過呼吸になったの?」

「ん」

「あんなに走るからだぞ」


 キッドの指が、そっと、あたしの頰を撫でた。


「……もう大丈夫?」

「……平気」

「痛いところは?」

「……特に」

「ん。そう」


 キッドの手があたしの頭を掴み、自分の胸の中に引き寄せる。またあたしを腕の中に隠す。胸の中に閉じ込める。ケビンも隠れる。あたしも隠れる。キッドに隠される。キッドが抱きしめる。何度も、何度でも、あたしを抱きしめる。大人しく頭を預ければ、その頭にキッドの手が伸びて、また撫で始める。

 なでなでと、優しく撫でる。


(……あ、これ悪くない)


 手がいつもと違うところを撫でる。その部分のなでなでが気持ちいい。


(……悪くない)


 あたしもケビンを撫でる。


(……悪くない……)


 ぼうっとしてくる。

 キッドの手が優しくて、頭の回転が鈍くなる。

 馬車はどこかに向かって、まだ揺れ動く。

 キッドがぼそりと、訊いてきた。


「……またリオンに会うの?」

「……あたしの勝手でしょ」

「……浮気じゃない?」

「恋人じゃないくせに浮気も何もないでしょう」

「リオンが好き?」


 リオンが好き?


「好きじゃない」

「……じゃあ、なんで妹なんて呼ばれてるの」

「あいつが勝手に呼んでるだけよ」

「……ああ。僕の彼女です、なんて紹介されてたら、本当に殺してたよ。あいつ」


(……こいつならやりかねない……)


 ふう、と息を吐く。ケビンを抱きしめる。キッドがあたしの頭を撫でる。


「……そう。とりあえず、分かった。お前とあいつはただの知り合い。友達じゃなくて、知り合い。でしょ?」

「……そんなところ」

「うん。分かった。ただの知り合い」

「そうよ」

「……乱暴にキスしてごめんね。信じてるよ。テリー。愛してる」


 ちゅ、と頭にキスをされる。まるで恋人にするかのようなキス。


(……信じてるって、何を信じてるのよ……)


 はあ、と深く息を吐くと、反対にキッドが息を吸った。


「俺の心に嵐が去ったところで、もう一つ訊きたい」

「……何よ」

「お前」



「ヴァイオリンなんて、弾けたんだね」



 あたしの手に、自然と力が入った。


「……どこで聴いてたの」

「馬車の中。見回りの合間に一休みしてたんだ」


 キッドはスノウ様とベーコンチーズパンを食べてた。変装してミセス・スノー・ベーカリーに買いに行って、自分達の堂々とした紛れ込みに笑っていた。


 そんな時に、弦楽器の音が聴こえてきた。ああ、イベントが開かれてる。子供達が弾いてるんだ。へえ、すごいわね。キッド。微笑ましいイベントに耳を傾けていたら、


 突然、聴いたことのない美しいヴァイオリンの音。


「母さんと窓を覗けば、テリーが噴水前で演奏してた」


 その姿が、どこか切なそうで、

 その姿が、どこか悲しそうで、

 その姿が、どこか魅力的で、

 その姿が、どこか朽ちて消えてしまいそうで、

 その姿から、目を離せなかった。

 その姿に、目を奪われた。


「演奏すごかったよ、テリー。……ただ」


 曲は明るいのに、ヴァイオリンの音はどこか悲しげ。


「まるで、この音は誰にも届かないと、嘆いているようにも感じた」


 その言葉にあたしは黙る。黙ってケビンを抱きしめる。


「そう思ってたんじゃないの? お前も」

「……知ったように言わないでくれる?」

「お前は隠し事が多いね」

「……あんたに言われたくない」


 くくっ、とキッドが笑い、あたしの頭をぽんぽんと撫でた。


「テリー」

「何よ」

「上手だったよ」

「嘘つき」

「本当」

「嘘つき」

「聴き終わって、俺の体が震えたんだ」

「メニーのお陰じゃない?」

「ああ、だから多分、お前とメニーに感動したんだろうね」

「メニーでしょ」

「お前の音だって綺麗だった」

「嘘つき」

「すごかった」

「嘘つき」

「また聴きたい」

「嘘つき」

「俺の誕生日に弾いてよ」

「やだ」

「テリー、お願い」

「そんなこと思ってないくせに」


 下手くそって、言われた。

 いかれた演奏だったって、言われた。


「……下手だったわ」

「テリー、すごかったよ」

「下手だった」

「そんなことないよ」

「下手だった」

「俺が感動したんだよ? もっと胸を張って」

「下手だった」

「聴き惚れた」

「下手だった」


 今日のあたしは、相当メンタルがやられているらしい。多分、朝からじいじに怒られて、アリスがいなくて、昼間にあんな騒動があって、疲れてるんだわ。そうに違いない。

 でないと、


 キッドの前で涙を浮かべるなんて、そんなことしない。貴族は、いつだって強かに、弱いところを見せないのよ。


 涙が溜まって、視界が揺れるなんて、そんなの、ただの弱虫よ。


「下手だった」

「素敵な音色だったよ」

「下手だった」

「俺は好きだった」

「下手だった」


 声が震える。ケビンを抱きしめる。

 キッドはそれ以上、何も訊かない。

 あたしの頭を撫で続ける。


「上手だった」

「下手だった」

「素晴らしかった」

「下手だった」

「そんなことないよ」

「下手だった」

「美しかった」

「下手だった」

「もっと聴きたかった」

「下手だった」

「うっとりした」


 あたしは自分が下手だったと自覚している。

 自覚したら、変に傷つかずに済むから。

 思い上がるから、ショックが大きくなるのだ。

 ショックを少しでも減らすために、あたしは、期待なんてしない。

 そうすれば、この胸は傷つかない。


 あたしの目から涙が出る。


 呆気ないほど、ぽろっと落ちた。

 悲しくないのに落ちた。

 期待してないのに落ちた。

 これはきっと、欠伸をしたのよ。気づかないうちに。

 だから、涙が落ちたんだ。


(下手くそだった)


 拍手は全部、メニーのもの。


(あたしは、お飾り)


 そう思うことで、傷つかない。胸は痛くならない。


(あたしは、メニーが目立つための、お飾り)


 涙が落ちる。

 鼻をすする。

 あたしは黙る。

 唾を飲み込む。

 鼻をすする。

 涙は落ち続ける。

 雨のように。

 飴のように。

 飴玉が落ちて、子供達は喜ぶ。

 あたしが泣けば泣くほど、人々は喜ぶ。


 ざまあみろ。

 ざまあみろ。

 美しいメニーに嫉妬するからこうなるんだ。

 美しいメニーを妬むからこうなるんだ。

 プリンセスを虐め、こき使った罰だ。

 ざまあみろ。

 ざまあみろ。

 惨めなテリー。

 哀れなテリー。

 醜いテリー。

 いかれた演奏しか出来ないテリー・ベックス。


(分かってる)


 あたしは自覚してる。


(もう、分かってる)


 この世界で記憶を取り戻してから、もう分かってる。


(あたしは、悪いことをした罪人で、報いを受けて当然な人間だから)


 ここで泣くなんて、おかしな話なのよ。


(ざまあみろ)


 ざまあみろ!


(テリー、ざまあみろ)


 ざまあみろ!



 誰も、あたしの演奏なんて、聴きやしない。







「ねえ、また弾いてくれるよね?」







 見上げると、微笑むキッドがいた。


「俺の誕生日に、すごいやつを。……そうだな。俺への想いがこめられた最高の一曲を、弾いてもらおうか」


 キッドは笑う。


「ねえ、いいだろ?」


 指をあたしに伸ばす。


「王子命令だ」


 あたしの涙を、指で拭う。


「キッド殿下のために、すっごいやつを、聴かせてよ」


 キッドは微笑む。

 あたしの顔を指で撫でる。

 落ちる涙を拾う。

 あたしの落とす飴を拾う。

 キッドは喜んで飴を舐めるだろう。

 甘いと言って舐めるだろう。


「いいだろ? テリー」


 キッドの手があたしの顔を撫でる。


「俺のために弾いてよ」


 キッドは微笑む。

 あたしは答えない。

 鼻をすする。

 キッドがあたしの顔を撫でる。

 キッドがあたしの頰を軽くつねる。

 むに、と指で頰が挟まれる。

 あたしは黙る。

 キッドは微笑む。

 あたしはケビンを抱きしめる。

 キッドはあたしの顔を撫でる。

 あたしは瞳を閉じる。

 涙がまた落ちる。

 吐息があたしの顔に当たった。

 キッドの唇が、あたしの濡れる頰にそっと触れた。



 馬車は揺れ続ける。


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